黒川の里
散策:2005年10月上旬
【里山散歩】 黒川の里
概 要 川崎市の北西部にある黒川の里は営農団地になっていて、農業がよく保存されています。 三つに分かれた谷戸には田んぼや畑が広がり、柿やリンゴなどの果樹園などもあって甘い香りを漂わせています。 雑木林を抜けて着いた尾根道は、古来より東国と西国を結ぶ交通の要衝として利用されてきました。
起 点 川崎市 黒川駅
終 点 川崎市 黒川駅
ルート 黒川駅…汁守神社…黒川上営農団地…多摩よこやまの道…展望広場…もみじの広場…瓜生黒川往還…黒川交差点…南黒川第2公園…黒川駅
所要時間 1時間50分
歩いて... 谷戸の田んぼには黄金色に実った稲穂が重そうに頭を垂れていました。 刈り取りが終った田んぼもあって、収穫の秋は着実に始まっていました。 この日は生憎の空模様でしたが、よく晴れた日には尾根筋から富士山までも望める素晴らしい景色に出会えます。
関連メモ 多摩よこやまの道
コース紹介
黒川(くろかわ)駅
黒川駅(小田急多摩線)の南口から歩いていきます。
階段を降りて、正面左手へ伸びる道を進んでいきます。 この時は黒川駅は改修中で、足場が組まれていて被いがしてありました。
少し進んでいくとT字路があります。 そこを右折して緩やかに降っていくと県道137号に出ます。 信号を渡って右手へ進んでいきます。 黒川農産物直売所を過ぎた先で、左手の細い道へと入っていきます。 一見して駐車場への入口で、その先へは行けないようにも思えますが、 道は駐車場をかすめてその奥へと続いています。
左手の山と右手の畑地の縁の生け垣の間に挟まれた道を進んでいきます。
畑には柿の木が沢山植えられていて、大きな実をつけていました。 中にはよく熟したのもありましたが、完熟までもう少し日数がかかりそうな感じでした。 葉を落とした木や、まだ青々とした葉をつけている木がありました。 品種が違うのでしょうか。
私の実家の横や斜め向かいに畑があって、柿の木が沢山植えられていました。 秋になると実を沢山つけていました。 発音だけでしか覚えていないので、どのような漢字を書くのかは分りませんが、 「くぼがき」,「ふゆうがき」,「ひゃくめがき」など、幾つかの種類が植えてあったように記憶しています。 渋柿は皮を剥いて軒下に干しておくと甘くなるのだそうで、 萎んで白い粉をふいたようになったのをよく食べたものです。
竹林の脇を過ぎて更に進んでいくと、作業小屋の先で県道19号に出ます。 道標などはありませんが、そこを右折して県道を進んでいきます。 県道を50mほど進んでいくと、小さな三沢川を渡っていきます。 左手には黄金色に輝く田んぼが広がっていました。 更に100mほど進んでいった所にあるT字路を左折していきます。
汁守神社
左折してその先へ少し進んでいくと十字路があります。 散策路はそこを左折して、田んぼや畑が広がる中の道を進んでいくのですが、 右手に汁守神社があるので、ちょっと立ち寄っていきましょう。 30段ほどの石段を登って、コンクリート製の鳥居をくぐっていくと、汁守神社の境内です。 石畳の道の先の木製の鳥居の先に社殿があります。 本殿と拝殿に分かれた立派な造りの社でした。 境内には大きな木が沢山生えていて、川崎市の保存樹木に指定されているようです。
汁守神社御案内
地鎮祭、上棟祭、竣工祭、交通安全祈願祭、七五三祝祭、初宮詣、厄除祈願祭、長寿祈願、方位除祈願、冠婚葬祭
 (宮司)
一、竹木を伐ること。
一、鳥獣をとること。
一、焚火をすること。
一、社殿を破損すること。
右条々境内に於て厳禁する。
 (汁守神社)
一、神社境内を使用する場合は境内使用願を申請して下さい。
二、境内を使用し事故及び過失が生じた場合は使用者の責任とする。
 (汁守神社責任役員)
社殿の裏手にある黒川公会堂・汁守神社社務所の前をUターンして坂道を降って神社を後にします。 先ほどの十字路を曲がって、左手に田んぼ、右手に畑が続く道を進んでいきます。 田んぼの稲は黄金色に実っていて、既に刈り取りが終った田んぼもありました。 畑には柿の木が植えてあり、大きな実をつけていました。
