三浦七福神
散策:2006年01月上旬
【街角散策】 三浦七福神
概 要 三浦七福神は三浦半島の先端の三浦市にある寺社に祀られています。 1月中は御開帳されているので、七福神などを拝観することができます。 少々長めになりますが、今回は三浦海岸駅から各寺社を訪ねて三崎口駅までの全行程23kmほどのコースを歩いて巡ります。
起 点 三浦市 三浦海岸駅
終 点 三浦市 三崎口駅
ルート 三浦海岸駅…金光恵比須尊(円福寺)…白浜毘沙門天(慈雲寺毘沙門堂)…慈雲寺…筌龍弁財天(海南神社)…桃林布袋尊(見桃寺)…長安寿老人(白髭神社)…鶴園福禄寿(妙音寺)…寿福大黒天(延壽寺)…三崎口駅
所要時間 7時間50分
歩いて... 三浦七福神の祀られている寺社はすべて街中にある寺社で、緩やかな道路がひたすら続くコースですが、 三浦半島の先端には海や大根畑などが広がっていて、気分も爽やかに歩いていけます。 七福神を巡るバスツアーも設定されているようなので、そちらを利用すれば楽に巡ることもできます。
関連メモ 三浦・岩礁のみち, 油壺・入江のみち, 三戸海岸, 小網代の森
コース紹介
三浦海岸(みうらかいがん)駅
三浦海岸駅(京浜急行久里浜線)から歩いていきます。
改札口を出て三崎口駅方向へ進んでいくと、すぐに車道に出ます。 隣り合うように二つの道が通っていますが、先の方の県道214号を左手へと進んでいきます。
三浦海岸
街中の広い車道を進んでいくと少し降るようになります。 上宮田バス停を過ぎた先に三浦海岸交差点があります。 県道214号から続く県道215号と国道134号とが交差しています。 正面には東京湾が広がっています。 ここを右折して三浦海岸沿いの県道215号を進んでいきます。 県道に沿って細長い駐車場があるので、その海側に続く歩道を進んでいきます。 三浦海岸の砂浜の先には東京湾が広がっていました。 その奥には房総半島の薄い影も続いていました。 この三浦海岸は海水浴場にもなっていて夏には海水浴客などで賑わいますが、 冬のこの時期にはひっそりとしていて、寒い風だけが砂浜を吹きぬけていきます。
シマナンヨウスギ植栽の由来
三浦市の市制40年を祝して姉妹都市のオーストラリア国ウォーナンブールから贈られた 同市の代表的な木であるシマナンヨウスギをこの地に植樹し両市の友好と発展を祈念するものです。
 (三浦市、神奈川県横須賀土木事務所)
苫屋の点在する海岸沿いに歩いていくと、砂浜に組木をしてカブや大根が干してありました。 寒風にさらしているようです。
砂浜ではうず高く積み上げて焚き火をしている方々も見かけました。 松の内の最後とあって、どんど焼きをされていたのでしょう。 都会では「落ち葉焚き」でさえも禁止されていて昔の風情が失われてしまいましたが、 この辺りでは昔からの習慣がまだまだ残されているようです。
トビなどの野生動物にエサを与えないで!
エサを与えることで数が増え、人に被害をもたらす例が増えています。 人間の食べ物を奪うなどの悪さをするようにもなります。 また、フンや羽毛により、民家や公共の場が汚されたりします。 トビだけでなく、野生動物にエサを与えることはやめましょう。
ゴミは持ち帰りましょう!
きれいな海岸を守るため、バーベキューなどで出たゴミは持ち帰りましょう。
 (神奈川県横須賀土木事務所、三浦市)
短い「菊名橋人道橋」を渡っていくと、民家が点在するようになります。 浜辺に出て振り返ると、今まで歩いてきた三浦海岸が静かに広がっていました。 浜に揚げられた小舟などを見ながらその先へと進んでいくと、やがて小山に突き当たって行き止まりになります。 その50mほど手前から右手へ登っていく道があるので、そこから県道215号に出て、 左折して県道を進んでいきます。
お知らせ!!
この場所は、海岸保全区域に指定されております。
・ボート等を放置することは海岸管理上支障がありますので、撤去して下さい。
・産業廃棄物、家電製品等の投棄は法律により罰せられます。
・ゴミは持ち帰って下さい。
美しい海岸にするために、海岸の美化にご協力下さい。
 (神奈川県横須賀土木事務所、県横須賀三浦地区行政センター、三崎警察署、三浦市)
崖面の洞穴に安置された石仏などを見ながら進んでいきます。 「役場下バス停」を過ぎていくと、県道に出てから10分ほどで、右手に道が分かれていきます。 手前にある電柱には「浄土宗圓福寺→入口」の看板があります。 角には、赤い前掛けをした「馬頭観世音菩薩供養 交通安全守地蔵菩薩」のお地蔵さんや 「金光恵比須 三浦七福神 円福寺」の標柱が立っているので目印になります。 1月中だけのことかも知れませんが、「七福神」と書かれた赤い幟も立っていました。 ここで県道から分かれて右手の道へと入っていきます。 右手に分かれている細い道を二つ見送って道なりに進んでいくとT字路があります。 正面には「七福神」と書かれた赤い幟が立っていました。 道標「金田山円福寺」に従って右手へと進んでいきます。
金光恵比須尊(円福寺)
畑を左手に見ながら進んでいくとY字路があります。 角には「地蔵尊霊場」と刻まれた石碑と、「市指定重要文化財 地蔵菩薩立像」と書かれた標柱が立っています。 そこを右手に真っ直ぐ進んでいくと円福寺があります。 三浦海岸駅から50分ほどで到着しました。 右手に「三浦七福神」、左手に「圓福寺」と記された大きな石門から境内へと入っていきます。 赤い前掛けをした六地蔵に出迎えられながら大木の並木の参道を進んでいきます。 鐘楼を左手に見ながら参道の先の石段を登っていくと、円福寺の本堂があります。 正面には小さなお姿の恵比須さまが鎮座されていたのでした。 また石段の下には身の丈50〜60cmほどの七福神の石像が七体並んでいました。
金光恵比須(円福寺)
遠い昔のこと、或る夜、金田湾の海上にいるように光るものを通りがかりの漁夫が見つけ これを怪しんで舟を寄せて拾い上げたところ黄金の恵比須像であったので、 大漁満足の瑞兆と喜び、持ち帰って草庵を建ててお祀りしました。 そして村人がこぞってお守りしていたところ、一人の旅僧が現われて、 「この地の相を観ずるにまことに寿の海、福の田なり。海の幸を護るにこの恵比須尊あり。 よろしく五穀豊穣を司どる地蔵尊を勧請すべし。しからば、この里の栄ゆること量りなかるべし。」 と地蔵尊を恵比須尊と併せて祀るように村人に告げて去りました。 そこで村人は天文17年(1548)に鎌倉光明寺の伝設大和尚を招いて開山とし、 草庵を現在の地に移して金田山円福寺としたと伝えられています。
 (三浦市)
暖かい心を持ち正しい心をもって一年を過ごそう
 (金田山円福寺)
金田漁港
円福寺から元の県道215号まで引き返してその先へと進んでいきます。 左手に三浦海岸から東京湾や房総半島の淡い影を眺めながら車道を進んでいくと金田漁港があります。 港には大小の漁船が停泊していました。 岸辺の岩の上には海鳥が一羽寒そうに佇んでいました。
こんながけにご用心!
