天神島
散策:2005年06月下旬
【海辺散策】 天神島
概 要 天神島は三浦半島の西側にある周囲1km足らずの小さな島です。 陸地との間に架かる短い天神橋を渡ると行けるので「島」という雰囲気は余りありません。 島の西側には岩礁が広がっていて海洋生物などが豊富な所です。 臨海自然教育園にもなっていて、自然がしっかりと保護されています。
起 点 横須賀市 佐島入口バス停
終 点 横須賀市 立石バス停
ルート 佐島入口バス停…鎮守面神社…東蔵寺…専福寺…十一面観世音菩薩…佐島漁港…熊野社…福本寺…神明社…天神橋…天神島臨海自然教育園…天満宮…天神島ビジターセンター…佐島マリーナ…南光院…十二所神社…淡島神社…秋谷海水浴場…立石…立石公園…立石バス停
所要時間 4時間10分
歩いて... 天神島の先端の岩場からは360度の眺めが広がっていました。 岩礁に打ち寄せる波が砕け散って礒の香りを運んできました。 近くにはヨットハーバーもあって、夏の海を感じることができます。 空気が霞んでいたので、立石での丹沢や箱根・伊豆などを背景にした絶景には残念ながらお目にかかれませんでした。
関連メモ 佐島・大楠山のみち, 佐島の丘, 天神島
コース紹介
佐島入口(さじまいりぐち)バス停
逗子駅(JR横須賀線)から、[逗5]横須賀市民病院行きバス、[逗6]長井行きバス、 [逗7]佐島マリーナ入口行きバス,または,[逗8]電力中央研究所行きバスにて32分、 1時間に4本から5本程度の便があります。
バス停から数10m引き返した所にあるT字路の信号を左折していきます。 道路の右手にはコンビニがあり、反対側には逆方向の佐島入口バス停があるので目印になります。 横断歩道を渡って真直ぐに進み、松越川に架かる佐島橋を渡って左手に曲がっていくとT字路があります。 少し遠回りになりますが、佐島入口バス停の進行方向の先にあるT字路を右折して 新佐島橋を渡ってくるとここへ来られます。 このT字路を右折して、県道213号を進んでいきます。
県道を100mちょっと進んでいくと佐島トンネルがあります。 幅が10mあるし長さも80mちょっとと短いこともあるのか、トンネル特有の狭苦しい感じはありません。 トンネル内には風も少し吹いていて、快適に歩いていけます。 トンネルを出た先の左手にある分かれ道を見送って、そのまま道なりに進んでいきます。
石切り場のように削り取られた山や小さなお地蔵様を見ながら400mほど進んでいくと、 正面にこんもりとした山が見えてきます。 県道は緩やかに右手へ曲がっていきますが、その手前で左手に分かれていく道へと入っていきます。
鎮守面神社
森沿いに100mほど進んでいくと右手に民家があります。 その横手にある細い道へと入っていきます。 青く塗られたトタン板の塀を過ぎていくと、程なくして鎮守面神社があります。 「鎮守社」の扁額が架かる鳥居をくぐり、 その先の大木の間にある短い石段を登っていくと、小振りの本殿があります。 近年になって復興されたようで、鳥居や狛犬なども小奇麗になっていました。
鎮守面神社
この神社は今から数百年前に先住民が此の地に守護社を建て村の繁栄を祈願し始め、 以来周辺を鎮守面と地名をつけたものです。 御神体には食物を与えて下さるイザナギ・イザナミの命を拝ぎ、 村民達は固い絆によって苦楽を共に暮してきた風習伝説が私共に教えています。 復興を契機に先祖の代表者が判明されました。 暖かく見守って居られると信じ、報恩の意を強く復興を決意しました。 これからも祭り事をもって、先祖の神々の恩に報いたいと社殿内に名記してあります。 復興にあたり共賛を賜われた方々と共に報恩の精神を貫く所存でございます。
 (鎮守社復興発起人)
神社を後にして、細い道を更にその先へと進んでいきます。 海の潮の香りが一段と強くなってくるとT字路があります。 その右手のすぐ先で左へ分かれていく道があるので入っていきます。 狭い路地を降っていくと広い道に出ます。 その先には海が広がっていました。 港になっているのか、陸揚げされた船がたくさんありました。
東蔵寺
広くなった道を右手へと進んでいくと、先ほどの県道213号に出ます。 天神島へは左手へ行くのですが、正面のすぐ右手に東蔵寺があるので立ち寄っていきましょう。 本堂は古い木造建築という訳ではなくて、今風の建物になっていました。
お墓参りの心得
一、先ず本堂のご本尊さまにお参りしましょう。
二、正月・春彼岸・盆・秋彼岸にお参りしましょう。
三、祥月命日にはお参りしましょう。
四、誕生日にもお参りしましょう。
五、祝いごとがあればお参りしましょう。
六、夢をみたらお参りしましょう。
七、迷いがおきればお参りしましょう。
八、歎きがあればお参りしましょう。
九、感謝と報恩のためにお参りしましょう。
十、近くに来たらお参りしましょう。
死ぬのがいやなら 念仏もうで 生きる念仏 ナムアミダブ ナムアミダブ
専福寺
