玉川上水
散策:2003年09月下旬
【低山ハイク】 玉川上水
概 要 玉川上水は、羽村から新宿までの約43kmの間に続いています。 流れに沿って続く緑道は、桜の花や美しい雑木林が楽しめる散策コースになっています。 今回は、玉川上水の始まる場所である羽村堰から宮元橋までを歩きます。
起 点 羽村市 小作駅
終 点 福生市 福生駅
ルート 小作駅…阿蘇神社…一峰院…禅福寺…羽村取水堰…郷土博物館…堂橋…新堀橋…加美上水公園…加美上水橋…宮元橋…明神社…福生駅
所要時間 5時間10分
歩いて... 訪れたのは紅葉前の初秋でしたが、桜並木で彩られる春にも訪れてみたい所です。 小作駅から羽村堰に至るルートを省略する場合は、羽村駅から南西方向にいくと10分ほどで羽村堰に着きます。
関連メモ 今のところ、関連メモはありません。
コース紹介
小作(おざく)駅
小作駅(JR青梅線)の西口から、正面に続く道を進んでいきます。 街中の緑地や公園を経て多摩川沿いにある阿蘇神社へ参拝し、 根搦み前水田地区を通って羽村堰へと向かいます。
加美(かみ)緑地
信号を一つ直進し、郵便局や小学校を過ぎていくと、正面に加美緑地が見えてきます。 小作駅から5分ほどで着きます。 住宅街の中のオアシスといった感じの緑地です。
加美緑地では、綺麗に整備された雑木林の中に散策路が続いています。 梢では、小鳥たちが賑やかに囀っていました。
緑地を出て、車道を右手に2分ほど進んでいくと交差点があります。 右前方の道へ進んでいきます。
信号を渡って少し行った所に、右下へ降りていく階段があります。
お願い
自転車はきめられた場所へ
タバコの投げ捨ては火事のもと
ぜったいにやめてください
 (羽村市公園緑政課)
その階段を降っていくと、グリーントリム公園の入口があります。 公園は道路脇に細長く続いており、樹木で覆われています。
利用される皆様へ
この施設は地主の厚意によって提供され、羽村町で建設した道路です。 利用者は施設を大切に、山林に被害を与えないように通行して下さい。
 (小作第一町内会、美原町内会)
グリーントリム公園
公園内には色々な木製のアスレチック遊具があり、何組かの家族連れが楽しんでいました。
公園を利用される皆様へ
みんなの公園です。 気持ち良く利用できるよう、次のことを守ってください。
禁止されています。
犬を放しての散歩はやめましょう。また、フンをしたら後始末をしましょう。
ゴミや空カンは、持ち帰るか、決められた場所にすてましょう。
施設をこわしたり、汚したりするのはやめましょう。
花や木を取ったり、傷つけたりするのはやめましょう。
鳥や動物をつかまえたり、傷つけたりするのはやめましょう。
他人に迷惑や危害を及ぼすことはやめましょう。
たき火、タバコの投げ捨て等、火災の原因となることはやめましょう。
自動車、バイク、自転車等は、決められた場所に置きましょう。
 (公園緑政課)
グリーントリム公園を出た所の道はちょっと込み入っています。 左前方にあるグリーントリム公園駐車場の左手の道を進んでいきます。 すぐにT字路に出るので、右折して車道を進んでいきます。
いしだ児童公園
車道を3分ほど進んで行くと、左手に小さな「いしだ児童公園」があります。 ここに付近の地図があるので、これからのコースを確認しておきましょう。 まず阿蘇神社へ行き、参道を通って宮ノ下運動公園まで行き、その手前を左折して一峰院を訪れ、 その後、水上公園の横を通って羽村堰へと向かいます。
更に道なりに進んでいくと、羽村市消防団の建物の先に三叉路があります。 ここを右折して墓地の左を通っていきます。
3分ほど行くと奥多摩街道に出ます。 その左手に阿蘇神社への案内板が立っています。 案内に従って、正面左手の道に入っていきます。