あなたの家の近くのがけが下のことがらにあてはまる場合には注意が必要です。
・傾斜が30度以上。
・高さが5m以上。
・厚さ1〜2m程度の表土に覆われている。
・岩が露出していて(浮き石がある)亀裂があったり湧き水が見られる。
・がけ上の雨水が1箇所に集中して流れ込む。
・がけが張り出している。がけ下に以前崩れた土砂が多量に溜まっている。
・過去に崩れたことのあるがけに隣接している。
 (神奈川県横須賀土木事務所、三浦市都市整備部度ボム整備課)
金田漁港を後にして更に県道を進んでいきます。 三浦金田緑地への入口を過ぎていくと、道は大きく右手へと曲がっていきます。 次第に登り坂になる道を進んでいくと、ガソリンスタンドのあるT字路に出ます。 そこを左手へ進んでいくと、すぐに道が二手に分かれています。 角には「関東ふれあいの道」の案内板や大浦海水浴場への看板があります。 大浦海岸から剱崎を経て宮川湾へと続く海岸沿いの「三浦・岩礁のみち」は左手へと進んでいきますが、 今回は右手の道を進んでいきます。 すぐ先にある松輪バス停を過ぎていきます。
関東ふれあいの道 三浦・岩礁のみち
このみちは県下17コースの一つで三浦市松輪バス停から大浦海岸に出て海岸づたいに宮川湾まで 海とのふれあいを十分に楽しむことができます。 そこから市道を通り宮川町バス停までの全長11.0kmのみちのりです。 見どころは、間口漁港、江奈湾、毘沙門湾、剱崎、白浜毘沙門天、盗人狩などです。 なお、礒や岩礁帯においては足下に十分注意し、 高波時や満潮時は歩けないところもありますので無理はしないでください。
貴重な自然を大切にしましょう。
 (建設省、神奈川県)
この辺りは海から少し高い所にある丘になっていて、辺り一面には畑地が広がっています。 この季節にはほとんどの畑には大根が植えられていました。 「三浦だいこん」の名前で有名な旧来の大型の「白だいこん」に変わって、 現在では小振りの「青首だいこん」が主流になっているようです。 松輪郵便局の手前にある塗料店の辺りから右手へ分かれている細い道があります。 このまま車道を進んでいってもいいのですが、 手元の地図を見ると何だか遠回りのような気がして、 この右手の道へ入って剣崎小学校バス停の辺りへ出る道を行けば近いだろうと目論んだのでした。
右手の道へ入っていくと程なくしてT字路があります。 そこを左折していくと再びT字路があります。 そこを左折した先に松輪明神社があります。 お参りをしてから緩やかに降って、その先へと続く集落の中を進んでいきます。 少し登り坂になった所にある広めのT字路を右折して、更に集落の中を緩やかに降っていくと、 先ほどの県道215号に出ます。 ここは何処だろうと辺りを見回していると、右手の先に松輪海岸バス停がありました。 手元の地図を見ると、予定していた剣先小学校バス停の一つ手前のバス停でした。 これでは県道をそのまま進んできたのと余り変わりません。 こんな事なら、素直に県道を進んできた方が良かったのかも知れません。
江奈湾
左手に江奈湾を眺めながら海沿いの県道215号を進んでいきます。 剣先小学校バス停の脇から海岸に沿って堤防の上に道が続いているので、そちらの道を歩いていきます。 江奈湾の左手には漁船が何艘も停泊していました。 湾を回り込むようにして進んでいき、再び車道に降りてその先へと進んでいきます。 この辺りは干潮時には干潟になりますが、この時には湾の奥のアシ原の辺りまで潮が満ちていました。
江奈湾の干潟
「干潟」とはもともと遠浅の浜のことでひき潮のときに、海底が広くあらわれるところをいいます。 この干潟では、四季を通じていろいろな生物を見ることができます。 中でもカニ類が多く、アシ原にはアカテガニやアシハラガニ、泥場にコメツキガニ、みおすじの砂泥や 転石の下にケフサイソガニなどが生活しています。 またどろの中には、テッポウエビ、スナモグリ、オキシジミガイ、アサリなどもいます。 水鳥も多くキアシシギ、ハマシギ、コチドリ、コサギなどを見ることができます。 湾の中央には、細長い緑色の紙ひものような植物(アマモ群落)が水面をおおい、 この中にボラ、ウミタナゴ、サビハゼなどの幼魚が生活しています。 冬にはユリカモメ、ウミネコ、セグロカモメが飛びかい沖の岩礁ではウミウも休息しています。
 (環境省、神奈川県)
江奈湾の奥のアシ原を左手に見ながら車道を進んでいくと、道が二手に分かれています。 左手へ曲がっていくのは毘沙門トンネルを抜けていく新道ですが、 右手から坂道を登っていく旧道の方を進んでいきます。 ここには道標などがないので、間違わないようにしましょう。
毘沙門天入口
坂道を登り毘沙門野菜集出荷所を過ぎていくと高台の上に出ます。 そのまま少し進んでいくとT字路があります。 角には「毘沙門天」と「馬頭観世音菩薩」の石碑が立っています。 また、「三浦七福神 白浜毘沙門天」の赤い幟もはためいていました。 ここを左折していきます。
白浜毘沙門天(慈雲寺毘沙門堂)
大根畑の広がる高台を進んでいくと道が二手に分かれています。 その角に関東ふれあいの道の道標が立っています。 「白浜毘沙門天へ→」に従って、右手の道を降っていくと、 ほどなくして左手に白浜毘沙門天があります。 金光恵比須尊(円福寺)から1時間15分ほどで到着しました。 石の門から境内に入り、短い石段を登った所に毘沙門堂があります。 扉は閉ざされていますが開けて拝観できるようです。 中を覗いてみましたが、毘沙門天のお姿は確認できませんでした。 奥の方に安置されていたのかも知れません。
白浜毘沙門天
白浜毘沙門天は、三浦氏地副腎の一つです。 ここは持陽山慈雲寺毘沙門堂と称し、本寺は応安元年(1368)妙謙和尚によって開かれたもので、 毘沙門天は行基の作と伝えられ、古来より正月三日酉の刻(午後6時)には必ずありがたい神示があると信じられ、 近郷近在から多数の参詣、参籠があり、智恵と勇武の守り神として崇められております。 特に北方を守る武神とされ、厄除け、恵方の毘沙門天であります。 三浦七福神とは、あと金光恵比須尊(円福寺)・鶴園福禄寿(妙音寺)・筌龍弁財天(海南神社)・桃林布袋尊(見桃寺)・ 長安寿老人(白髭神社)・寿福大黒天(延寿寺)です。