東蔵寺から引き返して県道を進んでいきます。 海の街とあって海産物を売っている店もあったりします。 「釜揚げ佐島しらす直売所」というのもありました。 「佐島しらす」というのはこの辺りの特産なのでしょうか。 水産会社の所までくると、道路の右上に専福寺がありました。 境内は小振りでしたが、先ほどの東蔵寺と違って本堂は古い木造建築になっていて、 何やら風格を感じたりしました。
十一面観世音菩薩
専福寺を後にして県道を少し進んでいくと、左手にこんもりとした森があります。 そこへ登っていく坂道の入口には「三浦札所二十八番 十一面観世音菩薩、安産子育地蔵尊」と 書かれた看板が立っていました。 「海照山専福寺観音堂」とも記してあったので、先ほどの専福寺の一部なのかも知れません。 坂道を登っていくと、石段の先には十一面観世音菩薩を祀るお堂がありました。 境内には摩利支天碑もあり、裏手には四角や丸の石で出来た石塔も並んでいました。 また横須賀佐島テレビ中継放送所のアンテナもあったりします。 境内は小高い場所にあるので、海辺を見下ろすことができました。
木造 十一面観世音菩薩坐像 一躯
十一面観世音菩薩坐像は、現在「観音ばな」と呼ばれる出崎に建つ専福寺境外の観音堂に安置されています。 寺伝や江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」によれば、もとは付近に存在した観妙(明)寺の本尊だったものです。 本像は像高40.1センチで、構造は玉眼を嵌入したヒノキ材の寄木造です。 その形姿は頭頂に仏面と十面をいただき、右手は仰向けて膝上に置き、左腕を曲げて蓮華を持っています。 頭には宝冠をつけ、放射光の頭光を負い、蓮華座に安座しています。 尊顔は力強さを残し、左足を右脛の上に組んだ膝前の衣文表現は室町後期風で、 木彫像として総体的にまとまりの良さを見せています。 造立事情が記された古文書から、北条氏康の家臣で、佐島に知行地を持っていた糟屋清承が、 天文19年(1550)に、鎌倉仏師長盛に作らせたことがわかります。 作者・年代などが明確な室町時代後期の基準作として、彫刻史上価値の高い作例です。
 (横須賀市教育委員会)
佐島漁港
県道に戻ってその先へと進んでいきます。 佐島港バス停を過ぎていくと、左手には佐島漁港が広がっています。 魚市場や漁協の建物も見えています。
第2種 佐島漁港
所在地:神奈川県横須賀市佐島3丁目1459番15地先
管理者:横須賀市経済部農林水産課
所官庁:水産庁
この漁港は、横須賀市が管理する第2種漁港です。 この漁港で、管理者に許可なく漁船以外の船舶の停けい泊、陸置き等をすることはできません。 また、漁港施設の利用料等を徴収することは、管理者以外には認められておりません。
 (漁港管理者 横須賀市)
活魚・貝類の卸小売の店の所で十字路があります。 左手は魚市場や漁協への道ですが、右手の先に神社やお寺があるので立ち寄っていきましょう。
熊野社
右手の路地を進んでいくと、左へ曲がっていく所で右手に分かれている道があります。 その道へ入っていくと、鳥居の先に熊野社があります。 石段を登っていくと、岩を削ってできた垂直に切り立つ崖のそばに本殿がありました。 狭い境内には船漁神社や御嶽大神も祀ってありました。
佐島A急傾斜地崩壊危険区域
この区域内で、のり切り・掘削・伐採等を行う場合は、知事の許可が必要ですから、 左記へお問い合わせ下さい。
 (神奈川県横須賀土木事務所)
こんながけにご用心!
あなたの家の近くのがけが下のことがらにあてはまる場合は注意が必要です。
・傾斜が30度以上。
・高さが5m以上。
・厚さ1〜2m程度の表土に覆われている。
・岩が露出していて(浮き石がある)亀裂があったり湧き水が見られる。
・がけ上の雨水が1箇所に集中して流れこむ。
・がけが張り出している。がけ下に以前崩れた土砂が多量に溜まっている。
・過去に崩れたことのあるがけに隣接している。
 (神奈川県横須賀土木事務所、横須賀市傾斜地保全課)
福本寺
熊野社の左手の坂道を少し登っていくと福本寺があります。 本堂はご開帳されていて、金ぴかの大きな仏像が燦然と輝いていました。
仏前結婚式…
境内には沢山の車が止まっていました。 何だろうと思っていると、黒い礼服姿の方々が出てきました。 しばらくすると白無垢の花嫁さんが出てきました。 仏前結婚式が執り行われて丁度終わったところのようでした。 花嫁の手に携えられた数珠が印象的でした。 白い内掛けに真っ白な角隠しをして、介添えの両親と共に静々と歩いてきて、 待機していた自動車に乗っていきました。 これから披露宴の会場へ向かうところなのでしょう。 洋式の結婚式が増えている近年にあって、まだまだ昔からの伝統が残っていました。 角隠にはここ何年もお目にかかっていなかったので、何だか懐かしく思えたりしました。 どうぞお幸せに。
福本寺略歴
名称 降鏡山 福本寺
開基 清涼禅定文 明応2年2月18日寂
開山 方誉岸了大和尚 永正4年3月23日寂
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
