石垣山
散策:2003年08月上旬
【低山ハイク】 石垣山
概 要 石垣山は、小田原の南西3kmほどの所にある小高い山で、 相模湾沿いの街並みや箱根の山々などを見渡せる眺めが広がります。 戦国時代に豊臣秀吉が一夜城を築いた所として歴史公園になっています。 今回は入生田駅から石垣山に登り、公園をひと巡りして早川駅へ降っていきます。
起 点 小田原市 入生田駅
終 点 小田原市 早川駅
ルート 入生田駅…太閤橋…箱根ターンパイク…石垣山一夜城歴史公園入口…二の丸跡…展望台…井戸曲輪跡…南曲輪跡…西曲輪跡…物見台…本丸跡…天守台跡…早川駅
所要時間 3時間30分
歩いて... 比較的短いコースで、険しい山道もなく、快適な散策が楽しめます。 交通の便もよく、思い立ったらすぐに行けるコースです。 石垣山に登って、秀吉も見たであろう小田原の街を見下ろす景色を満喫しましょう。
関連メモ 石垣山, 早川・片浦ウォーキングトレイル
コース紹介
入生田(いりうだ)駅
小田原駅(小田急小田原線)から、小田急または箱根登山鉄道の 箱根湯本行き、または、強羅行きの電車にて10分、 15分に1本程度の便があります。
ホームに降りて、電車が発車するまで遮断機の所で待ちます。 電車が発車して遮断機が開くと、線路を渡って向かい側にある改札口へ向かいます。
駅を出て、すぐ右へ戻るようにして線路沿いの道を進んでいくと、2分ほどで十字路があります。 正面に「石垣山一夜城址の登り口 信号渡り左折150m」の案内標識があります。 案内に従って右手のガード下をくぐっていきます。
ガードをくぐると国道1号に出ます。
右手には「生命の星地球博物館」への陸橋がありますが、 この橋を渡ると少し遠回りになるので、下の押しボタン式の横断歩道を渡り、左方向へ進んでいきます。
道路脇には水田があり、用水路には豊かな水が勢いよく流れていました。
国道を3分ほど進んでいくと、「石垣山一夜城歴史公園入口」の看板が立っています。 その先のT字路を右折していきます。
太閤橋
右折してすぐの所に、早川に架かる太閤橋があります。 正面には、これから向かう石垣山が見えます。
太閤橋を渡り、舗装された坂道を緩やかに登っていきます。 進むにつれて、左右から山が次第に迫ってきます。 ここから石垣山一夜城歴史公園入口までの道には「自然を楽しむみち」として、 沿道で見られる動物や植物などについての解説板が各所に設置されています。 先を急ぐ旅でもないので、自然について学びながら、ゆっくりと歩いていきましょう。
山肌には、段々畑が幾重にも連なっていました。 条件が悪い所でも収穫のために開拓し利用してきた先人の苦労が偲ばれます。
城石垣の石
これらの石は、この沢の治山事業の際、川底から出土したものです。 石の割れ口に沿って、石を割る時についた矢穴の跡があることや、 石の形、大きさから、お城の石垣に使うため石切り場で切出されたものと思われます。 この地方の石は、かつて小田原城のほか、江戸城などの石垣に使用されました。 また、この山の上にある、豊臣秀吉が築いた石垣山一夜城も、周辺の山から出る石を 用いたものと思われます。しかし、一夜城の石垣石には矢穴が認められませんので、 これらの石は別の城の石垣用に切出されたのではないかと思われます。
太閤橋から20分ほど進んでいくと、急に道幅が狭くなり、 谷筋から別れて山腹の植林帯を進むようになります。
植林帯を2分ほどいくと、ト字路の分岐があります。 まっすぐに続く道を見送って、左へ戻るようにして登っていく道を進んでいきます。
ゴミを捨てるのはあなたですか!!
海・山・川 この自然を大切に!!
