小机城址市民の森
散策:2003年12月中旬
【横浜市民の森】 小机城址市民の森
概 要 中世の山城の跡を利用した市民の森です。 みごとな竹林や雑木林、そしてほぼ原型で残されている本丸・二の丸・空堀・土塁などを楽しむことができます。 天気が良ければ、富士山も望むことができます。
起 点 横浜市 小机駅
終 点 横浜市 小机駅
ルート 小机駅…根古谷…井楼跡…二の丸広場…本丸広場…矢倉跡…富士仙元…小机駅
所要時間 2時間10分
歩いて... 城址ということで「森」の雰囲気は少なめですが、立派な竹林の中を散策路が続いていて歩きやすい所です。 第三京浜道路が真ん中を通っているため、富士仙元だけがポツンと離れていますが、 本丸広場にある小机城想定図を眺めながら、往時の姿を想うのもいいかも知れません。
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コース紹介
小机(こづくえ)駅
小机駅(JR横浜線)の北口の階段を降りて、JRの線路沿いに歩いていきます。 南口からでも行けますが、少し遠回りになります。 駅の構内に、小机城址市民の森の案内板がありました。
小机城址市民の森
中世の後北条氏の山城の跡を利用した市民の森です。 みごとは竹林や雑木林、そしてほぼ原型でのこされている本丸・二の丸・空堀(からぼり)・ 土塁などを楽しむことができます。
市民の森は市内の緑を守り育てるとともに市民の憩いの場として利用していただくため、 土地所有者のご好意により山林を利用させていただいているものです。 山林の緑を守り景観を損なわないよう最小限の整備をしているため、自然の形状によっては 十分な注意が必要な場所もありますので、ご注意ください。
 (港北区役所)
右手に横浜国際総合競技場のドームを見ながら、線路沿いの道を進んでいきます。 サッカーのワールドカップが開催されていた頃には、畑の周りに色とりどりの花が植えられ、 各国の国旗を模したようで綺麗に咲いていましたが、この時にはもうなくなっていました。
しばらく進んでいくと、踏切のあるT字路があります。 そこを右折して少し行くとまたT字路があり、その角に「小机市民の森」の標識が立っています。 標識に従い、左折して民家の続く道を進んでいきます。 正面に見えているこんもりとした森が、これから向う小机城址市民の森です。
右手には田畑が広がっていました。なんだか懐かしい光景です。
お願い
用水路は川より小さいけど、ちゃんと生き物がすんでるんだから、 ゴミをすてないで!! ゴミ箱っていう便利な物があるのに、どうしてポイ捨てするの? もっと生き物の気持ちになって考えてよ! ただでさえ汚いのに、もっと汚くなっちゃうよ。
民家の建ち並ぶ道を進んでいくと、鉄道の貨車が庭先に見えてきます。 JRから払い下げてもらって倉庫として利用しているのでしょうか。 ここに市民の森の案内図があるので参考にしましょう。 手作りの案内図のようで、どことなく温かさを感じます。 根古谷、井楼跡、二の丸広場、本丸広場、矢倉跡、富士仙元と訪ねていきます。
小机城址市民の森
土地所有者:19名
面積:4.5ヘクタール
十字路を直進して、民家の間の道を更に進んでいくと、正面に第三京浜道路が見えてきます。 その手前の所にT字路があります。 角には標識と市民の森の案内図があります。 標識に従い、右折して「根古谷」へ向けて進んでいきます。
根古谷
短い石段を登ると、左手に根古谷があります。 標識や市民の森の案内図もあります。
みんなできれいな市民の森にしましょう
・歩行中の喫煙等、火災の原因となるようなことはしないでください。
・小鳥や昆虫等の小動物及び草花等を大切にしてください。
・風紀を乱したり、他人の迷惑になるようなことはしないでください。
・付近の畑に入ったり、樹木を傷つけたりしないでください。
・弁当ガラ、空カン等のゴミは、家へ持ち帰ってください。
・利用時間は原則として日の出から日没までです。
 (小机城址市民の森愛護会、横浜市緑政局北部農政事務所)
市民の森全域
・火気厳禁
・歩行喫煙禁止(吸い殻はお持ち帰りください)
 (横浜市緑政局北部農政事務所)
根古谷からは見事な竹林が広がっています。 この市民の森の全山が竹林になっているとも言えるほどの見事な竹林です。
