多摩よこやまの道
散策:2005年11月下旬
【街角散策】 多摩よこやまの道
概 要 多摩よこやまの道は多摩市の南方にあって、川崎市や町田市との市境の多摩丘陵に続く道です。 鎌倉街道上ノ道・鎌倉裏街道・軍事戦略鎌倉道・奥州古道・奥州廃道・古代東海道などと交錯する古代の交通の要衝の道でした。 一般道を通る所もありますが、概ねは緩やかで歩き易い尾根道が続いています。
起 点 川崎市 若葉台駅
終 点 多摩市 唐木田駅
ルート 若葉台駅…丘の上広場…さくらの広場…瓜生黒川往還分岐…もみじの広場…展望広場…五差路…妙櫻寺…一本杉公園…一本杉坂…南野公園…中坂公園…小山田緑地分岐…唐木田駅
所要時間 3時間40分
歩いて... コースにはこの道の歴史や自然などに関する解説板が点々と設置されています。 多摩丘陵から眺める山々の美しい姿に「眉引き山」とも呼ばれました。 西国に派遣される防人が故郷を振り返りながら家族との別れを惜しんだという万葉ロマンの道でもあります。 そんな往時を偲びながらゆっくりと散策することができます。
関連メモ 黒川の里
コース紹介
若葉台(わかばだい)駅
若葉台駅(京王相模原線)から歩いていきます。
改札口を出て左手へ進んでいきます。 駅舎を出た正面に車道があるので、そこを左手へと進んでいきます。 エスカレータで上階の道へも出られますが、今回は線路沿いに続く下の道を歩いていきます。
若葉台の駅舎は川崎市に含まれますが、駅を出た所にある若葉台の住宅地は東京都稲城市になります。
若葉台駅西交差点
電車の検車場の広いゲートを過ぎていくと、若葉台駅西交差点があります。 ここを左折して、幅の広い道を進んでいきます。
レンガ敷きの広い歩道を進んでいきます。 すぐの所にある若葉台三丁目バス停を過ぎていくと、道は次第に右へと曲がっていきます。 曲がり始めてほんの少しの所に、左手へ入っていく道があります。 道標などは見当たりりませんでしたが、この道へと入っていきます。
稲城台病院入口交差点
右手の上のグランドを見ながら道なりに進んでいくと、4分ほどで稲城台病院入口交差点に出ます。 ここにも道標は見当たりませんでしたが、道路を横断して正面の道を進んでいきます。
丘の上広場
坂道を緩やかに登っていきます。 病院や専門学校を過ぎていくと坂の頂上の辺りに着きます。 道が右手へ曲がり始める所に「よこやまの道」の道標が立っていて、散策路が左手へと分かれています。 正面の石垣の上には多摩よこやまの道の起点になる「丘の上広場」があります。 若葉台駅から15分ほどで到着しました。 そのまま車道を進んでいくと、すぐに「よこやまの道」の道標が立っています。 これまで歩いてきた道は「若葉台 約1.4km」、左手の道は「西順路」となっています。 小さな車止めを過ぎて広場へと入っていきます。 この広場は多摩東公園の一部になっているようです。 広場には大きな石が幾つも置いてありました。 右側が開けていて、若葉台から聖ヶ丘にかけての街並みが見渡せます。 手前の下にはドーム型の特徴的な建物があり、その向こうには大きな陸橋が見えています。 コースの起点なので案内図があってもいいように思いますが、この広場には設置されていません。 広場を過ぎて少し先にいった所にあります。
石段を降りてその先へと進んでいくとY字路があります。 ここに「多摩よこやまの道」の案内板があるので参考にしましょう。 若葉台駅から唐木田駅までのルートを示した図と、この道の謂れなどが紹介されています。 鎌倉時代には多くの道が交錯する要衝の地であったようです。
横たわる美しき尾根のシルエット
多摩丘陵は武蔵の国府(府中)から眺めると横に長く連なる山々でした。 夕暮れ時にシルエットとして浮かぶその美しい姿は、 万葉時代の人々から「多摩の横山」,「眉引き山」などとも呼ばれていました。
はるかな都へ〜横山の尾根道
多摩丘陵の尾根道に当るこの道を「多摩よこやまの道」と名付け、散策路として整備しました。 この尾根道は古代より武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、 また西国と東国を結ぶ交通の要衝として活用されてきました。 この東西に伸びる尾根筋は鎌倉古道(鎌倉街道早ノ道、鎌倉街道上ノ道本路、軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、 奥州廃道、古代の東海道などの重要な歴史街道(古街道)が南北に交差し、 その痕跡が各所に残され、また様々な伝説等も語り継がれています。 古代〜中世〜江戸時代に渡って政治、軍事、文化、産業、社寺参詣などを目的として、 東国西国間の交易を行う商人や武士団、諸国霊場を行脚する巡礼者や都の貴人・官人、 また幕末には新撰組ゆかりの人々も行き来したと推測され、 歴史とロマンを感じることのできる道です。
万葉ロマン〜防人・見返りの峠道
万葉集では望郷や別れを惜しむ道筋として「多摩の横山」が詠われています。 古代、国防警備の目的で北九州に配置された防人という兵士たちは東国から陸路で都へ、 さらに難波津(現在の大阪府の海岸)から船で瀬戸内海を通り九州へ向かいました。 再び生きては戻れない覚悟の彼らが、この「多摩よこやまの道」の尾根で故郷を振り返りながら、 家族との別れを惜しんだ姿が浮かんでいきます。
多摩丘陵〜里山の自然
「多摩よこやまの道」の尾根筋は暮らしの道でもありました。 農林業が生活の中心だった時代には、多摩丘陵一帯に田園風景が広がっていました。 「多摩よこやまの道」には多摩の農村風景が所々に残されています。 多摩丘陵の南側(町田市、川崎市)、北側(多摩市、八王子市)の両岸を眺めながら、 尾根沿いに残された里山とふれあえる道です。
尾根筋に広くて緩やかな道が続いています。 この尾根道は多摩市と川崎市の市境になっています。 開発の波に押されて宅地がすぐそばまで迫ってきているのが残念ですが、 雑木林に囲まれて雰囲気のいい道を歩いていきます。 5分ほど進んでいくと少し登り気味になります。 左手のススキ越しには街並みが広がっていました。
さくらの広場
小高い森を越えていくと「さくらの広場」があります。 広場には多くの若い桜の木が植えられていましたが、季節外れのため花は咲いてはいませんでした。 ベンチも幾つか設置されていて、木の下も綺麗になっているので、 お花見の季節には賑わうのだろうと思われます。