田んぼの稲が一部倒れている所がありました。 農業をしていた親から子供の頃に聞いた話では、肥料配布する場所が偏ったりすると、 そこだけ栄養過多になって茎が高く成長し過ぎてしまい、 実った籾の重みに耐えかねて倒れるのだそうです。 そうして一度倒れてしまうともう二度と起き上がることはないようです。 そうなると籾が水につかって腐ってしまって、収穫が期待できなくなるので、 稲が倒れないように、いつも気を遣っていなければならないのだそうです。
黒川上営農団地
ビニールハウスを過ぎていくと、道が二手に分かれています。 角には「黒川上営農団地ご案内」の大きな案内板があり、この付近の地図が描いてあるので参考にしましょう。 ここで二手に別れ、この少し先でもまた二手に分かれていて、 この営農団地は大きく三つの谷戸にかけて広がっています。 「土地改良の碑」の石碑も建っていました。 今回はここを左手へ進んでいきました。
この地区は農業振興地域に指定されています。 新鮮な農産物の安定供給を図るとともに、優良農地確保のため土地基盤整備及び近代化施設整備事業を実施し、 構造改善の推進を図っています。 都市農業の発展に、また緑豊かな住みよい街づくりのために皆様のご理解とご協力をお願いします。
地区の概要及び事業計画
本地区は川崎市の最西北部に位置する農業振興地域 です。都市近郊農業地帯として立地条件に恵まれた 地域ですが、北側・西側・南側の三方を多摩丘陵に 囲まれ通称「谷戸田」と称される水田と、その周辺 の畑地によって地区が形成されていることから地区 内の道路幅員が狭く農産物、生産資材の搬入搬出等 農耕車の利用に不便をきたしていました。また谷戸 田であるため高低差があり区画が狭くかつ湾曲し、 作業効率も悪く、機械力の導入も困難な状態であっ たため、基盤整備が望まれていました。このため土 地改良総合整備事業などによる圃場の区画整形、農 道、用排水路、暗渠排水の整備や第二次農業構造改 善事業による温室や集出荷場兼機械格納庫の建設等 により農業生産性の向上、農業経営の安定化を図る ことを目的として事業計画されました。
重たそうに頭を垂れた稲穂を見ながら少し進んでいくと十字路があります。 右手は工事中でしたが、その塀に「黒川と共に歩んだ五十年」という解説板がありました。 この地域の地下には、昭和34年(1959)に相模貯水池の原水を導水する重要施設として完成した第一導水ずい道が 通っているのだそうで、その改修工事中のようでした。 「黒川散策MAP」も載っているので参考にしましょう。 「おすすめ散策路」として、今回歩くコースも載っていました。 それ以外にも道が幾つかあるので、時間があれば彼方此方と散策してみましょう。
黒川と共に歩んだ五十年
第一導水ずい道 黒川急下水路及び伏越改良工事
第1導水ずい道は、川崎市の水道水の源水を相模川から長沢浄水場まで導水する延長約22kmの導水幹線で、 川崎市水道施設の重要構造物です。 築造されてから約半世紀を経たコンクリート製の馬蹄形トンネルで、老朽化が進行したため、 昭和63年度より14年間に及ぶ大改修事業が進められてきました。 黒川急下水路及び伏越部はこの計画の最終改良区間であり、 「機能の回復」,「耐震性の向上」を目指して老朽化した設備の改修を行い、 兵庫県南部地震相当の地震に耐えうる構造としてリニューアルします。
豆知識1・黒川梨 黒川の梨栽培の歴史は古く、元禄時代に稲城の代官が京都から幼木を持ち帰ったのが始まりと言われています。 4月には周囲一帯が真っ白な花で覆われます。
豆知識2・黒川炭 現在も雑木林に多く見られるコナラやクヌギを使って、江戸時代には「黒川炭」と呼ばれる良質の炭を清算していました。
豆知識3・地名の由来 「黒川」の名は、川の水が澄んで底が黒く見えたことに由来すると言われています。
毘沙門堂 上黒川の菩提寺であった金剛寺(明治初めごろ廃寺)の跡地にひっそりと鎮座する。
黒川東営農団地 約18ha(東京ドーム4個分)の畑が広がり、秋にはサツマイモ、落花生堀りや栗ひろい、柿もぎを楽しむことができる。
