湯河原城山
散策:2003年08月下旬
【低山ハイク】 湯河原城山
概 要 湯河原が土肥郷とよばれていた頃の史跡を辿るコースです。 土肥一族の菩提寺の城願寺や城山、しとどの窟などを巡ります。 山頂からの眺望は抜群で、相模湾はもとより、伊豆半島、初島、大島までもが一望できます。
起 点 湯河原町 湯河原駅
終 点 湯河原町 しとどの窟バス停
ルート 湯河原駅…城願寺…浅間神社…ピクニックグランド…城山…しとどの窟…しとどの窟バス停
所要時間 4時間10分
歩いて... JR東海道線のガードをくぐってからの坂道はかなり急です。 ゆっくり登っていかないと息が切れてしまいます。 一汗かいた後、ピクニックグランドや城山からの大展望を満喫しましょう。
関連メモ 白銀林道, 湯河原城山, 幕山
コース紹介
湯河原(ゆがわら)駅
湯河原駅(JR東海道線)から城山ハイキングコースを歩いていきます。 駅前に付近の案内図があるので、これからのコースを確認しておきましょう。 城願寺を訪ねてからピクニックグランド・城山へ登り、最後にしとどの窟を訪ねます。
今回登る山は単に「城山」という名前ですが、 各地にある同名の山と区別するため、タイトルは地域の名前を冠して「湯河原城山」としました。
四季彩のまち さがみの小京都 ゆがわら
私たちのまち湯河原は、海と山と川の恵まれた自然環境や豊かな温泉、 歴史文化のかおり漂うまち並みなど、多彩な表情を持つ美しいふるさとです。 京都で生まれた日本画壇の大家竹内栖鳳は、湯河原をこよなく愛し、 この地で終焉を迎えました。 その作品を主体とする「湯河原ゆかりの美術館」開設や、京都仙洞御所の州浜に 趣のある岸辺を造り上げている吉浜の一升石(石一個で米一升と交換したと伝えられる)などが契機となり、 平成11年6月、本町は、全国京都会議において「小京都」に認定されました。 これを記念し、ここに、御所にちなんだ庭園を整備いたしました。 1200年の歴史を誇る風雅な伝統が息づく京都に、いつの日か近づけるよう、 これからも町民一同、町独自の文化の掘り起こしと新たな創造に努力してまいります。
 (平成11年10月吉日 湯河原町長)
土肥実平公銅像
駅前には、この地にゆかりの深い土肥実平公とその夫人の銅像が建っています。
土肥實平公夫人像
土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。 治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、 土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。 公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。 公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、 その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。 ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の 遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、 その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。
土肥氏館跡
源頼朝が覇業を天下に成したるは、治承4年(1180)8月、その崛起にあたり、 湘西における箱根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と 此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と天運に依る。 石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して 解覧した真鶴崎など、まさに千載画期の史跡である。 茲に挙兵七百八十年を記念して、土肥氏館阯に碑を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。
 (神奈川県文化財専門委員武相学園長)
駅前の左側へ進み、一番手前の道を左折していきます。 小さな花壇に「城山城願寺」を示す道標があります。
2分ほど進んでいくと十字路があります。 左折して、JR東海道線の下をくぐっていきます。 今回歩く「城山ハイキングコース」には各所に道標が設置されており、 道に迷うことなく散策することができます。
ガードをくぐると、なかり急な坂道になります。 坂道を2分ほど登っていくと「城願寺参道」の石柱が建っているので、 左折して城願寺に寄っていきます。
50mほど行くと、右手に「萬年山」,「城願寺」と刻まれた石柱の建つ入口があります。
