観音崎
散策:2003年10月中旬
【海辺散策】 観音崎
概 要 観音崎は、三浦半島から東京湾に突き出た岬です。 古来から東京湾を守る要塞地帯として軍関係の施設が設けられてきた所です。 天気のいい日には、東京湾や対岸の房総半島が一面に広がる素晴らしい景色を望めます。
起 点 横須賀市 観音崎バス停
終 点 横須賀市 走水神社バス停
ルート 観音崎バス停…観音崎園地…海岸園地…観音崎灯台…北門第一砲台跡…東京湾海上交通センター…海の見晴らし台…戦没船員の碑…観音崎自然博物館…展望園地…観音崎ボードウォーク…走水神社…走水神社バス停
所要時間 3時間50分
歩いて... 東京湾や房総半島を一望できる海辺の道を、潮騒を聞きながら散策しましょう。 海に突き出た岩場からの眺めも格別です。 今回は訪れなかったふれあいの森・花の広場・森の広場・アスレチックの森・果実の森などもあり、 一日たっぶりの時間をかけてゆっくりと過ごしたい所です。
関連メモ 観音崎, 浦賀鴨居
コース紹介
観音崎(かんのんざき)バス停
浦賀駅(京浜急行本線)から、[浦3]観音崎行きバスにて13分、 1時間に3本程度の便があります。
改札口を出た所に地図があるので、コースを確認しておきましょう。
観音崎公園
バスを降りた所は、観音崎公園の一角です。 バス停の横の駐車場の所に観音崎公園の案内図があります。 観音崎園地・海岸園地・観音崎灯台・海の見晴らし台・戦没船員の碑・展望園地などを訪ね、 最後にボートウォークを歩いて走水へと向かいます。
県立観音崎公園
ここ観音崎は、東京湾側に突出した岬で常緑広葉樹林(タブ、シイ等)でおおわれた緑の 丘陵部と、変化に富んだ岩礁・砂浜からなり、自然環境に富んだところです。 園内には、灯台・戦没船員の碑・レーダ局・旧砲台跡・博物館等があります。 計画面積76.8ha
 (神奈川県)
観音崎園地
バス停の先に少し進むと観音崎園地です。 正面には東京湾がドーンと広がっています。 ここにも観音崎公園の案内図があります。
観音崎の地形
観音崎周辺は、海抜40〜50mの丘陵が海に迫って崖地をつくり、 その崖下には堆積岩が露出し波にあらわれ岩礁となっています。 砂浜は岩礁性の海岸線が発達しているため、小規模な砂浜が2箇所(三軒家、たたら浜)みられるだけです。 この砂浜(三軒家)は海水浴場として利用されています。
お願い
1.この付近での花火・爆竹は十時以降ご遠慮下さい
2.ゴミの投棄等、その他公衆の迷惑となる行為をしないで下さい
  (鴨居町内会、横須賀市港湾部、浦賀警察署)
津波 注意
地震を感じたら海浜から離れ安全な場所に避難しましょう
この地点の海抜は2.6mです
 (横須賀市消防局)
観音崎園地の少し先の岩場に出て海をぐるっと見渡していましょう。 この日は晴天で、対岸の房総半島がすぐそこに見えていました。 海上には多くの船が行き来していました。 釣りをしている人もたくさん見かけました。
磯の生物
海辺は1日2回の潮のみちひきがあり、まず潮がひいている岩場の潮だまりタイトプールには いろいろな生物がいます。そっと観察しましょう。
おねがい
犬や猫のフンは、飼い主が責任をもって始末しましょう。 また、犬は鎖などでつなぎましょう。
 (神奈川県)
敷石園路
観音崎園地からは、石が敷き詰められた敷石園路が海沿いに続いています。 快適な道を潮騒を聞きながら歩いて行きましょう。
海の鳥
海上を飛びまわっている海鳥は、泳いだり潜ったりして小魚や貝やカニなどを食べ、 磯に住む鳥はカニや磯虫などを食べています。 (神奈川県の鳥はカモメです)
洞窟
潮風に吹かれながら敷石園路を3分ほど進んでいくと、洞窟があります。
洞窟の由緒
聖武天皇の御代、天平13年(741)の春、行基善薩は諸国修行の途中ここに来られ、 この洞窟に住んでいる大蛇が、漁民や運漕の人々を苦しめているのを聞かれ、 大蛇を退治してその霊を、鵜羽山権現として祀られました。 この近くの走水神社に日本武尊とその妃弟橘媛命がお祀りしてありますが、 この洞窟の沖で入水ぢて海を鎮められた弟橘媛命を、十一面観音として刻まれ、 側に安置されまして以来、海上安全、人命守護の霊地として信仰されてまいりました。 時代の変転により荒廃に帰しましたが、時来って今日は観光の地として復興されて、 再び海上安穏、人命守護、世界平和の祈りがなされています。