少し行くと道が二股に分れていますが、 阿蘇神社への案内板に従って右側の道を進んでいきます。 住宅地の中の道を進んでいくともう一度案内板があるので、 それに従っていくと、奥多摩街道から4分ほどで阿蘇神社に着きます。 鳥居のそばに御社殿新築記念碑が建っていました。
御社殿新築記念碑
 阿蘇神社の歴史は極めて古く、推古天皇9年5月の創始と伝えられます。 当初は古代の祭祀形態である磐境形式であったと考えられ、平安時代に至り、 天慶年中、平将門公が神徳を畏敬して、初めて社殿を造営寄進しました。 現在の本殿は造営史上8度目のもので、延宝4年3月竣工し、江戸時代初期の特徴を よく備えた学術上貴重な社殿建築として、昭和41年3月、東京都有形歴史文化財に 指定されました。
 然し、300有余年の星霜を経て腐朽が進み、拝殿等も老朽且つ狭少となり、 参拝者の増大に対応し得なくなりました。よって、氏子崇敬者相議り、 神社100年の大計の元に、本殿修理工事及び新本殿、祝詞殿、拝殿新築工事を 起こすこととなりました。羽村町を通じて東京都に修理の要請を致しましたところ、 破損調査の結果、昭和61年度文化財保存事業費対象事業の決定が下されました。 東京都指定有形文化財 阿蘇神社本殿修理委員会が組織され、 昭和61年度東京都文化財 保存事業費補助金、昭和61年度羽村町補助金の交付を受け、 所有者負担金を加えて、昭和61年5月着工致しました。工事は早稲田大学教授工学博士 渡辺保忠先生外一門の先生方の監督指導のもと、(株)大門組施工により1ヶ年の工期を もって解体修理を行い、学術上多大の成果を収め、江戸時代初期造営当時の原形に 復原しました。
 又、新社殿建築工事は、阿蘇神社建設委員会を結成し、氏子崇敬者より浄財を募り、 竹澤古典建築設計事務所の設計に従い、(株)金剛組が施工しました。 昭和61年5月26日木造始祭を斉行し、事始めてより飛騨の工匠の打つ墨縄の只一筋に、 清く美しく竣工し、昭和62年12月19日浄暗のうちに正遷座祭を、翌20日奉祝祭を奉仕し、 本事業を滞りなく完了しました。天空に聳える千木、勝男木の朝日に照り映える如く、 御稜威の弥益々に耀き渡り、氏子崇敬者に限りなき幸をお授け下さることと信じます。 ここに関係各位の敬神の真心に敬意と感謝の意を表し、御芳名を永久に伝えたいと存じ、 この碑を建立するものであります。
 (阿蘇神社建設委員会)
阿蘇神社
東京都指定有形文化財(建造物)阿蘇神社本殿
当社は平将門の勧請と伝える。天文5年(1536)の棟礼には「七度造□」とあり、 数次の改築が行われたことを伝えている。しかし、現在の建物は細部の様式から見て、 延宝4年(1677)の棟礼に該当するものと思われる。 構造および形式については一間社流造り、屋根はこけらぶき、大棟は箱棟、 軸部柱真々正面1.45メートル、側面1.30メートル。 棟札9枚、天文5年(1636)、慶長3年(1598)、慶長12年(1607)年、寛永7年(1630)、 正保4年(1645)、延宝4年(1676)、元文5年(1740)、および年記不明1枚が現存している。 江戸初期の神社建築として資料的価値が高い。
 (東京都教育委員会)
阿蘇神社の本殿の正面にある石段を降り、鳥居をくぐって南参道を進んでいきます。
右手は緑の絨毯になっていて、その向う側には多摩川が流れています。 所々で釣りをしている人を見かけました。
少し行くと、取水口からの流れに架かる小さな橋を渡ります。
氏子の広場
橋を渡った先には氏子の広場があります。 この辺りの川辺一帯は阿蘇神社の社有地のようです。
ここは当神社の神領として北条氏や徳川幕府代々の将軍より 朱印状をもって寄進された由緒ある神領地です。
・樹木や自然の草花を大切にしましょう。
・清流を汚さないように!