西光寺 室町時代創建の曹洞宗の寺。境内に市内最古の石仏・薬師如来座像が祀られている。 本堂天井の「雲龍図」は12年に1度公開される。
黒川農産物即売所 地域の農家が運営する即売所で、新鮮な農産物などを買うことができる。
汁守神社 広い境内にはヤブツバキ、イロハモミジやイヌシデなどの保存樹が生い茂っている。 9月第4日曜日に例大祭が盛大に行われる。
黒川青少年
野外活動センター
柿生小学校黒川分校跡地にあり、さまざまな活動体験の場として利用されている。春にはグラウンドの桜が見事。
谷戸 丘陵地に挟まれた細長い谷間に水田が広がり、東京周辺には少なくなった里山の面影を残している。 貴重な動植物のすみかでもある。
黒川の野鳥 シジュウカラ、ハクセキレイ、ジョウビタキ、ホオジロ、コゲラ、ツグミ、カシラダカ、アオジ、カケス、 シメ、オナガ、カワラヒワ、ヒヨドリ、メジロ、アカモズ、キジバト、ムクドリ、エナガ、カワセミなど
黒川の野草 キツネノボタン、フタリシズカ、カサスゲ、イモカタバミ、ノアザミ、ホタルブクロ、ヤマユリ、オニスゲ、 ナルコユリ、ゲンノショウコ、カラスノゴマ、ツユクサ、ヒゴクサ、ホトケノザ、キンミズヒキなど
十字路を直進していきます。 左右には田んぼが広がっています。 刈り取られた田んぼもかなりあって、田んぼの中の稲木に稲が干してありました。 一段組と二段組を見かけましたが、それ以上に高くなったのはありませんでした。 上の部分にはビニールシートで覆いがされていました。 切り株から雨水などが入って腐らないようにとのことなのでしょうか。
田んぼの脇に白い棒のような物がありました。 大きな音をたててスズメなどを追い払うための装置だと思います。 私の故郷にも沢山設置されていて、実りの頃になると、ドカーンという大きな音が間欠的に轟いています。 詳しくは知らないのですが、圧縮する力はプロパンガスなどを利用しているようで、 そばに置いてあるのをよく見かけます。 しかし、何の予告もなしに「ドカーン」ですから、そばを歩いている時に鳴ったりするとビックリしてしまいます。
田んぼの中の道を進んで正面にビニールハウスが見えてくると十字路があります。 谷戸は左手にも続いていますが、今回はそのまま真直ぐに進んでいきました。
左手の谷戸…
今回の散策ではかなり道に迷ってしまい、紹介しているコースの他にも色々と歩いてしまいました。 左手の谷戸も結果的には歩くことになりましたが、今回は紹介せずにおきます。 所要時間にも含めてはいません。
市街化調整区域(麻生区黒川)
建築等の制限について
この区域は市街化調整区域ですので、都市計画法により、建築行為が規制されています。 土地利用に関しては下記へ相談してください。
 (川崎市都市整備指導部開発指導課)
ペットボトルで作った風車が沢山立てられた畑を過ぎていくと、道が二手に分かれています。 右手の道は山裾へと続いていて、この先で再び合流します。 今回は左手の谷戸に続く道を進んでいきました。
田んぼでは刈り取り作業が行われているところでした。 ここでは稲刈り機などは使わずに、鎌を使って人手で刈り取っているようです。 刈った稲を一旦田んぼに寝かせておき、後でまとめて稲木に掛けているようでした。
水が完全に抜けた状態の田んぼではいいのですが、水が抜けきらない場合には大変です。 籾を濡らさないよう、刈り取った稲は小振りの田舟に積んで土手まで運んでいきます。 刈り取っては運び、刈り取っては運びの繰り返しです。 水のある田んぼは歩くのも大変なので、人手の少ない家などでは辛い作業になります。
柿やリンゴなどが植えられた畑を過ぎていくと、 刈り取られた田んぼの稲株からは、また青い芽が伸びていました。 まるで新たな苗を植えたようにも見えます。 時には実をつけられそうな大きさにまで成長することもありますが、 籾殻は出来ても決して実ることはないと聞いています。 この芽には何とかという名前がついていたように記憶してますが、どうも思い出せませんでした。