海岸園地
洞窟のすぐ先に海岸園地があります。 東京湾や房総半島が一望できる所です。 景色を眺めながらちょっと休憩していきましょう。 東屋の周りにはネコが沢山いました。
崖地の植物
植物が生育できそうにない崖地のような場所でも、わずかな岩のすきま・割れ目・くぼみに 深く根を張り、潮風や波しぶきに強い抵抗力のあるものが生育しています。
観音崎の歴史
観音崎は千葉県の富津岬と相対して東京湾の入口をしめているため、東京湾守備の重要地点として 利用されていました。古くは文化9年(1812)、江戸湾(東京湾)警備のための船見番所や 台場などが設けられました。明治となってからも砲台が各所に設けられ、終戦まで東京湾の 関門として重要な使命を果たしていました。
東屋の前には、詩人西脇順三郎の「燈台へ行く道」と題した詩碑がありました。
燈台へ行く道
まだ夏が終わらない燈台へ行く道
岩の上に椎の木の黒ずんだ枝や
いろいろの人間や小鳥の国を考えたり
「海の老人」が人の肩車にのって木の実の酒を飲んでいる話や
キリストの伝記を書いたルナンという学者が少年の時みた「麻たたき」の話など
いろいろな人間がいったことを考えながら歩いた
解説
詩人西脇順三郎は、明治27年(1894)、新潟県小千谷市に生まれた。 少年時代から絵が好きで、将来は画家になることを志し、17歳で中学を卒業するとともに上京して、 藤島武二や黒田清輝らを訪ねている。しかし、父の急死などの事情により画家への道を断念し、 慶応義塾大学理財科へ進み、さらにオックスフォード大学へ留学した。 留学中に再び絵筆を握る傍ら、大正14年(1925)、英文詩集「Spectrum」を刊行する。 同年、帰国し、翌年には慶応義塾大学文学部教授に就任したあ。新しいヨーロッパ文学の豊富な知識を背景に、 「三田文学」や「詩と持論」を通じて目覚しい批評活動を展開した。 一方、萩原朔太郎の詩を通して日本語の可能性を見出したという彼は、昭和8年(1933)、39歳の時に 詩集「Ambarvalia」を発表し、モタニズムによる画期的な詩風を確立した。この作品のみならず、 終生にわたり「眼の詩人」、「視覚の詩人」と呼ばれたのは、根底に少年時代の画家志望の夢があったからである。 その後、昭和22年(1947)に自己の内面に潜むもう一人の人間を「幻影の人」と名付け、作品「旅人かへらず」と これに続く詩集「近代の寓話」、「第三の神話」の中で追求し、西洋的教養と日本的感性を融合させた 独自の詩風を築き上げた。 さらに1960年代に入って、ブルーストやジョイスの手法を駆使した長編詩集「失われた時」を始め、 「豊饒の女神」、「えてるにたす」などの一連の詩集により、西脇地震の詩風は頂点に達し、 ノーベル賞の候補者にも名を連ねた。 70年代に入っても創作力の衰えを見せず、旺盛な想像力は、「礼記」、「壌歌」、「鹿門」といった詩集を 生み出したのみならず、さらに80歳代には詩集「人類」と「定本西脇順三郎全詩集」の刊行を見た。 昭和57年(1982)没。享年88歳。文化功労者、芸術院会員。
【西脇順三郎と観音崎】
昭和24年(1949)ご子息順一氏の遠足に同行して以来、当地を幾度か訪れており、 ここ観音崎をモチーフにした「燈台へ行く道」は、詩集「近代の寓話」に収められている。
海岸園地から上を見上げると、観音崎灯台が建っています。 海岸園地のすぐ先の右手にある坂道を登り、観音崎灯台へ向います。
灯台見学心得
1. 時間は次の通りです。
午前9時より午後5時まで(10月〜3月は午後4時まで)
2. 灯台上は高所で危険ですから、酒に酔った者、保護者の付かない老人や子供、 又は服装で海水着を着た者など、係員の判断で入場をお断りすることがあります。
3. 機器などの施設に手を触れないで下さい。
4. 構内での飲食はご遠慮下さい。