多摩丘陵の桜あれこれ
「多摩よこやまの道」ではソメイヨシノ・ヤマザクラ・ウワミズザクラ・エドヒガンなどの桜を楽しむことができます。 このうち、中世の人々が普通に目にしていた桜は、多摩丘陵に自生するヤマザクラや、 穂咲きのウワミズザクラの姿であったと想像されます。 ソメイヨシノは、江戸時代の終わり頃に広まった園芸種です。 また、エドヒガンは多摩丘陵には自生していない桜です。 今ではさまざまな種類の桜を楽しむことができます。 また、このほかにも個体数はそれほど多くはありませんが、 オオシマザクラ・イヌザクラ・マメザクラ・ヤブザクラ・ホシザクラといった野生の桜が、 「多摩よこやまの道」に連なる多摩丘陵の林内などに、今もひっそりと生きています。 なお、早咲きで、紅い星形のがく片が目立つホシザクラは、 平成15年に八王子市南大沢で見つかった桜で、現在八王子市南部から町田市にかけての 狭い範囲にしか分布していないことがわかっています。
コブシ
[辛夷]モクレン科  開花期:3月〜4月、結実期:9月〜10月
早春、葉が開く前に香りのある白色の花をちりばめます。 この花の開花を春の農作業の始まりの目安にしている地方は多く、「他打桜」と呼ばれることもあります。 コブシの名は、秋に熟す実が人の握りこぶしの形に似ているところからついた名前です。
尾根道の右手の下には車道が平行して続いています。 この「多摩よこやまの道」は多少の起伏はあるものの、大した傾斜ではないので、快適に歩いていくことができます。 コースの所々には、歴史や自然などに関する解説板が点々と設置されています。
雑木林の若返り(萌芽更新)と根株移植
【萌芽更新とは】 落葉樹、とくにコナラやクヌギなどを中心に構成される多摩丘陵の雑木林は、 まったく手つかずの自然林ではありません。 薪炭林としての薪や炭の材料、また肥料にする落ち葉の供給源として人々に利用され、 維持管理されてきた半自然の林です。 そこでは、雑木林を伐採した後、切株から自然に伸びてくる新しい枝を生かし、 この枝を選抜しながら株立ちの樹木に生長させ、 10数年のうちには再び元の樹林の姿に戻すことのできる、 「萌芽更新」という林の若返り技術が確立されていました。
【根株移植】 ここに見られる「根株移植」は、その萌芽更新の技術を上手に利用した樹木の移植方法で、 根元から伐採した樹木を掘りとって移植し、そこで新しい枝を出させ、幹を形成させるという工法です。 樹木の地上部が無いために移植がしやすいうえ、よく根づくなどのメリットがあります 「根株移植」は、店頭的な萌芽更新技術を見事に応用した、最先端の林の再生技術とも言えるでしょう。
背の低い木がコの字形に植えられている所を過ぎていくと、横木の階段が現れます。 階段を登っていっても何もないし特に見晴らしがいい訳でもないので、 左手の巻き道を進んでいきます。
やがて明るい雑木林の中を進むようになります。 軽く登っていくと小高い丘に着きます。 丸い形のベンチ(椅子?)が沢山設置されています。 森林浴をしながらひと休みするのに良さそうな所です。
瓜生黒川往還分岐
丘から緩やかなに降っていくとX字路があります。 道標によると、右手の道は「鎌倉街道 約1.8km」、今来た道は「多摩東公園 約1.4km」となっています。 正面の尾根筋にも道が続いていますが、道標には何も示されていません。 先の方に鉄塔が見えているので、そこへの道かも知れません。 また左手にも細い道が分かれています。 角に立つ「瓜生黒川往還」の案内によると、この左手の道は瓜生黒川往還のようです。 今回は右手の道を進んでいきます。
瓜生黒川往還
「多摩よこやまの道」に交差するこの山道は、川崎市麻生区の黒川と多摩市永山の瓜生を結んでいた 江戸時代頃から近代にかけての往還道で、昭和の初めまで黒川の特産品であった「黒川炭」や「禅寺丸柿」などを 八王子方面や江戸市中に運ぶ近道でもありました。 また、武蔵六所宮(現・大国魂神社)の神前に供える汁物を調整していた黒川の汁守神社前から この尾根までの間に、「街道」を意味する「海道」の字名が今でも残っています。
もみじの広場
右手にエコプラザ多摩を見ながら緩やかに降っていくと、もみじの広場に着きます。 芝生の広い場所になっていて、広場の周囲に紅葉が植えられています。 真ん中には「多摩よこやまの道」の石碑が建っています。 左手には「古代東海道と丸山城」の案内板があります。 この尾根道のそばの黒川配水場の辺りに丸山城があったようです。 左手へと続く道を進んでいくと、ベンチが幾つか設置されています。 その脇には多摩よこやまの道の解説板がありました。
相模の国府と武蔵の国府を結ぶ古代東海道
「かつて日本の古代にも、ローマの道のように、全国から都に集る大道(道の最大幅12m)が七本あった」 これは、近年の研究で判明しつつある成果です。 飛鳥時代後半から平安時代初期にかけて、都と東国とを結んでいた古代東海道は江戸時代の道筋とは異なり、 相模の国府と武蔵の国府を結び、多摩丘陵の町田市から多摩市付近を通っていました。 この道は唐(中国)の制度にならって造ったと考えられ、防人や朝廷の軍隊、 特別な任務を持った官人たちが頻繁に行き来し、 税納物や朝廷直営の牧から選ばれた良馬が多摩丘陵から都へと運ばれていたと想像されます。 古代東海道は、多摩市連光寺本村の打越山遺跡から発見された道路跡(道幅9〜12m)や、 馬引沢にあった「大曲」という谷、諏訪団地の中央を通っていた「沖の谷戸」という細長い谷、 給食センター上の畑地や近くの「並列する古道跡(複線の古道跡)」につながるとみることもできますが、 現在のところそのルートは未だ確定されるには至っていません。
丸山城と烽火台
この正面の斜面上にある高台(現・黒川配水場)の付近を黒川側の人々はかつて丸山城と呼んでおり、 中世の通信基地としての物見や狼煙台(煙を高く上げて連絡をとる施設)が存在したとも考えられます。 また古代の東海道が存在したならばそれに沿って、 中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が 併設されていた可能性もあり、ここに続く中継地の考えられる南方の野津田上ノ原の高台には 「飛尾」,「飛平」などの地名も残っています。
