衣笠山
散策:2004年02月上旬
【街角散策】 衣笠山
概 要 衣笠山は横須賀市の衣笠駅の南側にある低い山です。 かつて三浦半島一帯を支配した三浦一族の本拠地になっていた所で、 いまでも残る史跡や寺院を訪ねていきます。
起 点 横須賀市 衣笠駅
終 点 横須賀市 大矢部三丁目バス停
ルート 衣笠駅…衣笠山公園入口…衣笠神社…西田明則君之碑…忠犬タマ公の碑…衣笠山公園…衣笠山展望所…三浦縦貫道衣笠入口…衣笠城址…大善寺…太田和街道入口…満昌寺…御霊神社…清雲寺…腹切松公園…大矢部三丁目バス停
所要時間 4時間30分
歩いて... 衣笠山は市街地に近い所にありますが、 山頂にある展望所からは、伊豆半島・丹沢山塊・房総半島・三浦半島などの360度の大パノラマを満喫できます。 公園には桜の木が3000本ほど植えられていて、春にはピンク色に染まります。
関連メモ 大楠山, 大楠山
コース紹介
衣笠(きぬがさ)駅
衣笠駅(JR横須賀線)から歩いていきます。
駅を出て右手の所に「衣笠地区観光案内図」があるので参考にしましょう。 衣笠山公園・衣笠城址から、大善寺・満昌寺・清雲寺と巡っていきます。
衣笠山公園入口
駅前の県道27号を右手に400mほど進んだ所の衣笠十字路を右折して、 横須賀線の線路の下をくぐって行きます。 赤い看板のRoom's大正堂を過ぎた所に衣笠公園入口の信号があります。 ここに「衣笠山公園入口 ここから0.7km」と書かれた大きな標識が立っているので、 その標識に従って右手の道を進んでいきます。
横須賀市都市計画衣笠大楠山風致地区
首都圏衣笠大楠山均衡緑地保全地域
衣笠大楠山近郊緑地特別保全地区
緑色の区域は、都市計画法に基づく風致地区です。 オレンジ色斜線区域は、首都圏近郊緑地保全法に基づく近郊緑地保全区域です。 紫色の区域は、近郊緑地特別保全区域です。 これらの地区内で、建物の新築・増築・改築・石積・よう壁・屋外広告物等の工作物の設置・ 宅地や農地の造成・土石類採取等、土地形質の変更・木竹類を切る場合は、 あらかじめ市長の許可を受けるか、届出が必要です。
 (横須賀市緑政部緑化推進課)
住宅街を4分ほど進んでいくと、右手に登っていく道が分かれています。 そばにある道標「衣笠山公園・大楠山」に従って、この右手の道を登っていきます。
竹林のそばを通っていくと5分ほどで衣笠山公園団地への道が右手に分かれていますが、 このまま正面の坂道を登っていきます。
愛犬家のみなさんへ!!
・犬のふん、おしっこでみんなが迷惑しています。
・犬のふんを放置するとポイ捨て防止条例に違反します。
・散歩は引き綱をつけて!!
動物は愛情と責任を持って飼いましょう。
 (横須賀市)
衣笠神社
かなり急な坂道を登っていくと、右手に大きくカーブしていく所に衣笠神社があります。 衣笠山公園入口の信号から12分ほどで着きます。 旧衣笠村の各字にあった23社が合併してできた神社だそうです。
衣笠神社
鎮座地横須賀市小矢部四丁目1202番地
祭神大日霊貴尊
氏子区域小矢部、衣笠栄町、金谷、衣笠
由緒
旧衣笠村の各字には計23社あり、各字の鎮守として崇拝されて来たが、 時の政府政令に依る一村一社の方針により、大正2年9月1日、小矢部一丁目城山1020番地鎮座の 村社皇大神社に合併し、社殿は明治20年6月に造営された小矢部一丁目1387番地に鎮座する 熊野社・山王社を解体、内陣は明治10年造営された衣笠町より遷宮し、 現在地に鎮座せられた衣笠神社となった。 境内の鳥居・狗犬・燈籠・手洗等はすべて各字の神社より移したものである。 昭和20年8月第二次世界大戦終戦後、大矢部・平作・阿部倉・池上は参拝に遠隔不便のため、 各町毎に鎮守を分離復活させた。 昭和60年3月衣笠神社修復委員会は住民の協力のもとに鳥居の建立・屋根葺替え・回廊の修理を行った。
衣笠神社の右手には衣笠山公園駐車場があります。 駐車場にあるトイレの前の車止めを過ぎて坂道を登っていきます。
衣笠山公園駐車場
1.この駐車場は、衣笠山公園の利用者のために設けたものです。
2.利用できる時間は、午前8時30分から午後5時まで。
  (午後5時以後は出れません)
公園内にオートバイや自転車の乗り入れ禁止