5. 対人、対物その他いっさいの事故補償は致しません。各自安全に留意し見学して下さい。
6. 係員の指示に従って他に迷惑のないよう、静かに見学して下さい。
 (第三管区海上保安本部、横須賀航路標識事務所)
観音崎灯台
坂道を5分ほど登っていくと観音崎灯台に着きます。 全国各地の灯台の写真が飾られた螺旋階段を登っていくと、 レンズが設置されている狭い最上部に着きます。 扉が開いていて外にも出られそうですが狭くて危なそうなので、体を半分だけ出して、 壮大な東京湾の景色を堪能しましょう。
観音崎灯台 〜日本最初の近代灯台〜
この灯台は、慶応2年(1866)の江戸条約に基づき、明治政府の依頼により、 明治元年(1868)にフランス人ヴェルニーの手により起工されたもので、 三浦半島の東端に位置しています。 当時の建物は、フランス風の四角い洋館建て(レンガ造)の優雅なもので、 開国ご、日本で一番最初に建設された洋式灯台であり、我が国の近代灯台事業は ここにはじまったとされています。 現在の灯台は、大正14年(1925)に建て替えられ(コンクリート造)、三代目に当たります。 観音崎は房総半島の富津岬と相対して東京湾口の最も狭い水道を形成しており、 灯台は、船舶が安全に航行するための大切な施設です。 この施設の異常を発見した場合や何かお気づきの点がございましたら、 下記の管理事務所までお知らせください。
 (海上保安本部、燈光会、日本財団)
名称観音崎灯台
位置北緯35度15分22秒、東経139度44分43秒
初点灯年月日明治2年1月1日(旧暦)
塗色・構造白色、塔形、コンクリート造
等級(レンズの大きさ)四等、フレネルレンズ(四面)
灯質(光り方)毎15秒に2閃光
光度(明るさ)7.7万カンデラ
光達距離(光の届く距離)19海里(34キロメートル)
明弧(光の照らす範囲)152度から17度まで
灯台の高さ(屋上まで)19メートル
灯火の高さ平均水面上55.95m、地上15.19m
光源(電球)メタルハライドランプ
 (第三管区海上保安本部、横須賀海上保安部)
係りの人の話によると、昭和30年代まで、対岸の富津岬までの約6kmを泳ぐ遠泳大会があったそうです。 近くの防衛大学校の学生や近所の人が参加したとのことですが、船舶の航行が激しくなったので、 現在では禁止されているそうです。 また、「向うの方に東京湾アクアラインが見えるから」といって、双眼鏡を貸してくれました。 「海上部が5kmほど、海底部が10kmほどで、あそこに見えるのが海ほたる、 島の左の方にあるのが風の塔で・・・」と、色々と説明をしてもらえました。
素晴らしい景色を堪能したら、北門第一砲台跡へ向います。 灯台を出た所にある道標の「東京湾海上交通センター」に従い、 左手にある岩の切り通しを抜けていきます。
石畳の道を少し行った所で、東京湾海上交通センターへの道が分かれますが、 このまま道なりに石畳の道を進んでいきます。
公園利用者の皆様へ
みんなの公園です。次のことを守って楽しく過ごしてください。
施設をこわしたり落書きをしないでください。
花や木を採ったり折ったりしないでください。
鳥類をとったり害を与えたりしないでください。
柵の外や危険なところには入らないでください。
ごみはくずかごに入れるか家に持ち帰ってください。
キャンプ、バーベキュー、たき火をしないでください。
車は園内へ乗り入れないでください。
行商、物品販売をしないでください。
お互いに迷惑をかける行為はしないでください。
 (神奈川県横須賀土木事務所)
なだらかな石畳の道を歩いて行きます。 各所に観音崎の自然についての解説板があります。
がくあじさい(ユキノシタ科)
ここ観音崎では梅雨の頃にがくあじさいの花がみられます。 海岸付近に野生する落葉性低木で、高さ2mくらい、葉は対性で2cmくらいの柄があって、 光沢があり広楕円形で、先端は尖り、へりは鈍い鋸歯をもつ。 花は枝の先端に密集する。少数の大きな装り花(がく片)が周囲を囲み、その内側に 多数の小さな花をつける。花の色は緑色、白色、青紫、紅色と変化する。 園芸用のアジサイはがくあじさいを母体として日本でつくられた。