・車の乗り入れ・キャンプは厳禁です。
 (阿蘇神社)
ホタル養殖地
橋を渡った先にホタル養殖地がありました。 側には解説板がありました。
氏子の広場の先には雑木林が続いています。
謹告
ここは当神社の神領として北条氏や徳川幕府代々の将軍より寄進された 由緒ある神領地で鎮守の森の一部です。
・ゴミの投げ捨て
・車の乗り入れ
・キャンプ
など厳禁です。 自然を大切にしましょう。
 (阿蘇神社)
ごみ捨て禁止
川や堤防に、ごみ・土石等を捨てると河川法により処罰されます。
 (国土交通省 京浜河川事務所)
少し行くと前が開け、阿蘇神社の南参道は終わりになります。 行く手には、石灯篭と木製の鳥居が建っています。
宮ノ下運動公園
鳥居の先には、芝生が一面に植えられた宮ノ下運動公園が広がっています。 この公園脇の土手をそのまま直進しても羽村堰に行けますが、 今回は手前を左折して一峰院を訪れていきましょう。 数分歩くと正面に一峰院があります。
一峰院の鐘楼
当門の構造形式は、一間三戸、鐘楼門、入母屋造桟瓦葺(当初は茅葺)であり、 正面は南に面しています。建築年代は「諸色写之帳」(小林清家文書)によると、 文政2年(1819)頃で、大工は羽村などで活躍した木野下村(現青梅市)の堂宮大工小林藤馬です。 この門の大きな特徴は、寺院の山門としての楼門(二階に腰縁をもつ形式)と鐘楼を兼ねていて、 二階部分が梵鐘を釣るために一般的な楼門と比べて建ちが高く、壁が設けられていないことです。 また、一間門であるにもかかわらず、三ヶ所に扉が付いていることや、すべての柱に角柱を用いていることも 珍しい形式です。建築様式は和様を基本として禅宗様との折衷様です。
 (羽村市教育委員会)
一峰院
龍珠山 一峰院
臨済宗建長寺派のお寺で、応永31年(1424)三田雅楽之助平将定の開基とされ、 開山は周防国(山口県)高山寺に住した玉英賢韜です。宝暦9年(1759)に焼失し、 7年後の明和3年に再建されました。 寺宝に十一面観音像、不動明王像、承応元年(1652)と元禄期に作られた袈裟、 および安永3年(1774)の、近世臨済禅を代表する高僧大休慧ムによる「一峰院亀鑑」(住職規則)や、 広い地域よりあらゆる階層の人々から寄進された大般若経六百巻などがあります。 また、境内には経塚や天保年間建立の出羽三山碑もあります。
 (羽村市教育委員会)
根搦み前水田
一峰院の山門を出て左手の道を進んでいきます。 道の右側には根搦み前水田が広がっています。 訪れた時には一面が黄金色に染まっていました。 田んぼによって収穫時期が異なるのか、 刈取った稲を稲木に干してある田んぼもありました。 羽村市では緑地保全に力を入れているようで、 「Produce Green」の立て看板が至る所にありました。
生産緑地地区
街の緑を守る生産緑地の指定を受けている農地です。
 (羽村市)
保存樹林地区
この樹林地は、緑を保存し快適な住環境を保全するため、 所有者の理解を得て市が保存樹林地に指定したものです。 いつまでも美しい緑地として保存されるよう、みなさんのご協力をお願いします。
 (羽村市)
踊子草公園
道路を挟んで、根搦み前水田の反対側には小さな踊子草公園がありました。 踊子草が植えられてしっとりとした公園です。
使用上の注意
この公園は、土地所有者のご理解をいただき設置したものです。 次のことを守って大切に使用してください。
・木の枝を折ったり、草花を取らないようにしましょう。
・ウメ、カキ、ユズの実を取らないようにしましょう。
・紙くずや空き缶などは必ず持ち帰りましょう。
・犬を草花の中に入れないようにし、フンはきちんと持ち帰りましょう。
 (公園緑政課)
オドリコソウ(シソ科)
やぶ陰や道端に見られる多年草で、羽村では崖線の下などに点々と生えています。 高さ30〜50cmで茎は四角く、葉は長さ5〜10cmで両面にまばらに毛があります。 4〜5月ごろ、上部の葉のわきに白い花とうす紅の花を輪状につけます。 花は上下2唇に分かれ、上唇はおしべを被っています。花の下部のふくらみには蜜があって、 ハチが入り込むと雄しべが背にふれ、花粉がついて運ばれます。 並んだ花が、笠をつけて踊る人々に見えることから「踊子草」の名前がついたものです。