 (環境省、神奈川県)
三浦七福神 白浜毘沙門天(慈雲寺)
ここ持陽山慈雲寺の毘沙門堂は、応安元年(1368)妙謙和尚によって開かれたといわれ、 本尊の毘沙門天は、行基の作と伝えれています。 この毘沙門天は、海中出現の像といわれ古来から漁業者の信仰が厚く、 ことに正月三日の酉(18時)の刻には必ずありがたい示現があると信じられており、 近郷近在から多数の参詣、参籠があってあかりの祭典といわれていました。 そして、智恵と勇武の守り神としてあがめられています。 また特に北方を守る武神とされ、厄除け、恵方(その年の「えと」にもとづいて良いときめた吉祥の方角)の神とされ、 また佛の道場を守る毘沙門天で四天王の一の多聞天ともいわれています。
 (三浦市)
慈雲寺
お札・お守り等は慈雲寺に置いてありますので御承知ください。 毘沙門バス停前の渡辺商店(ガソリンスタンド)より20m先にあります。
御参拝のみなさま
戸は必ず閉めておいてくださるようお願いいたします。
 (慈雲寺住職)
慈雲寺入口
先ほどの毘沙門天入口のT字路まで引き返してその先へと進んでいきます。 毘沙門天入口バス停を過ぎていくと、毘沙門バス停の先で道が二手に分かれています。 そばにはガソリンスタンドや商店があります。 角には石仏が何体も並んでいて、「三浦七福神 白浜毘沙門天 慈雲寺」の看板も出ていました。
慈雲寺
右手の道を進んでいくと、程なくして慈雲寺があります。 毘沙門堂から10数分で到着しました。 山門をくぐっていくと慈雲寺の本堂があります。 奥の方には多聞天と思われる像が安置されていました。
岩堂山 (標高83.4m)
慈雲寺入口まで引き返して、更にその先へと進んでいきます。 集落の中の道を進んでいくと大原バス停があります。 この辺りから再び大根畑が続くようになります。 大乗バス停を過ぎて左手へと登っていくと、坂道の途中に八雲神社があります。 神社にお参りして更に進んでいくと高度が少し高くなって、 大根畑の向こうには三浦の街や海を見わたせるいい眺めが広がっていました。 八雲神社のある森の先にもこんもりとした小山がありました。 岩堂山というようで、解説板も設置されていました。 道はここから左手へと曲がっていきます。 正面に三浦の街や海を眺めながら、大根畑の中に続く道を緩やかに降っていきます。 振り返ると、八雲神社のある森と岩堂山が二つ並んでいるのが望めます。
岩堂山
三浦市内には山岳といえるほどの高い山は なく、いずれも丘陵程度ですが、この岩堂山 は三浦半島南端では最も高い山で海抜83. 4mです。 晴れた日頂上からは房総半島、伊豆連峰、そして大島の噴煙等が手にとるように眺められ、 夏は名物三浦スイカ、冬は三浦大根の緑と空の青さを満喫できる市内で最も展望を楽しめる丘陵であります。 大昔、毘沙門の白浜海岸に正月三日の朝方、鶏の鳴き声とともに東方から竜燈があらわれ、 一体の仏像が流れつきました。 村人はこの仏像をお祀りしておりましたが、その後行基菩薩がこの地をお通りになったとき、 その像をお見せしたところ、尊い毘沙門天像であるとの教えになりました。 そして菩薩はこの山にこもりさらに一体の毘沙門天像をお刻みになり、 ともに祀るようにお告げになり去られたといいます。 なおそのとき、像を刻んだときに出た木片が寄り集まって塚になり、 その木っぱ塚が山中にあったとも伝えれております。
 (三浦市)
岩堂山から15分ほど進んでいくと、道は左手へと曲がっていきます。 その角から正面右手へ道が分かれていきます。 手元の地図を見ると少し近道のようにも思えますが、 先ほどの失敗もあるので、素直に車道を左手へと曲がっていきます。 曲がってすぐの所に宮川町バス停があり、そばには関東ふれあいの道の案内板があります。 バス停を過ぎていくと、江奈湾の先から分かれてきた新道と合流するT字路があります。 そこを右折して県道215号を進んでいきます。
北条湾
畑地が続く車道を進んでいくとやがて集落の中を行くようになります。 台向ヶ崎バス停を過ぎ城ヶ島大橋バス停を過ぎていくとT字路があります。 そこを左折して坂道を降っていきます。 城ヶ島大橋へと続く道の下をくぐっていくと北条湾に出ます。 右折して椿の御所バス停を過ぎ、狭塚川に架かる短い北條橋を渡り、 北条湾を回り込むようにして左手へと曲がっていきます。
ヨット・モーターボートの皆さんへ
この岩壁では、ヨット・モーターボートの係留は出来ません。 本港内の旧魚市場岩壁及び西野物置場(三崎公園寄り)前面の泊地をヨット・モーターボートが一時係留できる 特定泊地としましたので、そちらへ回航して下さい。
 (神奈川県東部漁港事務所)
北条湾に沿って進んでいくとやがて日の出交差点の十字路があります。 信号を直進して、商店の建ち並ぶ日の出通りを進んでいきます。 街灯に架かる看板が「すずらん通り」に変わる十字路の所に「三崎本通り」の案内板があります。 これから向う海南神社への道も図示されているので参考にしましょう。 「三崎銀座商店街」の看板が架かる十字路を右折していくと、 三崎公園三崎港バス停のある開けた場所に出ます。 その手前から右手へ続く路地へと入っていきます。
三崎本通り
三崎下町には粋な通り名・地名が多い。 三崎銀座・花暮・仲崎・入舟・日の出。 遠洋漁業のまちにふさわしい名だ。 この下町一帯には昔ながらの蔵も多くあり、2階部分の窓が大きいのが特色である。 7月17日〜19日の海南神社の例大祭や毎月最終土曜日の三崎港楽夕市には この通りが多くの人によって賑わいをみせる。
 (三崎まとなみ事業協議会)
マグロ船の廻船問屋さんの蔵
三崎港に日本各地からの遠洋漁船が廻来する様になった明治の頃から、 この廻船船が寄港した時、漁獲物の水揚、売捌き、又、乗組員の食事の世話から 次の航海の燃料、食料、餌の手配等を廻船問屋がすべて行ない、 船からは「宿」と呼ばれ漁業経済の中心的役割を象徴する蔵造りの問屋として現存する。