歴史文化の道−多摩ニュータウンの尾根筋−
「よこやまの道」の位置する尾根筋は、古代より武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、 また西国と東国を結ぶさまざまな交通の要衝として活用されてきました。 この尾根筋には、鎌倉古道(鎌倉道早ノ道、鎌倉街道上ノ道、軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、奥州廃道、 古代の東海道などの重要な歴史街道(古街道)が平走・縦走し、その痕跡やさまざまな伝説等が語り継がれています。 古代から中世〜江戸時代に渡って政治、軍事、産業、社寺・霊地参道などを目的として、 東国−西国間の交易を行う承認や鎌倉武士団、諸国霊場を行脚する巡礼者や都の貴人、 新撰組が行き来したと推測され、歴史とロマンを感じることのできる道となっています。
横たわる美しき尾根のシルエット
多摩丘陵は武蔵の国府(府中)から眺めると横に長く連なる山々でした。 夕暮れ時にシルエットとして浮かぶその美しい姿は、 万葉時代の人々から「多摩の横山」,「眉引き山」などとも呼ばれていました。
万葉集にも詠われた防人の道
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ (宇遅部黒女)
この万葉集は、「赤駒を山野の中に放牧して捕らえられず、夫に多摩の横山を歩かせてしまうのだろうか」 という防人の妻の心づくしの歌です。 東国から遠く北九州で国防の兵役につく防人は、再び故郷の土を踏むことはほとんどありませんでした。 武蔵野を眺望できる横山の尾根道で故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ防人の姿が浮かんでいきます。 「よこやまの道」はこの万葉集の「横山」から名づけました。
歴史文化の道
「よこやまの道」は、万葉集において多摩の横山と詠われた多摩丘陵の尾根部に位置し、 「多摩の自然と歴史にふれあう道」を基本テーマに整備が進められています。 既存の山路や尾根沿いに残された自然や緑を積極的に活かしながら、樹林内の散策路や休憩広場、 多摩市域を一望できる展望広場等が整備され、多摩丘陵や多摩ニュータウンの風景とともに、 四季折々の自然に親しみ地域に残る史跡や伝説の歴史文化にふれあうことのできる遊歩道です。 「よこやまの道」は多摩東公園(丘の上広場)から長池公園手前までの約9.5kmがルートとして計画され、 都市基盤整備公団により整備が進められてきました。 このうち平成15年4月から、多摩東公園(丘の上広場)より大妻学院までの約7.5kmが歩けるようになっています。
もみじの広場を過ぎていくと、「西順路」の道標の先で細い道が左手へと分かれていきます。 正面には車道が見えているので左手の道へと入っていくと、横木の階段が現れます。 手前には道標が立っていて、正面の階段は「鎌倉街道 約1.7km」、 これまで歩いてきた道は「多摩東公園 約1.6km」となっています。 横木の階段を登り切ると右手に降っていく道が分かれていきますが、 尾根筋に続く道をそのまま進んでいきます。
次第に細くなる道を抜けていくと畑地の脇に出ます。 再び森の中へと入っていくと緩やかに登るようになります。 右手に高みを見ながら登っていくと分岐があります。 角に立つ道標によると、左手は「西順路」、右手は「展望広場」となっています。 コースは左手へ進んでいくのですが、右手すぐの所に展望広場があるので立ち寄っていきましょう。
展望広場 (標高145m)
分岐のすぐ先が展望広場になっています。 広場とは云っても踊り場程度の広さしかありませんが、正面に広がる景色を眺めましょう。 左手には丹沢山系、右手には七生丘陵、その奥には秩父山系が広がっていますが、 この日は曇っていて霞んでいました。 空気が澄んだ日には、大山・三ノ塔・塔ノ岳・丹沢山・蛭ヶ岳・富士山・大室山・ 御正体山・高塚山・三ツ峠山・御坂黒岳・塩見岳・農鳥岳・滝子山・高尾山・陣馬山・小金沢山・ 大菩薩嶺・三頭山・金峰山・国師岳・御前山・大岳山・雲取山・鷹ノ巣山・御岳山・川苔山・蕎麦粒山・ 武甲山・丸山などを見わたせるようです。
多摩丘陵パノラマの丘
東西に伸びる弓なりの尾根道
この尾根の高台は、東西(左右)に伸びる多摩丘陵の長大な尾根の上にあり、 その全体が弓なりになっているのが見えます。 この尾根は、西は町田市相原町を経て津久井郡城山町の城山湖にある後方高台の「三沢峠」、 東は多摩川に面した多摩市連光寺向ノ丘まで通じています。 あわせて全長約24kmの尾根となり「多摩丘陵の背骨」とも呼ばれています。
富士山や丹沢・秩父連峰の山並み、西武ドーム(狭山丘陵)も見られる丘
この丘は標高約145mで、南西〜北東にひらけた展望ポイントです。 西方は夕景が美しく、富士山や丹沢・秩父連峰の山並み、 北西方向には多摩川や浅川に面した七生丘陵、広大な武蔵野の向こうには遠く狭山丘陵も眺望できます。 ここから見る風景は、太古以来の先人たちも繰り返し眺めてきたことでしょう。 多摩ニュータウンの建設に伴い、約1千カ所の遺跡発掘が行われました。 現在のニュータウンの下に、はるか昔、縄文時代のニュータウンが存在したことがわかったともいわれています。 歴史ある豊かな農村から新しい街へ−多摩川とその支流の恩恵に育まれ、 大地と接してきた人々により永々と暮らしが営まれてきました。 今、その穏やかな風景がよみがえってきます。
ヤマナラシ
開花期:3月〜4月
ヤマナラシは、丘陵から山地にかけての尾根すじに生えるポプラの仲間です。 材が箱を作るのに用いられるので別名「箱柳」ともよばれ、 多摩丘陵ではまれにしか見られない樹木です。 葉の柄が長く平たいので微風でもサワサワと音を立てるところから、「山鳴らし」の名前があります。 樹皮には独特な菱形模様が浮かびます。
黒川高区排水池分岐
展望広場から引き返して、道標「西順路」に従って尾根道をその先へと進んでいきます。 緩やかに少し降っていくと、左手に細い道が分かれていきます。 道標などは見当たりませんが、黒川高区排水池を経て尾根筋に続く道を進んでいくと、 黒川の里へと降っていくことができます。 多摩よこやまの道はこのまま真直ぐに尾根道を進んでいきます。
黒川分岐1