根搦み前水田には、水田以外にも、睡蓮植栽地・芍薬植栽地・牡丹植栽地などの畑もあります。
この畑では景観植物の保全と花を観賞していただくため、 景観形成植物の植え付けを行っています。
・植栽してある植物を大切にしましょう。
・畑の中に入らないでください。
 (羽村市)
大賀ハス
大賀ハスは、1951年(昭和26年)に故大賀一郎博士の指導のもとに、千葉県の検見川遺跡から 発掘された2000年前の植物であります。 発掘された三個のハスの実のうち、大賀博士の努力により、その中の一個が多く成長し、 見事なピンクの花が咲きました。「千舌を通じてあやまりなき世界最古の生命の発露である」として、 一躍世界的に注目を浴び、今では国内はもとより、世界各国に分根されて、平和と友好の役割を果たしています。 このたび、この大賀ハスを羽村市内でも花が見られるようにと、町田市の大賀藕絲(ぐうじ)館より 譲り受け、羽村市の農業後継者の方々が植え付けを行いました。 この非常に貴重な大賀ハスを一人でも多くの方に見ていただき、平和を願う人々の心の中に、 端麗な気品のある大賀ハスが開くことを願ってやみません。
 (羽村市)
根搦み前水田の先にある割烹旅館「玉川苑」の左手の坂道を登っていきます。 この辺りは、雨乞街道といわれており、真夏の日照りが続くと、田ノ上地区の人達は裸でこの街道を通り抜け、 丸山下にある渕へ行き、木製の龍頭を沈めて雨乞いをしたと言われています。 雨乞街道を2分ほど行くと、左手に禅福寺があります。
禅福寺
妙徳山 禅福寺
臨済宗建長寺派に属し、山号は妙徳山。古くは、集落の地名田の上から「田上山」とも号していました。 応安5年(1372)、将軍足利義満は、建長寺の無二法一禅師に深く帰依し、禅師を開山として、 広大な寺領をあたえ、諸役を免除したとつたえられます。 江戸時代、足利氏にならい、高十三石の朱印があたえられ、諸役免除されています。 その後、数度の火災のため、諸堂は焼失、寺宝、古記録もほとんど失われました。 本尊は文殊菩薩。境内には市指定文化財の山門があります。
 (羽村市教育委員会)
羽村市指定有形文化財 禅福寺の山門
寺伝によれば、本寺は応安年間(1368〜1374)の創建、山門は、寛正3年(1462)の建立といわれています。 山門は昔から薬医門ともよばれていますが、正確には四脚門です。木鼻や蚕股などが失われ、 時代判定がむずかしいようですが、山門の焼失や破損の伝承記録もなく、風蝕状況から創建時にあたる 室町時代中期の遺構と推定されます。 文化6年(1809)6月、江戸の著名な文人大田南畝(蜀山人)が、多摩川巡見の途次、この山門前に立ち、 門前の塔婆を目撃しています。
 (羽村市教育委員会)
禅福寺を出て更に進んでいきます。 水上公園を右手に見ながら3分ほど行くと、宮ノ下運動公園から続く土手道と合流します。 その先には羽村堰が見えています。
玉川水神社
奥多摩街道に出た正面右に玉川水神社があります。
玉川水神社
玉川水神社は東京水道の守護神で、玉川上水が承応3年徳川幕府によって完成された際、 水神宮としてこの地に建立されたものであります。 以来300余年、江戸町民及び上水路沿いの住民より厚く信仰せられて来たもので、 明治26年に名を玉川水神社と改めました。 水神社としては最も古いものの一つであります。
祭神 彌都波能賣(みずはのめのかみ)
 水分大神(みくまりのおおかみ)
社殿 本殿は名匠小林播磨守による天保時代の作、明治28年に改築
祭典 例祭 毎年9月5日
 (羽村水源愛護会)
玉川水神社の隣には玉川上水羽村陣屋跡があります。 陣屋跡の隣には東京都水道局の羽村取水所があります。
町指定旧跡 玉川上水羽村陣屋跡
