化粧坂
散策:2005年11月中旬
【街角散策】 化粧坂
概 要 化粧坂は鎌倉にある短い坂で、鎌倉七口(切通)のひとつになっています。 今回は、北鎌倉駅から亀ヶ谷坂を経て化粧坂を越え、 大仏ハイキングコースを経て長谷駅へと続くコースを歩きます。 途中には銭洗弁財天・佐助稲荷神社・高徳院・長谷寺などの寺社も沢山あって、 見所の多いコースになっています。
起 点 鎌倉市 北鎌倉駅
終 点 鎌倉市 長谷駅
ルート 北鎌倉駅…亀ヶ谷坂…薬王寺…岩船地蔵堂…海蔵寺…化粧坂…源氏山公園…七曲…銭洗弁財天…佐助稲荷神社下社…佐助稲荷神社…大仏ハイキングコース…大仏隧道…高徳院…光則寺…長谷寺…長谷駅
所要時間 3時間50分
歩いて... 散策したのは秋本番の季節でしたが、ハイキングコースの木々の紅葉はまだまだこれからといった感じでした。 訪れたのが休日とあって、大仏殿などの寺社は大勢の人で賑わっていました。
関連メモ 六国見山, 大仏切通, 鎌倉回峰, 台峯緑地, 源氏山公園, 常磐山緑地, 大仏切通, 鎌倉七福神
コース紹介
北鎌倉(きたかまくら)駅
北鎌倉駅(JR横須賀線)から歩いていきます。
大船・横浜方面から来た場合は、線路を渡らずに鎌倉寄りのホーム先端にある臨時改札口からそのまま出ます。 そして線路沿いの細めの道を鎌倉駅方面へと進んでいきます。
お客様へ
北鎌倉駅をご利用いただきましてありがとうございます。 臨時改札を通行される際、次の事柄についてご理解をお願いします。
・定期券、乗車券、回数券、イオカード等は自動改札を通して頂くようお願いいたします。
・自動改札を通過されない場合、障害等が発生する場合もあります。
ご注意!
きっぷをお持ちでないお客様はここからの乗車はできません。 きっぷは、円覚寺前の踏切を渡り、駅表口の「きっぷ売り場」でお買い求めください。
 (北鎌倉駅長)
明月院への分岐を見送ってその先へ進んでいくと県道21号に出ます。 横須賀線の踏切を右手に見ながら県道を左手へと進んでいくと信号のあるT字路があります。 角に立つ「亀ヶ谷坂を経て鎌倉駅1.7km」の道標に従って右折していきます。 信号の手前には「鎌倉市広域避難場所」の図があるので参考にしましょう。 正面の茶屋の壁には「銭洗弁財天 徒歩約20分→」の看板も立てかけられていました。 信号を曲がった所に長寿寺がありますが、この時には本堂が建替え中のためなのか、 「一般拝観出来ません」の看板が出ていました。
地蔵菩薩
左手には山肌、右手には民家が点在する亀ヶ谷坂を登っていきます。 傾斜はあるものの、舗装されているので歩きやすくなっています。 峠に差し掛かる手前の右手に短い階段があり、そのすぐ上に地蔵菩薩がありました。 赤い前掛けをした小さなお地蔵さんが岩壁の下に並んでいました。 「地蔵菩薩」と書かれた幟はありましたが、解説板などは見当たりませんでした。 どのような謂れのあるお地蔵さんなのでしょうか。
亀ヶ谷坂
地蔵菩薩を過ぎていくとすぐに峠になります。 峠の両側は切り立った崖になっていて、山を切り崩して造られたことがよく分ります。 峠から道なりに左へ曲がりながら降っていきます。 この亀ヶ谷坂は車両の通り抜け禁止になっていて、二輪車と人のための道となっています。 その昔、この坂を登っていた亀があまりの急坂のために先へ進めず引き返したので、 亀ヶ谷坂の名がついたという伝説が残っていたりします。 何度も改修されて今ではそれほどの傾斜はありませんが、 その昔にはもっと傾斜が急だったのだそうです。
国指定史跡 亀ヶ谷坂
亀ガ谷と山ノ内を結ぶ道で、鎌倉から武蔵方面に通じる重要な出入り口であり、 中世鎌倉の切通しとしての旧状をよくとどめている。 鎌倉時代初期より使用されていたと推定され、巨福呂坂と共に鎌倉街道中ノ道の基点とされている。
※切通
山の尾根部分を掘り下げて通行可能にすると同時に、適の侵入に対する防御施設としたのが切通。 亀ヶ谷坂・朝夷奈切通・巨福呂坂・化粧坂・大仏切通・名超切通・極楽寺坂の7つを称して鎌倉七口(切通)といい、 国の「歴史の道百選」にも選ばれている。
 (鎌倉市教育委員会)
亀ヶ谷坂切通し