先ほどの分岐道と合流する十字路を直進していくと、また道が二手に分かれています。 右手の道は丘陵地帯へと登っていきますが、今回は左手の谷戸に続く道を進んでいきました。
右手の道を行くと…
右手の道を丘の上へと登っていくと、途中から道が分かれています。 右手の道は隣の谷戸へと降っていきます。 真直ぐに進んでいくと、携帯電話の電波塔や黒川高区排水池などがあります。 更にその先へと進んでいくと、今回紹介しているコースと合流します。
ススキの波の向こうには竹林がありました。 まだ見たことはありませんが、竹というのは60年に一度、花が咲いて枯れるのだそうです。 通常は地下茎を伸ばして筍を地上に出して増えていくのですが、 この時には花を咲かせて実をつけ、また種から成長するのだそうです。 なぜ60年に一度そうなるのでしょうか、不思議な植物です。
竹と云えば、子供の頃に竹スキーを作ったことを思い出します。 太めの竹を半分に割って、その先端を火で焙って少し曲げます。 そして、真ん中辺りに穴を開けて紐を通し、 それを輪にして靴が止まるようにします。 竹の節はカンナなどで綺麗にして滑りやすくします。 そうして出来上がった竹スキーを雪の積もった坂道へ持っていっては滑って遊びました。 スキーの長さが余り短いと不安定になって滑りにくいので、ある程度の長さは必要でした。 みかん箱の下に打ち付けてソリにしたこともありました。 昔は遊び道具は何でも自分達で作ったものでした。
次第に幅を狭めていく谷戸を進んでいきます。 NPO法人「あしたや協働企画」の体験農場を過ぎていくと、 道が左手へ曲がっていく所で、浅い谷戸が右手に分かれていきます。 空を見上げると、丁度真上の辺りを送電線が通っています。
ここで道が二手に分かれていますが、 今回は、左手の道と右手の道の間にある細い山道を登っていきます。 道標などは見当たらないし、これまでにあった案内図でもはっきりとは分らないので、 うっかりとして通り過ぎてしまわないようにしましょう。
道に迷って…
最初はこの道が分からなかったので、左手の谷戸沿いの道を進んでいきました。 この先にも民家が一軒あり田んぼも続いていますが、やがて行き止まりになります。 引き返してきて、簡単な車止めの先へと続く右手の道を緩やかに登っていくと、畑地の先で細い山道に変わります。 その山道を登っていくと、先ほどの分岐から丘を登ってきた舗装された道へ出ます。 左手の先にある黒川高区排水池の左脇から続く雑木林の中の道を進んでいくと、 今回紹介しているコースと合流します。
(この試行錯誤に要した時間は所要時間に含めていません)
登り始めの細い道も、少し進んでいくと広めの道になってきます。 傾斜もほとんどなくて歩きやすくなっています。 その昔には、丘を越えていく生活道路として、この地区の人々に利用されていたのかも知れません。
多摩よこやまの道
山道を4分ほど進んでいくと、正面が開けた所に出ます。 道端には「←よこやまの道→」と記された道標が立っていました。 ここを右折して、左側の開けた景色を眺めながらの尾根歩きになります。 左手を伺っていると、すぐ先に案内板が見えたので、見に行ってきました。 それによると、この道は「多摩よこやまの道」というのだそうで、 小田急唐木田駅から聖ヶ丘にかけて続いています。 今回はその一部を通って、再び黒川の里へと降りていきます。 何時か機会を得て、全体のルートを歩いてみたいと思ったりします。
横たわる美しき尾根のシルエット
多摩丘陵は武蔵の国府(府中)から眺めると横に長く連なる山々でした。 夕暮れ時にシルエットとして浮かぶその美しい姿は、 万葉時代の人々から「多摩の横山」,「眉引き山」などとも呼ばれていました。
はるかな都へ〜横山の尾根道
