横浜中区
散策:2004年03月中旬
【街角散策】 横浜中区
概 要 横浜は日本のほぼ中央に位置する神奈川県の県庁所在地で、東京23区に次いで日本で2番目の大都市です。 開国時代の面影も随所に残っていて雰囲気のある街です。 そんな街の中区にある、山下公園・港の見える丘公園・外国人墓地から根岸森林公園へと巡っていきます。
起 点 横浜市 日本大通り駅
終 点 横浜市 旭台バス停
ルート 日本大通り駅…山下公園…氷川丸…横浜人形の家…港の見える丘公園…外国人墓地…ヨコハマ猫の美術館…妙香寺…山手駅…根岸森林公園…根岸競馬記念公苑…旭台バス停
所要時間 4時間20分
歩いて... 開国時代の横浜の街を訪ねて歩きます。 往時の建物や昔懐かしい童謡に出会えたりします。 氷川丸のすぐ側から出ている遊覧船に乗って横浜港を一周するのもいいでしょう。 今回訪れた場所のほかにもまだまだ多くのスポットがあるので、自分なりにアレンジして散策しましょう。
関連メモ 港の見える丘公園, 横浜みなとみらい21, 港の見える丘公園, 横浜中区, 横浜中区, 港の見える丘公園,
港の見える丘公園, 横浜みなとみらい21
コース紹介
日本大通り(にほんおおどおり)駅
日本大通り駅(みなとみらい線)から歩いていきます。 改札口を出た所に「周辺案内図」があるので参考にしましょう。 今回は、山下公園・港の見える丘公園・外国人墓地を経て、根岸森林公園まで歩いていきます。
みなとみらい線は2004年2月に開業したばかりの新しい路線で、すべて地下を走っています。 東急東横線とも直通運転をしていて、東京方面から訪れるのにも便利になりました。
山下公園
エスカレータを乗り継いで3番出口から地上へ出ます。 右手すぐの所にある信号を左へ渡り、大桟橋通りを海に向かって真直ぐに進んでいきます。 200mほど行くと、大桟橋の手前に変則的な十字路があります。 そこを右折して100mほど進んでいくと、海側に山下公園の入口があります。 公園へ入ってすぐの所に「公園案内図」があるので参考にしましょう。 山下公園は横浜港に沿って細長く続いていて、幅100m・長さ800mほどの小振りな公園です。
公園開設以前のようす(明治〜大正期)
現在の山下公園通り(当時は海岸通りと呼ばれていました)は海に面していて、 散策道としても多くの人に親しまれていました。 1871年(明治4年)に描かれた「横浜弌覧之真景」によると、 当時も多くの船が航行していた様子がうかがえます。
公園の開設(昭和5年)
1923年(大正12年)の関東大震災のため、海岸通り前の海は瓦礫の山となりました。 そして、震災復興事業の一つとして、ここに公園をつくることになり、 昭和5年、日本初の臨海公園、山下公園が誕生しました。 中央の噴水広場と左側(西側)の芝生広場は、現在でも開園当初の基本形態が残っています。 1935年(昭和10年)3月には震災復興を祝う復興博覧会が開催されました。 多くのパビリオンが立ち並び、公園前の海面ではクジラも展示されました。
山下埠頭臨海鉄道の建設と撤去
1965年(昭和40年)に、山下埠頭臨海鉄道線(国鉄貨物線)が開業しました。 公園内を高架で通過する計画には着工前から大佛次郎ら文化人が景観を損ねると反対しましたが、 計画どおり高架でつくられました。その後、貨物の取扱量の減少から、 1986年(昭和61年)に臨海鉄道線は営業を中止し、2000年(平成12年)には高架の建造物が撤去されました。 また、この撤去に合わせ、公園と街(山下公園通り)との景観の一体化を図るなどを目的に、 公園の再整備が実施されました。
インド水塔
公園に入って海へ向かっていくとインド水塔があります。 何となく異国情緒を感じる形をしています。
インド水塔
この「インド水塔」は、昭和14年12月に完工したインド式水飲場です。 これは、関東大震災で被災した在留インド人が横浜市民から受けた援助に感謝して、 当時の横浜インド商組合から横浜市に寄贈されたものです。
海に突き出たバルコニーから横浜港を見渡してみましょう。 左手には大桟橋、右手には氷川丸、遠くには横浜ベイブリッジや大黒ふ頭が見渡せます。
潮位標尺について
横浜港における海面の変動を身近に感じられるように潮位標尺を設置しています。
●海面の変動の原因について
海面の変動は主に以下の要因で起こります。
・月や太陽のおよほす引力と地球の自転によって起こる海面の周期的昇降(潮汐)
・風によって起こる波浪
・台風による気圧低下に伴う海面の吸い上げと強風による海水の吹き寄せによって起こる高潮
・地震による津波
●横浜港における海面の高さの基準について