木質座像御丈四尺三寸 三浦大介公後生佛と稱す。 京佛師山岸伝右衛門丞重治作
脇壇 薬師如来 三浦札所十六番
不動明王 三浦札所二十一番
本堂 旧本堂は明治26年5月火災のため全焼。 同31年5月再建。 大正12年9月大地震により倒壊。 更に昭和5年5月再建。 同31年11月屋根瓦葺に改修し現在に至る。
庫裡 明治26年5月焼失。 同31年5月再建。 その後老朽のため昭和44年3月新築し現在に至る。
鐘堂 昭和11年11月再建す。 梵鐘に文学博士塩谷温先生の銘文を刻す。
 (當山二十一世 順誉識)
県道に戻ってその先へと進んでいきます。 その前に魚市場に立ち寄っていく途中で、山車が出されて整備が始まるところに出会いました。 先ほどの熊野神社の船祭りに使われる山車のようです。 これ以外に神輿も出るようです。 祭りの日が近づいているのでしょうか。
佐島御船歌 附 佐島船祭り御座船絵図三点
御船歌は御座船歌とも呼ばれ、江戸時代の将軍や大名が御座船に乗るときや新造船の進水式などに 船手によってうたわれた歌です。 江戸時代の後期になると、漁村の船祭りに御座船を模した御船が登場し、御船歌もうたわれるようになりました。 佐島で代々船大工を営んできた家には、 漁船を飾り板などで装飾した船祭りのための御座船を描いた図絵が残されています。 そのうちの一枚には安政5年(1858)銘があり、このころにはすでに佐島の船祭りが行われ、 御船歌もうたわれていたと思われます。 佐島の御船歌は四十八曲あるとされますが、その中でも役歌と呼ばれる重要な歌があります。 「初春」,「みだくどき」,「たまぼこ」,「いせのながと」,「まつぞろい」などで、 祭礼のときや正月の初参り、春と秋のお神楽など季節の節目や祝い事の宴会などでうたい継がれています。
 (横須賀市教育委員会)
県道を進んでいくと、左手には小舟が沢山浮かんでいました。 浜辺には海藻も打ち揚げられていて、海の香りを漂わせていました。 向こう側にはこれから向かっていく佐島マリーナも見えています。
津波注意
地震を感じたら海浜から離れ、安全な場所に避難しましょう。
この地点の海抜は2.7mです。
 (横須賀市消防局)
神明社
佐島マリーナ入口バス停を過ぎていくとT字路があります。 その少し手前に「神明社」と刻まれた小さな石碑と鳥居が立っていました。 その先には細い石段が山の上へと続いているようだったので、ちょっと立ち寄っていくことにしました。 かなり急な石段を3分ほど登っていくと、木製の鳥居の先に祠がありました。 その脇には「大亀三社大明神」と刻まれた石碑もありました。 振り返ると、樹間からは佐島マリーナが見えていました。 マリーナのあるこの佐島の海を見守っているのでしょうか。
天神橋
県道へ戻ってその先のT字路を左折していきます。 途中には天草の無人販売所などがあったりします。 民家が建ち並ぶ中を150mほど進んでいくと、かながわの橋100選にも選ばれている天神橋があります。 この橋を渡ると天神島になります。
ところてんの作り方
天草:1袋、水:2.5リットル、酢:ペットボトルのキャップ2杯
水洗いした天草と酢を沸騰した鍋に入れて中火でトロトロになるまで20分煮ます。 「ざる」に木綿の布巾をひいてその口を絞り、おたまで押しながら何度も繰り返しこします。 容器に流し込み固まれば出来上がりです。
天神島臨海自然教育園
天神橋を渡っていくと、道は左手へと曲がっていきます。 左手に行くと、天神島ビジターセンターや佐島マリーナがあるのですが、 先ずは角の右手にある天神島臨海自然教育園へと入っていきます。 入口には横須賀風物百選にも選ばれている「北限のはまゆう」の標柱も立っていました。 教育園ということで、園内には自然に関する解説板が各所に設置されていました。
天神島臨海自然教育園・ビジターセンター
入園・入館 無料
開園・開館 午前9:00〜午後5:00(4月1日〜9月30日)
午前9:00〜午後4:30(10月1日〜3月31日)
休園・休館日 毎週月曜日・毎月末日(土・日・月曜日の時は、これらの日以外の日に繰上げる)・年末年始
行事 教育園案内・教育園教室・自然観察会など。 教育園の自然を楽しみながら学習します。
教育園は、自然観察と自然環境の保護、調査研究などの教育的利用を目的としています。 園内での次の行為はお断りします。 マナーを守り、自然を大切にしましょう。
・「笠島」に無断で上陸すること
・漁業権者以外の者が釣り・モリ・網等の採集用具を持って入園すること
・園内や保護海域内の動物・植物・海藻・岩石などを採集すること
・保護海域内で許可なく遊泳や潜水行為をすること
・保護海域内でボート・帆走遊具・カヌー・ヨット・小型船舶の使用、停泊をすること
・園内でレジャー用具や火気を使用すること
・飲酒・喫煙すること、ペットを持ちこむこと
・無断で商業用の撮影・行為をすること
・その他、教育園・ビジターセンターの保全・管理・運営のさまたげになる行為をすること