石柱に続く参道を通り両側に仁王像が建つ山門をくぐって石段を登っていくと、城願寺の境内につきます。
城願寺
城願寺は、曹洞宗(禅宗)のお寺で、大本山は、横浜市の総持寺・福井県の永平寺です。 土肥一族の墓所にもなっている境内には、 七騎堂のほか、文殊堂、釣鐘堂、水子地蔵、天然記念物のビャクシンなどがあります。
土肥一族の墓所
城願寺は、土肥次郎実平が菩提寺として建て、室町時代に中興されたと伝えられています。 土肥次郎実平は、源頼朝が石橋山で旗揚げした時に従いましたが、頼朝が敗れ、 その後、基礎義仲、平家及び奥州藤原氏の征討に従軍しましたが、それ以後のことは 定かではありません。 城願寺本堂左方の広さが土肥氏一族の墓所には、66基の墓石があり、嘉元2年(1304)7月の 銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375)6月の銘のある宝筺印塔をはじめ、 塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型が揃っています。 このように一墓所に各種の墓型がそろっているのが見られるのは、関東地方では めずらしく貴重なものです。
◎お願い
この史跡の現状をみだりに変更したり、荒らしたりしないで、大切に保護して下さい。 特に墓石には絶対に手をふれないようご注意ください。
 (平成7年9月 湯河原町教育委員会)
七騎堂
七騎堂には、源頼朝を守った頼朝七騎の木彫り像が安置されています。 七騎とは、土肥次郎実平、土肥弥太郎遠平、安達藤九郎盛長、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、 田代冠者信綱、新開荒次郎忠氏です。
七騎堂の由来
伊豆に流されて20年間蟄居の生活を送っていた源頼朝が、源氏再興の旗揚げをしたのが 今から約800年の昔、治承4年8月23日である。頼朝は石橋山(神奈川県片浦村)に陣を布き、 手勢300騎で平家方の大庭景親軍3000騎と対戦したが衆寡敵せず、勿ち潰走して土肥の 杉山に逃れ、山中の洞窟に身を隠し、或は山中の堂宇に難を避くる等、 辛じて大庭軍の目を眩らまし、8月28日に岩村の海岸から漁船に乗って房州に落ち延びたのである。 この時、同船して落延びたのが頼朝以下主従七騎であったので、世にこれを頼朝七騎落と呼んでいる。 頼朝の決起によって平家が滅び、日本の王朝政治が終りを告げて武家政治の時代が開かれ、 ここに日本歴史を転換させた最初の戦が土肥郷(今の小田原から湯河原まで)を舞台として戦われ、 しかもこの合戦の参謀として活躍したのが当時湯河原町に居館を構え土肥郷を領していた 土肥次郎実平であったのである。吾が郷土の史実研究団体である土肥会に於いては、 さきに郷土と縁の深いこの七騎落七武者の像を刻み、土肥次郎実平の菩提寺城願寺本堂内に安置し、 毎年七騎供養祭を執行してきたが、更に此の程この七騎像を永く意義あらしめるため、 境内に一宇の堂を建立し、ここに安置することになった七騎堂即ちこれである。
 (昭和49年4月吉日 湯河原町土肥会)
謡曲「七騎落」と城願寺
謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。 石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。 頼朝は祖父為義・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。 主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、 折よく沖合いの和田義盛に救われ、歎喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。 城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、 大鏗禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。 土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木像が収められている。
 (謡曲史跡保存会)
かながわの名木100選 城願寺のビャクシン
和名:イブキ(ヒノキ科)
土肥実平の手植えと伝えられ、幹のねじれが著しく、小枝もよく茂った古木である。 国の天然記念物に指定されている。
  樹高20メートル 胸高周囲6.0メートル 樹齢約800年(推定)
イブキはビャクシンとも言い、東北南部から九州の海岸に生える常緑高木で、 社寺や庭園によく植えられるほか、生け垣などに用いられる。 樹高27メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約1500年に達するものもあると言われている。
