三渓園
散策:2004年03月中旬
【街角散策】 三渓園
概 要 開国時代に横浜市の実業家であった原三渓氏。 その氏の所有地であった所が「三渓園」として一般に公開されています。 広い園内には日本庭園や昔の建造物などが多くあって、伝統ある日本に出会うことができます。 そんな三渓園をゆっくりと散策してみましょう。
起 点 横浜市 本牧三渓園入口バス停
終 点 横浜市 本牧三渓園前バス停
ルート 本牧三渓園入口バス停…本牧市民公園…三渓園南門…三渓記念館…三渓園正門…本牧三渓園前バス停
所要時間 2時間30分
歩いて... 園内はかなり広くて茶屋などもいくつかあり、家族連れでも楽しむことができます。 内部が公開されている古民家もあって、昔の暮らしに触れることもできます。
関連メモ 三渓園
コース紹介
本牧三渓園入口(ほんもくさんけいえんいりぐち)バス停
根岸駅(JR根岸線)から、[54]海づり桟橋行きバス、[54]根岸駅循環バス、[54]桜木町駅行きバス、 [54]本牧車庫前行きバス、[91]修理工場行きバス、[97]根岸駅循環バス,または,[97]北通り行きバスにて6分、 1時間に6本から8本程度の便があります。
別ルート
今回は三渓園の南門から入りましたが、 根岸駅(JR根岸線)から本牧バス停まで来て、そこから歩いて三渓園の正門まで来ることもできます。 [58]横浜駅前行きバス、[99]桜木町駅前行きバス、[101]保土ヶ谷車庫前行きバス,または, [54][126]根岸駅循環バスにて8分から12分、1時間に10本程度の便があります。
本牧市民公園
バスを降りて根岸駅方向へ少し戻り、本牧市民公園駐車場を右折して本牧市民公園へ入ります。 本牧市民公園はバス道路に沿って続く細長い公園で、三渓園はこの向こう側にあります。 公園の入口には「本牧市民公園案内図」があるので参考にしましょう。 中央入口から入り、「三渓園」を示す案内板に従って突き当たりを左手に進んでいきます。
本牧市民公園利用者の皆さんへ
ゴミの持ち帰りにご協力をお願いいたします。
きれな公園づくりにご協力ください。
 (本牧市民公園詰所、中部公園緑地事務所)
正面には山肌が削られて崖になった特徴的な山が見えてきます。 その手前にある池に沿って左手へ進んでいきます。
本牧市民公園利用者の皆さんへ
ルアー、ワームなどによる危険な投げ釣りは絶対にやめましょう。 顔や頭にささるなど、大変に危険です。
 (中部公園緑地事務所)
上海横浜友好園
池の中には中国風の上海横浜友好園が浮かんでいます。 上海市と横浜市の友好都市提携の記念として寄贈されたものだそうです。 この写真は、その中の湖心亭という建物です。
園誌碑
上海横浜友好園は、上海横浜両市の友好都市提携15周年を記念して、 上海市より横浜市へ寄贈されたものです。 この友好庭園は、九曲橋・湖心亭・玉蘭庁からなり、 中国の伝統的な庭園様式を模しており、 中日の子々孫々にまで至る友好の象徴となるでしょう。
上海横浜友好園利用にあたってのお願い
・飲食や喫煙は御遠慮ください。
・自転車の乗り入れはできません。
・犬の散歩は御遠慮ください。
・釣りや小動物の捕獲はできません。
・火気の使用は禁止されています。
・その他、他の人の迷惑となる行為もしないでください。
以上、御協力をお願いします。
 (横浜市中部公園緑地事務所)
三渓園南門
上海横浜友好園の先には、三渓園の南門へ続く橋が池に架けられています。 その手前には「三渓園案内図」があるので参考にしましょう。 この橋を渡って南門から三渓園へと入っていきます。 三渓園へは、この南門からのほかに、北側にある正門からも入っていけます。
三渓園
三渓園は、美術愛好家として知られる実業家 原富太郎(号三渓)によってつくられた 広さ17.5万uの日本式庭園です。 この庭園には、四季折々の自然の景観の中に、関西や鎌倉から集められた歴史的建造物等が 巧みに配置され、国指定重要文化財建造物が10棟、市指定有形文化財が2棟のほか、 美術工芸品等を展示している三渓記念館があります。
開園時間 9:00〜17:00(最終入園は16:30)
本牧風致地区