  (よこすか市)
さくら名所100選に衣笠山公園が選ばれました。
西田明則君之碑
坂道を登っていくと、左手に「西田明則君之碑」が建っています。 東京湾にある三つの海堡の建設に尽力された方のようです。 そばには、第三海堡の復元イメージ図もありました。 全長270m、最大幅167mの大きな設備だったようです。
明治から大正時代にかけて、観音崎と富津三崎の間に第一海堡・第二海堡・第三海堡が建設されました。 海堡とは、砲台を置くため海上に造られた人工島です。 猿島や観音崎公園の中などにも、たくさんの砲台跡があり、要塞地帯であったことがうかがえます。 中でも、第三海堡のように水深が深い場所でも大規模な海上要塞は世界でも類を見ないものでした。 「西田明則君之碑」は、この海堡建設の最大功労者「西田明則」をたたえるために、 大正12年(1923)に、これらの海堡を望むここ衣笠山に建てられました。
 (国土交通省 関東地方整備局 東京湾口航路事務所)
東京湾に三つの海堡を山のようにそびえ立たせ、帝都の入り口の砦とし、海上防衛の備えとする。 明治12年(1879)、参謀本部内に海岸防禦取調委員を置いた。間もなく、陸軍工兵少佐 西田君は 常任委員として、もっぱら従事することとなった。 東京湾海堡の設計・施工の多くは君が苦労し、心をつくして行ったものである。 それは、中国の禹の治水に勝るとも劣らないものであった。(禹は古代中国伝説上の王で、治水に功があった) ことに、第三海堡の位置は水深が20ヒロ余り(約40メートル)もあり、潮流はこれまでに例のない 早さであった。人々は大いにこれを危ぶんだ。しかしながら、君はあらゆる方面に説いて廻り、 その結果、ついに今日、完成するに至ったのである。これは、あらかじめ成功する成算がなければ 成しとげられなかったものである。君の功績は偉大と言うべきである。 君は名を明則と言い、山口県出身で、見識と度量があり、数学に精通していた。 明治19年(1886)に陸軍技師となり、一生その職にあった。(軍役を退いたのちも技師として陸軍に奉職した) 明治39年(1906)5月21日、君は80歳にして竣工を見ることなく逝去され、 横須賀聖徳寺の墓地に葬られた。今、この3月、志を同じくするものがあい計らい、 衣笠山公園に碑を建て、後世に伝えることとした。 このたび、各皇族より御下賜金を戴いた。大いに名誉なことである。 私は君と交誼があったので、この碑文を作成した。君の遺言は骨を三つの海堡を一目で見える所に埋めて、 霊魂が長く三つの海堡を護ることを望むものであった。
あゝ、君は死してのちもなお、心を尽くし、国のためにつとめるのか。
 (元帥陸軍大将 子爵 上原勇 作撰)
碑を後にして坂道を更に進んでいくと、茶色い衣笠山公園管理事務所の建物があるY字路があります。 右手はほたるの里・わんぱくの里への道で、衣笠山山頂は正面の道を進んでいきます。 分岐の所には芭蕉の句碑が建っています。
しら露も こぼさぬ萩の うねり哉 はせを
桜の名所衣笠山公園に「萩」の名所を新たに加えるべく、揮壱を横須賀市長横山和夫氏に依頼し、 ここに芭蕉の句碑を建てる。
 (衣笠観光協会)
火気厳禁
公園内では、火気を使用しないで下さい。
 (横須賀市)
やめよう!犬の放し飼い
ペットのフンは飼い主があとしまつを
みんなでまちをきれいに
 (横須賀市)
忠犬タマ公の碑
Y字路の左手には広場があり、そこに忠犬タマ公の碑があります。
「忠犬タマ公の碑」について
忠犬タマ公は、新潟県中蒲原郡村松町(旧川内村)に住む刈田吉太郎氏の飼犬であるが、 昭和9年2月5日と同11年1月10日の二度にわたり、狩猟にでた主人達が雪崩により遭難した際、 必死に雪を堀おこし、主人達を救出した。 この二度にわたる「タマ」の功績は、当時の新潟新聞に掲載され礼賛されたほか、 「忠犬タマ公を語る座談会」としてラジオにより全国放送された。 この「忠犬タマ公」の美談は横須賀市に在住する新潟県出身の退役海軍将兵で組織している互立会の 知るところとなり、また郷里における美談に感激した互立会の一員が、新潟県村松町に住む 刈田吉太郎氏宅に赴き、タマ公が寝起きしている場所の土を貰い受けてきたのを契機に、 この土をゆかりとし、横須賀市に在住する新潟県出身の将兵達に、末永く「タマ公」の美談を伝え残すため、 互立会の手によって建立されたものと推測される。 この碑は、昭和11年9月23日衣笠山公園裏道入口付近、現在の枡沢磋氏宅地内に建立され、 枡沢貞子氏が今日まで長い間管理していたものを移したものである。 また、この碑の「忠犬タマ公の碑」の文字は、逓信大臣 第13代横須賀市長を歴任された 小泉又次郎先生の筆によるものである。