分布 … 関東南部、伊豆半島、伊豆諸島、小笠原諸島
花期 … 6〜7月
シダについて
シダは一般的に湿気が多く、山が深い自然林に繁茂します。 この場所はまわりを大木で囲まれ、潮風も遮断してシダの繁茂しやすい条件が整っております。 ここ観音崎では約40種類をあげることができます。海岸地帯ではハマホラシノブ、 イノテオニヤブソテツ、コモチシダ、ミツデウラホシなどがみられ、山中に入ると、 リョウメンシダ、オリズルシダ、ノコギリシダ、ヘラシダ、カニクサトラノオシダ、イワカネゼンマイ などが観察できます。
森の植物
三浦半島の自生植物(シダ類)以上は約1千種を数えることができます。その約半数以上が 観音崎に自生し、面積のせまい割に種類が豊富です。植物群落上からみれば、 気候が温暖であるため、シイを主体としてトベラ、ヤブツバキ、ヒメユスリハ、タブ、 ヤブニッケイ、ハチショクススキなどの暖地性海浜植物がよく発達して、 観音崎の地勢的特長を示しています。
北門第一砲台跡
4分ほど行くと少し広い所にでます。ここが北門第一砲台跡です。 観音崎には、ここ以外にも何ヶ所かに砲台跡があります。
北門第一砲台跡
ここ観音崎は、三浦半島の最東端にあり、東京湾を一望できることから、 古くから東京湾防備の要塞基地として使用されていました。 この砲台は明治13年6月5日着工、明治17年6月27日完成。半円形の2基の砲台が扇形に配置され、 ここに口径24cmの巨砲2問が海に向って並び、両巨砲はトンネルで通じており、 地下には爆薬庫と兵員室などがありました。
砲台跡を後にして広くなった舗装道路を降っていくと車道に出ます。 右手には東京湾海上交通センターの門がありますが、通行禁止になっています。 そのまま直進して、観音崎隧道の右手に続く坂道を登って行きます。
2分ほど登っていくとT字路があります。 案内図があるので、コースを確認しておきましょう。 右に行くと東京湾海上交通センターがあるので立ち寄っていきましょう。 観音崎灯台の先の切り通しを過ぎた所にある分岐を登ってきても行くことができます。
アシタバ(セリ科)
アシタバは本州暖地の浜辺でそのたくましさで目をひくもののひとつでありますが、 ここ観音崎でも岩地の斜面や林内に数多く見られます。アシタバは「明日葉」の読みであるといわれ、 幼葉を摘むと翌日にはもう新しい芽を出すため、この植物のたくましい生活力を示した言葉といわれています。 特徴 多年草の草本で、茎は直立して高さ80〜150cm、葉は発達のよいもので長さ30cm内外、 果実は扁平な楕円形で、長さ10cmぐらいになる。
分布 房総半島、三浦半島、伊豆七島
花期 5〜10月
東京湾海上交通センター
ご案内
東京湾海上交通センターは、浦安、木更津(海ほたる)、本牧及び当センター内に設置されている 高性能レーダーで捉えた湾内の船舶映像や気象観測所・船会社・海上保安部署等からの情報をもとに、 東京湾内を航行する船舶に対し安全運行に必要な情報の提供と航路管制を行っています。
 (第三管区海上保安本部 東京湾海上交通センター)
【情報提供の内容】
1. 巨大船等の航行予定、リアルタイムの気象状況、航行制限の状況、海難の発生状況、 漁船の集中状況、工事作業等の情報を提供しています。
・ラジオによる定時放送/毎時の00分〜15分、30分〜45分
・ラジオによる臨時放送/随時
・電話による情報提供/巨大船の入航予定、航行制限の状況及び気象状況
2. 船位、他船の動静、漁船の集中状況、危険な見合い関係等の情報をVHF通信によって提供しています。
・呼出し名称 「東京マーチス」VHF13ch,14ch,16ch,22ch
【航路管制の内容】
1万総トン以上の船舶等から航路通過予定時刻の連絡を受け、航路への入航時刻の調整を行うとともに、 必要に応じ航路の航行制限等を行っています。
東京湾海上交通センターから、先ほどの分岐まで戻ります。 途中には、落盤の危険があるので通行禁止になっているトンネルがあります。 その左手には北門第二砲台跡があります。