港に出入りする船舶の安全な航行のためには干潮時においても充分な水深が必要となります。 そのため海面の高さは、海面が最も下がった状態を基準としており、これを基本水準面といいます。 基本水準面は各港ごとに設定されており、この標尺は横浜港の基本水準面からの高さで表示しています。 船舶の航行に使用される海図には水深が記入されていますが、 水深はこの基本水準面からの深さ(メートル)で表されます。 また港湾工事の基準となる横浜港工事基準面(Y.P.)も基本基準面です。 なお山などの標高を表すときの基準はこれとは異なり、東京湾の平均海面(T.P.)からの高さとして表され、 横浜港の基本水準面より1.09m高い位置になります。
●警戒水位について
横浜地方気象台が定めている神奈川県の高潮に関する注意報や警報を発令する際の 潮位の基準は以下のとおりです。(いずれも基本水準面からの高さ)
 注意報:2.49m以上、警報:2.89m以上
 (横浜市港湾局)
赤い靴はいてた女の子
バルコニーのそばには、童謡にも歌われている「赤い靴はいてた女の子」の銅像があります。
赤い靴  作詞:野口雨情 作曲:本居長世 【♪演奏
赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて いっちゃった
横浜の はとばから 船に乗って 異人さんに つれられて いっちゃった
今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび かんがえる 異人さんに 逢うたび かんがえる
この曲は横浜港を舞台に作られ、1921年(大正10年)に発表された童謡です。 女の子の像はこれを記念し、多くの人に親しまれる彫刻となることを願って、ここに置かれています。
 (横浜市緑政局)
芝生広場
公園には一面に芝生が植えられ、大きな樹木も立ち並んでいます。 この日は芝生の上で歌っているコーラスグループを見かけました。 いい天気に誘われての野外練習だったのでしょうか。
ZANGIRI
芝生広場の中程には「ZANGIRI」の彫刻が立っています。
西洋理容発祥之地
ザンギリ頭を たたいてみれば 文明開化の 音がする
安政の開港とともに、生活様式の洋風化が進むなか、政府の「断髪令」に先がけ、 明治2年(1869年)横浜に我が国初の「西洋理髪店」が開業され、 欧米風「ザンギリ頭」は文明開化の一翼を担うこととなった。
彫刻名「ザンギリ」
彫刻制作木村 賢太郎
寄 贈神奈川県理容環境衛生同業組合
全国理容環境衛生同業組合連合会
水の守護神
芝生広場の先の中央広場には噴水があります。 真ん中には「水の守護神」の像が立っています。 捧げているのは水瓶でしょうか。 池の周囲には綺麗な花が植えられていました。 噴水は時間と共に高くなったり低くなったりしていましたが、 像と同じ位の高さになったときを狙って写してみました。
かもめの水兵さん
中央広場の港寄りには童謡「かもめの水兵さん」の記念碑が建っています。
碑を建てることば
作詞者 武内俊子さんは昭和8年の秋ある日、このメリケン波止場から船で布教のため ハワイへ旅立たれる叔父さんを見送りにこられました。 それはよく晴れた日の午後のことで、桟橋一帯に白いかもめがたくさん飛びまわり、 それが折からの夕陽に映えてとても美しく印象的でした。 この童謡はこのときの光景を描いたもので、 横浜港は「かもめの水兵さん」の発祥地であります。
 (昭和54年11月 野間省一)
かもめの水兵さん  作詞:武内俊子 作曲:河村光陽 【♪演奏
一、 かもめの すいへいさん ならんだ すいへいさん
白いぼうし 白いシャツ 白いふく
波にちゃぷ ちゃぷ うかんでる
二、 かもめの すいへいさん かけあし すいへさん
白いぼうし 白いシャツ 白いふく
波をちゃぷ ちゃぷ こえていく
沈床花壇
中央広場の先の少し窪んだ所に沈床花壇があります。 花壇ということですが、訪れたのが春まだ浅い日だったこともあってか、花は咲いていませんでした。
ガールスカウトの像
沈床花壇の港寄りには「ガールスカウトの像」が建っています。
この銅像は日米友好のしるしとして、アメリカ ガールスカウト 五十周年と、 ガールスカウト日本連盟の世界連盟正加盟を記念して建てられたものである。
氷川丸
沈床花壇の先には氷川丸が係留されています。今では現役を引退し、船内は一般公開されています。 氷川丸のすぐ側からは横浜港を一周する遊覧船が出ているので、乗ってみるのもいいでしょう。
氷川丸
