蒔田の丘
散策:2006年06月中旬
【街角散策】 蒔田の丘
概 要 蒔田の丘は横浜市の中ほどにある丘です。 丘の上には縄文・弥生・古墳の時代に亘る三殿台遺跡があって、 竪穴式住居が復原展示されていています。 出土物の展示室もあって、悠久の歴史に触れることができます。 今回は蒔田駅から勝国寺を経て三殿台遺跡を訪ね、岡村天満宮や龍珠院へと向っていきます。
起 点 横浜市 蒔田駅
終 点 横浜市 古泉バス停
ルート 蒔田駅…勝国寺…三殿台遺跡…岡村交番前交差点…岡村天満宮…岡村公園…龍珠院…岡村中学校前交差点…古泉バス停
所要時間 2時間20分
歩いて... 三殿台遺跡の竪穴式住居では、家の中へ入っていくことができます。 綺麗に突き固められた土間から外を眺めていると、出入口が過去から未来へと続く扉のようにも思えてきます。 今回歩いたルートとは少し違いますが、 蒔田駅から三殿台遺跡までには「蒔田の丘ルート」というコースも設定されているようです。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
蒔田(まいた)駅
蒔田駅(横浜市営地下鉄)から歩いていきます。
出口2の階段を登り始める所に「横浜市三殿台遺跡・考古館」の案内図があり、 駅から三殿台遺跡までの道順が図示されているので参考にしましょう。 今回はこの案内図にあるルートを通って三殿台遺跡まで歩いていきます。 図に掲載されている勝国寺にも途中で立ち寄っていきます。 出口2から地上へ出て、すぐ左手にある路地へと入っていきます。
横浜市営地下鉄 第1号車両搬入の地
昭和47年12月16日、初めて横浜に地下鉄が開業しました。 しかし、開業当時は、伊勢佐木長者町駅と上大岡駅間での営業であったため、 現在のような地上部の線路や車両基地がありませんでした。 そのような状況の中、開業に向け地下鉄の車両を地下に搬入するために、 地上部に搬入作業のスペースがあること、搬入作業に支障のない直線の線路部分であること、 などを満たすことのできる場所として、蒔田駅付近の鎌倉街道(ここから弘明寺駅方向へ約100mほど)が選ばれました。 昭和46年3月16日深夜、鎌倉街道の車道に設けられた、地下鉄のトンネルまでつながる長さ20m、幅3.26mの開口部から、 数百人の市民の方々は見守る中、1両約30トンの車両がクレーンで搬入されたのです。 この時搬入した車両は、その後、横浜の発展とともの30年余にわたり走り続けました。 この銘板の足下に埋め込まれているのは、これまで車両を支えてきた車輪のひとつです。 これからも区民の足を支える地下鉄として、安全で快適に走り続けることを願い、 南区制60周年を記念して本銘板を設置しました。
 (南区制60周年記念事業実行委員会、南区役所)
入り口にある珈琲館を過ぎて路地を進んでいきます。 十字路を直進していくと再び十字路があります。 右手には大衆食堂、左手には薬局があります。 その間に続く正面の道を直進していきます。 突き当たりを右折していくと車道に出ます。 角にある花屋の所を左折していくとT字路があります。 正面にお好み焼き屋を見ながらT字路を右折していくと、1分ほどで分岐があります。 角に立つ「三殿台遺跡考古館→」の標識に従って、正面の坂道を緩やかに登っていきます。
左右への分岐を見送って直進していくと、電柱の上に「三殿台考古館 この先」の看板が取り付けられていました。 看板に従って直進していくとT字路があります。 そこを右折して真っ直ぐに進んでいくと、正面に勝国寺の入り口があります。 蒔田駅から10分ほどで着きました。 三殿台遺跡へはこの左手に続く道を進んでいくのですが、 「曹洞宗 龍祥山 勝國寺」と刻まれた石柱を見ながら、勝国寺へと入っていきます。