尾根道にはベンチも設置されていて、景色を眺めながらひと休みするにはよさそうな所もあります。 2分ほど進んでいくと、左手に広めの道が分かれていきます。 角には「←よこやまの道→」と記された道標が立っています。 この道は黒川の里へと降っていく道です。 クラブ活動でしょうか、高校生らしいグループがダッシュの練習をしていました。
分岐道を見送って尾根道を直進していくと、すぐにK字形の分岐があります。 ここにも丘の上広場に先にあったのと同じような「多摩よこやまの道」の案内板があり、 若葉台駅から唐木田駅までのルートを示した図と、この道の謂れなどが紹介されています。 右手の道はベンチのある広場を経て車道へと降っていきます。 車道に降りるとトイレがありますが、 道標「トイレ」に従って右手の階段を降っていく道の方が近道です。 「多摩よこやまの道」のコースはこのまま尾根道をまっすぐに進んでいきます。
分倍河原合戦と県境の尾根
「梅松論」の記述やこの付近の伝説から、元弘3年(1333)5月14日、 鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ分倍河原合戦の前夜、 多摩川の北に陣取った新田義貞の大軍を迎え撃つべく鎌倉を出発した北条泰家軍二十万騎の大軍勢は、 当時小山田庄(荘)内であったこの尾根の川崎市側に篝火を焚いて息を潜めて野営し、 翌早朝から多摩川で大激戦に突入したと考えられます。
尾根道を3分ほど進んでいくと分岐があります。 細い道が前の高みへと続いていて、広い尾根道は右手へと降っていきます。 右手の道はすぐに車道に出ますが、道標「鎌倉街道 約1.0km」に従って左折していくと、 左手の細い道と合流します。
並列する謎の古街道跡
この近くの尾根筋には、数本の古道が並行する大規模な古道跡が薮の中に残されています。 これは防人や朝廷の軍隊が往来した古代東海道跡なのか、 あるいは鎌倉街道に属す中世の道跡なのかは現在不明ですが、 並列する道跡は、荷車や人の通行量の多い時のすれ違いや、 荷の運び方による道の使い分けなどの工夫であるのかも知れません。
多摩よこやまの道で見られる野鳥
【秋から冬の鳥】 丘陵の尾根をつかず離れず歩くことのできる「多摩よこやまの道」では、 町中より多くの野鳥と出会うことができます。 秋から冬にコナラの林を歩けば、エナガの群れが虫を探しながら移動している姿を見つけられるかもしれません。 よく見れば、シジュウカラが群れに混じっていたり、少し離れてコゲラが木をつつく音も聞こえてくるでしょう。 モズの甲高い高鳴きが聞こえ秋も深まると、 シベリア方面から渡ってきたジョウビタキやツグミなども見かけるようになります。 シラカシ林の薄暗い林床では、同じく冬鳥のシロハラが落ち葉をひっくり返している光景が見られることもあります。
【春の鳥】 春になれば、ウグイスやメジロ、そしてホオジロなどの美声が霞がかった丘陵の空に響き渡りますが、 遠くで鳴いていたり薮にいたりと、意外に彼らの姿をはっきりとは見られないものです。 「多摩よこやまの道」の野鳥たちと仲良くなるためのちょっとした秘訣は、 いつもより少し早く起きて歩くこと、そして鳥たちのつぶやきに耳をすますことです。 もちろん、双眼鏡があればもっともっと彼らの姿を身近に感じることができるでしょう。
黒川分岐2
細い道を合わせてその先へと進んでいくと、道が二手に分かれています。 角に立つ道標には左手の道は特に何も示されていませんが、黒川の里へと続く道です。 左手の道を見送って、尾根道を更に進んでいきます。
大きく堀割った古街道跡
かつて地図のない時代の旅人や物資を運ぶ人たちは、自分の現在地や目的地の方向を知るため、 また山賊・敵から身を守るために、なるべく尾根の高台を通りました。 この後ろの山の中に、急坂をゆるやかにして同じ調子で楽に荷車や人馬が通行できるように 道を掘割った工夫がみられます。 「多摩よこやまの道」に沿って残る古道跡です。
五差路
左手にグランドを見ながら進んでいきます。 この辺りから多摩市と町田市との市境の道になります。 8分ほど進んでいくと一般道に出ます。 角にある道標「鎌倉街道 約0.4km」に従って右折して、道なりに道路を進んでいきます。
古道五差路と軍事戦略的な鎌倉道
ここは小野路町別所と多摩市永山の境界にあたり、古道が集る五差路です。 堀切を持つ関所跡のような場所(現在消滅)、頼朝の弟・源範頼の念持仏をまつったと伝わるお寺や 鎌倉時代初期(弘安4年・1281)の大板碑、源氏の戦いの伝承地(鶴川団地)などが近くにあります。 南北朝時代頃から鎌倉や小田原などへの近道として発達したと考えられるこの鎌倉道は、 古戦場伝説や古墳が残る別所の高台(三社大権現、富士塚古墳)を乗り越えて、 野津田や金井、本町田へと続いています。 交通の要衝である小野路の宿や野津田上ノ原の先へ回り込む早道であったと考えられます。
左手に竹林を見ながら次第に降り坂になる道を降っていきます。 坂道を降ってS字形に曲がっていくと広い道に出ます。 角に立つ道標「一本杉公園 約0.8km」に従って左手の広い陸橋を渡っていきます。 橋を渡った所に「大軍勢が通った長い谷」の解説板が設置されています。
大軍勢が通った長い谷
【小野路と鎌倉古道】 現代の鎌倉街道が南北に通るこの谷は、多摩市の乞田の五差路から 古戦場伝説や大きな道路跡が発見された町田市の野津田の丘まで、 約4.5kmに渡ってほぼ南北に真っ直ぐ伸びた自然の谷です。 それと平行するように、この道の西側約400mの多摩市南野から町田市の小野路の宿にかけては 中世武士の時代の幹線道路であった「鎌倉古道(鎌倉街道上ノ路本路)」が通り、 また東側の小野路町別所にも同様に鎌倉道と伝わる道が尾根の上を通っています。 これらの中間に位置する現代の鎌倉街道の谷も、 長い戦乱の時代には大勢の武士や兵士が通り過ぎていったことが考えられます。
【鎌倉や小田原への早道】 治承4年(1180)10月2日、源頼朝は伊豆で旗挙げするも敗戦し、 海を舟で渡って房総半島に逃げ、そこから墨田川を渡り浅草付近で千葉氏や江戸氏らの支援を受け体制を取り戻しました。 その後、府中から一路この付近を通って鎌倉をめざし、我が国初の武士による政権「鎌倉幕府」を樹立します。 しかし、この時にはまだ鎌倉街道は出来ていませんでした。 幕府樹立から6年後にも頼朝は「奥州藤原氏征伐」の往復で、 また13年後の建久4年6月「那須野の狩」でも鎌倉から府中に向かっています。 この頃には鎌倉街道と後に呼ばれた道ができ始めたものと考えられます。 その後も新田義貞の鎌倉攻め、観応の擾乱での通過など、 いずれも大軍勢がこの谷や鎌倉古道を通過していったものと思われます。