鎌倉七切通しの一つで、源頼朝が初めて来た頃は、北から鎌倉へ入る道は此処だけでした。 今でも急な坂道ですが、昔はもっと急な坂だったようです。 「建長寺にいた亀がこの坂を上ったものの、頂上まで行くことが出来ずに引き返した」という伝説があり、 それから亀返り坂(かめかえりさか)と呼ばれるようになり、 それがいつからか亀谷坂と呼ばれるようになったと伝えられています。
 (出典:鎌倉市ホームページ)
亀ヶ谷坂を降っていくと住宅地へ降りていきます。 民家の建ち並ぶ中を進んで道がなだらかになるとT字路があります。 角には大きな石柱が立っていて、薬王寺の解説板も設置されています。 化粧坂へは真直ぐに進んでいくのですが、薬王寺までは近いので立ち寄っていきましょう。
薬王寺
T字路を右手へ入って坂道を緩やかに登っていくとすぐに薬王寺があります。 境内には駿河大納言の徳川忠長公供養塔もあります。 本堂の裏手の上にはお堂も建っていました。
薬王寺
大乗山薬王寺と号する日蓮宗のお寺で、開山は日像、本尊は久遠本師釈迦牟尼仏日蓮上人です。 「新編鎌倉志」によると、梅立寺とみえ、不受不施派の僧が建立したが、法度を恐れ、新義の志田と号し、 薬王寺と名のったといわれます。またお寺には閻浮檀金の釈迦如来像が安置されています。 −日蓮宗−
岩船地蔵堂
薬王寺から元の道まで戻ってその先へと進んでいくとT字路があります。 正面には「海蔵寺350m」の道標や「銭洗弁財天 この先」の看板が右手の道を指しています。 角には八角形をした岩船地蔵堂がありました。
岩船地蔵堂
亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。 木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御皇女之守本尊也』 との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建し、あらたに本像を像立した旨が記されています。 「北条九代記」にも、許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、 哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。 このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、 供養いたしました。 心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通りください。
 (海蔵寺)
扇ヶ谷架道橋
T字路を右手へ曲がって少し進んでいくと、横須賀線の扇ヶ谷架道橋があります。 その下をくぐっていくと道が左右に分かれていますが、 正面にある「海蔵寺300m」や「化粧坂切通し400m」の道標に従って、右手へ進んでいきます。
左右に小さな路地が分かれていきますが、住宅地の中を進んでいきます。 2分ほど進んでいくと、カーブミラーの設置されたT字路があります。 角に立つ道標によると、左手の道は「化粧坂切通し200m、源氏山公園400m」、 正面の道は「海蔵寺200m」となっています。 化粧坂へは左手へ曲がっていくのですが、このまま真直ぐに進んでいくと海蔵寺があるので、 ちょっと立ち寄っていきましょう。
海蔵寺
背の高い生け垣を見ながら真直ぐに進んでいくと、海蔵寺の山門があります。 右手には「底脱の井」がありました。 山門のそばにある木が綺麗に紅葉していて、三脚を立ててカメラを向けている人もいました。 石段を登って山門をくぐっていくと本堂のある境内になります。 境内には多くの樹木や草花が植えられていて、四季折々の風情を醸しだしています。 山門の所には、何処に何が植えられているのかを示す案内図が置いてありました。
海蔵寺
扇谷山海蔵寺と号し、開山は空外で開基は上杉氏定です。 本尊は薬師如来です。 また寺には弘法大師が掘ったといわれる十六の井があります。 −臨在宗−
底脱の井