氷川丸は、日本郵船のシアトル航路の新鋭船として1930年4月、 三菱重工業横浜造船所で建造されました。 太平洋戦争中は病院船、戦後は引き揚げ船等として従事の後、 1953年7月我国唯一の外航客船として、シアトル航路に再デビューしました。 本船は戦前戦後を通じて248回太平洋を横断しています。 1961年5月、横浜開港100年記念事業の一つとしてこの地に係留されて以来、 マリンタワーと共に、山下公園の、そして横浜港のシンボルとして市民に親しまれています。
氷川丸の歴史
氷川丸は、日本郵船の社船として、三菱横浜造船所において建造され、 1930年(昭和5年)4月25日に竣工、ただちにシアトルに向け、処女航海の途につきました。 「氷川丸」の船名は、氷川神社(埼玉県)から授かりました。 本船には、最新の大型・高出力ディーゼルエンジン(デンマーク・B&W社製)や、 当時未発効であったSOLAS(海上人命安全の為の国際条約)を先取りした水密区画構造が採用されました。 また、一等船室など船内の随所に、1925年パリ万国博で発表されたばかりのアール・デコ様式の インテリアも採り入れられました。 オーシャンライナー全盛期の優美な船型と、一流シェフの料理をはじめとする最高のサービスが相まって、 本船は「北太平洋の女王」と呼ばれました。 1932年(昭和7年)には喜劇王チャーリー・チャップリン氏が、 1937年(昭和12年)には英国皇帝ジョージ6世の載冠式に出席された秩父宮ご夫妻が、 横浜港まで乗船されました。 1941年(昭和16年)、太平洋戦争勃発とともに本船は日本海軍に徴用され、 主として南太平洋海域において、病院船としての使命を果たしました。 1945年、終戦を迎えた後も、大勢の同胞を家族の待つ日本へ送り届けるため、復員輸送に従事しました。 1953年(昭和28年)には、再び改装工事が行われ、太平洋を横断する唯一の本格的客船として シアトル航路に復帰、母港横浜を出航しました。 このシアトル航路では、戦後の日本復興において、アメリカとの交流を促進するために始められた、 フルブライト交換留学生の方々が多数乗船されました。 また、「宝塚歌劇団」が北アメリカ、カナダ公演の為、本船に乗船されたのも話題となりました。 戦前、戦後を通じ、北太平洋を238回横断し、延べ25,000人余の乗客を運んだ氷川丸は、 1960年(昭和35年)10月、現役生活を引退し、横浜市の「横浜港開港100周年記念事業」の一環として、 1961年(昭和36年)生まれ故郷の横浜港・山下公園に係留されました。 係留後は、国際都市横浜を訪れる観光客の方々に、当時の豪華客船の優雅な船旅気分を 味わっていただけるよう、船内を見学していただいております。
 (氷川丸マリンタワー株式会社)
せかいの広場
おまつり広場を過ぎ、「ステージ」から「水の階段」を登っていくと「せかいの広場」があります。 大きな柱が何本も立ち、周りを茶色の壁で覆われた円い広場です。 ギリシャなどの古い神殿を模しているのでしょうか。 どことなく異国の雰囲気を醸し出しています。
せかいの広場の右手には、幾重にも連なるアーチ型の花のゲートがあります。 まだ春浅い季節とあって花は咲いていませんでしたが、 咲き揃ったときの美しさが想像されます。 このゲートをくぐって、山下公園から港の見える丘公園へと向かっていきます。
横浜人形の家
花のゲートに続く陸橋を渡っていくと、横浜人形の家があります。 その側には「青い目の人形」の像がありました。
横浜人形の家
開館時間午前10時〜午後6時30分
休館日第3月曜日(月曜日が祝日の場合、翌日)
12月29日〜1月1日
青い目の人形
昭和2年の春、ひな祭りにあわせて、日米の親善と平和を願う米国市民の思いをこめた 13,000体の青い目の人形が、はるばる太平洋の波とうをこえて横浜の港に着きました。 「かわいい親善大使」たちは、日本の津々浦々の小学校や幼稚園に贈られ、友好促進に尽くしました。 この人形彫刻のモデル「ポーリン」ちゃんはそのなかで一体で、 今も横浜市西区の西前小学校に大切に保存されています。
 (横浜市)
童謡「青い眼の人形」  作詞:野口雨情 作曲:本居長世 【♪演奏
青い眼をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
日本の港へついたとき いっぱいなみだをうかべてた
わたしは言葉がわからない 迷子になったらなんとしょう
やさしい日本の嬢ちゃんよ なかよくあそんでやっとくれ
なかよくあそんでやっとくれ
この有名な童謡が作られたのは大正12年なので、 昭和2年にアメリカから贈られたという「青い目の人形」とは直接の関係はないようです。
フランス橋