陸橋を渡って真っ直ぐに進んでいきます。 道が右手に曲がっていく角で、左手へ登っていく坂道があります。 角には「一本杉公園 約0.7km」の道標も立っています。 多摩よこやまの道のこの付近の案内図も設置されているので参考にしましょう。 トイレの位置が載っています。
「多摩よこやまの道」を散策される皆さんへのお願い
・沿道周辺の事業所や私有地には立ち入らないで下さい。
・トイレは公共のトイレをご利用下さい。
 (都市基盤整備公団東京支社 多摩ニュータウン事業本部)
間隔の広い階段を登っていくと横木の階段が現れます。 横木の階段を登ってその先へと進んでいくと道路に出ます。 角に立つ道標「西順路」に従って、正面の高みへと続く横木の階段を登っていきます。
横木の階段を登り切ると緩やかな尾根道になります。 左手の樹木がすぐ側まで伐採されていました。 開発の波がすぐそこまで押し寄せているようです。 道が少し降るようになると、左手に墓地が見えてきます。 その墓地を回り込むようにして進んでいくと、墓地への道に降り立ちます。 左手は墓地になるので、そこを右手へと進んでいきます。
妙櫻寺
駐車場の脇を過ぎていくと車道に出ます。 角に立つ道標「よこやまの道」が左手を指していますが、 右手に妙櫻寺があるので立ち寄っていきましょう。
宗旨
名称 日蓮宗
宗祖 日蓮大聖人
開宗 建長5年4月28日(鎌倉時代、西暦1253年)
本尊 久遠の本師 釈迦牟尼佛
題目 南無妙法蓮華経
教義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えである法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に励み、 この教えを弘めることによって、やがて世界の平和と人類の幸福、 ひいては個人のしあわせにつながる事を確信できる教えであります。
経典 妙法蓮華経(法華経)
十三仏造顕
今日の日本の平和のかげには先の大戦による多くの犠牲者があったことを我々は忘れてはなりません。 平成6年はその大戦より50回忌に正当致します。 多摩市仏教会ではこの50回忌を追福供養し、世界の平和と繁栄を祈念して、 ここに十三仏を造顕し、左記寺院に各一尊を請来し、末永く伝えるものとします。 合掌
不動明王:観蔵院、釈迦如来:延命寺、文殊菩薩:宝泉院、普賢菩薩:東福寺、地蔵菩薩:観音寺、 弥勒菩薩:大福寺、薬師如来:高蔵院、観音菩薩:高西寺、勢至菩薩:永山阿弥陀堂、 阿弥陀如来:真明寺、阿宿如来:吉祥院、大日如来:壽徳寺、虚空蔵菩薩:妙櫻寺
 (多摩市仏教会)
一本杉公園
妙櫻寺を後にして、車道を左手へと進んでいくと、すぐにトイレの位置を示した案内図があります。 「一本杉公園のトイレ600m」となっています。 すぐ先にある左手への分岐を見送って車道を進んでいきます。 恵泉女学園を左手に見ながら真っ直ぐに進んでいくと、右手に道が分岐しています。 その角に立つ道標「西順路」が左手を指しています。 正面には大きな「一本杉公園案内図」があります。 それによると、ここは公園の端にあたるようです。 一本杉公園はこの車道によって分断された形になっていて、 車道を挟んでその両側に広がっています。 多摩よこやまの道はこの公園を抜けていきますが、そのルートがこの案内図に載っているので参考にしましょう。
鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)跡
わが国初の武家政権である鎌倉幕府が開かれた鎌倉と、各地の武士(御家人)たちの拠点を結んだ道が 「鎌倉街道(関東の主要七道)」でした。 その中で、武蔵国府(府中)近くを通る上ノ道は上野国(群馬県)から続き、 武蔵国を南北に走る最重要路でありました。 この近くに見える山道は貝取団地の尾根へとつながり、地中や地表に残された道の跡などから、 本来の鎌倉古道本路跡ではないかと考えられます。
道標に従って左手へ曲がり、「一本杉公園」と刻まれた石の門から公園へと入っていきます。 道なりに進んでいくと池の畔に出ます。 ここにも丘の上広場に先にあったのと同じような「多摩よこやまの道」の案内板があり、 若葉台駅から唐木田駅までのルートを示した図と、この道の謂れなどが紹介されています。 また、「赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ 」と詠んだ 「豊島郡の上丁椋椅部粒虫が妻 宇遅部黒女」の石碑もあります。 この先の左右には古民家があって見学できるようになっているので、ちょっと立ち寄っていきましょう。
公園利用者の方へ
門扉の開閉時間 午前8:00から午後5:00
上記時間以外は出入りできませんのでご注意ください。
 (多摩市公園緑地課)
旧有山家住宅
左手には旧有山家住宅があります。 玄関から入った土間には竈があり、角には荒神様が祀られていました。 竹製のすのこが敷かれた座敷には囲炉裏があり、自在鉤が下がっていました。
旧有山家住宅
建築年代は不明であるが、建築様式、構造手法などから18世紀初頃と推定される。 建物は桁行六・五間(11.83m)、梁行三間(5.4m)、寄棟造り、茅葺、平入りの農家である。 間取りは閉鎖的な広間三間取り型、一間ごとに建つ柱、土間・床上境の伍平柱(柱断面のタテ・ヨコの差が大きい)、 土間回りの手斧仕上げ柱、「ざしき」の竹簀子床など、古式の特徴である痕跡が各所に遺されている。 小規模な建ちの低い農家住宅であるが、文化的・学術的にも貴重な住宅である。 なお、復元にあたっては茅葺屋根を茅葺形銅板葺に改めた以外は、できる限り原形に忠実に復元した。
 (多摩市教育委員会)
旧加藤家住宅
右手には旧加藤家住宅があります。 玄関から入った土間には竈があり、板張り座敷には囲炉裏がありました。 立派な長い縁側もあって、旧有山家よりも少し規模が大き目でした。 「座敷に上る時には声をかけてください」とあり、係りの方から色々と案内をしてもらえます。