この井戸は、鎌倉十井の一つです。 中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、 「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」 とうたったことから、この名がついたといわれています。 井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、 悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。
 (鎌倉青年会議所)
先ほどのT字路まで引き返して、道標「化粧坂切通し200m、源氏山公園400m」に従って進んでいきます。 ほどなくしてあるT字路を直進していくと、道は次第に登り坂になってきます。 右手に民家を見ながら傾斜の増した坂道を登っていくと、右手へ曲がっていく所に 「史跡 化粧坂」の標識が立っていました。 手前の民家の脇に「化粧坂」の石碑もありました。 舗装道路はここまでで、ここからは石畳の急な坂道になります。
化粧坂
気生坂又ハ形勢坂ニ作ル此名称ハ往時平家ノ大将ヲ討取リ其首ヲ化粧シテ実験ニ 備ヘシニ拠リ起ルト言ヒ又一説ニハ古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ拠リ此名ヲ負フト 相伝フルモ東鑑ニハ其名見エズ此坂ハ所謂鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉攻防ノ要路ニ 当リ元弘三年(皇紀一九九三)五月新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来屡々戦場トナレ ル所ナリ
 (鎌倉市青年団)
化粧坂
右・左と折れ曲がりながら、石畳の坂道を登っていきます。 石を敷きつめたというのではなくて、自然の岩が露出しているようです。 かなり歩かれているのか岩の角は丸くなっていて、雨の降った翌日などには滑りやすそうです。 先ほどの亀ヶ谷坂は二輪車でも充分に通れますが、この化粧坂は歩く以外には越えられそうもありません。
化粧坂
仮粧坂(けわいざか)は鎌倉より梶原・藤沢を経て関戸・分陪方面へと抜ける鎌倉街道の一つで、 いわゆる上の道へと通じる鎌倉の出入口の一つである。 この仮粧坂の上にある源氏山は、八幡太郎義家が奥州へ出陣に際して、源氏山の山上に旗を立てたことから、 旗立山又は御旗山とも呼ばれたといわれている。
 (新編鎌倉志)
石畳の道はそれほど長くはなくて、程なくして幅の広い尾根道に出ます。 この辺りは源氏山公園の中ほどになります。 角には「源氏山公園案内図」があるので参考にしましょう。 登り着いた尾根の左前方から谷へと降っていく細い山道があります。 これが七曲と呼ばれる道で、化粧坂の史跡指定の範囲にも含まれているようです。 この道を降って行く前に、左手すぐの所に源頼朝像があるので、立ち寄っていきましょう。
源氏山公園
化粧坂から登ってきて左手にほんの少し進んでいくと広場があります。 その中ほどに竹垣に囲まれて源頼朝の銅像が建っています。 ここにはタイムカプセルが埋められているのだそうで、2050年に開封予定とのことです。
源頼朝公銅像
この銅像は治承4年(1180)10月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し、 よりよい鎌倉づくりに市民が心を通い合わせることを誓い合った証しとして 有志の方々から寄せられた尊い浄財によって建立されたものです。 この像が中世日本の政治経済文化の中心地として栄えた鎌倉の歴史と郷土鎌倉の象徴として 永遠に守り継がれることを願うものです。
 (源頼朝公銅像建立実行委員会)
21世紀へのタイムカプセル
ここに埋められているタイムカプセルには、1999年に「源頼朝公没後800年記念事業」として実施した 小中学生作文コンクール『21世紀の鎌倉のまち』入選作品15点、及び2000年に市民から広く募集した メッセージ『21世紀・鎌倉への想い』が納められています。 21世紀の鎌倉に想いを馳せながら、平和で海と山の美しい風格のある文化都市として 発展することを願い、メッセージに託しました。 2050年に開封し公開します。