筌龍弁財天(海南神社)
路地をまっすぐに進んでいくと、ほどなくして海南神社に着きます。 慈雲寺から1時間10分ほどで到着しました。 鳥居をくぐって海南神社の境内へと入っていきます。 神楽殿と御神木の間を進んで短い石段を登ると本殿があります。 本殿には弁財天が鎮座されていました。
三浦七福神「筌龍弁財天」 三浦総鎮守 海南神社
治承4年(1180)源頼朝の挙兵に際し三浦大介義明、義澄父子は当社に参詣し 「神事狐合」(白と赤の狐が闘い白狐が勝った)で源平の争覇を占い、 神意により源氏の再興を信じ頼朝側に荷担し、和田義盛と供に衣笠城に立籠り、 畠山重忠ら平氏の軍勢と戦いましたが落城、義盛の一党は久里浜から海路房州に逃れんとしました。 その時、折悪しく暴風に襲われて海上を漂流まさに兵糧尽きなんとした時、 龍神に祈ったところ筌(竹で編んだ籠で水中につけておきいったん入った魚は出られなくしてある漁具)という 漁具が流れ来たのでこれを用いて魚を採って飢えをしのいだとの事があり、 後に、建久3年(1192)鎌倉幕府が開府し、義盛は別当職に就任しましたが或る春の一夜、 筌が昇天して龍と化した夢を見て一念発起し、陣地であるこの地に筌を弁財天として祀ったのが この筌龍弁財天の縁起とされています。 弁財天には、二臂弁財天と八臂弁財天とがありますが、この弁財天は八臂で八本の手を持ち、 左手に弓、刀、斧、羂索を、右手に箭、三鈷戟、独鈷杵、輪を持ち、 また琵琶を引き、大漁満足、福徳財宝、容姿端正、弁智増上、芸能上達などの御神徳を叶える弁財天として 変わった形の女神です。
 (三浦市)
海南神社
祭神は藤原資盈とその媛盈渡姫。 奈良時代の中央貴族であった藤原氏の一族の資盈は貴族間の争いに巻きこまれ、 博多からこの地三崎に漂着したといわれています。 その頃三崎は房総の海賊に苦しめられていましたが資盈がこれを退治すると共に 様々な文化をつたえたと言われています。 その後すぐに資盈らは全員死んでしまい、そのなきがらを海に沈め祠(花暮の本宮様)をたて この海南神社創建とともにここに遷されました。 また鎌倉幕府成立と功労者、三浦大介義明がこの境内で「神前鶴合わせ」を行い 源頼朝に味方することを決めたと言われています。 この海南神社は古くから海難避けの神社・三浦の総社として土地の人たちの信仰をあつめています。
 (三崎まちなみ事業協議会)
御神木は大きなイチョウの木で、枝から鍾乳石が垂れたような形のものが下がっていました。 これは枝なのでしょうか、それとも根なのでしょうか。 同様のものは他の寺社などでも時折見かけますが、何だか異様な感じがします。 神楽殿の周囲には、「国うみの図」,「天の岩戸開きの図」,「日本武尊」,「海幸彦・山幸彦」, 「大国主命須勢理比売命」,「大国主命と因幡の白兎」,「黄泉平坂」など、 日本神話にまつわる絵が沢山掲げられていました。 また、三浦七福神や三浦半島開運めぐりなどが紹介されたポスターも貼ってありました。
御神木
この大公孫樹は鎌倉時代(1192)に源頼朝公当社に敬神の念篤く祈願成就の記念として 寄進せしと伝えられる手植の銀杏にて樹齢約八百年なり。
 (社務所)
三浦半島開運めぐり
心の癒し寛ぎのひととき。四季の彩りと景観に誘われ、ぶらり三浦半島一周日帰りの参拝。 澄みきった空、蒼い海、紅葉の鮮やかな山々を眺め、ひとときを寛い過ごす。
三浦七福神
開帳期間:元旦〜31日。  三浦市内に点在する五つの寺院と二つの神社によって構成されている。 昭和30年代半ばに開かれ、昭和50年代からは都心からの参拝者も急増した。 東京湾、相模湾が広がり、各寺社の参拝道や境内の山頂からはこれらの海を眺望することができる。 1月の快晴の時には遠く富士・箱根・伊豆の連山や房総半島が望まれ、 暖かな陽射しに恵まれた半島や大根・キャベツ畑一色となる。 特にこの時期、市内各所の飲食店では、海の幸に舌鼓を打ちながら開運を求める家族連れで賑わう。 全行程23キロ。最近は徒歩や自転車で参拝する人も多くなった。
秋の七草
受付期間:9月1日〜10月20日。  三浦半島からも一部の七草が消え去ろうとしている。 このほど結成された半島内の7寺社はこれら消えつつある七草の保護育成に、今、懸命に取り組んでいる。 そこでは常にそれらの草花と身近に接することができ、心を和ませることができる。 女郎花は7月中旬頃から咲きはじめ10月迄。桔梗、撫子は6月に一番花が咲き、秋に二番花をつける。 藤袴、葛は9月が盛りとなるが、尾花、萩はむしろ9月中旬以降が好ましい。 都心からは横横道路で衣笠I・Cから入り、東京湾を左に見ながら半島先端の三崎へ。 そして相模湾沿いを走り、葉山・逗子へと続く。全行程45キロ。
干支守り本尊
開帳期間:4月15日〜5月15日。  守り本尊を自らの一代守り本尊と定め、利益と安心を求めること、信心を深めることは誠に尊いことである。 このほど、三浦半島に存在する古刹8ヶ寺によって『干支の守り本尊』霊場が開かれた。 京急久里浜駅付近に2ヶ寺、三崎口駅付近に2ヶ寺、そして三浦半島の霊峰武山不動、 芦名、葉山を経て最後は京急新逗子駅前の逗子大師延命寺と、車なら1日で全てを参拝することができる。 横横道路佐原I・Cより逗子I・Cまで全行程50キロ。 春うらら、家族連れでゆっくりと巡ってみたいものである。

三崎弁標準語
おめっちらああなた達
しゃんねえしょうがない
けえろください
うんめろたくさん
しゃっせーョしてください
くわっせーョ食べなさい
けえすけアワビ
てってに本当に
…だんべえ…でしょう
やしやし一生懸命
おっぺす押す
三崎漁港(本港)