多摩丘陵の尾根道に当るこの道を「多摩よこやまの道」と名付け、散策路として整備しました。 この尾根道は古代より武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、 また西国と東国を結ぶ交通の要衝として活用されてきました。 この東西に伸びる尾根筋は鎌倉古道(鎌倉街道早ノ道、鎌倉街道上ノ道本路、軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、 奥州廃道、古代の東海道などの重要な歴史街道(古街道)が南北に交差し、 その痕跡が各所に残され、また様々な伝説等も語り継がれています。 古代〜中世〜江戸時代に渡って政治、軍事、文化、産業、社寺参詣などを目的として、 東国西国間の交易を行う承認や武士団、諸国霊場を行脚する巡礼者や都の貴人・官人、 また幕末には新撰組ゆかりの人々も行き来したと推測され、 歴史とロマンを感じることのできる道です。
万葉ロマン〜防人・見返りの峠道
万葉集では望郷や別れを惜しむ道筋として「多摩の横山」が詠われています。 古代、国防警備の目的で北九州に配置された防人という兵士たちは東国から陸路で都へ、 さらに難波津(現在の大阪府の海岸)から船で瀬戸内海を通り九州へ向かいました。 再び生きては戻れない覚悟の彼らが、この「多摩よこやまの道」の尾根で故郷を振り返りながら、 家族との別れを惜しんだ姿が浮かんでいきます。
多摩丘陵〜里山の自然
「多摩よこやまの道」の尾根筋は暮らしの道でもありました。 農林業が生活の中心だった時代には、多摩丘陵一帯に田園風景が広がっていました。 「多摩よこやまの道」には多摩の農村風景が所々に残されています。 多摩丘陵の南側(町田市、川崎市)、北側(多摩市、八王子市)の両岸を眺めながら、 尾根沿いに残された里山とふれあえる道です。
広くて緩やかな尾根道を進んでいきます。 所々にはベンチも設置されていて、散策路として利用しやすくなっていました。 先ほどの案内板によると、案内板の向こう側からこの先の展望広場にかけての尾根道は、 古代の東海道が通っていた所のようです。 その名残なのか、広くて歩きやすい道になっています。 少し登るようになると、黒川高区排水池の左脇からきた道を合わせます。 緩い坂道を登っていくと、頂上のすぐ手前で、細い山道が右手に分かれていきます。 角に立つ道標によるち、右手は「西順路」、左手は「東順路」となっています。 左手直ぐの所に展望広場があるので、立ち寄っていきましょう。
展望広場 (標高145m)
分岐のすぐ先が展望広場になっています。 広場とは云っても踊り場程度の広さしかありませんが、正面に広がる景色を眺めましょう。 左手には丹沢山系、右手には七生丘陵、その奥には秩父山系が広がっています。
多摩丘陵パノラマの丘
東西に伸びる弓なりの尾根道
この尾根の高台は、東西(左右)に伸びる多摩丘陵の長大な尾根の上にあり、 その全体が弓なりになっているのが見えます。 この尾根は、西は町田市相原町を経て津久井郡城山町の城山湖にある後方高台の「三沢峠」、 東は多摩川に面した多摩市連光寺向ノ丘まで通じています。 あわせて全長約24kmの尾根となり「多摩丘陵の背骨」とも呼ばれています。
富士山や丹沢・秩父連峰の山並み、西武ドーム(狭山丘陵)も見られる丘
この丘は標高約145mで、南西〜北東にひらけた展望ポイントです。 西方は夕景が美しく、富士山や丹沢・秩父連峰の山並み、 北西方向には多摩川や浅川に面した七生丘陵、広大な武蔵野の向こうには遠く狭山丘陵も眺望できます。 ここから見る風景は、太古以来の先人たちも繰り返し眺めてきたことでしょう。 多摩ニュータウンの建設に伴い、約1千カ所の遺跡発掘が行われました。 現在のニュータウンの下に、はるか昔、縄文時代のニュータウンが存在したことがわかったともいわれています。 歴史ある豊かな農村から新しい街へ−多摩川とその支流の恩恵に育まれ、 大地と接してきた人々により永々と暮らしが営まれてきました。 今、その穏やかな風景がよみがえってきます。
ヤマナラシ
開花期:3月〜4月
ヤマナラシは、丘陵から山地にかけての尾根すじに生えるポプラの仲間です。 材が箱を作るのに用いられるので別名「箱柳」ともよばれ、 多摩丘陵ではまれにしか見られない樹木です。 葉の柄が長く平たいので微風でもサワサワと音を立てるところから、「山鳴らし」の名前があります。 樹皮には独特な菱形模様が浮かびます。