本牧は江戸期より、風光明媚な海辺の絶景地として、文人墨客に愛されてきました。 明治になってからは居留地に住む外人達の散策の地となり、横浜市民にも広く愛されるようになりました。 横浜の生糸商 原富太郎氏がつくった三渓園が明治39年に開園し、 周辺一帯は閑静な住宅地としても開けてゆきました。 三渓園に隣接して、本牧市民公園も整備され、一帯は市民の文化レクリエーションの地として親しまれています。 そのため、三渓園・本牧市民公園周辺の景観風致を保全するとともに、 良好な住環境を維持するために、横浜市は本牧風致地区を指定しています。 この地区において建築物・工作物の新築・改築・色彩変更等、または、土地の形質変更・木材伐採・土石類の採取等を 行う時は、事前に横浜市長の許可が必要です。
 (横浜市緑政局緑政部緑政課)
お知らせ
横浜市火災予防条例28条により禁止されていること
 ・所定の場所以外で喫煙すること
 ・所定の場所以外で裸火を使うこと
 ・園内に危険物を持ち込むこと
その他禁止されていること
 ・許可なく車を乗り入れること
 ・犬などのペット類を連れて入ること
 ・鳥や魚、または樹木や草花をとったりきずつけたりすること
 ・野球などのスポーツ
 ・内苑及び旧矢箆原家住宅で飲食すること
 ・許可なく物品の販売などの営利行為をすること
 ・公共の安全や風紀を乱す行為をすること
園内の地図が描かれたパンフレットをもらって南門を入っていきます。 左へ曲がっていく道を進んでいくと、大きな「三渓園案内図」があります。 本牧市民公園にあったのよりも立体的で詳細な図になっています。 園内は広いので、案内図を見ながら散策コースを考えましょう。 内苑と外苑がありますが、先ずは内苑から訪ねていくことにします。
三渓園
三渓園は、美術愛好家として知られる実業家(生糸貿易商)原三渓(本名 富太郎)によってつくられた 広さ18万uの日本式庭園で、明治39年に開園しました。 この庭園の特色は、四季折々の自然の景観の中に、京都や鎌倉などから集められた歴史的建造物が 巧みに配置されていることです。これら歴史的建造物のうち10棟は国の重要文化財、3棟は市の有形文化財です。
海岸門
左手の道の先には海岸門があります。 そばには大きな桜の木があり、花が咲き始めていました。 三脚を立てて、写真を撮っている人も見かけました。
蓮華院
竹の柵がしてある小径を入っていくと蓮華院があります。
蓮華院
この建物は、原三渓が大正6年(1917)に建てたもので、六畳と二畳中板の茶室があります。 土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子があります。
旧天瑞寺寿塔覆堂
蓮華院のすぐ先には旧天瑞寺寿塔覆堂があります。
旧天瑞寺寿塔覆堂
寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。 豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、 その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。 功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てました。 この建物はその寿塔の覆堂で、明治35年(1902)三渓園に移築されたものです。 なお寿塔は現在大徳寺内、竜翔寺にあります。
亭しゃ
小さなせせらぎに架かる橋を渡っていきます。
(「しゃ」という字は木偏に「射」と書きます)
月華殿
臨春閣の横を過ぎて階段を登っていくと月華殿があります。
月華殿
この建物は、徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控室に当てたものと 伝えられています。その後、京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院に移され、 大正7年(1918)に三渓園に移築されました。
金毛窟
月華殿の奥に続くようにして金毛窟があります。 この時は補修作業が行なわれていた為、近くまでは行けませんでした。
金毛窟