 (横須賀市自然・人文博物館)
門をくぐって入っていくと、砂浜の向こうには岩がゴロゴロした磯が続いていました。 沖の方に浮かんでいるのが笠島で、うみねこ等の繁殖地になっているのだそうです。
神奈川県指定天然記念物 天神島・笠島および周辺水域
横須賀市佐島の天神島および笠島周辺は、三浦半島を代表する動植物が分布しており、 また地質学上でもきわめて重要なところです。 天神島は周囲1キロメートルたらずの小島でハマユウの群落、およびハマボウがみられ、 その分布は植物地理学上、日本の北限となっています。 またこの島に生育する海岸植物の総数は146種にも及びますが、 このように種類、数のまとまったところは他地区ではみられません。 となりの笠島は天神島と同じ凝灰岩からできている小島で変化に富んだ岩礁をかたちづくり、 各種の海産動物の生息水域に囲まれています。 この地域は、動物・植物・地質学上の豊富な資料が狭い範囲に調和をみせており、 その景観とともにたいへん貴重な地域です。
 (神奈川県教育委員会)
神奈川県指定天然記念物 ハマオモト(ハマユウ)
ハマオモトは海岸に生息し、その形がオモトに似ていて古来からハマユウの名で知られています。 暖地性の海浜地植物の代表的なもので、ヒガンバナ科に属します。 多数の葉鞘が互いに巻きあって直立し、太い円柱状をした、いわゆる偽茎からオモト状に葉が四方にのびます。 偽茎の内部は白色です。花は夏に葉の間から花茎を出し、十数個の白い花が方形に開き、 たいへん上品な香りをはなちます。 ヒガンバナ類は花に副花冠がありますが、ハマオモト類にはこれがありません。 ハマオモトは二枚の箆状苞と下部が筒形をした六枚の花被からなっています。 雄しべが六本、雌しべは下生子房で種子は大きいが数は少ないです。 普通群生し、天神島はハマオモトの自生地としてわが国の北限です。
 (神奈川県教育委員会、横須賀市教育委員会)
【3】逆転した地層
天神島の地層は一般に南西側に50度傾斜しているので、北東部に古い地層が分布しています。 天神島の北東部(教育園入口付近)から佐島側に分布する地層は、上下が逆転して北東に急傾斜しています。 地層が堆積した海底はほぼ水平でしたので、その後に力が加わって傾斜した地層になりました。
近くの学校の生徒達でしょうか、先生に引率されて海辺の植物などを写生していました。
天神島の海岸植物と海藻
天神島の地形は砂浜や岩場・塩沼地など環境が多様なため、多くの海岸植物が一年を通じてみられ、 厚く光沢のある葉・長くはう茎・海水に浮く果実など、海岸という環境に適応した植物の多様な姿を観察できます。 ハマオモトはハマボウなどは、神奈川県では天神島だけで見られ、ここを北限としています。 周辺の海底にはカジメやアラメなどの海藻だけでなく、アマモ・タチアマモ・コアマモなどの海草が群生し、 海の森林ともいえるアマモ場をつくり、そこでは多くの海の生物が暮しています。 海岸に打つ上がったリボン状の緑の葉はアマモの仲間の葉です。 初夏には米粒のような実を穂状につけます。
 (横須賀市自然博物館)
天神島周辺の海岸動物のなかま
天神島周辺の海岸では、いろいろな種類の海岸動物が観られます。 ここには代表的な9つの動物グループを紹介してありますが、それぞれのグループによっては、 種類週や生活している場所にちがいが観られます。 天神島周辺の海岸で数や種類がもっとも豊富なグループは、 節足動物(エビ・カニ・ヤドカリ類)や軟体動物(貝・イカ・タコ類)などです。 海岸動物の代表的な生活場所には、岩場・転石場・砂場・泥場などがあり、 限られた生活場所にすむものや広い生活場所をもっているものなどがあります。 また潮の干満時間・動物の成長段階・日光量の多少などによって、これらの生活場所を変える海岸動物もいます。
海綿動物(カイメン類)、 刺胞動物(サンゴ・イソギンチャク・クラゲ類)、 触手動物(コケムシ・ホウキムシ類)、 紐形動物(ヒモムシ類)、 扁形動物(ヒラムシ・ヒル類)、 軟体動物(イカ・タコ・貝類)、 棘皮動物(ウニ・ナマコ・ヒトデ類)、 環形動物(ゴカイ・ミミズ類)、 節足動物(エビ・カニ・ヤドカリ類)
天神島周辺の野鳥
相模湾の沿岸から記録されている海上生活型の野鳥の種類は、およそ10科50種があります。 相模湾の東側にある天神島臨海自然教育園周辺の海岸や海上でも一年を通してこれらの野鳥をみることができます。 気候の温暖なこの地域には、冬になるとウミウやカモメのなかまのウミネコが集ります。 初夏のころの海上では、オオミズナギドリの大群がみられます。 佐島地域は昔からイワシ漁が盛んで、小田和湾の海上にはたくさんのイワシいけすが置かれています。 このいけすの魚を目当てに、多くの野鳥が集りますが、近ごろではトビやカラス、コサギやアオサギなど サギのなかまも増えてきました。 天神島の小さな社寺林も野鳥にとっては憩いの場です。 カワラヒワやキジバトなどの繁殖もみれれ、最近では高木にトビが巣をかけることもあります。