三崎公園のある開けた場所まで引き返していきます。 正面には三崎漁港があり、右手の方には魚市場もあります。 三崎公園にはこの周辺の案内図があります。 この三崎公園を基点とした「海が見える三崎歴史の散歩径」、「三崎潮の香りの散歩径」、 「三崎緑と海とお寺の散歩径」、「三崎漁港の散歩径」の4コースが紹介されています。 ここから始まる関東ふれあいの道「油壺・入江のみち」の解説板も設置されています。 丁度昼時になったので、周辺のお店に入ってランチタイムにしました。
まぐろと蔵のまち三崎
三崎は昔から遠洋漁業のまぐろで栄えたまち。 昭和30年あたりから、まぐろ船が入港するとわんやわんやの大さわぎ。 恋人に逢うために訪れる人、家族でお父さんを向かえに来る人、 港の玄関口としてにぎわった街です。 まちをそぞろ歩くと2階部分の開口部が大きな蔵がめだちます。 普通、蔵は貯蔵庫として活用されます。 しかし、ここ三崎では大火が多かった土地柄で、特に冬の海からの西風は強く、 そのためいったん火が起こると大火になってしまいました。 そこで人命も家財も守るため住居空間を兼ねた蔵が登場しました。 私たちの三崎も近年のグルメブームにのって多くの方々が訪れて頂けるようになりました。 観光地としてはこれからですが、素顔の三崎を満喫してください。
 (三崎まちなみ事業協議会)
関東ふれあいの道 油壺・入江のみち
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 沿道の豊かな自然にあふれた名所や史跡をたずねながら、ふる里を見なおしてみかせんか。 このみちは県下17コースの一つで三浦市三崎公園バス停から西海岸線(市道35号線)づたいに油壺バス停までの 全長3.4kmのみちのりです。 見どころは三崎水産卸売市場や歌舞島公園・二谷町の蓮痕、それにヨットで有名な諸礒湾・油壺湾なdがあります。
 (環境省、神奈川県)
えっ!三崎にも方言があった?!
驚かれるのも無理はありません。しかし、立派にきちんと現存していたのです。 ここではほんの一例を紹介。覚えて損はねえだんべえ。
【三崎弁】三崎にゃー うんめろうんめー店があんからぁ けえすけでも くわっせーよぉー。
【標準語】三崎には たくさんおいしい店があるから アワビでも 食べなさい。
 (三崎まちなみ事業協議会)
歌舞島
三崎漁港から右手へと続く道を進んでいくと、7分ほどで道が右へ曲がっていきます。 白石区歌舞島会館の裏手に、こんもりとした歌舞島があります。 右手の坂道を登り、魚藍観音や歌碑を見ながら石段を登っていった先に東屋があります。 条件がいいと富士山までも見渡せるとのことですが、残念ながらこの日には見えませんでした。
三浦一族歴史巡り(19) 歌舞島
鎌倉時代、すでに三崎は、鎌倉幕府の行楽の地として、源頼朝をはじめとして多くの幕官が来遊しておりました。 この歌舞島も頼朝公が歌舞宴楽を催したところからこの名が残されています。 また三浦義村の招きで当地を訪れた将軍藤原頼経が来迎(極楽から仏を迎える)の儀を行い、 読経歌舞を催したところからその名が伝えられたともいわれています。 このあたり一帯の磯は、岩礁の変化と男性的な海岸美で知られ、 荒天どき千様万態の磯岩に挑んで白く砕ける黒潮の雄大さは、水煙千丈とでも形容すべきでしょう。 また頂上から眺める富士山や相模湾の夕映えは天下の絶景です。
 (三浦市)
白秋文学コース(7) 歌舞島
いつしかに 春の名残と なりにけり 昆布干場の たんぽぽの花
白秋三崎初遊(明治43年晩春)の一首で、 白秋歌碑建設の構想が企画されたとき、白秋自身が最初に希望したのはこの歌だった。 しかし三崎の海には昆布は生育しない。 搗布を誤認したということで建碑は実現しなかったが、 三崎における最初の会心の作として大事にした歌でした。 白秋が人生の岐路に立ち、自らの青春にも名残りを留めようとする、 郷愁と愛着がこの歌に秘められているからです。 大正2年、三崎に新居を求めた白秋は、十ヶ月余り三崎の風土を歩きつづけ、
相模のや 三浦三崎は ありがたく 一年あまり 吾が居しところ
と、心霊を蘇らせ新生のよろこびを残して小笠原へと渡ったのでした。
 (三浦市)
歌舞島を後にして更に車道を進んでいくと、数分で右手に路地があります。 角には「浦七福神 桃林布袋尊 見桃寺」の看板や 「林布袋尊 三浦七福神 見桃寺」の標柱が立っています。 また、「浦七福神 桃林布袋尊 見桃寺」と書かれた赤い幟も立っていました。
桃林布袋尊(見桃寺)
この路地を数10mほど入っていくと、左手に見桃寺があります。 三崎漁港から20分ほどで到着しました。 一見してお寺とは思えない佇まいをしていますが、この時には「奉納 初詣」と書かれた赤い幟が立っていました。 門から入っていくとすぐに本堂があります。 正面には小振りの布袋さまが鎮座されていました。
三浦七福神 桃林布袋尊
紫陽山見桃寺の開基は建長18年(1613)三崎船奉行の向井兵庫頭政綱が、 駿河の国、興津の清見寺の僧、白室玄虎和尚を迎えて開山したと 伝えられています。 桃林布袋尊は、当寺七代の住職桃林和尚の信仰したもので、 大きな袋を背負った肥満鼓腹の温顔は、古くから近郷近在の人々に親しまれ、 かつ敬われてきました。 そして、不老長寿、無病息災の守護神とされています。
白秋文学コース(7) 見桃寺
寂しさに 秋成が書 読みさして 庭に出でたり 白菊の花
見桃寺 冬さりくれば あかあかと 日にけに寂し 夕焼けにつつ
白秋は大正2年10月、向ヶ崎異人館からここ二町谷(ふたまちや)見桃寺の 一室を借り、妻と二人だけのわび住まいを始めました。 この「秋成が書読みさして」の歌は、晩秋のある昼下がり、白秋は 上田秋成の雨月物語「菊花の駒」のくだりを読みふけっていたということで、 このことは白秋碑の第一号として昭和16年11月2日この歌碑の除幕式に 出席した白秋が、初めて明らかにしました。そして、翌17年の同じ日に、 白秋はこの世を去ったのです。
三浦一族歴史めぐり(18) 桃の御所
建久の昔(1190年代)、時の将軍源頼朝は風光のすぐれた三浦の地に 三つの御所を設けました。ここ見桃寺は「桃の御所」のあった所で、 鎌倉将軍がしばしば来遊したと言われています。 また、寺の墓地には江戸初期、お船奉行として東京湾の守備にあった 向井将監一族の墓碑があります。