 (源頼朝公没後800年記念事業委員会、鎌倉市企画部文化推進課)
七曲
源頼朝像から引き返して、七曲を降っていきます。 今ではほとんど歩かれていないようで、案内図にも載ってはいませんが、 その昔には化粧坂から尾根を越えてこの七曲を降るのが正規のルートだったようです。 尾根筋から銭洗弁財天の入口へと降っていく道は現在では広い道になっていますが、 以前には「大坂」と呼ばれる細い道で、この七曲の方が主要な道だったようです。 七曲という名前の通り、右・左と小刻みに折れ曲がりながら急坂を降っていきます。 何回曲がるのかと数えてみましたが、7回よりはもう少し多いようでした。 整備が行き届いていなくて滑り落ち易くなっているので、注意して降っていきます。 昔の人々は化粧坂から七曲にかけての道を苦労して通行したのだろうと思われます。
坂道を降り切って竹林を抜けていくと民家の脇に出ます。 そこを左手に進んでいきます。 左に畑を見ながら回り込んでいくと分岐があります。 道標は見当たりませんでしたが、この右手に続く坂道を登っていきます。
左手の先にある分岐の所に「銭洗弁財天周辺観光案内図」があります。 これから向かう銭洗弁財天や佐助稲荷神社への道も載っているので参考にしましょう。 道標「銭洗弁財天200m」が右手の坂道を指しています。
鎌倉市歴史的風土保存区域
この土地において、建築物・工作物の新築・改築・増築、土地形質の変更、 木竹の伐採等の行為をするときは届出がいります。
かなり急な坂道を登っていきます。 この坂道はその昔には大坂と呼ばれる細い道だったのが、 先の大戦の際に源氏山に高射砲陣地を構築するために拡幅されて立派な道になったのだそうです。 急坂を少し登っていくと、左手に鳥居が立っています。 そばには「銭洗弁財天 宇賀福神社」の石碑も立っています。 鳥居の先の岩壁にトンネルがくり貫かれています。 このトンネルをくぐっていくと銭洗弁財天があります。
銭洗弁天
源頼朝がある巳の年、巳の月、巳の日、夢の中に宇賀福神が現われ、 「この水を汲んで神仏を供養すれば天下は平和に栄えるであらう」とおつげを受けたので、 早速この地にお祀りしたといわれます。
銭洗弁財天
天井の低いトンネルを抜けていくと、岩崖に囲まれた銭洗弁財天の境内に出ます。 沢山の鳥居や絵馬などが奉納されている境内には物産店も並んでいます。 周りは岩壁に囲まれた所にある神社で、縁起にあるように当に「隠里」という名に相応しい佇まいをしています。 祈祷受付の所に「銭洗弁天境内案内図」があるので参考にしましょう。 奥の方に小振りの社殿があります。 その左手の岩壁には洞窟があって、その中に細い水の流れがあります。 この水でお金を洗っている人が沢山いました。 洞窟の奥には小さな白木の鳥居が沢山奉納されていました。 天井からは千羽鶴の束が幾つも垂れ下がっていました。 境内には上ノ水神宮や下ノ水神宮というのもあって、池には沢山の鯉が泳いでいました。
銭洗弁財天 宇賀福神社 縁起
文治元年巳の年巳の月巳の日、 「之より西方に一つの谷あり、境域清_にして神泉あり。 今後この霊水を汲み来りて絶えず城中にて用い、 天神地祇両部会の神仏に供養する時は、 人民自ら信仰心を起こし四海の内豊楽の栄を見ん。 我はすなわち隠里の主宇賀福神なり。」 という夢の中の老翁のお告げにより、源頼朝公が近侍に命じて霊告の清泉を尋ね当て、 ここに宇賀福神を勧請し、この隠里の名泉を鎌倉府中四井の御前水に加え五名水と称しました。 その後、正嘉元年巳の仲秋、時の執権最明寺時頼公が頼朝公の信心に基づき、 福徳の現れるべき「辛巳なる金」の縁日を選び、人々に参詣をすするめるとともに、 「これを信仰するもの、貨幣を持ち来りてこの霊水にてその心とともに洗い清めるとき、 不浄の塵垢は消えて福銭となり、一粒万倍の功力を顕わし一家繁昌子孫長久の井となるべし。」 と自ら銭を洗い祈誓したため、信仰の厚い人々がこれにならい、 この水で洗った金銭財宝は如何なる場合にも損耗して消えることのないという奇跡により、 その後幾百年の間巳の日の縁日には人々が多数参詣しております。