横浜人形の家の右手を過ぎて「フランス橋」を渡っていきます。 川の上を走る高速道路の下を過ぎていくと、港の見える丘公園のフランス山が見えてきます。
港の見える丘公園
フランス橋を渡った所に「港の見える丘公園」の入口があります。 そばには「クリーニング業発祥の地」の記念碑がありました。
クリーニング業発祥の地
安政6年、神奈川宿の人、青木屋忠七氏、西洋洗濯業を横浜本町一町目、現在の五丁目にて始め、 ついで岡澤直次郎氏、横浜元町に清水屋を開業、 慶応3年、脇澤金次郎氏、これを継承し、近代企業化の基礎を成した。 この間、フランス人ドンバル氏、斯業の技術指導および普及発展に貢献された。 これら業祖の偉業を顕彰し、ここにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する。
 (神奈川県クリーニング環境衛生同業組合、全国クリーニング同業者有志一同)
訪れた日は、みなとみらい線の元町・中華街駅に合わせた公園の工事がまだ続いていました。 工事フェンスを回り込むようにして公園に入っていきます。 森の中に続く階段を登っていきます。 街の中にもこんな森が残されていて嬉しい気持ちになります。
フランス領事公邸跡
階段を登って頂上に着くとフランス領事公邸跡があります。 遺構の壁には、フランス山に関する解説板がたくさん架かっていました。
フランス山の歴史
1862年9月(文久2年8月)、生麦(鶴見区生麦)で起きた生麦事件のなど、攘夷派による外国人殺傷事件が相次いでいたため、 フランスは、横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に、 イギリスとともに軍隊の駐屯を決定しました。 1863年6月下旬(文久3年5月)フランス海兵隊が横浜に到着し、山手居留地185番に駐屯を開始、 7月、8月頃、駐屯軍兵舎が186番に3棟建設されました。 1875(明治8)年3月に撤退するまでの約12年間、部隊の交替をくり返しながら駐屯を続けました。 これがフランス山と呼ばれるようになった理由です。 撤退により兵舎が不要となったので、海兵隊当局はフランス山の永代借地権をフランス駐日外交代表部に譲渡しました。 横浜駐在のフランス領事はここに領事館を建設する提案をしましたが、なかなか実現しないでいたところ、 1885(明治18)年になってフランス人居留民らの有志らが領事館建設の請願書を提出しました。 このことがきっかけとなって計画が具体化し、1894(明治27)年にフランス人建築家サルダの設計で、 領事館と領事官邸の新築工事が始まりました。 1896(明治29)年3月、山手185番(フランス山下方)に領事館、12月に山手186番(フランス山上方)に領事官邸が完成します。 領事官邸には、風車の付いた井戸が掘られました。 1923(大正12)年、関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊します。 震災後、領事館は仮設の建物を使用していましたが、官邸は、1930(昭和5)年、ヒンデルの設計で 山手186番に再建されました。その官邸も、戦後まもない1947(昭和22)年には火災で焼失してしまいます。 現存している遺構は、その際に焼け残った1階部分です。
フランス領事公邸跡の横には、当時を再現したという風車があります。 風を受けてカラカラと回っていました。
フランス山の風車
明治29年(1896)にフランス領事館とその官邸が建設された際、このフランス山には井戸水を汲み上げるための 風車が設置されました。風車が設置されたのは、レンガ造り井戸の遺構が残されている場所です。 残念ながら、フランス領事公邸で使用されていた風車の形は、写真などの資料が残されていないため判りません。 しかし、同時代に使われていた「フェリス女学院の赤い風車」や「ヴィラ・サクソニアの風車」の写真から、 多翼型の風車であったろうと思われます。なおフランス山の風車は、残されている資料から、 明治42年頃までは存在していたようです。 今回、フランス山の公園整備に際し、かつてのフランス山をしのぶモニュメントとして、 多翼型の風車を設置しました。風車の色は、フランス国旗の色にちなんでトリコロール(青・白・赤)に塗り分けています。 また、風車が回ると流れの水を汲み揚げるようになっています。 今回の公園整備に伴う工事の際に、風車のレンガ造り基礎が見つかりました。 井戸の北側斜面に2基、南側にやや小さめの基礎が2基の合計4基です。 北側の基礎は、斜面の整備に支障を来すため、堀上げて新たに設置した風車を中心に、 元有った一に合わせて展示しました。 また南側の1基はそのままで、もう1基は園路の下に現状保存しています。