 (横須賀市自然博物館)
砂浜の左手には礒伝いに少し先まで歩いていくことができます。 潮溜まりでは子供たちがカニなどを捕ったりして遊んでいました。 それを父親がビデオで撮影して…。 長閑な休日のひと時が流れていました。
海辺の昆虫
体の小さな昆虫にとって、塩を含む海水は体の水分を奪うので、生活する上で大きな障害になります。 また、直射日光が当たる場所は、気温が著しく上昇したり、乾燥しますので棲みにくい環境です。 さらに、植物があまり生えていない砂浜などは餌が少なく、身を潜めるような物陰もありません。 昆虫はこのような厳しい環境で生活するために、様々な工夫をしては環境に適応しています。 小さく目だたないためにあまり関心が向けられていませんが、海辺の昆虫にしばし目を向けてみましょう。 天神島は小さい島ですが、砂浜・岩礁・海岸林など昔ながらの多様な海岸環境を保っています。 このために天神島は日本でも数少ない海辺の昆虫の宝庫です。 自然教育園はこうした目だたないが、かけがえのない生物を含めて保護しています。
内湾 ケシウミアメンボ、ウミハネカクシ
波打際・岩礁・転石帯 ウミベダルマガムシ、アバタウミベハネカクシ、アカウミベハネカクシ、ヒメケシガムシ、ハサミムシ、イソジョウカイモドキ
砂浜 ホウタンゴミムシ、ハマヒョウタンゴミムシダマシ、スナゴミムシダマシ
海浜草地 オンブバッタ、ショウリョウバッタ、ハラナガツチバチ、ハマオモトヨトウ、ハイイロカミキリモドキ、ハマベアワフキ
低木帯 キアシナガバチ、シロコブゾウムシ、イヌビワコバチ、ハラビロカマキリ
海岸林 ミンミンゼミ、アブラゼミ、カナブン、ウバタマムシ、ジャコウアゲハ
 (日本昆虫図鑑ほかより)
【2】火山豆石
火山豆石の内部は、同心円状の構造となっています。 火山豆石は、火山が水蒸気爆発を起こして空中高く上がった噴煙柱内で成長して、 水底または地表に落下したものです。 火山豆石は火山の火口から20km以内の地域しか見つかっていません。 したがって当時の三浦半島付近の海底の様子は、今の伊豆火山諸島近海のようであったと推定できます。
注意
・保護棚の中へは入れません。
・園内や保護海域内の動植物・岩石の採集は禁止です。
・保護水面海域での遊泳は禁止です。
・園内でレジャー用具と火気の使用は禁止です。
・許可なく潜水用具は使用できません。
・許可なく「笠島」への上陸はできません。
・自然環境の保存や管理のさまがけになる行為は厳重に禁止します。
 (横須賀市自然・人文博物館)
礒伝いに進んでいくと、小広い草地の先には岩畳が広がっていました。 振り返ると、こんもりとした森がありました。 礒伝いの道もこの辺りで終わりになり、残念ながら島を一周することはできません。
【1】堆積構造
「級化層理」 水中では粗い粒子が先(下)に細かい粒子が後(上)に沈殿します。 地層を観察して、どちらが先に堆積したかを考えましょう。
「斜交層理」 流れの速い水中では、地層は平行に重ならないで、下位の地層面に斜交して堆積することがあります。 どの方向からの水流があったかを考えましょう。
礒の先まで出てみると、相模湾を一望できる360度の眺めが広がっていました。 打ち寄せる波が岩に当って砕け散り、心地よい音をたてていました。 この時は干潮時だったのか、潮溜まりを越えてかなり先の方まで行くことができました。
天神島の地質
天神島の岩石は、およそ500万年前の海底に堆積した土砂と火山灰が固まってできたものです。 この岩石は、三崎層(の上部層が露出)と呼ばれ、南西に傾斜しています。 したがって島の北東に古い地層が、南西に新しい地層が分布しています。 火山灰が固まってできた凝灰岩のなかには、火山の性質が推定できる特異な岩石のひとつである火山豆石が含まれています。 火山豆石は、火口付近から20km以内の地域に限りみつかっており、巨大噴火にともなって生成されます。 天神島を含む佐島地域の地層は、三崎層から構成されています。 三崎層には、下位にKn(観音鼻)凝灰岩鍵層(佐島港の東に露出)が、 上位にSo(塩汲)凝灰岩鍵層(佐島港の800m北に露出)が挟まれています。 Kn層は650万年前(鍵層の上下の地層に含まれる石灰質ナノプランクトンはCN9化石帯に対比)、 So層は600万年前(CM10b化石亜層)のものです。 当時の海の水深は、化石の研究によると約1000mあるいはもっと深かったかもしれません。 佐島の北部には、石切場跡が数ヶ所残っています。 石材が1970年頃まで盛んに切り出されていました。 石材用の岩石は、三崎層最上部の凝灰岩です。 天神島の地層の観察を通して、三浦半島形成のダイナミックなシナリオの一部分をつくることができます。
(1) 「堆積構造」は天神島の地層が堆積したおよそ500万年前の海底の堆積環境を復元する資料です。 「斜交層理」は地層堆積当時の東南東→西北西の沿岸流の存在を復元でき、 「級化層理」は古い(下位の)地層が北西に存在することを示しています。
