たちばなの散歩道
散策:2005年04月中旬
【街角散策】 たちばなの散歩道
概 要 たちばなの散歩道は川崎市の中ほどにあって、貝塚や古墳や寺社などをつなぐ5kmほどの歩道です。 散歩道のコースには交通量の少ない道が選ばれていて、 往時を偲びながらのんびりとした散策を楽しむことができます。
起 点 川崎市 子母口バス停
終 点 川崎市 梶ヶ谷駅
ルート 子母口バス停…子母口貝塚…蓮乗寺…橘樹神社…伊藤家の長屋門…富士見台古墳…能満寺…影向寺…野川神明社…影向寺台橋…安全地蔵尊…市民プラザ…梶ヶ谷第三公園…梶ヶ谷第一公園…梶ヶ谷駅
所要時間 2時間50分
歩いて... 散歩道の途中には案内板が各所に設置されています。 コース地図が載っていて道順がよく分るようになっているので、迷うこともなく安心して歩いていけます。 距離も短いので、思いたったら気軽に訪れることができる散歩道です。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
子母口(しぼくち)バス停
武蔵新城駅(JR南武線)の南口にある新城駅バス停から、 [川63]川崎駅西口行きバス、[川63]上平間行きバス、[川63]元住吉行きバス、[川63]労災病院前行きバス、 [川63]井田営業所前行きバス,または,[川68]井田病院行きバスにて5分、 1時間に3本から4本程度の便があります。
バス停から少し引き返した所にある信号を渡り、その先の坂道を登っていきます。 角には「たちばなの散歩道」の案内板があるので参考にしましょう。 このような案内板がコース沿いに点々と設置されていて、迷うことなく歩いていけるようになっています。 コースの各ポイント間の距離も記載されています。 それによると、合計で5,000mのコースになります。 先ずはこの図に記されている子母口貝塚を訪ねます。
梶ヶ谷駅…550m…梶ヶ谷第一公園…800m…梶ヶ谷第三公園…250m…市民プラザ…1,300m…野川明神社…200m…影向寺…200m…能満寺…700m…富士見台古墳…350m…橘樹神社…250m…子母口貝塚…400m…子母口バス停
坂道を登っていくと道が二手に分かれています。 そこを左手に進んでいくと、またすぐに二手に分かれています。 更に左手に進んでいくと、角に赤い鳥居の小さな社が建つT字路があります。 コースはここを右折していくのですが、 正面の道を少し行った所に子母口貝塚があるので往復してきましょう。
子母口貝塚
少し進んだ先の変則的な四叉路の角にある案内板を参考にして左手へ進んでいくと、 ほどなくして子母口貝塚があります。 小高い丘にある子母口貝塚は今ではちょっとした広場になっています。 街並みを見下ろせる広場には桜の木が沢山植えてありました。
たちばなの散歩道 子母口貝塚
この辺りには縄文時代早期(約8000年前)に生活した人たちが、食べた貝を捨てた「貝塚」があります。 貝塚はこの公園の他にも、丘のまわりにちらばっていますので、 丘の上には縄文時代の人々が住んだ村があったと考えられます。 貝塚から見つかった貝の種類から、貝をとった場所は川が海に流れ込む河口から 海岸の砂浜の辺りということがわかります。 このことから、当時はこの丘近くまで海が入りこんでいたと考えられます。 その他にも魚や動物の骨・シカの骨をけずって作った道具や土器の破片・石器なども見つかっていますので、 何を食べていたか、どんな道具を使っていたかがわかります。 貝塚は縄文時代の自然や生活の様子のヒントがかくされたタイムカプセルみたいですね。
 (川崎市高津区役所)
子母口貝塚