 (神奈川県)
本堂の右手にある藤棚をくぐって城願寺から外にでます。 正面の道を少し行くと、先ほどの坂道に戻ります。 道標に従って左折し、また急な坂道を登っていきます。
ゴルフ練習場を右手に見ながら坂道を登っていくと、 フェンスに架けられた注意書きを手直ししている方がいました。 通り過ぎて行こうとすると「どこまで行くんですか?地図があるからあげます」と声をかけられました。 付近のハイキングコースと所要時間を記したコピーを貰いました。
城願寺から8分ほど坂道を登っていくとT字路があります。 道標に従って左折して更に2分ほどいくと、道が二股に分かれています。 ここには適切な道標がありませんが、破損した道標の一部らしいものが電柱に残っていました。 「…山へ」と書かれており右側の道を示しています。 「…」が「城」だと信じて、右手へ進んでいきます。
鱗のようなモコモコとした形の竹林を左に見ながら急な坂道を登っていきます。 6分ほど行くと、左手に石灯籠が見えてきます。
浅間神社
石灯籠の少し先に「浅間神社参道」と書かれた石柱が建っています。 そこから戻るようにして左手に登っていく坂道を100mほどいくと、 右手に浅間神社の鳥居があります。 そこから両側に石灯籠が立ち並ぶ石段が祠へと続いています。
危険です。
石灯籠には手を触れないで下さい。
 (氏子会)
神社から元の道まで戻って、更に坂道を登っていきます。 城山学園への道を右に分けいくと、左右にみかん畑が点在するようになります。 坂道を15分ほど行った所のY字路を道標に従って右折すると、正面にサイロのような施設が見えてきます。 その手前の林道を道なりに登っていきます。
4分ほどいくとT字路に出ます。 左は湯河原へ降っていく道で、城山へは右手の道を登っていきます。 この辺りで、みかん畑は終わりになります。 これまでの急な坂道と違い、ここからは緩やかな道になります。
山肌を縫うようにして続くつづら折の快適な林道を進んでいきます。
林道につき、関係者以外車両通行止
 (湯河原町)
あなたです きれいな街をつくるのは!!
ごみをこの場所に捨てることは法律で禁止されています。 ごみは定められた場所で処理しましょう。
 (湯河原町役場、小田原警察署)
自動車も滅多に通らない林道が続きます。 振り返ると、樹間から湯河原の街が見え隠れするようになります。
緑は友だち 山火事注意 自然を守りましょう
 (神奈川県)
緩やか林道を20分ほど進んでいくと、樹林が途切れて目の前が開けます。 湯河原の街並みの向うに、真鶴半島や三ツ石、相模湾を一望できます。
更に7分ほど行くと、少し開けた場所があります。 周囲にはアジサイの木が植えられており、真ん中に細長い木が一本生えていました。 夏草で覆われていましたが、展望も得られるのでちょっとした休憩にはいい所です。
小休止して元気がでたところで、更に林道を進んでいきます。
保安林
この区域は森林がもっている色々な働きを守るため、保安林に指定されています。 保安林内で木を伐採したり植物や土石を採取するときは、許可が必要です。
 (神奈川県西湘地区行政センター農林部林務課)
5分ほどいくと目の前が急に開け、 ピクニックグランドから城山へと続く稜線が正面に見えてきます。 北側は伐採されて新たな苗が植え付けられており、見通しがよくなっていました。
林道を2分ほど行くと、右手に「城山山頂」を示す道標があります。 ここで林道と別れ、アジサイの木が植えられた尾根筋の山道を登っていきます。 山道と言っても緩やかな道で、煩い夏草も刈り取られていて、快適な散策ができます。
この辺りは「あじざいの郷」と呼ばれ、 6月下旬から7月上旬の季節にはアジサイの花が見事に咲き誇ります。 散策したのは季節が過ぎた後なので、残念ながらアジサイの花には出会えませんでした。 アジサイから雑木林へと変る尾根道を7分ほど登っていくと、 やがてピクニックグランドに到着します。
ピクニックグランド
ピクニックグランドには芝生が一面に植えられており、休憩舎・ベンチ・トイレなどがある広い所です。 東側は開けていて、真鶴半島や相模湾を一望でき、大休憩するのには絶好の場所です。
ここは公園地域です。すべての狩猟(甲乙丙)を禁止します。
 (湯河原町)
ピクニックグランドから、更に尾根道を進んでいきます。 途中には横木の階段もありますが、それ程歩きにくいことはありません。
8分ほど行くと目の前が開け、城山の山頂に到着します。
城山
城山の山頂は、ピクニックグランドよりは狭いものの、かなりの広さがあります。 土肥城址の石碑が建っており、周囲にはアジサイの木が植えられていました。 また、休憩舎や付近の案内板などもあります。
手前は樹木で遮られますが、城山の山頂からは360度の展望が得られます。 真鶴半島、初島が浮かぶ相模湾、伊豆半島などを見渡せます。