銭洗弁財天 宇賀福神社 御由緒
鎮座地 鎌倉市佐助
祭神 本社 市杵島姫命、 奥院 弁財天
例祭 中祭 四月、 大祭 九月白露巳日
月次祭 毎月巳日
由緒 当社の創草は悠久の昔のことで詳かに知るを得ないが、凡そ鎌倉時代に遡るといへる。 口碑によると源頼朝公一夜霊夢の告げにより、この隠里の宇賀福神を崇拝して 安心立命を得て治政大いに挙れりと云う。 爾来これにあやかり帰依信仰する者あとをたたず。 新編相模国風土記には「銭洗弁財天、村の西方佐助谷にある大岩窟を云ふ。 往古夜中に人語あり。聞く悉く吉事のみを語りしと云ふ。鎌倉五水の一なり」 と記してゐる。 神仏習合によって久しく弁財天の名で親しまれ、明治の神仏分離令で神社となる。 現在、神社本庁所属の神社として崇敬者は全国津々浦々に及んでいる。 銭洗水で金円を洗うことは心を清め不浄の金を洗うことにより 寿福幸運が授けられる尊い信仰である。
洞窟を出て右手に並んだ鳥居をくぐっていくと、白蛇を安置した「こくに茶屋」があります。 道標「佐助稲荷神社、鎌倉駅・大仏→」に従って、その先の石段を登っていきます。 民家の脇を抜けて降っていくと道が左右に通っていますが、 角にある道標「←佐助稲荷神社、鎌倉駅・大仏」に従って左折して石段を降っていきます。 住宅地に降り立って道なりに進んでいくとT字路に出ます。 角には「銭洗弁財天之道」と刻まれた石柱が立っています。
こくに茶屋の白蛇様
白蛇は古来より金運財運の神様弁財天の使者として、絶大なる信仰を得ております。 二千一年初巳の早暁こくに茶屋竹林よりお姿を現しました。 白蛇は幼蛇では黄金色にて成長するにつれ純白化していきます。 白蛇をながめるだけで弁財天が財運健康運を与えてくれます。
佐助稲荷神社下社
T字路を右折して進んでいくと、民家に挟まれるようにして佐助稲荷神社下社があります。 社殿の右手の奥には、佐助稲荷神社の社務所があります。
相州鎌倉隠里 佐助稲荷神社由緒
当社は源頼朝公の再建せし古社にして御祭神は宇加御魂命・大己貴命・佐田彦命・大宮女命・事代主命。 往古頼朝公伊豆蛭ヶ小島の配所にて、平家討伐を日夜念じをりし折、 稲荷の大神気高き老翁の姿にて夢に現れ給い、挙兵をうながし、その時期を啓示し給えり。 頼朝公天下一統の礎を固めし後、稲荷神霊の加護に感謝し畠山重忠に命じ、佐介山隠れ里の霊地を選び社殿を造建せしむ。 人々の信仰きわめてあつく、出世稲荷としてその御神徳は広く関東一円に拡がりたり。 さらに寛元の頃(13世紀中)鎌倉に疫病流行せし時、佐介稲荷の大神再び奇瑞を現し給い、 霊種をして薬草を生ぜしめ病苦の者、ことごとく癒し給いぬ。 以来、神威更にかがやき、商売繁盛、病気平癒、大漁満船、学業成就の霊験顕然たり。
縁結び十一面観世音菩薩
徳川時代、足柄郡の尼寺から縁あって当地に安置された木像十一面観音は、 良縁にうすく、諦めて仏門に入られた美しい姫君、赤松幸運がこの世の若い男女に良縁あらんことをと 祈りつつ彫られたと伝えられています。
「鎌倉総社 佐助稲荷神社」と刻まれた石碑を過ぎていくと、次第に登り坂になってきます。 坂道を登っていくと、赤い鳥居と幟が幾つも立ち並ぶようになります。 その間をくぐり抜けていくと、やがて間隔の広い石段へと変わってきます。 鳥居に挟まれるようにして、道の両側には赤い前掛けをしたお稲荷さんの像が点々とありました。
佐助稲荷神社
短い丸橋を渡っていくと、急な石段が現れます。 石段を登り、その先の鳥居をくぐっていくと、佐助稲荷神社の境内に着きます。 山肌に寄り添うようにして社殿が建っています。 拝殿の手前に手製の「佐助稲荷神社境内図」があるので参考にしましょう。 拝殿の後ろ側にある石段を登った所に本殿があります。 また、境内には往古から湧き続けていると云う霊狐泉があります。
佐助稲荷神社
祭神は宇迦御魂命・大己貴命・佐田彦命・大宮女命・事代主命で、2月の初午に例祭が行われます。 社殿によると、源頼朝が建久年間畠山重忠に命じて再建させたといわれ、 その時、台と山崎の地を社領として寄進したと伝えられます。
源十郎弥十郎事(佐助稲荷霊験譚)