この建物は、原三渓が大正7年(1918)に建てた一畳台目の茶室です。 千利休が修造した京都大徳寺三門(金毛閣)の高蘭の手すりをこの茶室の床柱に使っています。 扁額は明治の数寄者・三井の益田鈍翁の書です。
天授院
月華殿の奥には天授院があります。
天授院
この建物は、もと鎌倉心平寺(建長寺塔頭)の地蔵堂といわれています。 大正5年(1916)に三渓園に移築され、原家ではこれを持仏堂として使っていました。 昭和39年に解体修理を行ない、その際、慶安4年(1651)の墨書が発見され、 建立の年が明らかとなりました。
天授院から引返し、せせらぎの横を降っていきます。 かなり雰囲気のいい庭園になっていました。
聴秋閣
小さな石橋を渡っていくと聴秋閣があります。
聴秋閣
この建物はもと三笠閣と呼ばれ、元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛に際し、 佐久間将監に命じて、京都二条城内につくらせたものといわれています。 その後、これを春日局に賜わり、江戸稲葉候邸内に移され、三渓園には大正11年(1922)に移築されました。
春草廬
藤棚をくぐっていくと春草廬があります。
春草廬
この建物は、もと京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院にあった月華殿に付属して建てられていた茶室です。 三渓園には大正7年(1918)、月華殿と共に移築されました。 窓が九つあるため九窓亭と呼ばれていました。 信長の弟・織田有楽斉(1547〜1621)が建てたものと伝えられ、三畳台目の茶室です。
臨春閣
最初の蓮華院の前を過ぎて小さな橋を渡っていくと臨春閣があります。 前には池もあって、日本庭園のいい雰囲気が漂っています。 建物が3つ連なったような珍しい形をしています。
臨春閣
この建物は、紀州候初代の徳川頼宣によって慶安2年(1649)に、 和歌山県那賀郡岩出町の紀ノ川沿いに建てられた夏の別荘巌出御殿といわれています。 八代将軍吉宗は幼時この巌出御殿に育ち、享保元年(1716)に将軍になりました。 また、この建物は数奇屋風書院造として、宮家別荘桂離宮と共に我国住宅史上において、 別荘建築の双璧といわれています。 三渓園には大正6年(1917)に移築されました。
白雲邸
臨春閣の先で道が二手に分かれています。 右手に行けば三渓記念館がありますが、左手の塀の切れ間を入っていくと塀の向うに白雲邸があります。 白雲邸は周りを塀に囲まれていて、近くへ行くことは出来ませんでしたが、 臨春閣の裏庭からその一部を垣間見ることができます。
白雲邸
この建物は、原三渓が大正9年(1920)、隠居所として建てた数奇屋風建築で、 明治以降における近代和風建築を代表するものです。 建物の構造は単に居宅としてだけでなく、美術品の鑑賞や接客などの目的を 兼ね備えた配置や間取りになっています。
三渓記念館
三渓記念館では、三渓園の創設者である原三渓氏の業績やゆかりの美術品などを紹介しています。 このほか、本格的なお点前で気軽に抹茶の接待が受けられる呈茶処やミュージアムも併設されているので、 是非立ち寄っていきましょう。 この時は、設立50周年記念の「三渓園 戦後あるばむ」という写真展も開かれていました。
三渓園は実業家である原三渓氏が所有される土地でしたが、 「この明媚な自然の風景は創造主のものであって私有物ではない」とされて、 明治39年から広く一般に公開されるようになったそうです。 現在では財団法人三渓園保勝会の手に移され、復旧工事が行なわれて往時の姿を取り戻したようです。 それにしてもこの広大な土地を私有されていたなんて、桁違いに凄い方だったのですね。
御門
両側に松並木が続く石畳の道を進んでいくと御門があります。 白壁も続いていて、何だかここだけはお城の中にいるような雰囲気がしました。
御門
この門は、京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営され、大正初期に三渓園に移築されたものです。 規模の大きい薬医門(本柱の後方に控柱を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りにある門)の 遺構として貴重なものです。