北門第二砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため、古くから東京湾防備の要塞地帯として使用されてきました。 この砲台は、明治13年5月26日着工、明治17年6月27日完成しました。 24加砲6門と弾薬庫がつくられましたが、現在は4砲座と弾薬庫が残っています。
照葉樹の落葉
観音崎には照葉樹が多くありますが、秋から翌春にかけて葉が落ちてしまう落葉樹とは違い、 照葉樹は秋に落葉することなくそのまま樹上にとどまり、新しい葉が出た5〜6月頃、 徐々に落葉していきます。
先ほどのT字路を過ぎていくと、海の見晴らし台へ続くトンネルが左手にあります。 トンネルを抜けて砲台跡を過ぎると海の見晴らし台に着きます。
海の見晴らし台
コンクリート製の2mほどの高台があるので、そこから景色を堪能しましょう。
トンネルを抜けて一旦元の道に戻って更に進んでいくと、 戦没船員の碑のある広場に着きます。 ここからも東京湾が一望できます。
戦没船員の碑
第二次世界大戦や海難事故の犠牲となって海洋で失われた、6万余人の船員の霊を慰め、 かつ永遠の平和への願いを込めて設けられました。 高さ24メートルの白磁の大碑壁を中心に、天皇陛下御製碑、皇后陛下御歌碑のほか、 かってのれん終戦の錨などを配し、太平洋を望む恰好のモニュメントとなっています。
戦没船員の碑
安らかに ねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに
戦没船員の碑建立記
昭和12年7月に端を発したさきの戦争において、がわ国の海運水産界は6万余人の及ぶ 尊い船員の生命と2500隻840万総頓を越える船舶を失うというまことに大きな犠牲を払いました。 それから25年、わが国の海運水産界は再び隆盛をとりもどし、昔日にまさる繁栄をみるに至りましたが、 私どもはこれら多くの戦没の霊を慰めるとともに、世界の海に二度とこのような悲劇を くり返さないようにいたさねばなりません。 こうした私どもの願いは昭和44年7月、財団法人戦没船員の碑建立会の発足となり、 多数の人びとの協力を得て、ここに記念碑を建てて、戦没船員の名簿を納めることになりました。 見渡す限りの大海原の変ることのないこの大自然を前にして、この地を訪れる人びとと、 また沖をゆく船の人びとと共に心をあわせて、この記念碑が永遠の平和の下となりますよう、 深い祈りを捧げるものであります。
 (昭和46年3月25日 財団法人 戦没船員の碑建立会)
殉職船員追悼式の記
昭和46年5月6日、この碑前において、皇太子同妃両殿下ご臨席のもとに、全国遺族代表を招いて 戦没船員追悼式を挙行し、以来毎年5月に式典を実施して参りました。 近来、海難殉職船員の慰霊に対する要望が高まって参りましたので、 本年4月、財団法人日本殉職船員顕彰会を設立し、本日、第一回殉職船員追悼式を執り行い、 以後5月15日を式日と定めて、戦没海難全殉職船員の労苦に思いをいたし、そのみ霊を 慰めるとともに、海洋永遠の平和を祈る式典を行なうことにいたしました。 この追悼式には、大戦中、輸送船船長として活躍された宮越賢治氏の自作能「海霊」が、 鎮魂と平和を祈念して奉納されます。 殉職船員追悼式がわが国民の海洋精神高揚の一助となって、海洋立国の認識を深めることを 切に念願するものであります。
 (昭和56年5月15日 財団法人 日本殉職船員顕彰会)
戦没船員の碑から引返し、広場の手前にある分岐を右に曲がって、石畳の道を降っていきます。 噴水広場を左手に見ながら降っていくと、車道に出ます。
会津藩と観音崎
文化7年(1810)、江戸湾(現在の東京湾)警備のため、房総半島には白河藩、三浦半島には会津藩が 侍や足軽、その家族を含めて千数百人が移り住み、10年間過ごしました。 三浦半島の防備についた会津藩は、三崎の城山と鴨居の腰越に陣屋を、観音崎など3ヶ所に台場を置き、 守りを固めました。また、鴨居に養生館、三崎に集義館という子弟の教育の場である学問所を開きました。 三浦半島には、当時の海津関係者の墓が多く残っています。