 (衣笠観光協会)
衣笠山公園
忠犬タマ公の碑を後にして坂道を進み、多くの桜の木が植えられたこんもりとした丘に登ると展望台があります。 展望台の屋上には「衣笠聖観世音」の祠があります。 屋上の周りには金網が張り巡らされていて赴きは今ひとつですが、横須賀の街や東京湾を一望できます。
横須賀風物百選 衣笠山公園
山の容姿が、馬の背に鞍を置いた形に似ているところから、正しくは「鞍掛山」と呼びますが、 現在では、広く「衣笠山」の名称で親しまれています。 明治37年2月4日(1904)、日露戦争がおこり、この三浦半島からも多数の人々が徴兵され、戦死しました。 明治40年4月18日、それら戦没者の霊を慰めるため、三浦半島の官民有志が、頂上に「芳名不朽」の 文字を刻んだ記念塔を建設し、数百株の桜樹と、各種のツツジを植えて公園としました。 それ以後、この公園は、三浦半島随一の桜の名所となりました。 その当時の様子を、ソ連に帰化した女優岡田嘉子の父岡田緑風は、「三浦繁昌記」(明治41年刊)の中で 次のように書いています。
「・・・、試みに絶頂に立ち四方の光景を展望すれば、脚下に起伏する群嶺は波をたたんで蜿蜒相連なり、 山尽きて里落栄え、陸止まりて碧海遠く開く。・・・秋は紅葉の四山に錦を織るあり、 春は万朶の桜の白雲紅霞となって漂うあり、・・・」
名物の桜も戦後の一時期、桜樹の老化と病気により衰えかけたが、 衣笠観光協会が補植等に力を尽くした結果、昔の姿をとり戻しました。 公園の面積は、7.4ヘクタール、桜樹は三千本を数え、その大部分はソメイヨシノです。 なお、この公園は、谷一つ隔てた衣笠城址を経て、三浦半島の最高峰大楠山(242メートル)に至る ハイキングコースの東側玄関口になっています。
展望台を後にして、緩やかな尾根筋に続く広い道を進んでいきます。
ハギ
「萩」の文字からもわかるように、秋を代表する植物で、秋の七草のひとつです。 日本には10種類のハギが知られていますが、この公園にはヤマハギ、シラハギ、マルバハギなど、 花の美しいハギが植えられています。(マメ科)
衣笠山展望所
尾根を2分ほど進んでいくと鉄柱でできた展望所があります。 上まで登ると360度の大パノラマが広がっています。 各方向に見える場所の名前が書かれた大きな円形の図が中二階にあります。
西には相模湾の向うに伊豆半島、北には江の島・丹沢・富士山、 東には東京湾から房総半島、南は三浦半島・大島などが見えます。 しばらく休憩しながら、このすばらしい景色を堪能していきましょう。
素晴らしい景色を堪能したら、道標「衣笠城址・大楠山」に従って、 衣笠城址を目指して下山していきます。 歩き始めの横木の階段を過ぎると、やがて両側に笹竹が生い茂る石畳の道になります。
この周辺の桜は宝くじの益金で植えられました。
 (財団法人 日本さくらの会)
少し進んでいくと、道が二又に分かれています。 道標はありませんが、右手に行くと、桜の木が一面に植えられた広場に出ます。 ベンチがいくつも設置されていて、桜の咲く季節には花見客で賑わうことでしょう。 二又の左手が本道ですが、広場からもその道に出られるので、 どちらを進んでいっても合流できます。
広場から本道に出て更に進んでいくと、横木の階段が現れます。 かなり長い階段で、谷筋に降り着くまでずぅっと続いています。 今回とは逆向きのコースを選ぶとこの階段を登ることになるので、避けたい気持ちになったりします。
横木の階段を5分ほど降っていって谷筋に着いた所に分岐があります。 戻るようにして右手に続く道は衣笠中学校への道で、 衣笠城址へは、道標に従って正面の道を進んでいきます。 横木の階段はここで終り、これからは谷戸に沿った緩やかな道になります。