 (三浦市)
三浦漁港(白石地区)
見桃寺から元の道に戻ってその先へと進んでいきます。 左手には白石地区の三浦漁港が広がっていました。 港には多くの漁船が停泊していました。 右手には磯があって、漣痕と呼ばれる岩石層を見ることができます。
神奈川県指定天然記念物 漣痕(れんこん)
この海岸一帯はスコリア質れき岩、砂岩シルト岩などの第三紀層からできている。 漣痕は砂岩やシルト岩によく保存されている。 特に正面のがけや、この先の離れ岩に模式的なものがみられる。 多くは断面のあらわれているのもに左右対称の波模様が岩の 表面に、みごちに画きだされている。第三紀の中ごろ、 海底に堆積した泥や砂が一定方向の底流で転動していた時、 転動部分の表面に生じた小さなろすによって生成されたものである。 これがそのまま地層の中に残され、その後の変動によって 海面上に露出し、侵食された結果、現在のような形になったもので波動漣痕といわれている。 よく保存されたみごとな形状は、当時における地層の堆積環境を知る上に貴重な資料といえる。
 (三浦市教育委員会)
三浦漁港(海外地区)
白石地区の漁港から少し進んでいくと、海外地区の三浦漁港があります。 ここで道が二手に分かれていますが、左手へと進んでいきます。
スランプ構造
海外地区の漁港から左手へと進んでいくと、道の脇に褶曲した縞模様の岩肌が露出しています。 スランプ構造というようです。
神奈川県指定天然記念物 三浦市海外町のスランプ構造
三浦市海外町の海岸一帯に露出する三崎町砂岩シルト岩互層(三崎層)は、 三浦層群下部層で、地質年代が第三紀の海底で堆積した、主に灰白色の シルト岩と、黒色のスコリア質の凝灰岩や砂岩の互層からできています。 この崖の地層には、地質形成当時の環境を知る手がかりとなるスランプ構造が みられます。スランプ構造とは、未だ固まっていない堆積物が一時的に 海底などの斜面をすべり下った結果生じた特異な堆積構造です。 この堆積構造を示す互層の形状は、上部は正常層の堆積面とほぼ並行しています。 下底は、東から西に傾いたすべり面を境として、下位の正常層と接しています。 このすべり面は露頭の西半部で正常層の堆積面と一致してくるため、東半部でのみ 下位層の層理を高角度で切った形を示しています。崖面のスランプ構造には、 軸面をわずかに東に傾けた一つの背斜(波状をあらわす地層の峰の部分)と、 その東に続くごくゆるい向斜(波状をあらわす地層の谷の部分)からなる 見事な波状に曲がった褶曲面がみとめられます。 このスランプ構造は、地層を構成するシルト岩やスコリア質の凝灰岩、砂岩等が 未だ固まっていないコロイド状態にあった時、東から西に向かっての海底地すべりに よって転位変形した結果生じたものと考えられ、典型的な褶曲型のスランプ構造と いえます。地層堆積当時の堆積環境を知るうえで貴重です。
 (神奈川県教育委員会、三浦市教育委員会)
諸磯湾
スランプ構造の岩から数分進んでいくと、尾上町(油壺シーサイドタウン入口)交差点があります。 そこから左手へ登っていく道が分かれていますが、そのまま真っ直ぐに進んでいきます。 浜諸磯への道が通る陸橋の下を過ぎ白須児童公園を過ぎていくと、左手に諸磯湾があります。 波が穏やかな湾には多くのヨットが係留していました。
油壺湾
陸橋の下を過ていくと油壺ヨットハーバーへの道が左手へと降っていきますが、 そのまま車道を緩やかに登っていきます。 油壺湾にも多くのヨットが係留されていました。
三浦道寸父子と油壺湾
関東制圧をねらっていた北条早雲が大軍で新井城に攻めてきたため、 三浦道寸義同と子の荒次郎義意は城に立て籠もって3年も戦ったが、 ついに永正15年(1518)に城は落城し、道寸父子は自害したそうです。 この時、他の将兵も討死、または湾へ投身したと伝えられています。 そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したようになったので、 後世「油壺」といわれるようになったそうです。 今日では、油壺湾、小網代湾、諸磯湾はヨットハーバーとして、 また、油壺湾は台風等の大しけの時などは天然の入江を利用した漁船の避難所にもなってます。
 (環境省・神奈川県)
小網代湾
油壺湾を後にして坂道を緩やかに登っていくとT字路があります。 右折してすぐの所に、左手へ降っていく道があります。 角には「奉納 寿老人」と書かれた赤い幟が立っていました。 その道へと入って坂道を降りながら右手へ曲がっていくと小網代湾に出ます。 ここにも多くのヨットが係留されていました。 湾に沿って道なりに進んでいくと分岐があります。 角には「かながわの探鳥地50選」の解説板があります。 右手に広がる「小網代の森」の散策路が示されているので参考にしましょう。 小網代の森を抜けて国道へと向う前に、まずは正面すぐの所にある白髭神社へ参拝しましょう。
フィールドの約束(や・さ・し・い・き・も・ち)
)野外活動は無理なく楽しく
)採集はしないで自然はそのままに
)静かにそーっと
)一本道、道から外れないで
)着るものにも一工夫
)持って帰ろう、思い出とゴミ
)近づかないで、野鳥の巣
 (神奈川県環境部自然保護課)
長安寿老人(白髭神社)
鳥居を過ぎて石段を登っていくと、両側の大きな木の先に白髭神社があります。 見桃寺から40分ほどで到着しました。 社殿の奥には円い鏡がありましたが、寿老人のお姿は確認できませんでした。 その代わりなのか、巻物を持った白い顎鬚を生やした老人と立派な角を生やした鹿の絵が架けてありました。 境内には叩くと金属性の音がする「鳴石」があります。 もの珍しいのか、参拝者の皆さんも叩いていました。
長安寿老人 白髭神社