旧加藤家住宅
建築年代は不明であるが、建築様式、構造手法などから18世紀後半と推定される。 建物は桁行七・五間(13.69m)、梁行三・五間(6.34m)、入母屋造り、茅葺、平入りの農家住宅である。 間取りは広間三間取り型、一間ごとに建つ柱、土間・床上境の伍平柱(柱断面のタテ・ヨコの差が大きい)、 「ざしき」前の縦格子腰高窓(猪窓)、「ざしき」の竹簀子床など、古式の特徴である痕跡が各所に遺されている。 文化史的・学術的にも価値の高い住宅であるが、茅葺屋根を茅葺形銅板葺に、 「ざしき」の竹簀子床を板張りに、「おく」を茶室としても利用できるよう炉を切り、 水屋を加える等、市民の憩の場として利用するため一部を改造している。
 (多摩市教育委員会)
多摩地方の古民家
多摩市は、大栗川・乞田川の両河川に注ぐ小流の谷戸で緩斜面の狭い台地を利用して屋敷を構え、 その背後に竹藪や雑木林がめぐらされて丘陵上部まで続いていた。 これは単なる防風林としただけではなく、山崩れへの配慮が考えられる。 平坦地では、生い茂る樹林は少なく、防風林としてのカシ・ナラ・ケヤキ・スギ・タケ等の 樹々が主屋の背後にまわっていた。 また、主屋のまわりには、付属屋の土蔵・木小屋・物置・外便所等が配置されていた。
 (多摩市教育委員会)
炭焼き窯
正面にある道標「西順路」に従って、石段を降っていきます。 降りきった所にある道標に従って右手へと曲がっていくと、右手の少し奥に炭焼き窯があります。
一本杉公園・炭焼き窯
形式 岩手式標準窯(平成窯)
炭化時間 約90時間(3日と18時間)
製炭量 15俵(225kg)程度
窯内寸 窯壁 高さ1.0m(窯天井高1.3m)、 窯床 横幅1.8m 縦幅2.65m(窯床面積約3.2u)
特徴 炭焼き窯づくりの伝統的な技術を活かしながら、現代の新しい素材で制作した窯。 窯本体には耐熱性に優れた素材を使用し、さらに窯全体を断熱材で覆っているため熱効率の大変良い窯である。 黒炭だけでなく、より高温で焼いた硬く良質な白炭も焼けるよう、窯内部の煙道口が調節可能となっている。
制作材料 耐火レンガ(窯壁・煙道)、耐火セメント(窯天井・窯床)、セラミックウール(窯壁・煙道・窯天井・窯床の断熱)、 珪藻土(窯壁の一部断熱)、多摩川産玉石(窯正面)など [炭焼き小屋の丸太は五日市産の杉材を使用]
制作指導 杉浦銀治氏+多摩炭やきの会
 (多摩市教育委員会)
炭焼き窯から元の道に戻ってその先へと進んでいくと、突き当たりから右上へと続く階段が始まります。 厚い木の板が何枚か敷かれていてとても歩きやすい階段です。 右・左と折れ曲がりながら登っていくと、石柱の門のある所へ出ます。 そこから右手へと続く石畳の坂道を登っていきます。
小野路道と鎌倉裏街道
ここに残る杉並木の存在から、崖上に残る古道跡=通称「鎌倉裏街道」が確認されました。 この道は多摩市一ノ宮にあった渡河点(多摩川の渡し場)から愛宕団地の愛宕の切通し、 豊ヶ丘北公園を通って小野路の宿に続く中世の鎌倉街道の一つで、 関戸にあった関所を通る煩わしさを避けた道とも考えられます。 江戸時代には日野往還や小野路道ともいわれ、後に新撰組となる土方歳三や沖田総司らが 小野路での出稽古に日野宿方面から通った道でもありました。
坂を越えて少し降っていくと、正面に柵があります。 扉から出てその先の階段を降っていくと、公園の入口から直進してきた車道に出ます。 道標「西順路」に従って、左手へと進んでいきます。
鎌倉道
多摩市の関戸にあった、軍事上の関所「霞ノ関」を通らずに鎌倉へ向かう、 本道の鎌倉街道よりやや西方の脇街道的な道路です。 府中市四谷付近から多摩川を渡り、多摩市一ノ宮の小野神社から和田、 「愛宕の切通し」を通り、豊ヶ丘北公園(笛吹峠)付近から一本杉公園、町田市小野路へと続くルートです。 本道途中の多摩市和田や百草に、鎌倉時代の遊廊伝承(恋路ヶ原、女沢、鎌倉沢)や、 新田義興(義貞の子)らの軍勢が笛を吹きながら、 豊ヶ丘(笛吹峠)から一本杉の尾根を通ったという行軍伝承などが残されています。 また、幕末に新撰組の土方歳三らが、小野路の小島家(現在の小島資料館)へ出稽古に通った道でもあります。
 (多摩市教育委員会)
一本杉坂
道路の向かい側には「一本杉公園」と刻まれた石碑があります。 一本杉公園は道路の向こう側にも続いていて、野球場やテニスコートなどがあります。 道路の近くに杉の木を模した彫刻が立っていて、 袂にはこの辺りの町名の謂れや往時の想像図などが記された銘板もありました。
南野
「南野」の町名は、多摩市の「南」にあり、旧小野路町の「野」を採って命名したものです。 この区域は町田市から編入した小野路と下小山田町の各一部で、町田市に同じ町名があることなどから、 語調の良い新しい町名に変更したものです。 この付近は村境に近い所で、その昔は武蔵国の国府(府中)から多摩川を渡り、 関戸の宿から小野路の宿を経て、相模あるいは鎌倉などへの往来で多くの人々が利用していた道がありました。 また、この辺りに大きな杉の大木があったと言われ、一本杉という地名にもなっています。 この一本杉に関する言い伝えや物語に、美しい女性に化けた狐にだまされたり、 通る人に天狗が悪戯や難問を出して困らせたりする話があります。 なお、この彫刻は、一本杉公園にちなんで杉をテーマとしたものです。
 (多摩市)
テニスの壁打ち場を過ぎていくと、車道から少し離れた道を進むようになります。 2分ほど進んで再び車道に出ると、道路の向かい側に案内板があります。 コースはそのまま真っ直ぐに進んでいくのですが、 角に立つ道標「スダジイ(天然記念物)」が道路の向かい側を指しているので、 ちょっと立ち寄っていきましょう。
照葉樹林の面影を残す、一本杉公園のスダジイ
【丘陵地本来の自然の姿】 多摩丘陵に広がる樹林はコナラやクヌギの雑木林が中心ですが、 丘陵の斜面や谷、寺社の周囲などにはシラカシやアラカシ、スダジイ(シイノキ)などの常緑広葉樹が残っています。 こうしたところは、土地が利用しにくいなどの理由から、人があまり干渉を加えてこなかった場所で、 照葉樹林と呼ばれる南関東の丘陵地本来の自然の姿が断片的に残っているものと考えられています。 多摩市内には、平久保公園のスダジイ、多摩大学近くの天王森公園のスダジイなど、 都や市指定の天然記念物や保存樹となっているスダジイの大木が何本かあり、 そのうちのひとつをこの一本杉公園で見ることができます。