子母口貝塚は、四つの小貝塚が台地の縁辺に占地する、いわゆる地点貝塚です。 ここから発掘された土器は、縄文時代早期の「子母口式」(約八千年前)の標式土器になっています。 子母口式土器の表面には、貝殻の肋脈を利用してつけた貝殻腹縁文や、ひもを棒に巻いて押しつけた 絡縄体圧痕文などが認められ、器形は縄文時代早期の特徴である底の尖った深鉢形をしています。 貝塚からは、石鏃(矢じり)や木の葉などを磨り潰すための磨石などの石器、 鹿の角や骨から作った尖頭器(槍の穂先)や錐などの骨角器も発掘されています。 貝塚を構成する貝類としては、マガキが最も多く、ヤマトシジミ、ハイガイ、オキシジミなども混じっており、 また貝層中からは、スズキ・クロダイ・マダイなどの魚骨やニホンジカの骨なども発掘されています。 これらの資料から、私たちは子母口貝塚人の食生活の一端を知ることができます。 本貝塚周辺の丘陵上には、影向寺裏貝塚、新作貝塚、大原貝塚、久本貝塚など縄文時代早期から前期にかけての 貝塚が点在しています。 つまり、この時期には地球的規模で気候が温暖化して極地の氷河が溶けて海面が急上昇し、 この丘陵近くまで海岸線が入り込んでいたと考えられています。(縄文海進) この重要な貝塚は、昭和32年2月19日に神奈川県の史跡に指定されました。
 (川崎市教育委員会)
蓮乗寺
先ほどのT字路まで引き返して、角を曲がって坂道を降っていきます。 降り切った所にT字路があり、その右手に蓮乗寺があるので、立寄っていきましょう。 石畳の参道を進んでいくと本堂があります。 この蓮乗寺は、玉川八十八ヶ所霊場第二十三番札所、準西国稲毛三十三所第十五番札所にもなっているようです。 境内では多くのお地蔵様が出迎えてくれます。 釈迦牟尼世尊の足形もあったりします。 右手の一段高い所には鐘撞堂や浪切不動尊のお堂もありました。
洗えば戻る 清らかさ 心の生地を 大切に
お墓参りの方へ
お墓まいりには、まず本堂のご本尊様に参拝をしてから、自分の家のご先祖様のお墓にお参りしましょう。
 (住職)
橘樹神社
元の道へ戻ってその先へと進んでいくと、すぐにT字路があります。 その右手の真新しい鳥居の先に橘樹神社があります。
橘樹神社修復記念碑
祭神 日本武尊、弟橘媛
日本武尊が御東征のみぎり、当地方から房総半島方面へ渡航せんとした際、 海神の怒りか海が大いに荒れたため、御妃の弟橘媛がその怒りを鎮めようと、 尊の身代わりとして海中に身を投じられた。 媛のこの崇高な行為により荒れ狂っていた波浪も忽ち静かとなり、 尊の御一行は無事に渡海することができた。 後日、媛の装身具の一部が此の地に漂着し、村人は媛を憐んでそれを此の地に埋めて祀った。 尊は御東征の帰途、再び此の地に立寄り媛を慰霊するため一社を建立したのが当社の創建と伝えられている。
当社は當て橘樹郡総社として崇敬され、江戸名所図会にも掲載された由緒ある神社であり、 現在の社殿は当時の氏子の熱意により現在から百三十七年前に改建されたものである。 しかし、歳月の経過と共に各所が老朽化し放置できない状態となったため、 遠い時代より祖先が崇敬し維持してきた神社を修復し次の世代に引継ぐことは、 現在の者の責務であるとし、平成と改元された記念事業として多数の有志の浄財によりこの工事を実施した。
 (橘樹神社修復委員会)
神社の境内で次のことをしてはいけません
一、神社の囲の中に入ること
一、慰霊碑の檀にのぼること
一、庭で野球をすること
一、花火やそのほかの火遊びをすること
一、木に登ったり、又、枝を折ること
お願い
神社の維持管理のため、右のようなことをしている子供さんをみかけましたら注意くださるようお願いします。
伊藤家の長屋門
神社の前のT字路を入って行くと伊藤家の長屋門があるので、ちょっと立寄っていきましょう。 T字路を真直ぐに進んでいくとまたT字路があります。 そこを右手に曲がった先に長屋門があります。 解説板などは見当たらなかったので、どのような歴史のある門なのかは分りませんでしたが、 立派な構えの門でした。 この地域の名主さん宅の門だったのでしょうか。 門の向こう側には「伊藤」の表札のかかる家があったので、この門に関わりのあるお宅なのだろうと思われます。
神社の前まで引き返して、その先へと進んでいきます。 右手へ曲がりながら降っていくと道が二手に分かれています。 案内板はありませんが、このまま真直ぐに進んでいきます。 たちばな植之台公園を右手に見ながら進んでいくと登り坂になってきます。 左手に曲がっていく坂道を緩やかに登っていきます。 途中には分岐もありますが道なりに真直ぐ登っていきます。