3分ほど進んでいくと正面が開けた場所に出ます。 少し進んだ先に道標が立っていますが、「衣笠城址」を指す先には鉄線の柵があって進めません。 最近になって出来たもののようで、まだ新しい柵でした。 仕方がないので、少し回り道をしていきます。 道標「バス停」に従って正面の道を進み、突き当たりを右手に行くと、鉄線の柵の向こう側へ出ます。
三浦縦貫道衣笠入口
柵の向う側には三浦縦貫道があります。 まだ建設中の道路のようで、今後はこの右手へ延びていくような感じでした。 信号の右手を渡った所に「衣笠城址」と書かれた看板があるので、 それに従って、鉄パイプの手摺のある階段を登っていきます。
横木の階段を登っていくと、やがて笹竹が生い茂る広めの尾根筋の道になります。 しばらくは緩やかな尾根道が続きます。
やがて緑色の金網が右手に現れます。 その先の岩場を越えていくと、右手にこんもりとした高みがあります。 コースはここを左手に降り気味に進んでいくのですが、ちょっと立ち寄ってみましょう。
高みへ登ってみると、小さな稲荷がありました。
朝日さし 夕日かがやく 西山の 稲荷の森は 黄金なるなり
衣笠城址
尾根道に戻って降り気味に進んでいくと衣笠城址に着きます。 ここに「三浦大介義明公八百年記念碑」や「衣笠城跡案内図」があります。 また、今回のコースとは少し違いますが、衣笠駅から大善寺までの衣笠コースを紹介した地図もありました。
衣笠城跡(市指定史跡)
城跡といっても平安・鎌倉時代の山城(やまじろ)ですから石垣や天守閣はありません。 衣笠合戦(1180)は三浦一族と平家方との激しい戦いで、このお城を有名にしました。 しかし、現在ある衣笠城跡はその後、宿敵北条氏に対抗するため、鎌倉時代後期に大改造されたものです。 でもその後、三浦氏は鎌倉で滅ぼされてしまいます。(宝治元年・1247) 尚、大正8年に物見岩の下から経筒、他が発見されました。
 (横須賀市教育委員会)
案内板の左手にある道を少し登ると、物見岩と呼ばれる大岩と石碑があります。
守りやすく、攻めにくい山城
すそ切山すそを切り、急ながけにする
平 場斜面を段々にして登りにくくする
山腹路山の傾斜に道をつけ、緊急時には切りくずす
御霊神社
衣笠城址から、道標「大楠山」に従って広場の先へ降っていきます。 途中の左手に小さな御霊神社がありました。 前にいる狛犬はどういう訳だか3体でした。 奇数というのも珍しいですが、礎石らしいものが左側にもう一つあったので、 元々は4体だったのかも知れません。 どの狛犬も橙色の前掛けをしていました。 狛犬に前掛けという組み合わせも珍しいかも知れません。
横木の階段を降りていくと舗装された道に出ます。 そこに衣笠城跡の解説板がありました。 また「衣笠城址」と書かれた石碑も立っていました。
横須賀市指定史跡 衣笠城跡
山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ、東に突き出た半島状の丘陵一帯が 衣笠城跡である。源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通が戦功によって 三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中心地である要害堅固のこの地に、 両川を自然の堀として、康平年間(1058〜1064)に築城されたといわれ、 以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。 治承4年(1180)8月、源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、 いわゆる衣笠合戦として名高い。丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を 登って滝不動に達する。一段上に不動堂と別当大善寺がある。 