江戸幕府は急増する江戸市民の飲料水を確保するため、承応2年(1653)に羽村−四ツ谷大木戸間に 玉川上水を完成させた。 この上水道の取締り、水門・水路・堰堤等の修理・改築などの上水管理に関する仕事を処理するため、 ここに陣屋と称する役所が置かれた。 陣屋門は、堰のふちを通る旧道に面してあり、門を入るとやや広い庭があり、その奥に陣屋敷、水番小屋があった。 陣屋には常に幕府の役人が往来し、村民との交渉により、本村へ文化上、生活上少なからざる 影響を与えた。
 (羽村市教育委員会)
羽村堰第一水門
羽村取水所の前には羽村堰第一水門があります。 多摩川から勢いよく水が流れ込んでいました。
羽村堰第二水門
羽村堰第二水門から流れていく玉川上水の始まりの光景です。 玉川上水は、羽村取水堰から新宿区の四ツ谷大木戸に至る延長43kmの上水路で、 1654年(承応3年)当時、江戸の飲料水供給のために造られたものです。 現在は、羽村取水堰から小平監視所までの間約12kmが、上水路として利用されています。
羽村取水堰
羽村取水堰
この堰は、多摩川をせき止め水道用の原水を玉川上水路に引き入れるために 造られたもので、固定堰や投渡堰と呼ばれる珍しい構造の堰からできています。
※投渡堰は、川に鉄の桁を渡し、これに松丸太、そだ(木の枝を束ねたもの)、砂利などを 取り付けて作ります。
堰の筏通し場
きのう山下げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落し」と筏乗りの唄に うたわれたように、多摩川上流から伐り出す青梅材を江戸(東京)に搬出する筏乗りにとって、 羽村の堰は最大の難所でした。享保3年(1718)、江戸幕府は筏による堰の破損を理由に、 堰通過を全面禁止しました。羽村以西の三田領42ヶ村の筏師仲間は、幕府に堰通行の再開を嘆願しました。 享保6年、新たに筏通し場を設置し、特定の日時を限って通行が許可されました。 以降、堰を下る戦場さながらの壮観な筏落しの風景は大正末年ごろまで見かけられました。
 (羽村市教育委員会)
※水門口から20間(約36m)離れた場所に、幅4間(約7.2m)長さ2間(約3.6m)の規模で作られました。
堰下公園
第二水門の所に架かる橋を渡っていくと堰下公園があります。 ここには「多摩川の原水の流れ図」や多摩川八景「玉川上水」の説明板があります。
玉川兄弟の像
徳川氏の江戸に幕府を開くや市街を整え道路を通じ衆庶の安住を計る。 飲料水その主要なるを以て先に井頭溜池等の水を引いて之に充つ。 三代家光の時に至って戸口増加し、更にその対策に苦慮す。 老中松平信綱は町奉行神尾元勝等をして多摩川の引水を計画せしむ。 承応2年、多摩郡羽村の生縁なる庄右衛門清右衛門の兄弟あり。 能く水利に通じ土地の高低を察し幾多苦辛の末羽村に堰を設け、 水路を江戸四谷に通じて多摩川上水を引入れ、以て市民の飲用に供す。 幕府表彰して玉川の姓を免じて士分に列し、明治政府また従五位を追贈す。 爾来三百余年その規模は漸次拡大して、今日の東京都の水道となり、益々 大東京の発展に寄与せり。茲に玉川氏往年創業の跡に兄弟の銅像を建設し、 東京都民の感謝の意を永遠に傳えんと欲す。
 (玉川兄弟銅像建設委員会建)
堰下公園の先には、多摩川の川辺に降りられる所があります。 テントを張ったり、バーベキューをしたりしている人達が何人もいました。 川遊びをしている子供たちもいて、ちょっとした憩いの場になっています。 近くには「羽村市公共施設案内図」があります。
羽村堰下橋
少し行くと羽村堰下橋があります。 この橋を渡って、郷土博物館へ立ち寄っていきましょう。
自転車・歩行者の専用になっている羽村堰下橋を渡っていきます。 橋の上からは羽村堰が一望できます。
橋を渡って右折し、多摩川沿いの土手の上を歩いていきます。 6分ほど行くと、左手に郷土博物館へと降りてく階段があります。
郷土博物館
羽村市郷土博物館では、羽村と玉川上水の歴史、堰の仕組みなどが詳しく紹介されています。
開館:8時30分〜17時、無料
休館:月曜日