【多摩の生き証人のスダジイ(シイノキ)】 一本杉公園のスダジイの大木は、高さ16m、幹周り3.6m、 枝張り11mの大木で、多摩市の天然記念物に指定されています。 大きな樹冠をドームのように広げ、たった1本で森をつくっているかのように見えます。 今は単独に生えているこした巨木も、かつて、この地に広がっていた照葉樹林のなかの1本で、 多摩の歴史を見てきた生き証人です。
スダジイ
案内板の右下にこの付近の地図があるので参考にしましょう。 「スダジイ見学コース」を通って元の「多摩よこやまの道」へと合流します。 案内板の右手の坂道を降っていくと、左手に石段があります。 その石段を登り、突き当たりを左手から回り込んでいくと、小広くなった所に出ます。 その正面にスダジイの巨木があります。
多摩市指定天然記念物 一本杉公園 すだじい
目通り幹囲約3.6m、高さ約16m、枝張りは約11m、きれいな半球状の形状を示しており、樹勢は大変良好です。 この付近は昭和48年に多摩市に編入されるまでは町田市小野路町といい、付近一帯広い雑木林でした。 このすだじいは、その頃の面影を今に伝えています。 すだじいは、暖地に生えるブナ科の常緑高木で、秋になると先端の尖った堅果実を実らせます。
 (多摩市教育委員会)
南野公園
左手から降っていきます。 民家の脇を降っていくと車道に降り立ちます。 道路を渡って正面にある道を進んでいきます。 左手に墓地を見ながら進んでいくとT字路があります。 その左手には南野公園があります。 道標「西順路」に従って、T字路を右折していきます。
住宅の建ち並ぶ中の道を真っ直ぐに進んでいくと、突き当たりにこんもりとした森があります。 道標「西順路」が金網の向こう側にある山道を指しています。 正面の森を反時計方向に回り込んでいく道になっています。
奥州古道(中尾道)
奈良・平安時代に都と東国を結んだ官道「奥州古道(国府街道)」が多摩丘陵を越えるルートには、 西から「常盤道」,「長坂道(奥州廃道)」,「中尾道」がありました。 中尾道であるこの道は、足柄や箱根の峠から厚木を経てこの辺りを通り、 落合の白山神社(多摩センター付近)から府中、さらに北上して奥州(東北地方の陸奥・出羽両国)へと 向かった官道の一つです。 現在でも下小山田の白山神社前〜東谷戸〜中尾の急坂〜この近くの小野路浅間神社にかけて古道の面影が残っています。
右手に金網が続く道を登っていきます。 坂道を登りきって左手へと曲がっていくと、次第に降るようになります。 竹林を過ぎて緩やかに降っていくと、車道に降り立ちます。 角にこの周辺の案内図があるので参考にしましょう。 道標「唐木田駅 約3.2km」に従って右折していきます。
奥州古道と石仏群
ここから約250m南の町田市の尾根上には小野路浅間神社があります。 その先の中尾から大沢の白山神社前(小山田緑地東側入口付近)へと下る古道は座間や厚木への道であり、 さらに奈良や京都の都まで続く「奥州古道(国府街道)」の一つでした。 この地区の開発で行き場を失った江戸時代の石仏たちが心ある人の手によってこの古道筋に集められ、 石仏群となって残されています。
中坂公園
南野二丁目バス停を過ぎた先のT字路を左折して坂道を登っていきます。 突き当たりを更に左折していくと、正面の左手に小振りの中坂公園があります。 公園の奥の方から右手へと続く石段を登っていきます。 以前には尾根道から降ってきた所からこの石段へと真っ直ぐに続いていたものが、 車道の建設によって尾根道が分断され、大きく迂回する形になったものと思われます。
石段を登って2分ほど進んでいくと直角に曲がっていきます。 道標「よこやまの道」に従って右折していくと、次第に降るようになります。 右手からの道路を合わせてその先へと進んでいくと広めの車道に出ます。 道標「西順路」に従って車道を左手へと3分ほど進んでいくと、正面に大きな木が生えている所があります。 道路の左手の車止めの先に「唐木田駅 約2.4km」の道標が立っています。 道路を横断してその道へと進んでいきます。
両側に金網の続く道を進んでいきます。 道なりに4分ほど進んでいくと再び車道に出ます。 角に立つ道標「西順路」に従って左手へと進んでいきます。 少し進んでいくと、左手から車道が近づいてきます。 車道の間を結ぶようにしてH字形の分岐があります。 角に立つ道標「唐木田駅 約2.0km」に従って左折していきます。
すぐに車道に出るのでそこを右折して、左手にゴルフコースを見ながら歩道を進んでいきます。 3分ほど進んでいくと、歩道は右手へ曲がっていきます。 やがて広くなった所に出ると、正面には大きな橋が見えています。 ここにも「多摩よこやまの道」の案内板があります。 唐木田駅までのルートも載っているので参考にしましょう。
古戦場伝説と勝負塚
【伝説豊かな山里】 昭和30年代、この付近で刀傷を負った鎌倉時代の人間の頭蓋骨が発見され、 話題を呼びました。骨は付近一帯に昔から古戦場の伝説や古道があることから、 元弘3年(1333)の新田義貞軍による鎌倉攻めの際のどちらかの 犠牲者(比較的身分の高い武将)ではないかと言われています。 近くにはこのほか、供養塚、勝負塚、大将塚など幾つかの塚や、小山田小太郎隠れ穴、ひうち池などの 伝説地が伝えられています。
【新田義貞激戦の地】 鎌倉幕府滅亡時の戦いを記した軍記物語の太平記や梅松論には、 新田義貞軍は苦戦を強いられた分倍河原、関戸の合戦に相次いで勝利したあと、 「関戸にて一日逗留ありて軍勢の着到つけられけるに六十万七千余騎とぞ記されけり。 …ここにて軍勢を三手に別け…云々」とあり、 現在の多摩市役所付近(鐘掛け松の伝承地)で休憩して一夜を明かし、ここで始めて大軍勢に膨れあがったこと、 軍議を開いて翌早朝から進攻を三手に分けたことがわかります。 そのうちの右翼隊(西ルート)が小山田の現在地付近に進み、 尾根の高台で、それを迎えた幕府軍と激戦になったことが想像されます。
橋のそばに立つ道標によると、橋を渡っていくと多摩センター駅まで約2.2kmとのことですが、 道標「西順路」に従って、橋を見送ってそのまま車道沿いに進んでいきます。 木道を通っていくと車道のT字路が下に見えてきますが、そのまま道なりに進んでいきます。 白い建物の左手へと続く道を進んでいくと車道に出ます。 右折して車道を緩やかに降っていきます。