昔、源十郎ト云魚商人アリ。 魚ヲ荷テ由比浜ヲ通リケルニ、犬有テ狐ヲ遂テ走来ル。 狐遁難ケレハ、源十郎カ荷ヘル籠ノ中ヘ飛入。 源十郎是ヲ見テ憐ト思ヒ、犬ヲ制シテ狐ヲ助タリ。 其夜ノ夢ニ狐来テ告テ曰ク、御情ニ依テ我今日ノ難ヲ免レタリ。 其御恩ヲ報セン為ニ来レリ。 源十郎殿日来ノ所作ヲ止テ、左介谷ニ於テ蘿菖ヲ作リ給ハ、大ナル幸アラント云ト見テ覚ヌ。 源十郎意得スナカラ狐ノ教ニ随テ、左介谷ニテ地ヲカリテ蘿菖ヲ作ル。 其年ノ冬、鎌倉中ニ疫病起リテ死スル者十カ八九、貴賎此事ヲ嘆キアヘリケルニ、 或人ノ夢ニ神来テ告テ曰ク、左介谷ノ源十郎カ作レル蘿菖ヲ買テ食シタラハ、病立トコロニ差ヘシト示シ給フ。 此夢ノ告ヲ鎌倉中ヘ披露シケレハ、我劣ラシト彼蘿菖ヲ買得テ食スル程ノ者、其病、差スト云事ナシ。 カゝリケレハ其蘿菖モ滅シ行ニ随テ、価モ次第ニ高値ニ成テ、源十郎忽ニ富人トナル。 是狐ノ教ニ依テナリトテ、先稲荷明神ノ社ヲタツ。即今ノ神社是也。
 (「金兼藁」万治2年(1659))
霊狐泉
佐助の稲荷山は往古より麓の田畑を潤す水源の地なり。 生命の基のこの湧水を人々霊狐の神水と称え家々の神棚に供えて稲荷のご神徳を戴くなり。 今に至るも絶えず湧き出づる霊狐の泉なり。
佐助稲荷神社 祭神 宇迦之御魂命 神徳 農漁商工業繁栄・生活の守護神
本殿の左手から続く山道を登っていきます。 赤い鳥居と小さな鳥居が幾つかある「稲荷の御塚」を過ぎて 石段を登っていくと手摺りの付いた坂道になります。 岩が露出していたり傾斜もかなりあるので注意しながら登っていくと、3分ほどで尾根筋に出ます。 そばにある道標によると、左手の道は「長谷(住宅地)を通って大仏へ」、 右手の道は「大仏ハイキングコース」となっています。 ここは道標に従って、右手の山腹に続く道を進んでいきます。
大仏ハイキングコース
山腹の道を進んでいくと、ほどなくして尾根筋に続く大仏ハイキングコースに出ます。 「大仏ハイキングコース」と記された道標が立っています。 右手の道は「源氏山公園800m、銭洗弁財天900m、葛原岡神社1000m」、 左手の道は「高徳院(大仏)」となっています。 多くの外国人も訪れる観光の町とあって、英文も添えられていました。 化粧坂から尾根に登った所の右手の先にある分岐を左手に曲がって、 尾根道を10分ほど歩いてくるとここに着きます。 ハイキングコースに沿って点々と喫煙禁止の柱が立っています。 各々には番号が付けられていて、歩くときの目印になります。
ハイキングコース内での喫煙はやめましょう
 (鎌倉市消防本部、鎌倉市危険物安全協会)
道標に従って、左手の高みへと登っていきます。 2分ほどすると、No.27の喫煙禁止の柱を過ぎていきます。 人気があって多くのハイカーが訪れるためか、ハイキングコースは広くて大変に歩きやすくなっています。 所々に横木の階段があったりもしますが長くは続かず、概ねは緩やかな尾根道が続いています。 大汗をかくこともなく快適に歩いていけます。 9分ほど進んでいくと「浅間神社経由大仏」という板切れが樹木の幹に掛けられた所があります。 そこから細い山道が左手へ降っていきますが、そのまま広い尾根道を進んでいきます。
後日に浅間神社への道を歩きました。(「大仏切通」を参照)
鳥獣保護区
ここは保護区域です。 鳥や獣を守ってください!
 (神奈川県)
小ピーク
木の根が張り出した坂を登っていくと、小高くなった所に着きます。 ここで道が二手に分かれています。 ピークを越えた50mほど先にカフェテラスのお休み処がありますが、 道標「高徳院(大仏)」に従って、左手へ曲がり、 No.28の喫煙禁止の柱を過ぎていきます。
カフェテラス 樹ガーデン
喫茶、軽食、休憩、電話、BBQパーティー、ハイキング途中降り口
熱烈歓迎!鎌倉隠れ名所 天空のテラス カフェテラス 樹(いつき)ガーデン 30m先
樹木のあい間に笑顔が集い、語らいの輪が広がってゆく。 なごんだ空気に心の安らぎをとりもどし、往にし方の風のささやきに、幼きころの自分となって、 自然の中で至福の時に身をゆだねてみませんか。
大切にしましょう古都の山。一人一人の心がけ!