春の七草
御門を出て少し行くと、道端に「春の七草」が植えられた覆いがありました。 各々一株ずつ植えられていて、小さな名札も添えられていました。 秋になると「秋の七草」が植えられるのでしょうか。
せり(せり科)、なずな(あぶらな科)、おぎょう(きく科)、はこべ(なでしこ科)、 ほとけのざ(きく科)、すずな(あぶなら科)、すずしろ(あぶなら科)
睡蓮池
春の七草を過ぎていくと内苑の出口になります。 ここにも、南門を入っていった所にあったのと同じような三渓園案内図があるので、 もう一度コースを確認しておきましょう。 左手には小振りな睡蓮池があります。 正面にある大池と違って静かな池でした。
鶴翔閣
睡蓮池の山手には、原家の旧宅であった鶴翔閣があります。 近年の復旧整備事業により創建当初の姿に戻され、 現在では会議やパーティー・茶会などさまざまな利用に対応できる貸出施設として 一般に活用されているようです。 家の中ではビデオも上映していました。
鶴翔閣
鶴翔閣(旧原家住宅)は原富太郎(三渓)が明治30年代に自邸として建てた住宅で、 楽室棟・茶の間棟・書斎棟・客間棟・仏間棟・倉などの建物群で構成されています。 この建物は居住用と来客用の機能をあわせ持ち、横浜市域の近代和風建築を代表すると共に、 横山大観ら日本美術院の作家たちがたびたび出入りし、近代の日本画壇に大きく貢献した 記念物としての価値も認められます。
大池
内苑を出ると外苑が広がっています。 正面には大きな大池があります。
大池には沢山の水鳥がいました。 パン屑を投げ入れている人がいましたが、その前に池中の水鳥が集まって賑やかでした。 餌を得るためにバシャバシャと音をたてて元気に競っていました。 普段の優雅な姿とは違って、何だか筋肉の塊という感じがしました。
三渓園茶寮
大池の畔には、三渓園茶寮・月影の茶屋・雁ヶ音茶屋などが並んでいます。 大池を眺めながらちょっと休憩していくのにはいい処です。
湖畔の桜の蕾も膨らみ、咲き始めているのもありました。
三渓園茶寮の左手へ進み、右側の小山へ登っていきます。 これまでの平地部分とは違って、ちょっぴり「山」を感じたりします。
旧燈明寺三重塔
山道を登り切った所に旧燈明寺三重塔があります。
旧燈明寺三重塔
この建物は、もと京都府相楽郡加茂町の燈明寺にあったものを、大正3年(1914)三渓園に移築したものです。 寺伝によりますと、燈明寺は天平7年(735)聖武天皇の勅願によって建てられた寺院とされています。 建物の様式などから、室町時代に建てられたものと推定されます。 関東では最古の塔です。
出世観音を過ぎていくと、笹竹の回廊が続きます。
松風閣
南門の方面から登ってくる道を合わせて更に進んでいくと、階段の上に松風閣があります。
臥竜梅 気力が咲いて をりにけり 仙渡子
黄落や のぞけば暗き にじり口 順子
老梅に 命の余白 ありにけり 燈子
三寒四 温ふところの にぎり飯 禎子
寒梅の 一輪にして みな仰ぐ 三郎
如月や けぶらふ雨の 横笛庵 すみえ
大釜の 湯気八方へ 梅の園 ひさし
梅真白 どっかと坐る 虚子の句碑 源治郎
秋の日の みずもにわたる 笑い声 聖子
名園の 夕日あつめし 残り鴨 律
三けい園 雨ふるように 木のはちる ゆりえ
解説板は見つかりませんでしたが、ちょっとした展望台になっていて、 横浜の街や港などを見渡すことができます。
初音茶屋
一旦平地まで戻って右手にいくと初音茶屋があります。
初音茶屋
かつて三渓園を訪れたインドのノーベル賞文学者タゴールや芥川龍之介らによって書きしるされた茶屋。 当時はいつでも麦茶がふるまわれたという。 芥川は大正4年(1915)の初秋、ここでの印象を
ひとはかり うく香煎や 白湯の秋
と俳句に残しています。
林洞庵
初音茶屋の左手には林洞庵があります。
林洞庵
この建物は、昭和45年(1970)に宗へん流林洞会から寄贈された茶室です。 屋内には流祖山田宗へん筆"林洞"の板額があります。
(「へん」という字は彳偏に「扁」と書きます)
臥竜梅
初音茶屋の右手には臥竜梅があります。
臥竜梅