勝国寺
「龍祥山」の扁額の架かる山門をくぐって境内に入っていきくと、 戦没者慰霊碑の横には六地蔵が並んでいました。 境内の右手の方に本堂がありました。 この時には職人の方が庭木などを手入れ作業をされていました。
龍祥山勝国寺由来
此の地は小田原北條氏綱の女婿吉良左兵衛の城跡であった。 龍祥山勝国寺は文明11年吉良左京大夫政忠の開基である。 政忠は文亀2年6月17日此の地に卒し、墳墓は之を証し、法名は勝国寺殿昭岳道旭大居士と称す。 名を勝国と改めたにより寺号とする。 五輪の石塔有り。高さ二尺五寸、正面に祖師西来の字を刻してある。 五輪の石塔四基あれど文字無く、政忠の孫左兵衛頼康も当寺に葬りしといへば、 四基の中にあると思慮せられる。
お詣りの方へ
當山のご本尊は南無釈迦牟尼佛(お釈迦様)です。 ご本尊にお詣りし清らかな気持ちで合掌・礼拝しましょう。
吉良家の供養塔
「←吉良左京太夫政忠公の墓所 右側の階段を上がる」の案内板が立っていたので、 ちょっと立ち寄っていくことにしました。 本堂の左の方にある門を出てすぐ右手に続く石段を登っていきます。 萬霊塔を過ぎて墓地へと入っていきます。 横浜市の名木古木に指定されているアカガシとケヤキの大木の間に続く石段を登っていくと、 「←吉良左京太夫政忠公の墓所 左へ曲がって右側」の看板が立っています。 指示通りに左手へ進んでいくと、右手に小振りの五輪塔が四基並んでいて、 「吉良家の供養塔」の標柱も立っていました。
横浜市地域史蹟 吉良家の供養塔
足利氏の一族である吉良家は、後北条氏とも姻戚関係にあり、 中世後期の室町時代には、この蒔田の地で「蒔田御所」と称せられた館を構え、 将軍家の一家として諸侯から一目置かれる存在でした。 竜祥山勝国寺は、館が存在した丘陵の下に位置し、その寺名は吉良政忠の法号と一致し、 その子成高が父のために寺院を開基したものと考えられます。 この勝国寺裏山の墓地には、吉良家の供養塔である四基の五輪塔が所在しています。 五輪塔の最も大きなものは高さ102センチメートルを測り、 さらにその一基には、正面に「祖師西来」、台石には「政忠塔」、 裏面に「照岳道旭大居士」「文亀2年6月17日」と刻されていることより、 本五輪塔は政忠の供養塔と考えられます。
 (横浜市教育委員会)
吉良氏の館跡と勝国寺
成美学園の丘一帯は、小田原北条時代、北条氏と姻戚であった吉良氏数代の館跡です。 吉良氏在住の当時は、地名によって蒔田御所といわれました。 吉良氏は、足利の一族三河国(愛知県)吉良を発祥とし、 応永年間(1394〜1427)に武蔵世田谷(東京都)に本拠を置きました。 吉良政忠、あるいわ成高の時に蒔田を領有するようになりました。 北条氏康の娘高林院が、吉良氏朝に嫁ぐときに、北条幻庵があたえた婦道の心得書は、 「幻庵覚書」として有名です。 吉良氏の菩提寺の一つは、館跡に近い勝国寺です。 政忠の菩提寺としてその子成高の建立といわれます。 墓地に政忠の供養塔が残されています。
 (横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
勝国寺を後にしてその先へと進んでいきます。 すぐにある十字路を直進していくと道は次第に狭くなってきます。 理容店の先の分岐を左手に曲がっていくと車道に出ます。 角にはコンビニがあります。 右折して車道を進んでいきます。 次第に登り坂になってくる車道を真っ直ぐに進んでいくと、 道路の上に「はみ出し注意」の標識が設置された分岐があります。 右前方には岡村小学校への坂道が続いていて、 その手前の右手に「横浜市三殿台考古館・遺跡」の案内板があります。 遺跡までの道順も図示されているので、その図に従ってこの分岐を右折して三殿台遺跡へと進んでいきます。