観音崎自然博物館
車道の向かい側の駐車場の横には、観音崎自然博物館があります。 東京湾の自然環境や歴史が分かりやすく展示されています。 この日には、「三浦半島の鳴く虫たち」という特別展示をしていました。
展望園地
観音崎自然博物館の側には展望園地があります。 低い所ですが、遮るものが何もなく、東京湾を一望できます。
観音崎砲台について
ここ観音崎は東京湾側に突出した岬であるため、東京湾防備の重要地点として、 明治13〜28年の間に観音崎各所にレンガとコンクリートによる15ヶ所の近代的砲台が 築かれました。これらの砲台は、日清、日露戦争時代に活躍したもので、 関東大震災で大破したため、大正末期にはすべて廃止されています。 この場所は南門砲台跡で、当時をしのぶ姿はまったくありません。
ネコやハト等の動物にえさをやらないでください。 公園の利用者や周辺の住宅に迷惑になっています。
 (神奈川県横須賀土木事務所、神奈川県公園協会)
展望園地からは、海辺まで降りていく階段が続いています。 少し海に突き出た岩場があるので、その先端までいくと、 東京湾や対岸の房総半島までがぐるっと一望できました。
展望園地からの景色を堪能したら、敷石園路へと向います。 車道に沿ってしばらく行くと、右手にトンネルがあります。
観音崎の地形
観音崎と対岸の房総半島富津の間の海は、東京湾で最も幅がせまく6kmしかなく、 浦賀水道と呼ばれています。明治以後さらに海堡が3ッ設けられ、いっそうせまくしています。 ここは内湾と外洋を連結する通路になっています。 このため潮流は大きく、干満の時期には14.1ノット=26kmにも達しています。
このトンネルをくぐり抜けると敷石園路になります。 左手の上には観音崎灯台が見えています。
観音崎沖のめずらしい現象
観音崎沖は流出する湾内の水と流入する黒潮とが接する所です。 湾内の水と黒潮の接する所には美しいしま模様ができます。 その形は山状にオワン状に線状に刻々と変わります。 青い海面一杯に描かれる美しいしま模様は灯台や展望台などから眺めることができます。
海藻について
この付近の海藻の海岸には海藻の種類が多く、70種以上に及んでいます。 灯台を中心にして南海岸と北海岸とに分けると、南海岸では黒潮の影響を強く受けているために フサイワズタ・タバコグサ・石灰藻類などの外洋性のものが目立ち、 北海岸では内湾のためにアオノリ類・アサクサノリ類などが見られます。
海岸園地を過ぎていくと、やがて出発地点の観音崎園地に着きます。
海上交通について
浦賀水道はS字型に湾曲しているうえ、三つの海堡があるため狭水道となっていますが、 海上交通量が極めて多く、43年には1日平均700〜800隻であったが、年々著しく増加しており、 60年には2〜3倍の1500〜2200隻になると予測されています。 船種もタンカー・コンテナ・カーフェリー・ラッシュ船などいろいろです。
観音崎ボードウォーク
右折して国道16号を進んでいくと、2分ほどで「観音崎ボードウォーク」の入口があります。 海沿いに走水まで続いている木製の歩道を歩いていきましょう。 この浜は海水浴場になっているようで、「海水浴の皆様へ」という注意書きがありました。
施設概要
この施設は、横須賀市のシンボルプロジェクトである、 JR横須賀駅から三笠公園・平成町・馬堀海岸を通り観音崎に至る 「海と緑の10,000メートルプロムナード計画」の一環として整備した遊歩道です。 また、海岸保全を目的とする高潮防護機能も兼ね備えており、運輸省海岸環境整備事業補助金等により 昭和63年から工事に着手し平成4年3月に完成しました。
施設内容
遊歩道階段式護岸580m、ボードウォーク580m
植栽ココスヤシ、アベリア、カナリーヤシ、ハマヒサカキ、ビロウヤシ、 ナワシログミ、ソテツ、マルバニッケイ
お願い
楽しく遊歩道を散歩するため、次の事項を守って下さい。
1.波が強い時は散歩をひかえてください。
2.遊歩道の上では、火を使用しないでください。
3.自転車・オートバイを乗り入れないでください。
4.各自ゴミは、持ち帰ってください。