この日は残念ながら時折小雨がパラつく生憎の天気でしたが、 晴れていると素晴らしい眺めなのだろうと思われます。
広場にある案内図によると、左手には丹沢や中央線沿線の山々の、 大山・三ノ塔・塔ノ岳・丹沢山・蛭ヶ岳・大室山・高塚山・三ッ峠山・御坂黒岳・塩見岳と続いています。 その向こうには御正体山や富士山もその頭を覗かせています。 右手には奥多摩や奥秩父の山々の、 陣馬山・小金沢山・大菩薩嶺・三頭山・金峰山・国師岳・御前山・雲取山・鷹ノ巣山・御岳山・川苔山・ 蕎麦粒山・武甲山・丸山と続いています。
展望広場の先から横木の階段が降っていきますが、車道へ降りてしまうように思えたので、 先ほどの分岐から道標「西順路」に従って、細くなった道を進んでいきます。 畑地の脇に出るとコスモスが沢山咲いていました。
ススキが生えた道を更にその先と進んでいくと、森の中へ入っていきます。 少し進んでいくと、左右に道が分かれています。 左へ戻るようにして降っていく道は車道へ降りてしまいそうなので、 右手へ続く横木の階段を降っていきました。 程なくして平地に降り立つと、左右に小道が続いています。
もみじの広場
角に立つ道標「多摩東公園 約1.6km」に従って右手へと進んでいくと、 芝生の生えた「もみじの広場」がありました。 道端にはベンチも設置されていました。
万葉集にも詠われた防人の道
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ (宇遅部黒女)
この万葉集は、「赤駒を山野の中に放牧して捕らえられず、夫に多摩の横山を歩かせてしまうのだろうか」 という防人の妻の心づくしの歌です。 東国から遠く北九州で国防の兵役につく防人は、再び故郷の土を踏むことはほとんどありませんでした。 武蔵野を眺望できる横山の尾根道で故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ防人の姿が浮かんでいきます。 「よこやまの道」はこの万葉集の「横山」から名づけました。
歴史文化の道
「よこやまの道」は、万葉集において多摩の横山と詠われた多摩丘陵の尾根部に位置し、 「多摩の自然と歴史にふれあう道」を基本テーマに整備が進められています。 既存の山路や尾根沿いに残された自然や緑を積極的に活かしながら、樹林内の散策路や休憩広場、 多摩市域を一望できる展望広場等が整備され、多摩丘陵や多摩ニュータウンの風景とともに、 四季折々の自然に親しみ地域に残る史跡や伝説の歴史文化にふれあうことのできる遊歩道です。 「よこやまの道」は多摩東公園(丘の上広場)から長池公園手前までの約9.5kmがルートとして計画され、 都市基盤整備公団により整備が進められてきました。 このうち平成15年4月から、多摩東公園(丘の上広場)より大妻学院までの約7.5kmが歩けるようになっています。
相模の国府と武蔵の国府を結ぶ古代東海道
「かつて日本の古代にも、ローマの道のように、全国から都に集る大道(道の最大幅12m)が七本あった」 これは、近年の研究で判明しつつある成果です。 飛鳥時代後半から平安時代初期にかけて、都と東国とを結んでいた古代東海道は江戸時代の道筋とは異なり、 相模の国府と武蔵の国府を結び、多摩丘陵の町田市から多摩市付近を通っていました。 この道は唐(中国)の制度にならって造ったと考えられ、防人や朝廷の軍隊、 特別な任務を持った官人たちが頻繁に行き来し、 税納物や朝廷直営の牧から選ばれた良馬が多摩丘陵から都へと運ばれていたと想像されます。 古代東海道は、多摩市連光寺本村の打越山遺跡から発見された道路跡(道幅9〜12m)や、 馬引沢にあった「大曲」という谷、諏訪団地の中央を通っていた「沖の谷戸」という細長い谷、 給食センター上の畑地や近くの「並列する古道跡(複線の古道跡)」につながるとみることもできますが、 現在のところそのルートは未だ確定されるには至っていません。
丸山城と烽火台