坂道を100mほど登っていくと急な石段が現れます。 その石段を登り切って岡村小学校の裏門を過ぎ、突き当たりを左手へと曲がっていきます。 坂を登って右手へと曲がって少し降っていくと、三殿台遺跡の入り口があります。 勝国寺から15分ほどで着きました。
横浜市三殿台遺跡考古館利用案内
利用時間 4月〜9月 9:00〜17:00、 10月〜3月 9:00〜16:00
休 館 日 第3水曜日(祝日の場合は翌日)
12月28日〜1月4日(年末年始)
入 館 料 無料、但し団体の場合は事前に連絡すること
利用者は、次のことを守ってください
1.犬、その他家畜を伴って入場しないこと。
2.ゴミ類は持ち帰りです。その他汚物で場内を汚さないこと。
3.指定場所以外は禁煙です。
4.迷惑をかける行為はしないこと。
三殿台遺跡 (標高55.1m)
門から中へと入ると、右手の奥に管理事務所があります。 正面の短い石段を登っていくと遺跡が一面に広がっています。 平らになった丘には、個々の住居跡の周囲を囲んだ小さな杭がまるで模様のように続いていました。
遺構表
三殿台遺跡からは、250軒を超す縄文・弥生・古墳時代の竪穴住居跡などの遺構が発見されました。 竪穴住居跡の大部分は埋め戻されていますが、そのうち平面形や大きさが分るものは、 輪郭を地表面に擬木で表示しています。 重なり合った住居跡の場合には、新しい住居によって壊された旧い住居の輪郭部分は点線状に表現しています。 擬木の上面は、各々の遺構の時代が分かるようにつぎのように色分けされています。
・縄文時代(赤色) 竪穴住居跡 4軒
・弥生時代(焦茶色) 竪穴住居跡 58軒、 溝状遺構 2基
・古墳時代(黄土色) 竪穴住居跡 11軒
 (横浜市教育委員会)
虹のプロムナード 蒔田の丘ルート
石段を登った所に「虹のプロムナード 蒔田の丘ルート」の案内図が地面にタイル張りされていました。 今回歩いたルートとは少し違いますが、蒔田駅からこの三殿台遺跡までのルート(約1.8km)が 標高と共に紹介されていました。
蒔田駅(2.7m)…横浜英和学院(32.8m)…勝国寺(12.6m)…横浜英和幼稚園…神奈川県立外語短大附属高校(45.1m)…三殿台遺跡(55.1m)
展示室
石段を登ったすぐ左手には展示室があるので、ちょっと入ってみましょう。 発掘調査で出土した土器や漁で使う道具などが展示されています。 パフレットなどが何種類か置いてあるので貰っていきましょう。
横浜市三殿台遺跡考古館
三殿台遺跡から出土した数多くの遺物のうち、最も代表的なものが常時展示されています。 考古館は、文化財の保護と活用を通じて、横浜市の教育・文化の向上、学術の発展に資するため、 各種の研究・広報活動を行うために設置されました。
国史跡 三殿台遺跡
三殿台遺跡は、東京湾を望む丘陵の上に位置しています。 遺跡がある部分は独立丘ともいえる一段高い平坦な部分で、その周囲には貝塚が点在していました。 横浜市の南部はいく筋もの丘陵が連なっています。 遺跡をのせる台地の南側は根岸湾の深い入江にそそぐ禅馬川の谷筋で、 北側は大岡川の河口部へ連なる蒔田の谷戸の奥部に接しています。 現在もその地形はおおむね保たれていますが、谷部の斜面は市立岡村小学校が設置されたために削平され、 また西側の稜線は宅地化のため広範囲に削り下げられて元の形をとどめていません。 かつて、丘の周りをとり囲むようにあった貝塚群は、 北側斜面と南側台地縁辺部の一部にその痕跡をわずかに残しているにすぎません。 発掘調査は、昭和36年(1961)の夏に実施され、縄文時代8軒、弥生時代151軒、古墳時代43軒の 竪穴住居跡が出土したほか、時期不明のものや、その他の遺構が51基発見されました。 発見された遺構のうちの7割ほどが弥生時代の住居で、 大岡川流域の拠点的なムラであることがわかり、 弥生時代の様子を知る重要な遺跡として昭和41年(1966)に国の史跡に指定されました。