5.ペット類のフンは、始末してください。
6.遊歩道内の施設は、大切にしてください。
 (横須賀市)
ヤシやソテツが植えられた所を過ぎると、海に少し突き出た場所があります。 ベンチに腰掛けて東京湾の景色を楽しみましょう。 「磯のいきものたち」についての解説板もありました。
580mのボードウォークも間もなく終わります。 左折して海から離れていくと再び国道16号に出ます。 右折して国道をしばらく進んでいきます。
3分ほど進んでいくと道が二又に分れています。 左側の道に入っていくと、すぐの所に走水神社の鳥居があります。
走水神社
鳥居をくぐっていくと、石燈籠の先に本殿へ続く急な石段があります。
弟橘媛命
妾は皇子の御為に よろこびて今こそ 此の浦に身を捧げなむ
はようつとめ果し 大君の御心 安んじさせ給え
日本武尊
弟橘媛よ 汝の願い心し吾が胸にのこりなん 永久に安かれと ただおろがまむ
横須賀風物百選 走水神社
走水の地名は、すでに古事記(712年)や日本書紀(720年)の中に表れています。 大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、 この地方に古東海道が通じておりました。 走水神社の祭神は、日本武尊とその后弟橘媛命のニ柱です。 神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。 伝説では、景行天皇の即位40年(110年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ 渡られるにあたり、村民に「冠」を賜わりましたので、冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て、 日本武尊を祭ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、 いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、
 さねさしさがむのをぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも
の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。 弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、 明治42年、この神社に祭られました。 明治43年6月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。 社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、 航海の安全を願って国際婦人年(昭和50年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、 走水の住人大伴黒主が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、 包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和48年に建てられたものです。
 (横須賀市)
弟橘媛命記念碑
神社本殿の左手を少し登った所に弟橘媛命記念碑があります。 記念碑の手前には東京湾を望むベンチも設置されているので、 最後の展望を楽しみましょう。
この石碑は伊豆石で、高さは4.2mです。 走水港に陸揚げされ、ここ迄運んで建てたものです。 昌子内親王は明治天皇の第6皇女です。 裏面に解説や建立年月日及び東郷平八郎以下発起人七名の名前が書いていあります。 どうぞご覧下さい。
 (走水神社氏子会)
走水神社(はしりみずじんじゃ)バス停
走水神社の鳥居の正面に続く短い道を行くと、国道16号に出ます。 左折してすぐの所に走水神社バス停があります。
馬堀海岸駅(京浜急行本線)まで、横須賀駅行きバスにて7分、 1時間に3本程度の便があります。