 (緑政局)
井戸遺構
中央広場から展望広場へ向かう途中の小径の真ん中に井戸遺構がありました。 上部の金網から中を覗くと、周囲にはレンガが円く積まれていました。
レンガ造り井戸遺構
このレンガ造り井戸は、明治29年(1896)のフランス領事公邸竣工時に、 上水道が山手まで敷設されていなかったために設置されたものです。 水はすでに涸れていますが、井戸の深さは約30mで、使われているレンガは、円形に積むため扇形をしています。 また公園整備の工事に際し、井戸の周囲から井戸水汲み揚げ用風車の基礎4基も出土しました。 右側に現状保存したのは、そのうちの一つです。 今回、かつてのフランス山をしのぶ貴重な遺構として保存整備を行いました。
 (緑政局)
展望広場
小径を進んでいくと展望広場に着きます。
港の見える丘公園
港の見える丘公園の現在展望台になっている高台の周りには、 幕末から明治の始めにかけてイギリス軍兵舎がおかれ、山のすそにはフランス軍が駐屯していた記録があります。 この山は今でもフランス山と呼ばれ親しまれています。 その後、高台にはイギリス領事官邸が、山側にはフランス領事館が建てられ、 現在ではイギリス領事官邸がそのままイギリス館として市民に利用されています。 フランス領事館は既になくなっていますが、フランス領事館跡、フランス橋、フランスより寄贈された バルタールパビリオン等が今でもフランスのなごりを残しています。 海に臨んだ展望台や霧笛橋からは横浜港、山下公園、ベイブリッジが見え、 晴れた日には房総の山々を眺めることができます。 園内にはカイズカイブキに囲まれた沈床花壇や、山手111番館などの洋館を取り込み、 バラや四季折々の草花が咲くローズガーデンがあります。 イギリス館と山手111番館に挟まれた噴水広場には歴史的な横浜創設水道記念噴水塔の複製が設置され、 異国情緒をかもしだしています。 また、大佛次郎記念館、神奈川近代文学館も公園にあり、市内外より多くの観光客が訪れています。
 (横浜市)
展望台からは、「港の見える丘」の名前の通り、横浜港やベイブリッジを一望することができます。
港が見える丘
展望広場の一角には「港が見える丘」の歌碑がありました。
港がみえる丘  作詞:東辰三 作曲:東辰三 【♪演奏
 あなたと二人で来た丘は 港が見える丘
 色褪せた桜唯一つ 淋しく咲いていた
 船の汽笛咽び泣けば チラリホラリと花片
 あなと私に降りかかる 春の午後でした
この歌は昭和22年当時、戦後の荒廃した世相の中で、 港をテーマにした曲として広く人々の口ずさまれ、なにかしらほっとする安堵感を覚えたものです。 この港の見える丘公園が歌の舞台であったかについては、様々な説がありますが、 この歌が広く横浜市民に親しまれていたこともあって、多くの市民の共感を得て、 横浜市が「港の見える丘公園」と命名したものです。
大佛次郎記念館
噴水のある沈床花壇を過ぎていくと大佛次郎記念館があります。
横浜市に生まれ横浜をこよなく愛した作家大佛次郎(1897年〜1973年)の作品には、 横浜を舞台としたものが数多くあります。 この山手の地も「霧笛」、「幻燈」などの作品の舞台となった所です。 没後、膨大な遺品が遺族から横浜市に寄贈されたのを機にこの記念館が建設され、 昭和53年(1978)5月に開館いたしました。 館内には、貴重な遺品や文筆活動に使われた数々の資料、愛猫家であった氏を偲ばせる猫の置物等が 保存・展示されております。また、和室や会議室などの貸室や図書閲覧のための閲覧室も設けられております。 お気軽にご利用ください。
観覧時間
 4月〜9月 午前10時〜午後5時30分(入館は午後5時まで)
 10月〜翌年3月 午前10時〜午後5時(入館は午後4時30分)
休館日(施設点検日)
 ・第4月曜日(国民の祝日・振替休日の時は火曜日)
 ・年末年始(12月29日から翌年1月3日まで)
 ・この他不定期に休館日(施設点検日)があります
霧笛橋
大佛次郎記念館の左手から、赤いレンガの霧笛橋を渡って、神奈川近代文学館へと向かいます。
神奈川近代文学館
霧笛橋を渡った所に神奈川近代文学館があります。 訪れた日には「近代文学と神奈川W 昭和の文学2−敗戦から現代へ−」という催しが開かれていました。
霧笛橋の下には「芸亭の桜」がありました。
芸亭(うんてい)の桜
「芸」は、書物の虫除けに用いられた香草の名。
「芸亭」は、奈良時代末期に公開されたわが国最古といわれている図書館の名。
ややは冷え来し 云亭のさくらなか