竪穴住居跡保護棟
丘の中央にある平らな建物は竪穴住居跡保護棟になっていて、 その中には発掘された時のままの姿の竪穴住居跡が保存されています。 建物の中に入ってはいけませんが、周囲の窓からその中を覗くと竪穴の様子がよく見えます。 ここには弥生時代の後期から終末期にかけての竪穴住居跡6軒が保存されています。
竪穴住居跡保護棟
発掘された遺構は埋め戻され、標石で位置と時代が示されているが、 この建物の中では、竪穴住居跡が、発掘当時の姿を崩さぬよう科学的な処理がしてある。 火災にあって床が焼けた一番大きな竪穴、その床をこわして造られた小型の新しい住居、 このような事実からそれぞれの新旧関係を知ることができる。
竪穴住居跡保護棟を過ぎて奥へ進んでいくと、竪穴住居が復原展示されています。 縄文・弥生・古墳の各時代の住居が1軒ずつ展示されていて、住居の中にも入っていくことができます。 手前にあるのが弥生時代の住居、奥の左手にあるのが縄文時代の住居、 奥の右手にあるのが古墳時代の住居になります。
数段の階段を降りて家の中へ入っていくと、 綺麗に突き固められた土間になっていて、四畳半ほどの広さはあるようでした。 土間の周囲には溝が掘られていました。 住居の中から外を眺めていると、出入口が過去から未来へと続く扉のようにも思えてきたりします。
弥生時代の住居
竪穴住居(弥生時代中期・紀元1世紀頃)
復原住居(122-A号住居址・宮ノ台式期)
紀元前4世紀頃に大陸から伝えられた稲作の技術は、食料のすべてを自然界に求めた縄文時代から、 農耕生産を基盤とした弥生時代の村落社会を生み出した。 この家屋は、三殿台遺跡で発掘された弥生時代のものではもっとも古く楕円形の平面を示し、 床の北側に炉が掘られていた。 四本の主柱に支えられた入母屋造りである。
縄文時代の住居
竪穴住居(縄文時代中期・紀元前3000年頃)
復原住居(10-B号住居址・加曽利E式期)
自然界に食料を求めて暮らした縄文時代の人びとは、こうした日当りの良い丘の上に数軒で構成されるむらをつくった。 この住居は、長い縄文時代の中でも、とくに生活条件のよかった時期で、 こうした村のあとは、横浜でも数多く発見されている。 家の平面はまるみのある五角形や六角形、または円形に近いものが多く、 床の中央に土器を埋めた河原石で囲んだ炉があり、 家の外形は一般には円錐形と考えられている。
古墳時代の住居
竪穴住居(古墳時代後期・紀元7世紀頃)
復原住居(415-C号住居址・鬼高式期)
この地方が大和を中心とする、古代国家の支配下にはいった大化改新頃になっても、 農民たちは弥生時代と大差ない竪穴住居に住んでいた。 これも四本の支柱で支えられた入母屋造りであるが、住居の平面は方形になり北側屋内にかまどが築かれ、 米が主食として普及したことを物語っている。
岡村交番前交差点
三殿台遺跡から岡村小学校への分岐まで引き返して、その先へと車道を緩やかに登っていきます。 車道の上に架かる陸橋の下を過ぎていくと、道は降るようになります。 坂道を真っ直ぐに5分ほど降っていくと、岡村交番前交差点があります。 交差点を直進して、「岡村天満宮」の扁額の架かる大きな鳥居をくぐっていく車道を緩やかに登っていきます。