積もっても緑は生えぬゴミの山。自然に優しくハイキング
軽いアップダウンを繰り返しながら5分ほど進んでいくと、No.29の喫煙禁止の柱を過ぎていきます。 小ピークを越えていくと、左手に有刺鉄線の柵が続くようになります。
やがて鎖の張られた急な階段を降るようになります。 階段を降っていくと、道が左右に分かれています。 道標のない右手の山道は見送って、道標「大仏方面」の指す左手の階段を更に降っていきます。
右手の道…
後日に確かめたところ、右手の道を1分ちょっと緩やかに降っていくと、 住友不動産常盤住宅にある一向堂公園へと続いていました。
大仏隧道
No.30の喫煙禁止の柱を過ぎて更に降っていくと、県道32号(藤沢鎌倉線)の大仏隧道の脇に降り立ちます。 佐助稲荷神社から尾根筋のハイキングコースに出てから25分ほどで到着しました。 大仏ハイキングコースはここで終わりになります。 道標「高徳院(大仏)0.4km」に従って、県道を真直ぐに進んでいきます。
高徳院
大仏坂バス停を過ぎていくと大仏前交差点があります。 その左手に高徳院の入口があります。 入口の所には「高徳院境内図」もあるので参考にしましょう。 仁王門をくぐって券売所からその先へと進んでいくと、有名な大仏像があります。 この日は休日だったためか、琴演奏・空手の型・和太鼓演奏・バザーなど、 催し物も色々と行われていて、境内は多くの人で大変に賑わっていました。
私たちの宗旨
名称 浄土宗
宗祖 法然上人(源空)(西暦1133年〜西暦1212年)
開宗 承安5年(西暦1175年)
ご本尊 阿弥陀佛(無量寿佛)
称名 南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)
教え 阿弥陀佛を深く信じてひたすら南無阿弥陀佛と称えるだけで、 どんなに罪深い人でも必ず救われて明るい毎日を送り、 浄土に生まれることができる教えです
お経 お釈迦さまが説かれた無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経をよりどころとします
 (鎌倉大佛殿 高徳院)
鎌倉大仏
高さ13m35cmある大仏は胎内参拝ができます。 この時にも多くの人々が列を作っていました。 大仏の裏手の先には、与謝野晶子の大仏を詠んだ有名な短歌の句碑があります。
国宝 鎌倉大佛因由
この大佛像は阿弥陀仏である。 源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。 零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。 初めは木造で暦仁元年(1238)に着工し6年間で完成したが、 宝治元年(1247)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長4年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、 大仏殿を造って安置した。 原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右エ門や丹治久友の名が伝えられる。 大仏殿は建武元年(1334)と應安2年(1369)とに大風に倒れ、その都度復興したが、 明應7年(1498)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。 大正12年(1923)の大震災には台座が崩れ、仏像は前に傾いたが倒れなかった。 大正14年(1925)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。 昭和35,36年(1960,61)の修理では、前傾してる頭部を支える頸部の力を強化プラスチックで補強し、 大正修理でなされた耐震構造を改め、大震災の際は、台座と佛体が離れる免振構造が施された。 この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。
総高(台座共)13.35m
青銅佛身高11.312m
面長2.35m
眼長1.00m
眉長1.24m
口広0.82m
耳長1.90m
眉間毫径0.18m
眉間毫高0.15m
螺髪(頭髪)高0.18m
螺髪(頭髪)径0.24m
螺髪数656個
佛体重量121トン(32,670貫)