城山からは、城山入口バス停への道と、しとどの窟バス停への道がありますが、 今回はしとどの窟バス停への道を降っていきます。
急な山道を3分ほど降ると、先ほど、林道から山道へ入る手前に見えていた稜線の一部に出ます。 ここからは、石が敷かれて歩きやすい緩やかな尾根道になります。
石畳の道を5分ほどいくと、樹木が薄れて見晴らしのいい場所があります。 ここから2分ほど行った先にも同じ様な展望のいい場所があります。
先ほど登ってきた道や、真鶴半島・三ツ石などが見渡せます。 谷筋から吹き上がってくる風が涼しさを運んできます。 ベンチも置いてあるので、ひと休みして行きましょう。
石畳の尾根道を更に進んでいくと、10分ほどで広場に着きます。 ベンチや奥湯河原自然公園案内図が設置されています。
城山ハイキングコース
城山は湯河原でも特に風光明媚なところで、新神奈川八景のひとつに数えられています。 この城山を中心とするコースには、しとどの窟や城山城址、城願寺など、遠い昔を しのばせる見どころがあります。
しとどの窟 源頼朝が再興の機をうかがうために、かくれたと云われる岩屋として有名である。
不動滝 奥湯河原への入口近く、落差15mの名爆で、四季折々の風情が豊かです。
城願寺 土肥次郎実平の菩提寺で、境内には頼朝、実平ほか七騎の木像を安置した七騎堂、実平手植えの樹齢800年 天然記念物の「びゃくしん」の大木を始め、土肥一族の墓などがあります。
広場からは、道が広くなります。 左手に奥湯河原の街並みを見ながら降っていきます。
広くて歩きやすい石畳の道を10分ほど降っていき、 左前方に道路が見えてくると、しとどの窟バス停はもうすぐです。
道路に出たところにしとどの窟バス停がありますが、 左へ180度戻るようにして、しとどの窟を訪ねていきましょう。
トイレが併設された展望所を過ぎ、2分ほど先にある城山隧道を通っていきます。
短い隧道を通り抜けると、すぐ右手に石塔がいくつも並んでいます。 ここがしとどの窟への道の入口です。
桜郷史蹟由来
箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山獄宗教史上有数の場である。 随って、この地点一帯は、山伏たちの行場であった。 殊に、この城山は土肥郷(湯河原)の豪族土肥氏城塞であり、治承4年8月24日、 源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとどの岩窟」は、 その時の頼朝が隠れた遺蹟であるために、神奈川県文化財保護指定地であるが、 又同時に山伏に関係する聖地でもある湯河原地方には、地蔵信仰・観音信仰の 遺蹟と共に、弘法大師を崇敬する大師信仰の遺蹟が多い。 ここに安置された弘法大師石像群は、かつて山麓に湮滅されていたもので、 これを世に出し、併せて附近の史蹟顕揚の上にも永く益せん為に、 この聖地に遷座したものである。
 (昭和44年4月8日)
「一の瀬」を示す道標に従い、石の祠に入った石仏と石灯籠が建ち並ぶ急な坂道を降っていきます。 降り始めの所に「しとどの窟まで四00百米」と書かれた石標がありました。 「四00百米」? 400mを意味しているのでしょうが、何か変な表記です。 これ以外の石標には、「二五0米」,「一五0米」,「八0米」と普通に書かれていました。
燈篭に手をふれないで下さい。
小さな火 "まさか"がおこす山の火事
 (神奈川県)
急坂を7分ほど降っていくと大きな岩があります。
右手の谷筋へ分かれていく道は新崎川沿いの「一の瀬」に降りて行かれます。 (「幕山」を参照)
しとどの窟
道標が示す方向にその岩を巻くようにして少し登っていくと、しとどの窟に着きます。
しとどの窟
治承4年(1180)8月17日、源頼朝は伊豆で源氏再興の旗揚げをしたが、 同年8月23日、石橋山の合戦に敗れ逃げる時、従者七人とともにこの窟に隠れ、 九死に一生を得たと伝えられている。
 (湯河原町)
源頼朝としとどの岩屋の由来
源頼朝は14才の時、父義朝が平治の乱で破れ、頼朝は捕われて清盛の母池の禅師の なさけによって一命を助けられ、伊豆の蛭が小島に流され、平兼隆の監視によって23年間をすごした。 治承4年8月、望仁王が平家討閥の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが、 8月16日、三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り、伊豆の源氏に組する者たちを集め、 19日伊豆を出発、土肥実平を道案内で日金山を越え、土肥郷(現湯河原町)に着いた。 