2分ほど進んでいくと、道路の左手の赤レンガの住宅の横に鳥居が立っています。 「天満宮」の扁額が架かる鳥居の先から続く石段を登っていきます。
岡村天満宮
赤い欄干のような手摺りや燈籠の立つ石段を登っていくと、岡村天満宮の境内に着きます。 境内には白笹稲荷社や天神様の撫で牛の像などもあり、多くの絵馬も掛けられていました。 また境内には岡村幼児園も併設されていて、保母さんに連れられた園児が遊んでいました。
岡村天満宮
「岡村の天神さま」として、土地の人々から親しまれてきました岡村天満宮の創立年代は不詳ですが、 縁起によると鎌倉時代の建久年間(1190〜1198)に源頼朝の家臣が京都の北野天満宮の分霊をいただいて、 この地に社を創建したといいます。 明治43年、杉山神社と大神宮を合祀して、杉山天満宮と称するようになりましたが、 昭和5年、永らく親しまれてきた町名をとって、岡村天満宮と改称しました。 大正期には、元町薬師、野毛山不動とともに三大縁日としてにぎわいました。 境内には「撫でれば患部の苦痛が除かれる」という石の牛像を始め、 筆塚、針塚などや、大正の頃ハマッ子に親しまれた大阪役者「市川荒二郎」らの寄進した石灯篭もみられます。 また、この神社ゆかりの横浜人形「西瓜天神」や絵馬は特色のあるものです。
 (横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)
白笹稲荷社
境内の左手の赤い燈籠と鳥居をくぐっていくと、両脇に狐像が控える白笹稲荷社があります。
稲荷社について
御祭神は白笹稲荷大神様。 商売繁昌を守護する神であり、人間生活に欠く事の出来ない衣食住を司る神である。 着る事、食べる事、住むことは大地の恵みを受けることに他ならない。 太陽の恵み(天の恵み)に対する地の恵みであり、 本来は稲(命根)を初め五穀の豊饒を司る「大地の恵み」を象徴する神であり、 人間の実生活に対して霊験あらたかな神である。
 (岡村天満宮 宮司)
天神様の撫で牛
白笹稲荷社の左手前には「天神様の撫で牛」の像があります。 円やかで温かみがあって全国的にも逸品なのだそうです。
天神様と牛について
天神様すなわち菅原道真公がお生れになったのが仁明天皇の承和12年(845)乙丑年6月25日(丑の日)。
菅公が左遷され九州へ向う途中、藤原時平が笠原宿称に命じて土師の里をとり囲み菅公を亡きものにしようとした。 公の従者田口達音、島田忠臣等が迎え討って奮戦中、白牛が飛び来って宿称を角殺し、 公の危難を救ったと言う伝説がある。
菅公が59才で亡くなられた時、筑前国(福岡県)四堂のあたりに墓所を定めて葬ろうと牛車(喪の車)を引出したところ、 途中で牛車が動かなくなってしまったので、この場所が気に入られたのだろうと言う事でその場所に埋葬された。 これが大宰府天満宮のはじまりとされて居る。
仏教で言う大自在天の姿が八臂三眼にして白牛に乗るとされて居る。
此の石牛は明治42年5月25日に地元及崇敬者有志一同により奉納されたもので、天神様のお使いとされて居る。 全体がまろやかであたたかみがあり、優美な牛像として全国的にもまれにみる逸品である。 この牛を撫で、その手で人体の患部を撫でると効果があると伝えられ、 近年受験生が頭を撫でる姿も見られ、「天神様の撫で牛」として有名である。
 (岡村天満宮 宮司)
座論梅
社殿の前には座論梅という梅の木が棚状に造られていて、今を盛りと大きな実を沢山付けていました。 境内には各所に梅の木が植えてあり、実が地面に沢山落ちていました。