幹があたかも竜がはうような形をしているので、この名があります。 このあたりの梅の木は、原三渓が援助した画家下村観山筆の名作「弱法師」のモデルになりました。
寒霞橋
せせらぎに架かる寒霞橋を渡っていきます。 この辺りも日本庭園のいい雰囲気を感じられる所です。
横笛庵
寒霞橋を渡った所に横笛庵があります。
横笛庵
高倉天皇中宮建礼門院に仕えた横笛と平重盛の家臣滝口入道(斉藤時頼)との悲恋は有名です。 横笛は寺にこもり入道から送られた千束の恋文をもって己の像をつくりました。 その像がこの庵に安置されていましたが、第2次大戦中に被害を受け、失われてしまいました。
旧東慶寺仏殿
横笛庵から右手に進んでいくと旧東慶寺仏殿があります。
旧東慶寺仏殿
この建物は、室町時代永政6年(1509)直後に再建された鎌倉東慶寺の仏殿です。 明治40年(1907)三渓園に移築されました。 東慶寺は弘安8年(1285)北条時宗の妻覚山尼が創建した寺院で、駆込寺あるいは縁切寺として有名でした。
旧矢箆原家住宅
旧東慶寺仏殿の左手には旧矢箆原家住宅があります。 かなり大きな家屋で、園内では唯一内部を見学できるようになっています。 飛騨地方の民具が展示されていたり、囲炉裏では毎日薪がくべられています。
合掌造・旧矢箆原家住宅
この建物は、もと岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありました。 江戸時代宝暦年間(1751〜1764)飛騨三長者のひとりといわれた岩瀬の(矢箆原)佐助の家として、 飛騨高山の大工によって建てられたと伝えられています。 御母衣ダムの建設によって湖底に沈む運命になりましたので、 所有者矢箆原家から三渓園に寄贈され、昭和35年(1960)移築されました。 この建物の特徴は、左半分が式台付玄関をもつ書院造り、右半分が普通農家の造りで、 左右で全く異なる形式構造をもっていることです。 これは上流農家の平面を示しています。 屋根は入母屋造りで、火灯窓が珍らしく、この家の格式の高さを物語っています。
飛騨の民家 入母屋合掌造り
この建物は岐阜県大野郡荘川村大字岩瀬(白川郷)にあったが、 このたび御母衣ダムの建設によって湖底に沈む運命にあったので、 所有者 矢箆原c氏から当園に寄贈され、財団法人三渓園保勝会の手で移築したものである。 今から210年程前、宝暦年間(1750年頃)飛騨三長者の一人といわれた岩瀬佐助の家として、 飛騨高山の大工によって建てられたと伝えられ、この地方の俗謡に 「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」 と普通の農民はまねができないことをうたっている。 昭和31年6月重要文化財に指定され、建物の特徴は左半分が式台玄関をもつ書院造り、 右半分が一般農家の造りで、左右が全く異る形式構造をもつことは上流農家の平面を 示すもので、屋根は入母屋造り、火灯窓も珍しく、この家の格式の高さを物語っている。
 桁行:23m(75尺6寸)、 梁間:13.1m(43尺5寸)、 建坪:307u(101.76坪)
合掌造りとは
合掌造りには切妻合掌造りと入母屋合掌造りとあるが、飛騨白川地方には切妻合掌造りが多く、 荘川地方には入母屋造りが多い。屋根は茅葺きで家の周囲は特徴ある板壁が用いられている。 屋根の木組は"さす"と呼ぶ丸太を掌を合わせたように左右から組んでつくるので、合掌造りの名がある。 小屋組はクギやカスガイを使わず荒縄やネソ(青モミ・ナラ・クヌギなどの若木をねじまげてつくる)で しばるのが特徴である。又"さす"の根元は鉛筆の芯のように尖っていて"さす受"の小さな穴の上に置かれ、 屋根の重量はこの小さな一点に集中するので安定している。 強い風が吹いて大きくゆれてもクギやカスガイで固定していないので、もとにかえってすこぶる安全である。 又屋根は急傾斜なので雨や雪に丈夫である。
大家族制度について