郷土博物館を見学したら、羽村堰下橋を渡って元の道まで戻ります。 橋を渡って右折した直ぐの所を左折して行くと、奥多摩街道の信号に出ます。
信号の手前右手から玉川上水沿いに緑道が続いています。 緑道には桜の木が並んでいて、春の綺麗な光景が想われます。 上水道として利用しているためか、玉川上水の両側には金網が設置されており、 降りていけないようになっています。
堂橋
羽村大橋の下をくぐって緑道を7分ほど進んでいくと堂橋があります。 緑道からは柵や樹木に阻まれて玉川上水がよく見えませんが、 所々に架かっている橋の上からは玉川上水の流れがよく見えます。
やがて桜並木も終わり、雑木林へと変わります。
ここは東京における自然の保護と回復に関する条例に基づいて指定された 玉川上水歴史環境保全地域です。 この由緒ある歴史的遺産と武蔵野の自然を地域の方々とともに守り育てることとしています。 ごみを捨てたり、水路を傷めたりしないようご協力ください。
 (東京都、羽村市)
ゴミ捨て厳禁
ここは水道用地です。ゴミを捨てることを禁じます。
 (東京都水道局)
新堀橋
民家を過ぎていくと新堀橋があります。 上流は木に被われていて、玉川上水の流れが見えづらくなっていますが、 下流はよく見渡せます。
加美上水公園
新堀橋を過ぎて直ぐの所に加美上水公園があります。 よく整備された雑木林の中に小路が続いています。
ベンチも設置されているので、ちょっと休憩していきましょう。 ベンチの先に民家が見えてくると道が二股に分れています。 左手の道を行くと、森を出て再び玉川上水沿いの道になりますが、 右下への道は、玉川上水旧掘跡を通る道になります。
市指定史跡 玉川上水旧掘跡
玉川上水旧掘跡は、江戸幕府が江戸市民の飲料水の確保を目的として、 承応2年(1653)に開削した玉川上水が、その後、元文5年(1740)に至り、 北側に33間(約613m)程、付け替えられたため廃棄された堀が遺構として残ったものです。 玉川上水は、開削後、度重なる多摩川の出水によって、福生市内の一部で上水の土手が しばしば崩壊し、このままでは通水に支障が生じる事態も起こりかねない状況にありました。 そのため元文5年、代官上坂安左衛門の掛かりで、新田世話役川崎平右衛門によって 付け替え工事が行われました。 旧堀跡は、この公園内及び付近に残っていますが、南側の土手は崩壊してみられません。 しかし、北側の土手及び堀敷部分は遺構として現存しています。 この玉川上水旧掘跡は、近世前期の大規模な土木工事の遺構として、歴史的、学術的に 大変貴重です。
 (福生市教育委員会)
森から玉川上水沿いの緑道に戻って、更に進んでいきます。 先ほど見えていた民家では、ニワトリを放し飼いにしているようで、 10羽ほどのニワトリが歩き回っていました。
民家を過ぎていくと、トイレ等もある広場に出ます。 加美上水公園はこの広場で終わりになります。 先ほどの玉川上水旧掘跡を通ってきても、この広場に出てきます。 ここに多摩川八景の解説板がありました。 今回の玉川上水もその八景の中の一つに数えられています。
多摩川八景
美しい自然に恵まれ、四季を通した憩いの場所として 多くの人々に愛され親しまれている多摩川は、 自然・人工・歴史、そして人々の生活とが複合した独特な景観を形づくっています。 多摩川八景は、都市河川多摩川への関心を高め、環境整備の方向性を探ることを目的として、 建設省関東地方建設局が主催した「あなたが選ぶ多摩川八景」に寄せられた投票を参考に、 昭和59年4月、選定されました。風景の一つ一つはそれぞれ異なる美しさを示し、 八景全体では、多摩川の魅力のすべてを語りかけてくれるでしょう。 一人でも多くの方に多摩川のすばらしさを知っていただけたら幸いです。
(1)多摩川の河口 東京都大田区・神奈川県川崎市
(2)多摩川台公園 東京都大田区
(3)二子玉川兵庫島 東京都世田谷区
(4)多摩大橋付近の河原 東京都昭島市・八王子市・日野市
(5)玉川上水 東京都西多摩郡羽村町〜福生市〜昭島市〜立川市〜小平市