座論梅(通称八つ房梅)
一つの花に八つの実をつける非常にめずらしい「梅の珍種」として知られています。 紅梅・うす紅共に八重咲き・中輪咲きがあります。 此の名の「座論」は、花が実として完熟するまで、その座に残るよう競争しているように見えるので、 この名称が付けられたといはれています。 此の種のめずらしい梅は既に鎌倉時代には多くの人々に知られていたと思われます。
参考 花は2月中旬、実は6月中旬が見頃です。
※手をふれないで下さい。
岡村天満宮の社殿の右手から境内を出ると、ちょっとした駐車場のようになっています。 正面に建つ民家の左手の小道へと入っていきます。 一見して民家の庭へ入っていくようにも思えますが掠めていくだけです。 民家を過ぎると斜面に飛び石の道が続いています。
右上にテニスコートを見ながら小道を進んでいくと、左下へと降っていく道が分かれていきます。 その道は見送ってそのまま正面へと進んで突き当たりまでいくと、 民家の立ち並ぶ住宅地に出ます。 そこを右手へと曲がっていくと、すぐに岡村公園への出入口があります。 入り口の手前で左手へ分かれていく道もありますが、そのまま正面の公園へと入っていきます。
横浜市動物保護管理条例
・犬を散歩させるときには、綱につないで放さないで下さい。
・フンは飼い主が始末し、放置したり埋めたりしないで下さい。
 (横浜市緑政局、横浜市衛生局)
岡村公園
公園の出入口にある「広域避難場所」の案内板に岡村公園の地図が載っているので参考にしましょう。 緑地のほかにもテニスコートや野球場などがある公園です。 綺麗に咲いたガクアジサイを見ながら公園の遊歩道を進んでいくと、 緑に覆われた雰囲気のいい緑地があります。 それほど広くはありませんが、ベンチで休憩したり、緑地の周囲をエクササイズウォーキングしたりと、 思い思いの休日を過ごす人たちを見かけたりしました。 緑地の右手には遊具の設置された広場もあり、親子連れが遊んでいました。 その奥には岡村公園詰所(レストハウス)があって、コインロッカーやシャワー設備もあるようです。 野球場や庭球場は横浜市市民利用施設予約システムで予約すれば利用できるようです。
あんなこんな提案箱
《聞かせてください(財)横浜市緑の協会にあなたの声を》
岡村公園ではご利用の皆様からご提案、ご意見をお伺いしています。 窓口対応や公園の管理について提案箱にご投函してください。 投函されたご質問、ご提案、ご意見については、検討させていただき、 レストハウス内の掲示板上で回答させていただきます。 是非ご協力をお願いします。 提案箱及び回答掲示板はレストハウスの中にあります。
岡村公園を後にして龍珠院へと向っていきます。 公園へ入ってきた所にあった「広域避難場所」の案内板に載っている地図にも描いてあるので参考にしましょう。 ただし、道の向きが分かり難くなっています。 出入口の正面の道を進んでいけばいいようにも思えるのですが、 その道はあらぬ方向へ進んでいくので注意しましょう。 先ほどの出入口を出たらすぐ右手へと曲がっていきます。 右折していくとすぐに道が二手に分かれているので、更に右手へと進んでいきます。 右手に墓地を見ながら坂道を降っていくと急な階段が現れます。 この階段を降りてその先の急坂を降っていくと、住宅地の道路に降り立ちます。 正面には建材店の作業場のような所があります。
龍珠院
道路に降りて右手へと曲がっていくと、すぐの所に龍珠院があります。 大きな樹木や「禅曹洞宗泉谷山龍珠院」と刻まれた石柱の先の短い石段を登っていくと本堂があります。 本堂の裏手には墓地が広がっていました。 手前の石碑には「里のしるべ」や「宝永山噴火記録」などが刻まれていました。 掠れていて明瞭でない部分もありましたが、読めた範囲で載せておきます。 今回訪れた三殿台遺跡や岡村天満宮の名前も記されていて、何だか悠久の歴史が感じられます。