竹林を保護育成中です
「たけのこ」を取らないで下さい! 柵・ロープ内へは立入らないで下さい。
 (日本の竹ファンクラブ)
城址の自然を守ろう
 (小机小学校6年)
サバイバルゲーム厳禁
市民の森内では、サバイバルゲームは行わないで下さい。
 (小机城址市民の森愛護会、北部農政事務所)
竹林を抜けていくと尾根に着きます。 正面は空堀で、左右に道が分岐しています。
警戒中
不審火が多発しているため、定期警戒を実施しています。 不審者をお見かけの方は通報願います。
 (小机城址市民の森愛護会、北部農政事務所)
城址のルールを守ろう
 (小机小学校6年)
特別保護区です
竹林に立入らないで下さい。
左へ行くと本丸広場ですが、 先ずは右折して、竹垣の続く道を井楼跡へ向かいましょう。
この竹垣は、間伐で切り倒した竹材と生えている竹とを組み合わせて作った 小机城址オリジナルの竹垣です。 作成したのは、昨年ここ小机城址市民の森で行われた「森づくりボランティア育成事業」(横浜市緑政局)に 参加された方々です。良好な竹林を保存するため適当な密度にする間伐を行い、 そこで発生した間伐材を有効利用する方法として考え出されたものです。 竹林の風景にとけ込んだ自然な佇まいの竹垣になりました。
「日本の竹ファンクラブ」と港北区役所が共催で「竹の学校」を開いているそうです。 竹林の年間を通じた管理方法や竹を使ったプランターづくりなどを学ぶことができる講座で、 月に一度程度開催されているとのことです。
見事な竹林を右手に見ながら進んでいきます。 小さな祠を過ぎていくと、左手に空堀があります。 この市民の森には、昔風の「立て札」の形をした解説板が各所に設置されています。 以前訪れた時には老朽化したり破損したりしていて読み難いものもありましたが、 最近立て替えられたようで、新しいものになっていました。
空堀(からぼり)
堀は土塁と共に城の守備・攻撃のための需要な施設で、人工的に作られるものや 地形を利用したものがあります。 この堀は水をはらない堀で空堀と呼ばれ、水をはるために堀勾配のゆるい水堀よりも 堅固な施設と言えます。
井楼(せいろう)跡
横木の階段を登っていくと井楼跡に着きます。 ここにも市民の森の案内図があります。 ここは十字路になっていて、左は矢倉跡を経由して本丸広場への道、 正面は谷筋の竹林への道、右は二の丸広場への道です。
櫓台(やぐらだい)
井楼跡と二の丸広場の間にこんもりとした櫓台があります。
櫓台(天倉台)
一城には数箇所の櫓大が置かれています。この櫓台跡もその一つで、 土塁と連続してつくられていました。 現在は畑地として土塁は取りさられていますが、昔は井楼跡より二の丸広場へ通じる 散策道の上に土塁がつくられていました。
二の丸広場
井楼跡と隣り合うようにして二の丸広場があります。 周りは樹木に覆われていますが、かなり広い場所です。
二の丸
現在地は二の丸と呼ばれていますが、資料不足のため、明確に二の丸と断言できません。 二の丸は、本丸を直接守備する役割があり、縄張りのとき、本丸の守備や防備にも主点が注がれます。
市民の森利用者の方へ
山林(緑)の保全のため、火の使用は禁止しております。
 (横浜市)
森の中で火遊びをしないこと。
 (小机城址市民の森愛護会)
二の丸広場の奥から、横木の階段を降っていくと、谷(空堀)には見事な竹林が広がっています。 谷全体に竹が生え、昼でも薄暗くなっています。
タケの利用
タケは弾力性に富み、縦に裂けやすく、腐り難いため、 昔から建築材として、また道具作りの材料として、生活には欠かせないものでした。 現在は多くの道具がプラスティック等にかわっていますが、もう一度竹を見直してみてはいかがでしょうか。
美しい竹林を後世に残すため、竹の子は取らないで下さい。
 (横浜市)
二の丸広場から谷へ降りる道は二つあります。 その内の一つを左から合わせて、更に進んでいきます。
2003年度「竹の学校」講座案内
「竹の学校」は"竹の文化"をモチーフに幅広い講座を開設することにより、 一人でも多くの方が竹に触れ、竹の文化を満喫していただくための学校です。 誰でも学べ、誰でも参加できる、皆様のニーズにお答えする講座を用意してお待ちしております。
・ボランティアで竹林の手入れをしてみようとお考えの方!