この正面の斜面上にある高台(現・黒川配水場)の付近を黒川側の人々はかつて丸山城と呼んでおり、 中世の通信基地としての物見や狼煙台(煙を高く上げて連絡をとる施設)が存在したとも考えられます。 また古代の東海道が存在したならばそれに沿って、 中国の唐の制度にならった古代の烽火台(とぶひ=火を高く上げて次の中継地から目的地へとつないでいく施設)が 併設されていた可能性もあり、ここに続く中継地の考えられる南方の野津田上ノ原の高台には 「飛尾」,「飛平」などの地名も残っています。
エコプラザ多摩の裏手を通るようにして続く広い道を進んでいきます。 少し登って尾根筋に着くと、道がX字形に分かれています。 道の中ほどに立つ道標によると、左手の尾根筋に続く広い道が「多摩東公園 約1.4km」となっています。 今来た道は「鎌倉街道 約1.8km」となっています。 右手に戻るようにして金網の横に続く広めの道もありますが、特に何も示されてはいません。 また正面に降っていく細い道もありますが、これも何も示されていません。 どちらへ行くべきかとしばらく迷ってしまいました。 「多摩東公園」へと続く「よこやまの道」は今回のルートから外れるし、 右手の道は戻っていってしまいそうだし、正面へ降っていく道が良さそうですが細くて草深くなっています。 そばに立っていた「瓜生黒川往還」の解説板を読んでみると、「よこやまの道と交差する…」とあります。 草深くて何だか心細い道ですが、正面の細い道がその「瓜生黒川往還」のように思われます。 黒川へ至るとのことなので、この道へと進んでいくことにしました。
瓜生黒川往還
「多摩よこやまの道」に交差するこの山道は、川崎市麻生区の黒川と多摩市永山の瓜生を結んでいた 江戸時代頃から近代にかけての往還道で、昭和の初めまで黒川の特産品であった「黒川炭」や「禅寺丸柿」などを 八王子方面や江戸市中に運ぶ近道でもありました。 また、武蔵六所宮(現・大国魂神社)の神前に供える汁物を調整していた黒川の汁守神社前から この尾根までの間に、「街道」を意味する「海道」の字名が今でも残っています。
瓜生黒川往還
入口は狭くて草深く、この先は大丈夫なのかと思いながら分け入っていくと、 次第にはっきりとした道になってきました。 左手には何故だか有刺鉄線が続いていました。
5分ほどで森を抜けると、目の前が開けてきます。 新しい団地でも出来るのでしょうか、広い土地が造成中でした。 その脇に続く道を進んでいくと、畑地の前に出ます。 右手に道が分かれていきますが、正面の道を進んでいきます。
次第に降り坂になってくると、舗装された道に変わってきます。 坂道を緩やかに降っていくと、左手に小さな海道ひだまり公園がありました。 公園を過ぎて更に降っていくと森の中へと入っていきます。 正面に竹林が見えてくると道が二手に分かれています。 右手の道を降っていくと谷戸へ降りていきます。 その先へ進んでいくと最初の黒川上営農団地のT字路の所へ戻りますが、 今回は左手の道を進んでいきました。 また直ぐに道が二手に分かれていますが、今度は右手の道を降っていきます。
竹林を抜けていくと、谷戸の少し高い所に続く道に出ます。 田んぼの中へと分かれていく道を見送ってその先へと進んでいくと、柿や梨の畑が続いていました。 その向こうには黄金色の田んぼが広がっていました。
道なりに進んでいくと、正面には最初の汁守神社の森が見えてきます。 車道に出て、向かい側の左手すぐの所にある坂道を登っていきます。
黒川交差点
ビニールハウスを見ながら降っていくと住宅地へ降り立ちます。 右折していくとT字路があります。 そこを右折して道なりに曲がっていくと、県道19号に出ます。 左折して県道を少し進んでいくと、黒川交差点があります。
南黒川第2公園
信号を渡って右手の道を進んでいくと、すぐに左手に短い石段があります。 その石段を登って行くと南黒川第2公園になります。 住宅地にある小さな公園です。
黒川(くろかわ)駅
公園を抜けて左手に進んでいくと、小田急線の線路のガードがあります。 その手前で道が右手に分かれていきます。 その道へ入って坂道を登っていくと、元の黒川駅(小田急多摩線)に着きます。