里のしるべ
古るく武蔵之国久良岐郡禅馬郷岡と云う西紀前千余年縄文後期より弥生後期に至る 古代住居跡は三殿台遺跡として竹橋丘陵に在り土師器並に鬼高生期住居跡は仲久保 金剛院裏及び興楽寺跡に在り文治元年鎌倉初期平子平馬允有長地頭となり種馬郷根 岸本牧石川を支配す大永二年北條氏繁龍珠院建立_谷知伊東大湖安室檀家となる永 正十五年蒔田吉良の支配をへ天正十八年徳川氏の天領となる文禄四年検地より浜村 滝頭月村に別る岡村指_高三四一石田畑四十一町余登録百姓伊東谷知大湖石井岡田 田辺門倉氏戸数三七寛門八年人別帳二__寺三寺正宝元年山野検地行わる元禄元年 金剛院を中興長誉が再建す元禄七年保土谷宿大助郷を命せらる三分帳控三八九石田 畑四七町望月小島岩沢金本小柴氏登録百姓に入る元禄九年四九戸寺四寺久世藤川竹 尾三旗本の采地となる享保十年定助郷と成る二九三人家数五三馬八匹天明五年二二 九人余業一戸名主石井次郎衛谷知清七源右ヱ門天保凶作により家数四十余一九一人 馬三匹に減り七分免三分免動願出て十五年間助郷休役認らる名主谷知治兵衛太郎衛 門伊東谷ヱ門天保十四年明細帳岡村は七つの谷田の天水田を主とし村方用水は谷合 の清水を堰築水上は西より東へ禅馬川に流れ磯子に入る明治二年反別帳四六戸二九 三人今_八戸神佛分離令により龍珠院當奉持の岡村天満宮は名主治兵衛太郎右ヱ 門出役青木氏立合にて分離す明治四年廃藩置県を経て屏風ヶ浦村岡明治四十四年横 浜市に合併す史誌並に當寺古文書に依る
 (當山廿三世 永久良雄代)
宝永山噴火記録
宝永四年十月四日昼九つ時 関東大地震起こる翌五日朝 又雷震あり十一月廿三日昼 巳刻より申刻関東震動雷電 暗き事除夜の如く雷震動_ 砂ふり候義七日それより二 時三時程つづふる十六日降 る十二月八日まで初め降出 し一寸四五分より三四五分 程の岩石廿三日巳より申刻 までふり申候但し色白き岩 石にて候同日申刻よりねず み色の小砂ふり候義三日そ れより後くらき小砂降り申 候雪の如く積り候義厚さ七 八寸程所々により一尺二尺 程積り申候砂ふり候元はふ じ山なり右の山の近所の岩 人馬ともやける其の年の薪 なし仕付け候_砂に埋りく さり申候惣じて砂降り候國 々とも陣馬大分わずらい候
 (根岸村名主高橋氏 持蔵)
御鷹番屋史料
享保元年幕府の御留場御触 書あり岡村磯子龍頭三ヶ村 共同晩やを持つ事を願出て 享保四年八月に番屋勤務規 定を定め岡村十七日磯子十 五日龍頭十日とし八月廿日 より番人二名づつ明六つよ り暮六つまで勤め鳥番屋は 岡村清五郎地に定む
岡村中学校前交差点
急坂を降ってきた所にあった建材店まで引き返して、その先へと進んでいきます。 住宅地の中の道なので左右に小さな分かれ道もありますが、道なりに真っ直ぐに進んでいきます。 岡村中学校を右手に見ながら進んでいくと、5分ほどで岡村中学校前交差点に出ます。
古泉(こいずみ)バス停
岡村中学校前交差点を直進していくと、100mほど先の所に古泉バス停があります。
弘明寺駅(横浜市営地下鉄)まで、[9]横浜駅前行きバス、[9]藤棚行きバス,または, [9]保土ヶ谷駅東口行きバスにて12分、1時間に4本から5本程度の便があります。
磯子駅(JR根岸線)まで、[78]磯子駅前行きバスにて20分、1時間に2本から3本程度の便があります。
上大岡駅(京浜急行本線)まで、[133]上大岡駅前行きバスにて13分、1時間に1本程度の便があります。