軽く右手に曲がっていくと、細い道が左手へと分かれていきます。 壁の下側に、たちばなの散歩道の案内板が立てかけてありました。 支柱から剥がれ落ちたのでしょうか。 案内板によると、コースはここから左手へ降っていく細い道を進んでいくのですが、 右手にいくと富士見台古墳があるようなので、立寄っていきましょう。
富士見台古墳
かなり急な坂道を登り切ると、その先にこんもりとした形をした富士見台古墳があります。 周りは住宅に囲まれていて何だか息苦しそうに感じました。
子母口富士見台古墳
この古墳は、道路に面した麓部が大きく削られていますが、 建造当時はかなり大きな円墳であったと思われます。 現在の規模は、墳丘高3.7メートル、墳丘径17.5メートルです。 この古墳には、古くから弟橘媛にちなむ話が伝えられています。 橘樹神社の社伝では、日本武尊東征の際、尊の身代りに海中に身を投じた弟橘媛の御衣・御冠が、 この地に漂着したと伝えています。 また、古事記では「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち其の櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」 と伝えています。 真偽のほどはともかく、この古墳にまつわる話として興味深いものがあります。
 (川崎市教育委員会)
先ほどの分岐まで引き返して、塀と崖に挟まれた細い道を降っていくと、程なくして平らな道になります。 左右への分岐道も沢山ありますが、真直ぐに進んでいきます。 所々に案内板が設置されているので、それで道を確認しながら進んでいきます。
小さな稲荷大明神への小道を右手に見送って住宅地の中をしばらく進んでいくと中原街道に出ます。 そばにある案内板に従って車道を渡り、その先へと続く細い道を進んでいきます。
左手からの道を合わせて更に進んでいくとY字路があります。 角には能満寺の沿革が書かれた看板がありましたが、かなり傷んでいて読みづらくなっていました。 庚申塔も数体並んでいました。 道標は見当たりませんでしたが、ここは左手へ進んでいきます。
野川東耕地地区急傾斜地崩壊危険地域
この区域内で、のり切、掘削、伐採等を行う場合は、知事の許可が必要ですから左記へお問合せ下さい。
 (神奈川県川崎治水事務所)
左手の道を進んでいくと正面に能満寺に着きます。
能満寺の文化財
当寺は、星王山賽蔵院と称する天台宗の寺院です。 本堂に祀られている秘仏の木造聖観世音菩薩立像(昭和41年11月15日・川崎市重要歴史記念物指定)は、 量感のある一木造で、着衣部の彫法から平安時代初期の制作と考えられています。 また、不動堂に祀られている木造増田孝清坐像(昭和60年12月24日・川式重要歴史記念物指定)は、 寄木造、玉眼嵌入の僧形像で、胎内墨書銘や納入銘札から江戸時代前期の寛永10年(1633)、 孝清65歳の時に、鎌倉仏師三橋日向守が制作したものであることがわかります。
 (川崎市教育委員会)
能満寺
植え込みの先の石段を登り山門をくぐっていくと本堂があります。 境内には立派な鐘楼もあります。
たちばなの散歩道 能満寺
もともと影向寺の塔頭十二坊(薬師さまを守る十二神の一体づつをまつった脇寺)のひとつであったのが、 天文年間(1532〜54)にここに移り快賢によって開かれたといわれます。 現在の本堂は元文4年(1739)に建てかえられたものです。 本尊の木造虚空蔵菩薩像は寄木造りで、明徳元年(1390)仏師朝祐の作。 玉眼入りの漆地に彩色を施した立像で、 卵形をしたひきしまった顔や複雑な衣装のあつかいは宋風彫刻の影響が認められ、 強い精神性と神秘性が感じられます。 同寺所蔵の一木造聖観世音菩薩像(平安初期の作)とともに市重要歴史記念物指定。
 (川崎市)
境内の左手にある鐘楼の脇から外へ出て、その右手へ続く坂道を登っていきます。 息が切れてしまいそうな急坂を登っていくと分岐があります。 そこを右手に少しいくと、川崎市で最古と云われる影向寺があります。 立派な山門をくぐって境内へ入っていきます。