(6)秋川渓谷 東京都西多摩郡五日市町・檜原村
(7)御岳渓谷 東京都青梅市
(8)奥多摩湖 東京都西多摩郡奥多摩町〜山梨県北都留郡丹波山村
 (建設省京浜工事事務所、東京都)
加美上水橋
広場を出た所に加美上水橋があります。
加美上水橋の歴史
昭和2年2月、大正天皇の陸稜造営に必要な多摩川石を運搬するため、 福生駅から多摩川の羽村境に至る1.8kmの間に砂利運搬専用線が布設され、 通称ガードと呼ばれる鉄橋がここ玉川上水にその姿を写すこととなった。 このガードを日に2回、電気機関車が4・5輌の貨車を引いて通り、 また地域の人々は枕木を渡り利用していた。
・昭和34年12月、砂利運搬停止、
・昭和36年3月、線路・架線撤去、
・昭和37年7月、福生町へ売却、
・その後、鉄板製の歩道橋に改良、
・平成3年3月、新東京百景にふさわしく欄干等を改良し、加美上水橋と命名。
加美上水橋を後にして更に玉川上水沿いの道を進んでいきます。 正面が開けてくる辺りで玉川上水が少し左へ曲がっていきます。
宮元橋
次第に道幅が広くなってきて、正面左手に歩道橋が見えてくると、宮元橋に着きます。 玉川上水はこの先もずっと続いていますが、今回はここで分れて福生駅へと向かいます。
明神社
歩道橋を通って奥多摩街道を渡り、左折して真直ぐに進んでいくと、 正面にこんもりとした明神社の森が見えてきます。 信号を渡って右折して少し行くと鳥居があり、そこから神社の境内に入ります。
明神公園
明神社の前にある小さな公園では堂川湧水の説明板がありました。
堂川湧水について
この公園西側の道路(明神通り)沿いには、昭和38年頃まで「堂川」という きれいな小川が流れていました。 水源は公園北側の堂坂(上江戸坂)のたもとにあって、一年中涸れることなく 鎮守の森の下から湧き出る清らかな泉として、古くから人々の飲料その他の生活用水に 利用されてきましたが、この付近で行われた土木工事がもとで湧水がとまり、 水源と小川は消滅してしまいました。 その後、地域住民の間から堂川復活を求める声が繰り返し上がっていたところ、 今回多くの人の熱意と協力により、公園内の限られた領域ながら、 井戸揚水を使って往時の堂川を偲ばせる新たな清泉が復活しました。 かつて「堂坂下から堀端までよ、昔変らぬ沢の水・・・」と 歌われた堂川は、長沢地区の真ん中を南に向い、こんこんと水音も軽やかに人々の 身近を流れる小川として親しまれ、岸辺の所々に洗い場を設けるなどして重宝に 使われてきました。 また川には、オババドジョウや沢ガニをはじめ、夏の夜に舞うホタルなど、 数多くの生き物たちが川沿いの家々と隣り合わせに暮していました。 心のふるさと堂川は、ここに新たに水のある風景として、大人も子供も共に楽しめる 憩いの場となって甦りました。 なお、遠く縄文時代人も飲用したであろうといわれる堂川湧水には、 昔から次のような話が伝えられています。
その昔、水源のすぐ上のところに念仏堂(薬師堂とも)があったところから、 堂川の名がつけられたという。(堂坂も同じ)
長沢という地名の起源は、集落の中心を南北に細長く流れていた堂川に由来するものと云われている。
水源近くに「田ン中」という屋号を持つ家が数件現存しているが、田ン中とは「田の中」の意で、 昔、そのあたり一帯が堂川の水を引いた水田であったからだという。
 (福生市)
福生(ふっさ)駅
明神社を出て新多摩川街道の信号を渡り、右折していきます。 福生駅前交差点を左折していくと、10分ほどで福生駅(JR青梅線)に着きます。 駅前に「福生の地名由来」の碑がありました。
福生の地名由来
福生という地名の由来については諸説がある。 有力な説としては、麻の生える地(麻のことをフサという)という説、 阜沙(阜とは陸丘、沙とは細かい砂のある川岸)を意味とするという説、 アイヌ語(湖口をフチ、岸ほとりをチヤ、湧水をブッセ)からとする説等がある。 何れにしても音が先行し、後に福生という縁起の良い字を当てたものと考えられる。
 (福生町誌より)