イギリス館
大佛次郎記念館の右手前にはイギリス館があります。
横浜市イギリス館
名称横浜市イギリス館(旧横浜英国総領事公邸)
所在地横浜市中区山手町115-3
建築年昭和12年(1937)
設計者大英工部総署
日本の開国はペリーの来航に端を発しましたが、 最も中心的な役割を果したのは、オールコック駐日総領事を代表とするイギリスの外交官です。 このイギリス館の建つ山手115番は、文久3年に横浜の居留地防衛のため軍隊が駐屯するなど、 横浜開港直後からイギリスにゆかりの深い土地です。 横浜市イギリス館は、昭和12年に上海の大英工部総署の設計によって、 英国総領事公邸として建築された建物で、広い敷地にゆったりと建てられ、 条約開港都市横浜にふさわしい規模と風格を持っています。 建物は、主屋と付属屋とが連結した形で建てられています。 主屋は南面して主要な部屋を配し、廊下を北側に設ける配置で、一つの理想的な形態を示しています。 意匠的には、近代主義を基調とした合理性が見られますが、 単にモダニズムの踏襲ではなく、英国調とも言える伝統を加味した穏健重厚な意匠が伺えます。 この横浜市イギリス館は様式・意匠ともに優れた貴重な建物として、平成2年11月に横浜市指定文化財に指定されました。
イギリス館の一般展示室のご案内
開館時間9:30〜17:00(7、8月は9:30〜18:00)
休館日毎月第4水曜日(祝祭日の場合はその翌日)
年末年始(12/29〜1/3)
山手111番館
大佛次郎記念館の右手奥には山手111番館がありますが、 この時には改修工事中で、公開されていませんでした。
噴水広場
イギリス館と山手111番館の間にある噴水広場を通って公園の外に出ます。 右折して行った先のT字路を左折して山手本通りを進んでいきます。 この付近には「緑と洋館の巡り道」が設定されています。 港の見える丘公園から元町公園・根岸森林公園・本牧山頂公園を巡って、 再び港の見える丘公園へと戻ってくるコースです。
緑と洋館の巡り道(山手地区)
この「巡り道」は、かつて幕末に開かれた「外国人歩道」をもとに、 山手・本牧・根岸に点在する洋館や歴史的な公園を巡る環状プロムナードです。 横浜山手は港を望む高台に、慶応3年(1867)居留外国人の住宅地として開放され、 各国領事館や外国商人の邸宅等が緑の中にとけこむ良好な住宅地を形成しました。 関東大震災や戦災により、当時の洋館はかなり失われましたが、 今なお優れた風致、景観を継承しています。
山手風致地区
良好な住環境を維持継承していくため、この地区を風致地区に指定しています。 ここでは、建築物や工作物の新築・改築、色彩の変更、土地の形質変更、木材伐採、 土石類の採取等を行う場合には横浜市長の許可が必要です。
 (横浜市中区役所区政推進課)
外国人墓地
岩崎博物館(ゲーテ座記念)を過ぎて真直ぐに行くと、外国人墓地があります。 日本にゆかりのある外国の方々が永眠されている場所なので、 中を歩き回ることなく外側からそっと眺めるに留めておきましょう。 以前は「外人墓地」と呼んでいましたが、諸般の事情から「外国人墓地」と改称されたようです。
外国人墓地
もと増徳院の境内であったこの地は、安政元年(1854)2月、日米和親条約(神奈川条約)をむずぶため、 来日中のアメリカ使節ペリー一行のうち、客死した海兵隊員を葬ったのに由来し、 横浜開港後、居留外国人の葬地となった。 生麦・井土ヶ谷両事件の被害者を始めとして、明治初期、日本文化に貢献した ワーグマン、モレル、ヘールツなどが眠っている。
 (横浜観光コンベンション・ビューロー、横浜市)
ヨコハマ猫の美術館
外国人墓地を後にして、根岸森林公園へと向かっていきます。 根岸森林公園へは山手資料館の先にあるT字路を直進していくのですが、 左手に少しいくと「猫の美術館」があるので、ちょっと立ち寄っていきましょう。
ヨコハマ猫の美術館
世界でも珍しい猫の美術館です。 著名作家のドローイング、版画、油彩画、立体作品など多数コレクションしています。 子供さんによろこばれるもの、アート性の高いもの、などお楽しみ下さい。 その他にヨーロッパアンティークドールも展示してあります。 こ高覧下さいませ。
 (猫の美術館)