たちばなの散歩道 影向寺
奈良時代に創建された川崎最古の寺院で、古代の寺院が次々と廃寺として姿を消していったのに対し、 影向寺は中世、近世になっても栄え続けました。 特に近世には境内にある影向石が眼病治癒の対象としてあがめられ、 全国から信者が参拝に訪れました。 江戸時代中期(1694)に再建された薬師堂(県重要文化財)の中には眼病治癒の祈りを込めた たくさんの絵馬が奉納されており、往時の様子がしのばれます。 本尊の薬師如来像と脇侍像2体は平安後期のもので、作者不明ながら、 その豊かな量感と温和な表情、深い精神性から11世紀中葉に完成された定朝様式 (仏師定朝が確立した華麗な作風で、体つきに丸みをおび彫りが浅く、表情が温和)の 地方における典型的な作例として、国の重要文化財に指定されています。
 (川崎市)
影向寺(ようごうじ)
境内には立派な本堂(薬師堂)や八角形をした聖徳太子堂があります。
影向寺
当寺は天台宗に属しています。 縁起によれば、天平11年(739)光明皇后がご病気のおり、 聖武天皇は夢告で武蔵国橘樹郡橘郷、すなわちこの地に霊石のあることを知り、 早速、当時の高層行基を使わし祈願させたところ霊験あらたかで、皇后のご病気も快ゆされたという。 そして聖武天皇の勅命により、この地に伽藍がそびえたのは、その翌年のことであると伝えています。 事実、境内から採集された古瓦の中には、奈良時代のものが含まれており、 当寺の創建が縁起に近いことがわかります。 境内の安置堂内には、当寺が古刹であることをうらづける数多くの文化財が所蔵されています。 重要文化財に指定されている、本尊の木造薬師如来像(欅材)と両脇侍立像(桜材)の三躯は一木造で、 平安時代後期の作品です。 風格のあるおだやかな表情とあふれる量感が特徴的でし。 この本尊には、木造二天立像二躯(平安時代後期)と木造十二神将立像十二躯(室町時代)が眷属ちして侍立しています。 また、木造聖徳太子立像一躯(室町時代)もあり、いずれも川崎市重要歴史記念物に指定されています。 薬師堂は、江戸時代初期の万治年間(1658〜1660)に火災で失い、 その後まもなく復興したと伝えられているもので、 現在の薬師堂がそれにあたるものとおもわれます。 建立の時期は建築様式上の特徴から、寛文頃(1661〜1672)のものとされております。 境内の東南端にある影向石は、縁起でいう霊石にあたるものでしょうが、 その実際上の用途は、塔の心礎であろうといわれています。 また、江戸時代の民衆が本尊によせてきた信仰を物語る絵馬や昔話の舞台となった乳を乞う母親が祈願したイチョウの 大木など、当寺にかかわる歴史的な話題は数多く伝えれています。
 (川崎市教育委員会、重要文化財保存会)
影向寺薬師堂
影向寺は、奈良時代の天平12年(740)、聖武天皇の命を受けた僧行基によって開創されたと伝えられていますが、 近年の発掘調査の結果、創建の年代は白鳳時代末期(7世紀末)にまで遡ることが明らかになりました。 現在の薬師堂は、創建当時の堂宇とほぼ同じ位置にあり、江戸時代中期の元禄7年(1694)に建立されました。 棟梁は橘樹郡稲毛領清沢村(現在の高津区千年)の大工・木嶋長右衛門直政です。 薬師堂の規模は方5間で、寄棟造の茅葺(現在は銅板葺)の屋根をあげ、 正面1間に銅板瓦棒葺の向拝を付けています。 内部は、前面2間を信徒の入る外陣、後方3間を神聖な空間である内陣、その両側を脇陣とし、 特に、内陣・外陣・脇陣の境を中敷居と格子によって厳重に結界するのは中世以来の密教本堂の形式を伝えるもので、 薬師堂の大きな特徴です。 また、堂の形式・建具・軒などの外観の基本を和様としながらも、柱上部などに禅宗様の意匠を採用しています。 薬師堂は、間口3間の厨子(元禄7年造立)などとともに、 昭和52年8月19日、神奈川県の重要文化財に指定されました。
 (川崎市教育委員会)
聖徳太子堂