(2) 「火山豆石」は火山のあった位置を推定する手がかりとなります。 研究結果によると天神島の南西沖合に火口の存在が考えられます。
(3) 「逆転した地層」は三崎層堆積後あるいはそれ以降の三浦半島南部地域に加えられた地殻変動の激しさを物語っています。
天満宮
天神島臨海自然教育園から元の道に戻り、 「天神島ビジターセンター」の標識に従って右手へ進んでいくと、右手の森に鳥居が立っていました。 そこから森の中へと参道が続いていました。 その先には小さな祠がありました。 先ほどの海岸から見えていた森の中にある天満宮です。 森を通って海へも出られそうでしたが、立入禁止の看板が立っていました。 天満宮の鳥居のそばには吉野秀雄の文学碑がありました。
吉野秀雄の文学碑
昭和29年7月の下旬に、吉野秀雄は横須賀に住む知人から「佐島のハマユウが咲き出したらしい」との連絡を受けて、 ここ天神島を訪れた。 その日、秀雄は鎌倉の家から逗子に出て、芦名行きの臨時バスに乗っている。 初めは満員であった客も、森戸・一色・長者ヶ崎や久留和・秋谷などの海水浴場でだんだんに減り、 終点の芦名で降りたのは、秀雄ただ一人であったという。 碑の歌は、この時に読まれたもので、昭和33年10月に「寒蝉集」と新編「晴陰集」を収録して出版された 「吉野秀雄歌集」に収められている。 秀雄は明治35年7月、群馬県高崎市に生まれた。 大正11年慶応義塾大学経済学部に進むが、13年喀血して帰郷、長年にわたる療養生活がここに始まった。 そしてこのころから、子規・左千夫以下のアララギ派歌人の歌集を読み、 作歌を志すなど、国文学を独修することになる。 昭和6年鎌倉に転居し、8年にはかねてから私淑していた会津八一に初めて会っている。 秀雄は生涯病気と闘いながらも、自らの信念に基づいて作歌し続け、ついには独自の歌風を打ちたてた。 歌集は前記のほかに「天井凝視」「苔径集」「早梅集」、没後出版の「含紅集」があり、 他に歌論集「短歌とは何か」、随筆集「やはらかな心」などの著述もある。 昭和42年7月、鎌倉市小町の自宅で逝去、生前こよなく愛した瑞泉寺に眠る。
 (横須賀市)
注意
自然教育園、および自然保護地域につき立入を禁止します。 入園される方は自然教育園正門よりおはいり下さい。 違反者は法令により処罰されます。
 (横須賀市博物館、横須賀市博物館附属自然教育園)
天神島ビジターセンター
天満宮を出た所にあるY字路を右手へ進んでいくと、天神島ビジターセンターがあります。 1階には展示ホール・学習室、2階には展示室・図書室があって、 天神島とその周辺地域の歴史・漁業・自然などが紹介されています。 3階には講座室・会議室・集会室などがあります。 先ほどの教育園のマップが描かれたパンフレットなども貰えるので、勉強がてら立ち寄っていきましょう。 この時は、熊野神社の祭りの様子が写真で展示されていました。 魚市場の手前で見かけた山車も写っていました。 やはりこの祭りに使う山車のようです。
天神島臨海自然教育園
天神島は相模湾に面した三浦半島の西海岸にあり、江ノ島・丹沢山地をはじめ、 箱根や富士山、伊豆半島の山並み、伊豆大島までながめることができ、 三浦半島でもとくに自然景観に恵まれた景勝地です。 島には多くの海岸植物が育ち、海岸や周囲の海には多様な海洋動物が見られます。 海岸植物の代表であるハマユウは、天神島が北限地で、1953年に神奈川県の天然記念物の指定を受けました。 さらに天神島と笠島、周辺海域の自然保全のため、 1965年には県の名勝にも指定され海浜の動植物や景観を保全し、 自然教育の場ちして利用するため博物館が管理・運営しています。
 (横須賀市自然・人文博物館付属天神島臨時自然教育園)
佐島マリーナ
天神島ビジターセンターから戻ってY字路の左手の道を先の方へと進んでいくと、佐島マリーナがあります。 港には帆を降ろしたヨットが沢山係留されていました。
お願い
航路内への釣り糸の投入はご遠慮願います。
中根灯標までの間、港内徐行
 (SAJIMA MARINA)
天神橋を渡って県道まで引き返し、左折して県道を更に進んでいきます。 水産会社を過ぎていくと防波堤の先には砂浜が広がり、 真夏を待ちきれないのか、家族連れが早くも浜辺で遊んでいました。
魚貝藻類の採捕を禁ず
ジェットスキー禁止
 (横須賀警察署、大楠漁業協同組合)
ゴミ、犬のフンは持ち帰って下さい
 (横須賀市)
南光院
湘南サニーサイドマリーナやグリーンクラブ芦名マリーナを過ぎていくと、再び浜辺に近づきます。 その右手にある石段を登っていくと南光院があります。 入口にはコンクリートに貼り付けられた仏像が沢山集って円錐形になったものがありました。 その先には薬師如来や好塔がありました。
南光院 薬師如来