ヨコハマ猫の美術館は、横浜山手の外人墓地にほど近い西洋館風の潅洒な木造住宅の一階を解放した、 プレイベート・ミュージアムです。玄関の周辺の外壁には、ながらく北欧の地でコブラ派の 芸術家と共に活躍している中島由夫らの手により壁画が描かれており、玄関を入ると シャガールや竹久夢二らの内外のポスターが飾られています。 展示室には、藤田嗣治のエコール・ド・パリの画壇で活躍していた1925年のエッチングを中心に、 小林清親、山村耕花、中村直人、山本蘭村ら物故作家の作品や、 国芳、芳藤、房年らの浮世絵十数点と併せて、現代作家の作品が数多く展示されております。 立体展示品は造形作家として海外でも評価の高い狩野炎立、岡井美穂やフランスのDHEDBURNの作品の他、 昔からの招き猫などの民族的、玩具的なもの、ティーポットなどの骨董的ものなど盛り沢山です。 併設のミュージアムショップ「赤い靴」では絵画をはじめ、いわゆるネコグッズでも手作り、 手画きの一点物、毎年ギャラリーパリスで開催の猫展に参加する作家たちの作品を主として展示即売しております。
妙香寺
元の道に戻って根岸森林公園へと進んでいきます。 公園までは街中の道を歩きます。 元町公園前交差点を左折して坂道を降り、その先のT字路を右折していきます。 「日本最初の麦酒工場跡」の石碑のあるキリン園公園を過ぎて行くとキリン園公園入口交差点があります。 そこを右折していくと、右手に「国歌君が代由緒地」と記された石碑が立っています。 右手の道の先の石段を登っていくと妙香寺があるので、ちょっと立ち寄っていきましょう。 境内には「国歌君ヶ代発祥之地」の石碑と「日本吹奏楽発祥の地」の記念碑がありました。
山手駅
元の道に戻った先の交差点を左手にいくと本牧通りに出ます。 右折して少し先に行った所にある山手駅入口交差点を左折し、 商店街の中に真直ぐに続く大和町通りを進んでいきます。 600mほどで山手駅(JR根岸線)がある線路下を通っていきます。
ガード下を過ぎて、立野小学校の右横を真直ぐに進んでいきます。 突き当たりを左に曲がった先のT字路を右折して、住宅街の坂道を登っていきます。 かなり急な坂道なのでゆっくりと登っていきましょう。
坂を登りきると横浜山手マンションのあるT字路に出ます。 左手に道なりに進んでいきます。 clio REMINGTON HOUSE YOKOHAMA YAMATEの前を過ぎて山元町5丁目交差点に出ると、 根岸森林公園があります。 正面入口は左へ少し行った所にありますが、この横断歩道を渡った所から公園へ入っていきます。
根岸森林公園
根岸森林公園は大豆のような形をしたかなり大きな公園で、 真ん中の広い芝生広場を取り巻くようにして周回路が巡っています。 芝生広場には、梅林・桜山・池などがあります。 また、公園の一角には馬の博物館や根岸競馬記念公苑もあって馬に出会うこともできます。 米軍施設を挟んだ先には、芝生公園と一等馬見所もありますが、今回は訪れずにおきました。
根岸森林公園のあゆみ
ここは、慶応3年(1867)にわが国最初の洋式競馬が行なわれたところで、 昭和18年6月まで続きましたが、戦後は接収され、米軍のモータープール、ゴルフ場となっていました。 昭和44年、主としてゴルフ場だった場所が接収解除になり、横浜市は、昭和47年から公園整備に着手、 中央競馬会による競馬記念公苑とともに、昭和52年10月1日開園しました。
根岸競馬場跡
日本で初めて洋式競馬が開催されたのは、居留外国人により造成中の旧横浜新田(現中区山下町付近)において、 文久2年(1862)5月といわれています。元治元年(1864)の横浜居留地覚書第1条に基づき、 吉田新田の一部に設置する予定でしたが、慶応2年(1866)日本最初の近代競馬上が外国人遊歩道に沿う 根岸の丘に設置されました。形は楕円形で周囲は827間(1.5km)、幅は10間より15間、14,920坪(49,236u)。 グランドスタンドは、35間四方、設計はW.A.ドーソン。翌3年第1回の競馬会が開催されました。 明治8年西郷従道が日本人最初の会員となり、秋のレースで愛馬ミカンに騎乗し優勝しました。 覚書により経営は外国人によって行なわれましたが、明治13年経営困難となり覚書は廃止され、 管理権は日本政府に回収されました。 日本人を含むクラブと契約が結ばれ、春・秋2回レースが開催されました。 昭和5年(1930)J.H.モーガンの設計によるスタンドが完成しましたが、 昭和17年(1942)秋のレースを最後に、昭和18年より日本海軍、昭和22年より米軍が使用していました。 昭和44年、スタンドを除く14.2haが返還され、根岸森林公園となり、 スタンドは、昭和57年返還され横浜市の管理となりました。
 (横浜市教育委員会文化財課、横浜国際観光協会)
暖かい日差しに誘われて、芝生広場では多くの人が休日のひと時を楽しんでいました。 凧揚げをしている人や周回路をジョギングしている人も見かけました。
根岸競馬記念公苑