父君用明天皇の病気平癒を願う御尊姿の聖徳太子孝養像(市重要文化財−鎌倉時代)を太子堂に安置礼拝供養す。 聖徳太子は職人の祖として多くの建築技術を伝授す。 この偉大な功績に讃仰・報恩・感謝のため影向寺太子講を結成す。 昭和55年秋、太子堂建立を発願。 太子講重文保存会・川崎鳶工業連合会の有縁の浄財により、 59年早春着工、60年2月11日落慶法要を奉修、大願を成就す。 篤信各位の芳名は太子堂内銅額に刻記、後世に伝承す。
 (宮田孝代司)
本堂の右手にはかながわの名木100選に選ばれている大きなイチョウの木もあります。
かながわの名木100選 影向寺の乳イチョウ
乳柱を削って汁を飲むと乳が出るようになるという伝説があり、当寺の絵馬に乳しぼりの図柄が多い。 堂々たる古木である。
  樹高28メートル 胸高周囲8.0メートル 樹齢約600年(推定)
イチョウは、中国原産の落葉高木で、その仲間は古生代から中生代にかけて栄え、日本にも化石が産出する。 1科1属1種の雌雄異株の裸子植物である。 樹高45メートル、胸高周囲14メートル、樹齢約2000年に達するものもあると言われている。
 (神奈川県)
影向寺を出て右手へと進んでいくと、すぐにY字路があります。 どちらへ行けばいいのかと辺りを見回していると、右手へ少し行った所に案内板があります。 それによると、このY字路は左手へ進んでいくようです。 案内板がもう少し手前に設置されていればいいのに…と思いながら、 民家の間に続く左手の道を進んでいきます。
民家の間を進んでいくと道が二手に分かれています。 コースは右手に戻るようにして第三京浜道路に沿って続いているのですが、 左手の森に野川神明社があるので、ちょっと立寄っていきましょう。
注意事項
1.神社境内でのたき火・火気等を禁ず。
2.参道への自転車・自動車等の乗り入れを禁ず。
3.犬の運動及び大便・小便等を禁ず。
4.神社境内での植木の枝を折ったり皮をむいたり木登りを禁ず。
5.ボール遊び、野球等は硬く禁ず。
 (野川神明社)
野川神明社
鳥居をくぐって広い境内に続く石畳を通っていくと、一段高い所に本殿があります。 この地域の総鎮守なのだそうです。
野川神明社社誌
鎮座地川崎市高津区野川463番地
祭神天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、素盞嗚尊、大己貴神(大国主命)
例大祭10月10日
春祭3月3日
夏祭7月12日
境内地6,695平方米(約貮千貮拾九坪)
氏子区域野川全域
建造物本殿 権現造 柿葺 1.3平方米
覆殿 入母屋造 銅葺 31.2平方米
拝殿 神明造 銅葺 22平方米
舞殿 流造 亜鉛葺 52.1平方米
由緒沿革
多摩川の西岸に位する野川の土地は古くより人が居住し風光明美、地味は肥沃にして産物も豊かであった。 縄文・弥生文化の遺跡も極めて多く、壱千余年の歴史を有する古刹影向寺と共に各集落氏神として韋駄天社・ 八坂神社・子神社は遠近の信仰篤く栄えてきた。 明治維新により明治3年5月神明社は村社に列格、明治41年に三社を合併、野川の総鎮守となった。 昭和15年指定村社、昭和25年国家より境内地譲興を受け、昭和28年宗教法人「神明社」となる。
縁起
神明社は野川の歴史と文化の中心、ここ影向寺台に往古より地域の守り神として人々の篤い崇敬を受け続けてきた。 明治期末、各所に鎮座する八坂社、子神社、韋駄天社を合祀して現在に至る。 平成11年氏子一同永年の念願である御造営に着手し、赤誠溢れる奉賛のもと、 当初の計画を越えて本殿以下、社務所、管理棟、手水舎に至るまで新築し面目を一新した。 今般町民挙りて祝賀気運昴まる奉祝大祭に際し、是の夢久栄の碑を建立し神明の加護に奉謝しつつ、 当社と氏子中の永遠なる発展を期する。
 (野川神明社宮司、野川神明社建設委員長)
参拝の作法
心を込めてお参りしましょう。
二拝 (深い礼を二度します)
二拍手 (拍手を二度します)
一拝 (深い礼を一度します)
 (神奈川県神道青年会)
影向寺台橋
神社を出て第三京浜道路沿いの道を進んでいきます。 3分ほど進んでいくと左手に影向寺台橋があります。 橋を渡って第三京浜道路の向こう側へいくと、正面に案内板があるので参考にしましょう。 橋には「影向寺台橋」と記してありましたが、案内板には「影向寺橋」となっています。 どちらが正しいのでしょう。近年になって改称されたのでしょうか。