この白髭神社は、小網代湾が昔から廻船寄航地、また三崎の避難港として全国的に知られていた関係上、 航海安全、大漁満足の神としても古くから崇拝されてきました。 天文年間、当村の漁夫の夜網にかかった霊光こうこうたる束帯姿の御神体をお祀りしたと伝えられますが、 祭神は海上安全の神の中筒男命、別名白髭明神、南極星の化身ともいわれています。 長頭老人のこの寿老神は長寿を授けるというので、 信仰する人が昔からまことに多かったといわれています。 社殿の前にある石な鳴石といい、打てばかんかんと金属性の音がするので一名「カンカン石」とも呼ばれますが、 これは「きこいかり」という錨のおもりで、海上安全のために 昔攝津の船頭が明神様がその石がほしいというので社に奉納したものと伝えられています。
 (三浦市)
小網代の森
白髭神社から先ほどの分岐まで引き返して、小網代の森への道を進んでいきます。 浅い谷間に続く幅2mほどの土の道を進んでいくと、5分ほどで分岐があります。 道標などは見当たりませんでしたが、左手へ降っていく道は小網代湾の奥の入り江へと続いているようで、 樹木の間から水面が見えていました。 今回は右手の道を進んでいきます。 この辺りから道幅は次第に狭まり、街角散策というよりもハイキングの雰囲気がするようになります。
(左手の道は「三戸海岸」, 「小網代の森」を参照)
小網代の森を散策される方へ
小網代の森は、海、干潟、河口から湿原、さらには源流域の森林が自然の状態のまま一体として残り、 豊かな生態系とともに、こうした環境は関東、東海地方ではこの小網代に残るだけです。 わたしたちにとって、こうした優れた自然環境にふれあうことは大変貴重な体験ですが、 この小網代の森の土地は、道路や水路などの公有地を除いて全て私有地です。 そのため、散策などで小網代の森を訪れる方は、優れた自然を守るために 次のことがらに注意して保全にご協力を願いします。
《ご注意いただきたいこと》
この森の中は、水路と道路を除き、ほとんどが私有地です。 水路や道路以外の林などには、所有者の承諾なく入らないでください。
この森の中にゴミ箱はありません。 ゴミは各自で責任を持ってお持ち帰りください。
森の周辺では、農家の方が農業を営んでいます。 農地に入ったり、ゴミを捨てたりする行為はやめてください。
この森は、様々な動植物の棲みかでもあります。 動植物の採取などで、自然環境を破壊するようなことはしないでください。
保安管理上の観点から火の使用は避けてください。
この森は、マムシやスズメバチなど危険な生物も生息していますので、十分注意してください。
散策にあたっては、注意看板や案内看板の指示に従って、安全に通行してください。
 (神奈川県、三浦市、(財)かながわトラストみどり財団)
小網代の森を火災から守りましょう!
たばこの投げ捨て厳禁
 (三浦市、三浦市消防本部)
浅い谷戸に流れる小さな沢を渡ったり渡り返したりしながら、入り江の奥へと続く谷戸を進んでいきます。 途中で少しぬかるんでいる所もあったりしますが、板が敷いてあって何とか通っていけます。 また笹竹に覆われてトンネルのようになっている所を身を屈めながら通っていく所もあったりします。 支柱の上に金属製の板が渡された小径が左手前から右前方へと続いている所(*)が途中にあります。 それに沿って道もずっと続いているようでしたが、何だか右手の方へ反れていってしまいそうな雰囲気がしたので、 今回は板の小径の途中から外れて、真っ直ぐに谷戸の奥へと続く道を進んでいきました。 それ以外には迷いそうな所はありませんでした。 大きな倒木があったりもしますが踏み跡はしっかりと続いていました。 入り江への分岐の所から20分ほど進んで、沢から離れて少し登るようになると、金網で囲まれた水道施設があります。 ここで大きく左手へ曲がっていくと、道幅も2mほどに広がり、ぐっと歩きやすくなってきます。
(*左右に通る道は「三戸海岸」を参照)
森は私有地です。 生物を守り、スズメバチやマムシに気をつけて、踏み跡をはずれずに歩こう。
 (小網代野外活動調整会議)
広くなった道を数分登っていくと民家の脇に出ます。 舗装された道を道なりに進んでいくと、数分で国道134号の法務局入口交差点のT字路に出ます。 そこを左折して国道をしばらく進んでいくと、右手には畑地が広がるようになります。 ラーメン店を過ぎた先にある小屋の所から、畑地の中へと続く道が右手へ分かれていきます。 道標などはありませんが、この道へと入っていきます。
後で小網代の森への入口の所にあった案内図で確認してみると、 図に描いてあった「ヨシ原を経ていくルート」の通りに森を進んでこれたようです。 金属性の板で出来た小径に沿ってそのまま進んでいくと、もう少し三崎港寄りの方に出たのでしょうか。
鶴園福禄寿(妙音寺)
左右に広がる大根畑を眺めながら8分ほど進んでいくと、右手の谷に向って大きな大日如来像があります。 生け垣の切れ目から中へと入っていくと、そこは妙音寺の裏山にあたり、本堂は斜面の下の方にあります。 白髭神社から50分ほどで到着しました。 大日如来像の前を過ぎていくと大師堂があります。 その中に福禄寿の像が安置されています。 斜面を縫うようにして参拝路が幾つも通っていますが、可愛らしい小僧さんの看板が順路を示しているので、 それに従って降っていきます。 参拝路に沿って仏像が点々を設置されています。
三浦七福神 鶴園福禄寿 花山曼荼羅 妙音寺
高野山真言宗。別名花山曼荼羅ともいい、室町時代後期には、小田原北条氏の雨乞い祈願所として信望が篤く、 その後、天正年間(1580年頃)に賢栄法印により中興されたと伝えられています。 真言密教の祈祷所、又曼荼羅思想により、古来より堂宇・境内には大日如来をはじめ、 三浦道寸義同彫刻の秘仏、末那板不動明王(酉年開帳)や迦陵頻伽(妙音の瑞鳥)等の諸仏が祀られています。 この福禄寿は、花山曼荼羅の一尊として勧請され、経巻を結んだ杖を構え、 鶴を伴っているところから鶴園福禄寿ともいわれ、 南極星の化身とも、中国栄の導士天南星の化身ともいわれています。 まお、福徳、財宝、長寿の三徳を備えると伝えられています。 寺域は、四季折々の花に彩られ、殊に自生の山ゆりは鶴の乱舞とみまごうばかりの一大曼荼羅図絵を現出し、 毎年6月下旬には弘法大師誕祭(山ゆり祭り)を催しています。