さらに、その裏山がこの城の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、 金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、 一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。 要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残っている。 このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、 鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡である。
 (横須賀市教育委員会)
大善寺
左手には大善寺があります。 ここには重要文化財の阿弥陀三尊像が安置されているようで、その解説板が設置されていました。 阿弥陀如来坐像、観音菩薩坐像、勢至菩薩立像の三尊で、 元々は12世紀ごろのものですが、江戸時代になって一部新たに造り直されたようです。
衣笠城跡の解説板の先に続く道を進み階段を降りていくと舗装道路に出ます。 右手は大楠山へのハイキングコースですが、 道標「バス停」に従い、民家が続く坂道を左手に降っていきます。
(右手の道は「大楠山」, 「大楠山」を参照)
山火災防止
たばこの投げ捨て、たき火に注意
 (南部消防署)
「生産緑地地区」と書かれた畑のそばを過ぎていくと、5分ほどで太田和街道に出ます。 太田和街道の手前にある民家の所を左へ進んでいきます。
太田和街道入口
少し行くと、太田和街道入口の交差点に出ます。 横断歩道を渡り、右手に車道を進んでいきます。
衣笠城址跡前の交差点を過ぎていくと住吉隧道があります。 このまま隧道の中を進んでいってもいいのですが、空気も余り良くないので、 ここは左手に登っていく道を選びましょう。
隧道の上には衣笠住吉公園があります。 公園を過ぎて坂道を降り車道に出た先に交差点があります。 横断歩道はありませんが、左下に地下道があるので、そこを抜けて向こう側に出ます。
満昌寺
地下道を抜けて更に車道を進んでいくと、400mほどで満昌寺があります。 源頼朝が三浦大介義明を弔うために建立した寺だそうです。
義明山 満昌寺の由来
当寺は、建久5年(1194)9月、源頼朝の意志に基づき三浦大介義明、追善の為創建されたと伝えられる。 創建時の宗派は未詳ではあるが、鎌倉時代末期に佛乗禅師天岸慧広(中興開山)が入寺し、 臨済宗に改め建長寺末寺とした。 本堂内に本尊 華厳釈迦如来像(市重文)、開山佛乗禅師天岸慧広(市重文)、 御霊神社内に三浦大介義明坐像(国重文)をまつる。 また、御霊神社の背後に三浦大介義明の首塚という廟所があり、奥の院と称し、 鎌倉時代末期の五輪塔、宝筺印塔、板碑一基がある(市史跡)。 当寺裏の矢部山に鎌倉時代末期につくられた阿弥陀如来迎図などの磨崖佛(市重文)もある。
御霊神社
満昌寺の本堂の左手奥には御霊神社があり、三浦義明の坐像が祀られていますが、 石段の前には柵がしてあって、一般公開されていないようです。 また、神社の裏手には三浦義明の廟所があります。
国指定重要文化財 木造 三浦義明坐像
三浦義明像は、満昌寺の境内にある御霊明神社に伝蔵されている。 この神社は「新編相模風土記稿」によれば、建暦2年(1212)に和田義盛が建立したという。 三浦義明は後三年の役で八幡太郎義家に従って有名をはせた義継(吉次)の子で、 治承4年(1180)頼朝の平家追討の旗上げのさい源氏側に立ち、同年8月27日平家勢の攻撃をうけ、 衣笠の地で89歳で戦死した。 像は寄せ木造り、玉眼入り、像高は99.6センチ。両手先及び両足先などは差込み、彩色は殆ど剥落している。 頭頂に冠をのせ、右手に笏をもって安坐し、腰には太刀を佩く。 長い顎ひげをはやした面部は、気迫のこもった老人の表情をたくみに表出する。 特につりあがった目、頬から口元にかけての写実的な彫技はこの像をいきいきとさせる。 制作の時期は鎌倉時代末期と推定されており、武人俗躰肖像彫刻として類例まれな等身大のこの像は、 極めて貴重な存在である。没後長い年月を経て一種神格化された、異色ある武人彫像の古例として 注目される。
 (横須賀市教育委員会)