根岸森林公園の一角には根岸競馬記念公苑があります。 馬場には馬が4頭いました。
ご来苑のみなさんへ
根岸競馬記念公苑(馬の博物館)では、馬についての関心と理解を深めていただくために、 苑内に馬を飼育しています。 馬は世界中にたくさんの品種が分布し、今も人々の暮らしの中で生きています。 その品種は200種を超え、日本の在来馬も8品種が登録されています。 そのうちこの公苑には、サラブレッド、オランダ温血種、北海道和種、アメリカン・クォーターホース、 アメンリカン・ミニチュアホース、ハフリンガー、の6種類が展示されています。 なお、ポニーというのは種類をあらわすのではなく、成馬になっても体高(背の高さ)が147cm以下の 馬を総称して呼ぶ名称です。 馬は本来おとなしく、人に危害を加えるようなことはありませんが、おくびょうな動物ですから、 突然驚かされると危険を感じて蹴ることがあります。 馬が通路を通っている時やつながれている時など、後ろに立ったりそばを走ったりしないでください。 馬に地下ずく場合は必ず声をかけながら、やさしく接してください。
係員の許可なしに餌を与えたり、柵内に立ち入らないでください。
 (根岸競馬記念公苑長)
入苑者の皆様へ
1.苑内へ自転車、オートバイ等での乗り入れは、お断りします。
2.紙ぐず、空缶等は備え付けの屑カゴに入れて下さい。
3.喫煙は、指定場所でお願いします。
4.馬をおどかしたり、花や樹木をおったりしないで下さい。
5.苑内では「犬」を放さないで下さい。「犬」のフンは飼主自身が始末して下さい。
開門時間/午前9時30分〜午後5時
馬の博物館/午前10時〜午後4時
休館日/毎月曜日(但し、祝日開館)
 (根岸競馬記念公苑)
馬場のそばには小奇麗な馬舎があり、馬に関する解説板がたくさんありました。 休日とあって、多くの家族づれが来ていました。
馬沓の始まり
日本の馬沓は、1159年(平治元年)頃より使われ始めたようです。 材料には、わら・こうぞ・しゅろ・ふじばかま・みよが・生糸・馬の毛・女性の髪の毛などが用いられました。 材料や作り方で、いろいろの名称のものがあり、戦用には、鋲をつけた鉄板をわら沓の上に 装着したといわれています。 馬沓を保存するにはゴマ油を、またそれを履くには沓ずれができないように猪油などが用いられたそうです。
日本の蹄鉄の始まり
馬の蹄を保護するため、蹄底に打ちつける蹄型の金具を蹄鉄といい、 使途によりさまざまの名称のものがあります。 日本の洋式装蹄は、ケイズ(オランダ人)が1725年頃(享保10年)わが国に滞在中(10年間)、 その技術を指導したのが始まりです。 それから1861年(文久元年)には、イギリスの駐留部隊も装蹄の指導を行っており、 そして1873年(明治6年)に日本レースクラブができると英国式の装蹄法も広がりました。 一方陸軍では、同じ頃ビースト(フランス人)による蹄鉄士の教育が本格的に始まりました。
馬舎の横にはとても小さな馬がいました。 子供達が近くで騒いでいても動じることなく、動かずにじっとしたままでした。 眠いのでしょうか、目を閉じ気味でした。
マロン
種類アメリカン・ミニチュアホース
生年月日1993年6月22日
性別牝(めす)
毛色栗毛
体高76cm
小さくてもこれで立派な大人です。 「マロン」という名前は来苑の皆さんから命名してもらいました。
馬の博物館
馬場の隣には馬の博物館があります。 訪れた日には「春季特別展 横浜ウマ物語−文明開化の蹄音−」が開催されていました。
苑内の散策路の脇に馬頭観世音菩薩の石像がありました。
馬頭観世音菩薩
昔し馬産地であった農村に行くと、路傍や馬頭観音堂の境内に「馬頭尊」「馬頭観世音」などの 名号を彫りつけた石碑や、罵倒観世音菩薩の姿を刻んだ石像がしばしば見受けられます。 罵倒観世音菩薩の姿は、頭上に馬の頭をいただき、念怒(いかり)の形相をしているのが普通ですが、 中にはやさしい慈悲の相をしたものも見られます。 これらは、みな馬を家族の一員として大切にしてきた馬主が、亡くなった馬の供養や、 馬の無事息災を祈願して建立祭祀したものです。 この石像は嘉永7年(1854)に作られたものです。
旭台(あさひだい)バス停
根岸森林公園の正面入口から右手に少しいくと旭台バス停があります。
桜木町駅(JR根岸線)まで、[21]桜木町駅前行きバスにて20分、1時間に4本程度の便があります。
横浜駅(JR東海道線)まで、[103]横浜駅前行きバスにて25分、1時間に6本程度の便があります。
また、道路の向い側のバス停からは、 根岸駅(JR根岸線)まで、[21]市電保存館前行きバスにて5分、1時間に4本程度の便があります。