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな 昌子
胎内参拝の方にお願い
胎内はせまく、一回30人以上は無理ですので、多数の場合はしばらくお待ち願います。 階段が急ですので、老人・幼少の方は単独参拝は危険です。ご配慮願います。 若し是非参拝を望まれる場合は安全を保証出来ませんので、 必ず責任者の付き添いをお願いします。 信仰の対象である仏像の胎内ですので、放歌・声高等をつつしみ、敬虔に行動をお願いいたします。
光則寺
高徳院を出て真直ぐに進んでいきます。 長谷観音前交差点の右手前に光則寺へ入っていく路地があります。 少し登り気味に進んでいくと短い石段があります。 その先の山門をくぐっていくと光則寺の境内に着きます。
光則寺
ここは北条時頼の近臣、宿谷光則の邸であった。 日蓮は「立正安国論」を光則の手を経て時頼に献じた。 日蓮の龍の口法難に際し、弟子日朗は光則邸後の土牢に捕えられた。 光則は後、日蓮に帰依し、光則寺を建立した。
宿谷光則屋敷跡
宿谷左衛門尉光則ハ北條時頼ノ近臣ナリ文應元年七月十六日日蓮聖人立正安国論ヲ時頼ニ 上ラント欲シ光則ヲ長谷ノ邸ニ訪ヒ縷々其ノ趣_ヲ説キ之ヲ手交ス聖人龍口法難ノ時最愛 ノ弟子日朗ノ囚ヘラレクルハ邸後山腹ノ土牢ニシテ億萬斯年師孝ノ哀話ヲ刻ス光則深ク聖 人ニ服シ遂ニ邸ヲ寄セテ寺ヲ創ム実ニ此ノ光則寺ナリ過グル人其レ襟ヲ正シテ當時ヲ追懐 セヨヤ
 (鎌倉市青年団)
長谷寺
長谷観音前交差点の所を右手に入っていくと長谷寺があります。 「長谷観音」と書かれた赤い大きな堤燈のある立派な山門は通行止めになっていて、 その左手から入るようになっています。 奥にある石段を登って千体地蔵を過ぎていくと本堂の観音堂があります。 左右にも大きなお堂があって立派な造りの寺院です。 本尊の観音像は昔から「長谷観音」の名前で知られていて、日本でも最大級の木彫の仏像です。 境内の先の方には鎌倉の街や海を一望できる眺めのいい場所もあります。
長谷寺
長谷寺の称号は、海光山慈照院長谷寺。 古来より老若男女を問わず深く信仰された幾多の伝説を伝える日本最大級の木彫観音を御本尊とする。 境内には四季折々の花が見られ、その眺望は、相模湾を一望できる風光絶佳の地にある。 草創は古く天平年間(奈良時代)と伝えられ、 鎌倉時代の古資料は、その時既に一山の威容が備わっていたことを物語っている。 長谷寺は坂東、鎌倉の共に三十三カ所観音霊場の第四番札所である。
由緒
当山は正式な名称を「海光山慈照院長谷寺」と号し、 伝来する縁起に曰く、その開創は聖務天皇の御代にあたる天平8年(736)という鎌倉でも有数の古刹であります。 開山徳道上人。開基は藤原鎌足の孫にあたる藤原房前。 本尊である十一面観世音菩薩は、養老5年(721)に徳道上人の本願によって、 一本の楠の霊木から刻出された二体の観音像のうちの一つといわれ(残る一体は大和の長谷寺の本尊となる)、 開眼供養の導師を務めた行基菩薩によって衆生済度の願が込められ海中に投じられたといいます。 その後、相州長井浦に流れ着いた尊像は鎌倉に遷座され、当山創建の礎となったということです。 古来より坂東三十三観音の第四番霊場として民衆の信仰をあつめ、 「長谷観音」の通称で親しまれる尊像は総高9.18mあり、本邦でも最大級の木造観音といわれます。
千体地蔵とは
水子や、先亡諸霊の供養のために奉納されます。 ご希望の方は観音堂へお申し出下さい。
ご供養される方へ
数年おまつりしたお地蔵様は、浄火供養のお焚き上げをしておくりますが、 ご供養は続きますのでご安心下さい。 尚、お参りはご自分のお地蔵様を探すのではなく、観音堂と地蔵堂のご本尊になさって下さい。 3月と9月の18日に彼岸会が奉修されます。どうぞ、ご参加下さい。
 (長谷寺)
弁天窟
長谷寺の境内には弁天窟という洞窟があって、中には弁財天と十六童子が祀られています。 十六童子は弁財天に使へ、それぞれ衆生に福と智恵を与えてくれる従者とのことです。 狭い岩窟の壁面に像が彫られています。 歌舞音曲の神として信仰されていて、本尊は弘法大師が参籠して自ら刻んだという寺伝が残っているようです。 鳥居のある右側の洞が入口で、左側にある洞は出口になります。
長谷(はせ)駅
長谷観音前交差点まで引き返して200mほど進んでいくと、 踏切の左手に長谷駅(江ノ島電鉄)があります。
鎌倉駅や藤沢駅まで、1時間に5本程度の便があります。