横須賀市指定史跡 伝三浦義明廟所
三浦義明は、治承4年(1180)源頼朝の旗揚げに呼応し平氏と合戦し、 8月27日に衣笠城で討死したといわれています。 満昌寺境内、御霊神社裏手の瓦塀で囲まれているところが、三浦義明の廟所と伝えられています。 廟所には宝筺印塔を中心に、右側に五輪塔、左側に板碑(観音種子)の三基が並び置かれています。 廟所内手前の石灯籠は、江戸時代に義明の子孫が奉献したものです。 三浦氏の墓城は五輪塔を中心としたものが多いのですが、伝三浦義明廟所では宝筺印塔が義明、 五輪塔が義明の妻の供養塔と考えられています。
 (横須賀市教育委員会)
満昌寺の前の横断歩道を渡って左手に100mほど進んでいくと、自動車の販売店があります。 その先の信号を右手に曲がっていきます。 やがて正面にこんもりとした森を巻くように坂道を右手に登っていくと清雲寺があります。
清雲寺
清雲寺には、木造観世音菩薩坐像、地蔵菩薩坐像、木造毘沙門天立像などがあります。 また、ここは横須賀風物百選にも選ばれ、三浦氏三代の墓もあります。
ふくらむ夢に 咲かせる根気
清雲寺を出て左手に降っていくとT字路があります。 そこを左折して住宅街を進んでいきます。 3分ほどでまたT字路があります。 そこを左折した先に、コーポ山田屋と書かれた白い建物があります。
腹切松公園
白い建物の角を右に入って150mほど行くと、湘南グリーンクリニックの先にT字路があります。 そこを右にいくと腹切松公園があります。 公園の一角に、「三浦大介討死之処」の石碑と松の木がありました。
三浦大介腹切の松(伝承地)
この地は、治承4年(1180)8月26日、源頼朝の源氏再興に味方した三浦一族が、 当時、平氏方に属していた武蔵国の武将である江戸重長・河越重頼・畠山重忠・金子家忠等の 率いる三千騎の大軍に攻められ、翌27日、三浦氏の拠点衣笠城は落城し、 三浦一族は房総の地に逃れると云う衣笠合戦の際、三浦一族の家長である三浦大介義明(当時89歳)は、 衣笠城と運命を共にしたが、云い伝えによれば、大介は城より戦い逃れ、 祖先の霊の眠る円通寺(現在海上自衛隊弾薬庫の処にあった)を望むこのあたりの松樹の下で 割腹自害を遂げ、武名を後世まで遺したと云う。 また、源氏再興に成功した源頼朝は、三浦大介の誠忠を高く評価し、彼の死後14年目の建久5年、 大介の菩提を弔うため堂宇の建立を命じた。これが満昌寺の創建とも伝える。 かつて、ここに一樹の古松があって、大矢部の里人は大介腹切の松と称し、 その由来を大切に伝えて来た。宅地と化した今も、この地を公園として多くの人々に開放し、 この伝へを永く後世に遺したいと願う次第である。
 (山下土地区画整理組合)
腹切松公園
公園をみんなで気持ちよく利用できるよう、次のことを守ってください。
1.公園内で野球などの球技はしてはいけません。
2.犬を公園内で放してはいけません。また犬のフンは飼い主が始末してください。
3.公園内の木や施設は大切にしましょう。
4.自転車・オートバイの乗り入れをしてはいけません。
5.公園施設について、お気づきの場合は公園管理課までご連絡ください。
 (横須賀市)
公園から元の道に戻ってその先のT字路を左折していくとバス道路に出ます。 信号の右にも左にも50mほどいくと大矢部三丁目バス停があります。 右手のバス停は、北久里浜駅・野比駅方面に向かうバス用で、 左手のバス停は、衣笠十字路に向かうバス用です。
大谷部三丁目(おおやべさんちょうめ)バス停
右手の道路向う側のバス停からは、北久里浜駅(京浜急行久里浜線)行きバス,または, 久里浜駅(JR横須賀線)行きバスが、1時間に1本程度あります。
右手のこちら側のバス停からは、団地循環経由北久里浜駅(京浜急行久里浜線)行きバスが1時間に 2本から3本程度あります。大矢部団地経由野比駅(京浜急行久里浜線)行きバスが1時間に1本程度あります。
左手のこちら側のバス停からは、衣笠十字路行きバスが1時間に2本程度あります。 今回は、衣笠十字路行きバスに乗って家路に着きました。 終点の衣笠十字路の先の横須賀線の線路下をくぐって左へ400mほど行くと衣笠駅(JR横須賀線)があります。