薬師信仰は、推古15年(607年)聖徳太子が、父用明天皇の病気平癒を願って、 法隆寺金堂に薬師像を造ったことにより始まり、以来、病気平癒のため、 多くの薬師如来をまつる寺が建てられました。 これによって、広く信仰がいいはやされ、その信仰は、宗派に関係なく今も生きつづけており、 薬師を信仰することによって、諸病の平癒、ことに眼病の治癒に効験があると信ぜられています。 私は、皆様の壮健を願うことによって、自身の長命を佛に感謝する気持ちから、この薬師像を造りました。 末永く信仰されることを願います。
 (東京 井本寅吉)
南光院から県道に戻って進んでいくと、すぐに小さな橋の先で道が二手に分かれています。 右手の道を500mほど進んでいくと、国道134号の芦名バス停へ出られます。 このまま芦名バス停へ向かって散策を終わりにしてもいいのですが、まだお昼を少し回った頃だったので、 1.5kmほど先にある立石公園まで海沿いを行くことにしました。
芦名マリン・リゾート発祥の地
相模湾から富士山を望める、この場所には、関東大震災まで網元の井本家が居を構えていた。 太平洋戦争終了後まもなく、横浜の時計商・臼井和助翁が土地を借受け、 別荘を建て漁船を備えて、この地の豊かな漁場で釣りを楽しんだ。 近くの横須賀の米海軍将校の瀟酒な住宅やボートハウスと共に、 今日の芦名マリン・リゾートの先駆けであった。 半世紀以上前の事を知る人も僅かになった現在、これを記念してこの銘を記します。
 (2003年初春吉日)
十二所神社
分岐を左手に曲がっていくと、すぐ右手に「十二所神社」と刻まれた石柱が建っているので、 その道へと入っていきます。 「芦名マリン・リゾート発祥の地」の銘板を過ぎ鳥居を過ぎて石段を登っていくと、 森に囲まれた境内に十二所神社がありました。
十二所神社
明治初期の頃までは、三浦十二天、または十二天明神と呼ばれていました。 祭神は、天地創造の神話に登場する天の神国常立尊から七世代、地の神天照大神から五世代の神々です。 神社の確実な創建年代については不明です。 現在の大楠小学校門前に城山と言われている台地があり、そこに三浦大介義明の弟三郎為清の館があったと伝えられ、 その鎮守として祭られたのがこの神社であると言われています。 また、一説には、この神社の裏山から、平安時代末期の布目瓦が出土しており、 すでに相当規模の集落をなしていたことが明らかになっております。 当神社のいわれに「平安時代には十二天といわれ」とあることがうなずけます。 いずれにしても、古い歴史をもった神社であることがうかがえます。 寿永元年(1182)8月、源頼朝は、妻政子の安産祈願のため、箱根権現や伊豆山権現など 近国の十二社に特使を派遣しました。 この神社も、その一社に選ばれました。 源平合戦一の谷で勇名をとどろかせた三浦大介義明の子佐原十郎義連が、頼朝に代わって参詣をしています。 天正19年(1591)11月には、徳川家康から社領として朱印二石の寄進を受けています。 更に、文政2年(1819)3月13日には、会津藩主松平容衆の代理として郡奉行石沢義則が、 盛大に祭りを行ったことが記録として残っています。
淡島神社
社殿の左手にある小さな「帯解地蔵・淡島神社 海岸道へ行けます」の道標に従って、 左手に降っていくと、すぐに分岐があります。 右手の角には帯解地蔵が祀られていました。 道標「淡島神社 海岸道へ行けます」に従って右折して民家の脇を抜けていくと、 小さな龍宮社の先に淡島神社があります。
淡島神社の祭礼
「あわせてください淡島様よ、お礼参りは二人づれ。」と、底抜け柄杓の柄に麻を結んで奉納する祭礼は、 桃の節句の三月三日に行われます。 この地方の祭りの始まりです。 現在、市内で行われている祭りのうちでも、最も古くからの民間信仰をよく伝えている行事の一つで、 民俗資料としても貴重な存在です。 この神社の創建年代は不明ですが、恐らく隣接する十二所神社と同じころの平安後期ではないかといわれています。 祭神は、少彦名命で、体は小さく敏しょうで、忍耐力に優れ、 大国主命と協力して国土の経営にあたり、人々や家畜のために医薬やまじないを行った神としてあがめられています。 当社の淡島明神は、和歌山市の加太神社のみ霊をここに迎えて祭ったものです。 淡島明神は天照大神の妹で、住吉明神のきさきとなった神でしたが、 「こしけ」の病気があるために離縁となり、綾の巻物と神楽の太鼓を天の岩船に積み込んで 紀州の淡島(粟島)に流されました。 その地で、女であるがために腰の痛みの苦悩から人々を救うことを誓って神になりました。 底抜け柄杓に麻を結んで奉納するしきたりは、病の救済信仰によるもので、 それが、安産、縁結び信仰に結びついたものといえます。
淡島神社の前の石段を降り民家の間を抜けていくと海岸道に出ます。 そこを右折して更に先へと進んでいきます。 大楠漁港を過ぎていくと舗装道路は終わりになり、その先には岩場が続いていました。 岩場を進んでいくと砂地になってきました。 付近の状況からすると、満潮時には水没して歩いて行けないような感じでしたが、 この時は干潮時だったようで、なんとか小さな岬を回ってその先の入江まで辿り着くことができました。
注意