T字路を右折して第三京浜道路沿いの坂道を登っていきます。 登り着いて左へ曲がっていく角にお地蔵様が三体並んでいました。 その先にあるそば屋を過ぎて道なりに進んでいきます。
安全地蔵尊
小さな十字路を左前方に進んでいきます。 千年くすのき公園を右手に見ながら進んでいくと五叉路があります。 正面に案内板があるので参考にしましょう。 右手にあるお地蔵様の左手の道を進んでいきます。
十字路を直進していくと、白と赤に塗られた橘資源化処理事業所の煙突が見えてきます。 右手の金網には「現在位置40m先 川崎市民プラザ」と書かれた看板がくくりつけてあります。 それに従って、右手へ続く狭い路地へ入っていくと、すぐ先に市民プラザがあります。
市民プラザ
市民プラザは広くなっていて、ふるさと劇場・プール・体育館・日本庭園などがあるので、 ちょっと立寄っていきましょう。 ここから梶ヶ谷駅や溝口駅までのバスの便もあります。
市民プラザから元の道に戻ってその先へと進んでいきます。 プランターに綺麗な花が植えられた民家を過ぎていくとY字路があります。 左右どちらの道を進んでいっても、その先で梶ヶ谷第三公園に着きますが、 今回は左手の道を進んでいきました。
梶ヶ谷第三公園
少し進んでいった先にある十字路の右手に梶ヶ谷第三公園があります。 公園の真ん中にはこんもりとした西福寺古墳があります。
西福寺古墳
西福寺古墳は、矢上川左岸に築かれた高塚古墳群の中にあって、 規模が大きく、保存状態も極めて良好です。 昭和57年(1982)、古墳の景観整備の一環で行われた発掘調査の結果、 この古墳が築かれたのは、6世紀中頃から後半と考えられ、 直径約35メートル、高さ約5.5メートルの円墳で、 墳丘の周囲には幅6〜7.5メートル、深さ約80センチの溝(コンクリートブロックで舗装されている部分)が めぐらされていたことがわかりました。 また出土した埴輪の中には、水鳥を模した埴輪の頭部も発見されています。 現在の西福寺古墳は、その成果に基づいて復元・整備をされたもので、 昭和55年(1980)9月16日、神奈川県史跡に指定されています。 古墳の保護のため、植え込みの中に入らないようお願いします。
 (川崎市教育委員会)
この山は古代のお墓(古墳)です。 みんなの大切な文化財ですので、のぼらないようにしましょう。
 (川崎市教育委員会)
公園の脇に案内板があるので参考にしましょう。 道標「梶ヶ谷駅1,300m」に従って、公園の左手に続く道を進んでいきます。 緩やかに降るようになると信号機のある十字路があります。 ここを右手へ曲がって、こぶし通りを真直ぐに進んでいきます。
梶ヶ谷五丁目・梶ヶ谷四丁目のバス停を過ぎていくと、 道が右手へ曲がっていく手前に信号があります。 信号を渡った所にたちばなの散歩道の案内板があるので、見落とさないようにしましょう。 ここを左折して真直ぐに坂道を降っていくと梶ヶ谷第一公園があります。
梶ヶ谷第一公園
公園には小さなせせらぎもあって、 時期を過ぎた桜の木の下でバーベキューを楽しんでいるグループを何組か見かけました。 休日とあって、多くの家族連れで賑わっていました。
ここはみなさんの公園です。
次のことをよく守って利用して下さい。
1.野球は危険ですからしないで下さい。
1.樹木や遊具等を大切にして下さい。
1.はり紙や広告物を表示しないで下さい。
1.自動車を駐車・乗り入れないで下さい。
1.そのほか他人に迷惑をかけるような行為をしないで下さい。
1.映画界・展示会・集会等を催す場合は許可を受けて下さい。
 (川崎市西部公園事務所)
愛犬家の皆様へ
・犬の散歩はクサリをつけてお願いします。
・犬のフンのあと始末は飼い主が責任をもってやりましょう。
梶ヶ谷(かじがや)駅
公園から元の道へ戻って、その先へと進んでいきます。 梶ヶ尾駅入口の交差点を直進していくと、左下に線路が見えてくるようになります。 その先へ少し進んでいくと、道路の左手に梶ヶ谷駅(東急田園都市線)があります。