白川郷の大家族制度は、古代から伝えられるものといわれているが、 現在の学説では近世において発生したものと見られている。 旧藩時代は農民の村外移住が禁じられていたので、耕地の少ない山村では分家が出来ず、 山を拓いて焼畑をつくり稗を蒔いて主食としていた。 それには多数の労力を必要としたので、小家族では開墾できなかった。 この貧困な生活が大家族制度を生むにいたったと見られている。 この地方では大正の初めまで大家族制度が保存されていて、長瀬部落の大塚家では 明治35年42人が同居していた記録がある。 しかし岩瀬部落(矢箆原家付近)では20人前後同居していたといわれている。 家族の中でトト(戸主)は家長として財産を管理し、祖先を祀り、村つきあいをし、 カカ(家長の妻)は台所の司であった。 大家族になると畑や山の仕事のために鍬頭があり、まかないの責任者として鍋頭もいた。 家長夫婦が隠居すればジジ・ババと呼ばれ、かわってアニ(長男)が新しい家長となった。 結婚は長男にだけ許され、次男以下はいわば内縁関係のツマドイで、 子供が生れれば母方の方に引取った。 こうして一軒の内に、何拾人もの人々が同居していたのである。
待春軒
大漁地蔵を過ぎていくと、右手に茶屋の待春軒があります。 「三渓そば」というのもあるようです。どんなソバなのでしょうね。
静かな佇まいの三渓園で、風情を心ゆくまでお楽しみ下さいませ
 (茶席・食事処 待春軒)
旧燈明寺本堂
待春軒の先には旧燈明寺本堂があります。 本堂の前では和服姿のモデルを写真に撮っている方がいました。 大きなレフ板を使ったりして本格的な撮影のようでした。 写す方も写される方もプロの方なのでしょうか。 モデルは和服に靴というアンバランスな姿でしたが、 開国時代の雰囲気を出そうということだったのでしょう。
旧燈明寺本堂
燈明寺は現在廃寺となっていますが、近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院です。 寺伝によりますと、聖務天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれています。 この建物は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定されます。 昭和22年の台風で被害を受けた後、解体し保存されていましたが、 昭和62年(1987)に三渓園に移築されました。
三渓園天満宮
正門方向へ進んでいくと、山側に三渓園天満宮がありました。
三渓園天満宮
この天満宮はもと間門天神といい、三渓園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が 本牧の丘の中腹に建てたものです。 昭和52年(1977)三渓園に移されました。
涵花亭
天満宮の前にある朱塗りの観心橋を渡っていくと、大池に突き出した所に涵花亭があります。
涵花亭からは大池がぐるりと見渡せます。
藤棚
天満宮の前まで戻ってその先へ進んでいきます。 ボードウォークのような八つ橋を渡っていくと藤棚があります。 まだ季節ではないので藤の花は咲いていませんでした。 園内にはこの他にも2つほど藤棚があります。
蓮池
藤棚の向こう側には蓮池があります。 「蓮池」といってもハスは見当たりませんでした。 池畔には枝垂れ柳の木が植えられ風情を醸し出しています。 新芽も出ていて彩りが綺麗でした。 私の故郷にある枝垂れ柳の並木と重なって、何だか里心がついてしまいそうです。
蓮池からは、大池に佇む涵花亭や、こんもりとした小山の上にある三重塔が見えます。
三渓園正門
藤棚のそばには三渓園の正門があります。 ここにも三渓園案内図があります。 正門のそばには、最寄のバス停までの案内図や バスの時刻表などが掲示されているので参考にしましょう。 本牧三渓園前バス停や本牧バス停が記されています。 また、この辺りでは人馴れした多くの猫たちに出会うこともできました。
本牧三渓園前(ほんもくさんけいえんまえ)バス停
三渓園の正門を出て左手へ真直ぐに進んでいくと十字路があります。 その右側にも十字路があり、その先に本牧三渓園前バス停があります。
[8]横浜駅前行きバスにて、桜木町駅(JR根岸線)まで26分、 横浜駅(JR東海道線)まで36分、1時間に2本から3本程度の便があります。
最初の十字路をそのまま真直ぐに進んでいき、広い道路を渡った左側に本牧バス停があります。 そこまで行くと、横浜駅や桜木町駅までの便が頻繁に出ています。