土肥実平の館において作戦を練り、300騎を以て館を出発、いよいよ平家追討の旗挙をし、 石橋山に於て平家の軍勢総大将大庭景親3000余騎と戦ったが、十対一の多勢に無勢で破れ、 一旦土肥へ引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ、土肥実平の守護とみちびきによって 土肥の椙山に逃げかくれ実平のお陰で人の知らない谷底しとどの岩屋や大木の洞(土肥の大杉)にかくれたり、 又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。 この岩屋に5日間かくれていた。その間、食糧を運んでくれたのは土肥の女房である。 源平盛衰記に残っている。漸くして敵も引揚げたので山から降りて来たら、 吾が家が盛んに燃えていた。この情況を見た実平は頼朝を勇づけるため延年の舞を舞った慰めた。 あづま鑑にはじょうもうの舞と記されている。この岩屋は関東大震災にため入口が崩れたが、 水は一年中湧いている。実平のお陰で平氏を滅し、鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え、 土肥会では昭和55年湯河原駅前に実平の銅像を建立した。 このたび小沢通大氏の寄進によって案内板を建立した。
 (平成8年12月吉日 桜郷史跡保存会)
神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地)
このあたりは、今から7・8百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。 新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので、当時を想像することができる。 「吾妻鏡」には、源頼朝が治承4年(1180)8月17日、伊豆の蛭島に兵を起し、 相模に入って土肥の館に集結、23日、300の兵で石橋山に陣し、大庭景親3000、 伊東祐親300の兵と戦って敗れ、24日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで 九死に一生を得、その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって3日間椙山の 山中に隠れ、28日真鶴から安房に向かったとある。 この巌窟は、頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。
 (平成14年3月 神奈川県教育委員会)
湯河原町指定文化財 :土肥椙山巌窟内観音像群
この観音像群は、立像及び座像61体で、小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に 中世以後、近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。 観音像は無銘が多く、銘があっても解読不能であるが、中に嘉永6年、元治元年、新しいもので 大正15年のものがあり、これらが近郷の人々により長期的に奉安され続けて来たこと、 ひいては巌窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものである。
 (湯河原町教育委員会)
しとどの窟から引返し、急な坂道を登り、城山隧道を通っていきます。 15分ほどで、先ほどのバス道路まで戻ってこられます。
しとどの窟(しとどのいわや)バス停
湯河原駅(JR東海道線)まで、湯河原駅行きバスにて30分、 1時間に1本程度の便があります。
 土日曜 11:24 12:04 13:14 14:14 15:04 16:09 16:59 17:29
バス停のそばには「かながわの景勝50選 椿台」の石碑も建っており、景色のいい場所です。 帰りのバスを待つ間に、付近の景色を楽しみましょう。 湯河原駅に向かうバスの中で、この道路「椿ライン」を説明する車内放送があります。
… この道路は箱根で一番新しい観光道路で、沿道には桜の木や椿の木が数多く植えられています。 自然を壊さないよう、緩やかなつづら折のコースとなっています。 …
湯河原駅に着くと、狸の置物が出迎えてくれました。 これから温泉へ入りに行くのでしょうか。 そばには説明板もありました。 湯河原の温泉の起源にまつわる話のようです。
狸が見つけた湯
むかしむかし、狩人に追われて傷だらけになったタヌキが、ある渓谷に逃げ込んだそうな。 道に迷い、あたりをさまよっていると、まっ白な湯けむりに包まれた温泉に出くわした。 そこで、この湯にのんびりつかって傷口を洗うと、みるみるうちに治っていったそうな。 すっかり傷がいえたタヌキは、そりゃあもう喜んだ。 それ以来、美しい娘やたくましい若者に姿を変えては、体や心に傷のある人々をこの出湯に案内したんだとさ。
[お知らせ]湯河原温泉で出逢った美しい女性もしくは男性は、人間でない場合があります。
 (湯河原温泉)