朝日さす 苑生に咲くや 山百合の 匂ふばかりに 梅雨をこぼしつ
 (三浦市)
高野山 真言宗 飯盛山 妙音寺
ご本尊 不空羂観世音菩薩
ご真言 おん はんどまだら あぼきゃ じゃやでい そろそろ そわか
「新編相模国風土記稿」によれば、当山は今から400年ほど前(天正年間、1580年代)に中興の祖、 賢栄法印により、「昔の寺地、妙音寺原(現在地より北へ2kmの台地)より移し、建設されたもの」とある。 当時は戦国大名の一人である小田原北条氏の雨乞いの祈願所として庇護を受けていた。 その後、江戸時代に入り、長期にわたる無住職時代や明治時代の廃仏毀釈令、 戦後の二町歩にも及ぶ農地解放等各時代に於いて、盛衰をきわめたが、 大師信仰を求める地域信者や檀信徒の献身的な努力により伽藍や境内の維持がなされてきた。 本尊は不空羂観世音菩薩で江戸初期のものとされている。 又、諸仏には弘法大師、末那板不動明王(秘仏、12年に一度、酉年4月28日より1ヶ月間開帳)ぼけ封じ、白寿観音、 迦陵頻伽、地蔵尊、鶴園福禄寿(三浦七福神の1つで毎年元旦より1月末まで開帳、約1万人の参拝者)が祀られている。 当山の位置するこの三浦市は農業、漁業、観光が基本的な産業であり、 特に農業は温暖な気候をいかし、冬の大根・キャベツ、夏のスイカ・メロンの産地として有名である。 当山では近年、境内の整備が進められ、裏山(通称花山)には大日如来を中心とした、174体の石仏からなる 花山曼荼羅が建設された。 この花山には、桜、つつじ、椿を始め、自生の山ゆり(山ゆり祭り=6月下旬実施)、水仙等の花木が 四季を問わず咲き乱れ、参拝客の目を楽しませている。
三戸海岸入口
妙音寺の本堂から石段を降りて門を出て、左手へと進んでいきます。 途中で左右へ道が分かれていますが、道なりに真っ直ぐに進んでいくと、9分ほどで京浜急行の線路の下に出ます。 左折して車道の脇の歩道を登っていくと、三崎口駅の前にある三崎口駅前交番交差点に出ます。 そこを右折して国道134号を進んでいきます。 道なりに2分ほど進んでいくと、左手に道が分かれていきます。 角には民宿や海水浴場の看板が幾つも設置されています。 手元の地図ではここを左折していけば延壽寺へ行けそうな気もするのですが、 今回は1kmほど先の信号の所までそのまま国道を進んでいきました。
国道を5分ほど進んでいくと、電柱に「鬼子母神 三浦七福神 寿福大黒天 延壽寺 この先」と書かれた看板がありました。 その電柱を過ぎて更に5分ほど進んでいくと、信号のある十字路があります。 そこを左折していきます。 暫く進んでいくと高校のグランドの脇を通っていきます。 グランドを過ぎていくと、道が左手へ分かれています。 角の電柱には「鬼子母神 三浦七福神 寿福大黒天 延壽寺 ここ入る」と書かれた看板があり、 その袂には「三浦大黒天 延壽寺 入口」と書かれた標柱も立っていました。 また、「奉納 開運招福 大黒天」と書かれた赤い幟も立っていました。 案内に従って、ここを左折して民家の間の路地を進んでいきます。
寿福大黒天(延壽寺)
路地を進んでいくとすぐにY字路があります。 そこを右手へ進んでいくと延壽寺があります。 妙音寺から35分ほどで到着しました。 石門から境内に入り、その先の石段を登ると本堂があります。 更に石段を登っていくと、本堂の入口になります。 自動ドアになっていて、何だか趣きが感じられませんでした。 大黒天は何処だろうと探してみましたが、「大黒天」と書かれた大きな紙しか見当たりませんでした。 よく捜せば何処かに鎮座されていたのでしょうが、確認できませんでした。 お寺関係の方が一杯おられたので、本堂の内部の写真を撮るのは止めておきました。
三浦七福神 寿福大黒天(延壽寺)
ここ寿福山延寿寺は、日蓮聖人門第九老僧の一人、大善阿闍梨日範上人の開基で、延慶3年(1310)3月に建立されました。 日範上人は120余才の長寿を保たれて、元応2年7月22日、眠るがごとき大往生を遂げられました。 現在は惜しくも枯れてはおりますが、上人お手植の松が境内に保存されております。 山号の寿福山延寿寺は、上人の長命を寿ぎまして名づけられました。 本尊釈尊、日蓮上人自作の開運鬼子母神を祀り、立正安国法華経弘通の道場として700有余年続く名刹です。 当寺の寿福大黒天は、日範上人の門弟日龍上字とが一刀三礼の儀をもってお刻みになったもので、 甲子の日がご縁日で、富貴、長寿、特に豊かな食生活が約束されるという、まことにめでたい大黒天です。
 (三浦市)
延壽寺を後にして三崎口駅へと向っていきます。 元来た道を引き返していってもいいのですが、何だか少し遠回りのような気がするので、 手元の地図を参考にして近道に挑戦してみることにしました。 門を出て右手へ曲がっていくとすぐにT字路があります。 そこを左折して実相寺を左下に見ながら坂道を登っていきます。 登り切って右手へと曲がっていくと丘の上に出ます。 なだらかな丘には大根畑が一面に広がっていました。 突き当たりのT字路を左折して畑地の中に続く農道を真っ直ぐに進んでいきます。 十字路を二つ過ぎていくと三つ目の十字路があります。 その先にも道は続いていますが行き止まりになるので、三つ目の十字路を右折していきます。
三崎口(みさきぐち)駅
右折して少し進んでいくと舗装道路に出ます。 そこを左折して坂を降っていくと、元来た三戸海岸入口のT字路があります。 そこを右折して国道134号を少し進んでいくと、三崎口駅(京浜急行久里浜線)があります。 延壽寺から20分ほどで到着しました。
延壽寺へ向った時の道に比べて少しは近道になるだろうと思っていましたが、 所要時間はほとんど変わりませんでした。 しかし、広々とした大根畑の中を歩いていけたので、気分的には良かったように思います。