・本格的な筍栽培をお考えの方!
・所有する竹林や故郷に残した竹林の手入れをしたいが方法が分からない方!
・趣味で竹細工や竹楽器を始めようとお考えの方!
・本格的な竹工芸に取り組もうとしている方!
・筍の食文化に触れてみたい方!
・ライフステージの一つに竹を選んでみようとお考えの方!
 (日本の竹ファンクラブ、横浜市港北区役所、横浜市緑政局)
谷筋の竹林を進んでいくと、道が二又に分かれています。 左手は井楼跡への道で、本丸広場へは右手の道を登っていきます。
モウソウチク(孟宗竹)
中国の原産で、沖縄、鹿児島を経由して現在は日本各地に見られます。 また日本にある竹類で最大のものです。 孟宗竹は中国名でなく、冬に母のため筍(たけのこ)を堀り採った 孝行な子供の孟宗にちなんで名付けられた。 横浜のモウソウ竹林も年々少なくなっています。 大切に保存しましょう。
竹が生い茂る谷筋に続く横木の階段を登っていきます。 登るにつれて、前方が次第に明るくなっていきます。
たき火 たばこに注意
 (神奈川県)
本丸広場
階段を登りきると本丸広場に着きます。 広場は地面が固められていて、スポーツも楽しめる広い所です。 この日は子供たちのチームが野球の練習をしていました。
本丸(ほんまる)
本丸は一城の中心にあり、主将のいる所で、合戦中には、戦闘の指揮が置かれます。 縄張りを行う時、最も防備に主点が注がれます。 城址の調査等実績の少ない小机城については、現在地が本丸跡とは断定できません。
本丸広場には、木製の門と「小机城址」の石碑もあります。 矢倉跡へ向う途中に、小机城址に関する解説板がありました。 また、往時の小机城想定図というのもありました。 それによると、現在は第三京浜道路で二分されている森も一つにまとまっていて、 JR横浜線を越えてその先にまで広がっていたようです。
小机城について
築城の年代は明らかではありませんが、 おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。 その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方にはその支配下の 榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。 その後、山内上杉家の家臣長尾景春に味方した矢野兵庫助らが 城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋付近)に 帯陣した上杉方の大田道灌の率いる軍と戦いました。 城は文明10年(1489)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、 小田原北条の領地となり、40余年間廃城となっていました。 大承4年(1524)一族の北条氏尭の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。 小机は地理的に、江戸・玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、 この地は以後、軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになります。 豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、四代目城主の 弥次平衛重政が徳川家の家臣として200名の知行を与えられ、 近くの台村(緑区台村)に住むことになり、 小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。
中世の城について
中世(9世紀〜15世紀)に築かれた城は天然の地形を利用し、 小机城で理解できるように、半島状に突き出た丘陵や台地の 先端部を城地したものが多く、 その設備も櫓(やぐら)・木柵などのほか、小規模な土塁(どるい)や 空堀(からぼり)の共なう程度で、居館・住館は多くは城外にありました。 横浜市には、小机城の他、青木城、榎下城、馬場城、荏田城などがあったと 言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、 その他については、かっての城の位置が推定される程度で、その実態は 明らかではありません。 また、中世の城郭は、近世に築かれた大規模な「城」とは、その機能・性格が 異なるものと考えられ、城郭史の上でも比較的未開拓の分野と言われています。
小机城の縄張