1.この附近の海(漁業権区域内)で貝類(あわび、さざえ)等、海藻類をとらないでください。
2.水中銃、アクアラング等を使って魚、貝、海藻類をとってはいけません。
3.薬品等を用いて餌むし(いそめ、ごかい)等をとってはいけません。
違反者は法令により処罰されます。
 (神奈川県、横須賀警察署、大楠漁業協同組合)
危険
落石があるので崖に近寄らないこと。
 (横須賀市)
秋谷海水浴場
入江の奥にあるコンクリート壁の間にある細い階段を登って道路へ出ます。 左折して民家の間を真直ぐに進んでいくと石段が現われました。 その石段を登っていくと、小山を越えて降るようになります。 降り切った所の前田川に架かる小さな城山橋を渡っていくと、左手には秋谷海水浴場が広がっています。 向こうに見える海に突き出た所が立石になります。 舗装道路も続いていますが、立石まで砂浜を歩いていくことにしました。 気の早い若者達や家族連れが海を楽しんでいました。 営業しているのか、海の家もできていました。
立石
小さな川の流れを越えて砂浜を進んでいくと、海に大きな岩が聳えています。 これが「立石」です。 その先にある海に突き出た岩場は「ぼんてん」といって自生する松がポツンと生えていたりします。 いい眺めなので、そこまで行ってみましょう。
横須賀市指定市民文化資産 立石
海上の波打ち際近くに突き出ている岩で、高さ約12メートル。 昔から、三浦七石の一つに数えられている。 景観の美しさは古くから知られ、初代安藤広重らが描いている。
 (横須賀市)
ぼんてん
小高くなった「ぼんてん」の先は岩場になっていて、 相模湾の向こうには遠く丹沢・箱根・伊豆の山々や富士山までも眺められる素晴らしい景色が広がっているのですが、 この日は生憎と霞んでいて、残念ながらほとんど見えませんでした。 しかし、この先の方の海に突き出た長者ヶ崎ははっきりと見えていました。
横須賀風物百選 立石
波打ち際に空へ無化手突き出ている巨岩を「立石」と言い、 同時に、この付近の地名をも立石と呼んでいます。 この巨岩は、約2500万年前、海底に積み重なってできた地層が固まって、 長い間、波に削られてできあがったものです。 地質は凝灰岩で、高さ約12メートル、周囲約30メートルです。 「立石」は、奇岩としての価値よりも、「立石」の先に張り出ている「ぼんてん」と呼ばれる岩場と、 そこに自生する松、さrには海をはさんで、丹沢・箱根・伊豆の連山や、 その上に浮き出た富士の借景により絵画的な構図に真価を見いだせます。 伊勢の二見が浦の夫婦岩も同じことで、二つの岩を結ぶしめ縄と、その間から昇る真紅の朝日があって、 初めて夫婦岩が生きてきます。 江戸時代の風景画家、初代安藤広重は、ここ立石の絶景を「相州三浦秋屋の里」と題して描いています。 この「立石」の風景は、空気の澄んだ晩秋から冬にかけてが最高です。 その季節になると、アマチュアカメラマンが「立石」に落日のかかるのを 存亡強く待ち構えている姿を多く見かけます。
立石公園
「ぼんてん」から引き返して立石公園を通っていきます。 公園内には泉鏡花の歌碑があったりします。 大きなカナリーヤシを過ぎていくと国道134号に出ます。 そこを右手に100mほど進んでいくと、立石駐車場の信号の先に立石バス停があります。
草迷宮
大崩壊の巌の膚は、春は紫に、夏は緑、秋紅に、冬は黄に、 藤を編み、蔦を絡い、鼓子花も咲き、竜胆も咲き、 尾花が靡けば月も射す。
 (泉鏡花)
泉鏡花の文学碑
「草迷宮」は、泉鏡花が仮住まいのつもりであった逗子で執筆し、明治41年に出版された。 主人公・葉越明が、幼い頃に亡き母から聞いた手毬歌をもう一度聞いてみたいと、 それだけを念願に豊前・小倉の故郷を出て諸国を訪ね歩いた末、 ついに三浦郡秋谷の里、鶴谷の別宅で探り当てるという主題を軸にこの作品が描かれている。 鶴谷邸のモデルは長屋門のある若命家と言われているが、フィクションも多い。 鏡花は、明治6年石川県金沢市に生まれ、本名は「鏡太郎」。 明治22年、尾崎紅葉の「二人比丘尼色懺悔」を読み感激。 翌23年、小説家となるため上京、一年の放浪生活の末、紅葉の玄関番として寄宿し門下生となる。 明治28年、「暗夜行路」や「外科室」を発表。ともに世評高く、観念小説群の一角を占めた。 その文壇に与えた衝撃は大きく、鏡花の名は、新進作家として知られるに至った。 明治33年に「高野聖」、35年には「女仙前記」を発表。小説界の第一人者となる。 9歳で母を亡くしたが、亡き母への憧憬は「照葉狂言」などに描かれている。 また、処女作「冠弥左衛門」をはじめとして、世の貧しい不遇の人たちを描いた作品を数多く発表した。 生涯300有余の作品を世に送り、晩年には帝国芸衛院会員。昭和14年没。 代表作に「高野聖」、「春昼」、「春昼後刻」、「歌行燈」、戯曲「天守物語」などがある。
 (横須賀市)
立石(たていし)バス停
逗子駅(JR横須賀線)まで、逗子駅行きバスにて25分、 1時間に5本程度の便があります。