3分ほど進んでいくとT字路があります。 信号の手前にある道標「西順路、小山田緑地方面」が左手を指しています。 左手の横断歩道を渡った先にこんもりとした高みがあります。 その上へと続く横木の階段を登っていきます。
奥州廃道(長坂道)
この先のゴルフ場の中には、かつて長坂道といわれた往還道がありましたが、 元々この道は都びとが歩いた「奥州廃道(最も古い奥州古道)」であり、 平安時代末期の都びとや官人たちは小山田氏の館(現在の大泉寺あたり)に立ち寄って挨拶をしてから、 この道で府中へと向かったともいわれています。 頼朝の祖父の源頼義・義家の奥州征討伝説のある神社(箭柄八幡宮、百草八幡宮、大國魂神社)もこの道筋にあります。
横木の階段を登りきって、緩やかになった広い尾根道を進んでいきます。
丘陵の尾根で出会う虫たち
【雑木林の風物詩】 野の花や鳥たちの渡りなどに季節感があるように、 虫たちの多くは、特定の季節に姿を見せる活動期をもっています。 まだ春浅い「多摩よこやまの道」で姿を見られるかもしれない、ルリタテハやキタテハなどは、 成虫で冬を越すため、その姿を見つけられます。 雑木林を代表するコナラやクヌギが緑を色濃くする初夏になると、 これらの葉を食べて育つアカシジミやミズイロオナガシジミといった蝶の仲間(ミドリシジミ類)が いよいよ姿をあらわします。 雑木林の風物詩ともいえるこれらの蝶は、林縁をゆるやかに、ときにはすばやく飛翔し、 世代をつなぐために結婚相手を捜しているのです。
【尾根道の散歩の楽しみ】 この頃には、ミズキの葉の上などで、美しいアカスジキンカメムシや、 ハート模様のあるエサキモンキツノカメムシなども見られ、尾根道の散歩の楽しみが膨らみます。 雑木林といては、真夏の樹液に集るカブトムシに関心が集中しますが、 さまざまな虫たちが1年を通じて入れ替わり現れては消えていきます。 「多摩よこやまの道」は、動植物が年中無休で観察できる野外観察路でもあるのです。
少し降って短い階段を登ると、すり鉢状の所にある広場に着きます。 ベンチも幾つか設置されています。
多摩よこやまの道、野草の素顔
【多摩の貴重な植物を大切にしよう】 分布を広げる移動の速さがきわめて遅く、 多摩丘陵の古い地層だけに見られる常緑の多年草タマノカンアオイ(ウマノスズクサ科)は、 移りゆく多摩丘陵の歴史を見続けてきた、生き証人のような植物です。 しかし、最近では自生地が失われたり乱獲のために著しく減少し、 絶滅が心配されるようになってしまいました。 「多摩よこやまの道」には、このタマノカンアオイのような貴重な植物が一部に見られるほか、 カントウタンポポ、ヤマユリ、フデリンドウ、アマドコロ、タチツボスミレなどの、 おなじみの野草がまだそこここに見られます。
【帰化植物】 一方、外国から知らず知らずに種が運ばれたり、栽培していた植物が野生化し、 定着してしまった帰化植物達、ミチタネツケバナ、アメリカスミレサイシン、フラサバソウといった種類は、 比較的近年になって多摩丘陵に見られるようになった新顔です。 「多摩よこやまの道」の野草の一つ一つにも、新旧の歴史があり、 人と自然の深い関わり合いを知る手がかりとなります。
小山田緑地分岐
斜面に続く坂道をジグザグに登っていくと分岐があります。 角に立つ道標によると、左手の道は「小山田緑地方面」、右手の道は「唐木田駅 約1.0km」となっています。 道標に従って右折し、広めの山道を進んでいきます。
小山田氏物語
【小山田氏と朝廷の牧(牧場)】 遠く平安時代のころ、このあたりには朝廷の管理する馬の牧(牧場)がありました。 年間に何頭かの良い馬を選び出して奥州古道で都に運ぶのです。 ある日この牧を経営する長官(別当)として、秩父から桓武平氏の一族の男が赴任し小山田有重と名乗りました。 有重には六人(または五人)兄弟の息子たちがおり、幼い頃から牧で馬や弓の武芸に励んでいた彼らは、 鎌倉入りした源頼朝に従って御家人となりました。 なかでも三男の重成は怪物的な側近としても知られ、頼朝の妻・政子の妹を娶って現在の川崎市域を領地としました。 横浜市域を領有した四男の重朝も、小笠懸けなどの競技、鎌倉の的始めの一番射手、流鏑馬の指導者として知られ、 この小山田兄弟の華々しい活躍ぶりは平家を西に追いやった一ノ谷合戦など吾妻鏡に数多く登場しています。
【小山田城(大泉寺)と山中の里】 小山田有重の居城といわれる小山田の大泉寺には、 一族の墓と流鏑馬や馬駆けの行事が行われた真っ直ぐに伸びる参道が今でも残っています。 また大久保台には「小山田城主的場の址」の碑、小山田緑地の運動広場がある「馬場窪」は 兄弟が競馬をした場所といわれています。 この山中地区には、巡礼地蔵の残る代官坂、都人が往来した奥州古道跡など、 当時の古街道に沿う小山田の里の姿を想像させてくれる風景が残っています。
右下のガス会社の丸いタンクを見ながら坂道を登っていくと、雑木林の中へと入っていきます。 坂道を越えて降っていくと、正面が開けてきます。 「都立 小山田緑地案内図」を過ぎていくと広場に着きます。 ここにも「多摩よこやまの道」の案内板があります。 ベンチが半円形に並んでいたりします。 広場に先にある道標「唐木田駅 約0.8km」が左手の坂道を指しています。 その坂道を越えて車道へ降りた所が、「多摩よこやまの道」の終点になります。
エノキ
[榎]ニレ科、結実期:10月
枝葉を大きくひろげて木陰をつくり、しかも丈夫なため、昔は一里塚に植えられていた樹木です。 国蝶オオムラサキの幼虫がこの葉を食べて育つことでも知られ、その実は小鳥の餌にもなることから、 里山の自然を豊かにすることにも一役買っている樹木です。
この時には左手の坂道が工事中のために通行止めになっていたので、並行している右手の車道を降っていきました。 右下には電車の線路が見えています。 坂道を降っていくと信号のある十字路があります。 右手にある唐木田大橋を見送って十字路を直進していきます。
唐木田(からきだ)駅
上り車線と下り車線で二つある信号を渡っていき、その先にある十字路を右折していきます。 道なりに降り気味に進んでいくと、信号のある十字路の正面に唐木田駅(小田急多摩線)があります。