半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、 一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰・帯曲輪を築きます。 また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりとめぐらす縄張で、後北条氏特有の 築城法と言えます。 類例より後北条・広範の築城方式で、東京都・埼玉県など戦国期の丘陵城郭の 多くがこの型で、県下では茅ヶ崎城も典型といえます。
縄張(なわばり)と曲輪(くるわ)について
縄張とは、目的が定まった地が決定した後、その広さを決定し、 曲輪の配地、道のつけ方、門の開き方、水の便などを定めることです。 この地取と縄張を総称して「城取」といい、城取は武士が行いました。 曲輪とは城を構成する区画、すなわち削平された地、それぞれ防備地帯、兵営の場、 館の立地される場をいいます。
矢倉跡
櫓台(やぐらだい)
櫓(やぐら)は、矢蔵すなわち兵庫や、高櫓(こうろう)、井楼(せいろう)と呼ばれる 「火の見やぐら」のような見張台を言います。 そして、近世初期「15〜16世紀」の成郭の天守閣の一源流とも考えられます。 天守のない時代に展望を目的とした櫓台があったと思われます。
空掘(からぼり)
掘は土塁と共に城の守備、攻撃のための重要な施設で、 人工的に作られるものや地形を利用したものがあります。 この堀は水をはらない堀で空堀と呼ばれ、水をはるために 堀勾配のゆるい水堀よりも堅固な施設と言えます。 本丸跡の防備と敵の攻撃に対抗するための堀で、 この城址では、堀上部の幅12.7m、堀底の幅5.0m、深さ12.0mからなる水をはらない空堀です。 空堀の横幅や深さはまちまちですが、 調査によると、中世の山城は3.0m、平山城は9.0mから12.0mがその平均の堀幅になっています。
木製の門をくぐって本丸広場を後にします。 空堀に渡された土橋を渡っていきます。 左へ行くと、最初に根古谷から登ってきた分岐に着きますが、 右手の第三京浜道路沿いに進んでいきます。
横木の階段を降っていくと、やがて石段に変わります。 その石段を降りきると民家の前に出ます。
たけの子、梅の実、雑木・苗木、草花、採集していはいけません。
 (小机城址市民の森愛護会、横浜市緑政局、港北警察署)
民家の先のT字路の右にある城山地下道をくぐり、右手の石段を登っていくと、 道が二又に分かれています。 富士仙元は左手の道を進むのですが、 正面の道を少しいくと小机城址供養碑があるので、ちょっと立ち寄っていきましょう。
歩行禁煙 一人で出来る街づくり
 (港北区消防署)
小机城址供養碑
小机城の由来
太田道灌が上杉定正の主命により小机城を攻め落城。 その後上杉氏は追われ、小机城は北条氏の勢力圏に入いる。大永4年(1524)。 北条早雲の忠臣笠原越前守信為は弘治3年(1557)7月7日、小田原に於いて世を去る。 二代能登守康勝子無きため松田尾張守村秀の息子新六郎政喜を養子に迎えたのが天文21年(1552)頃。 三代平左衛門昭重は伊豆戸倉で戦って昭重討死した。28才。 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻により、北条氏没落し、小机城は廃城となる。 四代弥次兵衛重政(重名虎千代)は天正19年(1591)北条氏没落後徳川家の臣となり、 二百石を賜り、来地武蔵の国都郡台村に住ず。城主信為が亡父能登守信隆の追菩のため建立した 精舎の曹調宗雲松院ここに城主信為一族の墓が並んでいる。 今より450年余り前である。栄古盛衰のならいの如く、此の地につわもの達の活躍の跡を残している。
富士仙元
二又の所に戻り、富士仙元への道を進んでいきます。 畑を過ぎ雑木林の尾根道を進んでいくと、すぐに富士仙元に着きます。 小奇麗に整備された場所で、ベンチがひとつ設置されていました。
樹木整備の作業をされていた年配の方とベンチに腰掛けてしばらく話をしました。 先日は10人ほどの女性グループが来ていたこと、 ここから見える富士山は朝7時半から8時頃が背景とマッチして素晴らしく、 夕方なら3時半からが良いこと、絵を描きにきていた画家もいたことなど…。 野外作業のため真っ黒に日焼けした顔で何とも優しそうでした。 何だか私の亡き父親のような感じがして、 この方の前では素直になれる自分を発見したりしました。 この日は天気がよくて、冠雪した富士山が樹木越しに見えていました。
富士仙元大菩薩
富士仙元にはこんもりとした高みがあり、その上には富士仙元大菩薩の石碑が建っています。
富士仙元を後にして、城山地下道をくぐって行きます。 横浜国際総合競技場のドームを正面に見ながら、もと来た道を小机駅へと戻っていきます。
小机(こづくえ)駅
小机の街は、小机駅(JR横浜線)の南側に集っています。 少し遠回りになりますが、踏切を渡って南口への道を歩いてみました。 丁度小腹が空いたので、駅前にあった大衆食堂で食事をして家路につきました。