小田原市では「ごみも持ち帰り運動」を行っています。
 (小田原市環境部)
樹木が途切れた所からは、箱根の山並みが見渡せます。
山腹の道を7分ほどいくと、前方に箱根ターンパイクが見えてきます。
箱根ターンパイク
この時は箱根ターンパイクを渡る陸橋は架替工事中で、仮設の橋が架けられていました。
橋を渡っていくと道幅も広くなり、山上の平坦部に着きます。
山上は農業用地になっていて、野菜畑や果樹園の中に道が続いています。
みかんの木 オーナー募集
気候が温暖でたくさんの日光と潮風のあたる早川は、古くから美味しいみかんの名産地として 知られています。 早川のみかんの木のオーナーになると、1本の木になるみかんがすべてあなたのものになります。 栽培管理は農家が行いますので、みなさんはみかん狩りを楽しんでみてはいかがですか。
収穫時期 10月中旬〜12月下旬
料金 1本 4,000円より
 (JAおだわら早川支店、早川活性化水深協議会みかんオーナー会)
広くなった山上の道を4分ほどいくと十字路があります。 左は「西曲輪・南曲輪を経て入口へ」、正面は「石垣山一夜城歴史公園」の道標があります。 左(関白林道)へ行ってもいいのでしょうが、ここは直進していきます。
関白林道(終点)
この林道は、林業経営用のもので、カーブがきつく、防護施設等が十分でありませんので、 通行する場合には、次のことを遵守してください。
・スピードを落とし、安全運転に努めてください。
・崩壊を防ぐため、路肩の近くを通行しないでください。
・ゴミや土砂を捨てないでください。(法律で罰せられます)
・林業経営以外の目的(工事資材、廃棄物マタは土砂の運搬等)で
 反復継続して通行する方は、市長に申請してください。
 (小田原市経済部農政課)
少し降り気味に2分ほど進んでいくと、急に目の前の視界が開け、 石垣山一夜城歴史公園前の広い駐車場に着きます。
石垣山一夜城歴史公園入口
駐車場の左手が公園の入口になります。 「石垣山一夜城歴史公園」の大きな石碑が建っています。
旧城道東登口
「国指定史跡 石垣山(一夜城跡)入口」の看板の立っている石段を登っていきます。 石段を登り切った所に、石垣山一夜城の解説板と地図があります。 南曲輪跡、西曲輪跡、天守台跡、本丸跡、二の丸跡、井戸曲輪跡のほか、 物見台や展望台などもあります。
「国指定史跡」石垣山一夜城
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。 また小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が 一望できます。 石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が 小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として 総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。 この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか 太閤一夜城などとも言われています。 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、 猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう 勧めたと言われています。この城は単に小田原城攻めの本営であるというだけでなく、 太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による 野面積(のづらづみ)といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、 度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。 この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意により、昭和62年度に 公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。
 (平成2年3月 小田原市)
解説板の右側の坂道を登り、小奇麗な丘を越えていきます。
丘から少し降って電気管理棟の建物を過ぎると少し登り坂になります。 この坂を登りきると二の丸跡の広場に着きます。
二の丸跡
二の丸跡は芝生が一面に生えた広場になっています。 邦楽を舞う姿をしてカメラの前でポーズをとっている人を見かけました。 グラビア等の撮影だったのでしょうか。 雰囲気を盛り上げるためか、邦楽の曲も流れていました。
展望台
二の丸跡の先へ行くと、木製の展望台があります。 高さはありませんが、崖にせり出すようにして設置されていて、 眼下には入生田駅周辺、遠くには小田原の街なみが見渡せます。 左手には箱根側の山々も見えます。
井戸曲輪跡
展望台から引き返し、二の丸跡の手前で左に少し降っていくと、井戸曲輪跡があります。
井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、 もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして 造られている場所です。井戸は二の丸から25メートルも下がったところにあり、 今でも湧き出る水を見ることができます。 この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。 石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。 石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで、 築城に際して西国から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが 文書に記されています。 井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、 その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。
 (小田原市教育委員会)
南曲輪跡
二の丸跡の広場に戻って更に先に行くと、左手の少し下側に南曲輪跡があります。 樹木に覆われた所で、あまり広くはありません。 そばには、小鳥の食堂になっている石の台がありました。
小鳥の食堂です。
皆さんも可愛いいお客さんにご馳走してやって下さい。 小鳥の好きなものは、あわ、ひえ、あさのみ、パンクズなどです。
 (神奈川県)
西曲輪跡
南曲輪跡から元の道へ戻り、本丸跡への登り口を過ぎて少し先へ行くと、西曲輪跡があります。 ここはかなり広くて、大きな松が林立していました。
西曲輪跡から引き返し、本丸跡への石段を登っていきます。
物見台
石段を少し登っていくと、やがて丘の上にでます。正面には物見台があります。
物見台からは、相模湾と小田原の街なみが見渡せます。
物見台には、この石垣山の一夜城が出来た頃の合戦の様子が説明してありました。 そばには「史跡 石垣山」の石碑もありあます。
小田原合戦攻防図
天正18年(1590)4月、関東最大の勢力を誇る戦国大名小田原北条氏の 本拠地小田原城は、全国統一を推し進める関白豊臣秀吉率いる諸大名の大軍に包囲された。
中世最大規模の城、小田原城出現
北条氏の当主氏直は、臣従を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、 総動員態勢を整える。特に、小田原城に城下の街ごと囲む全長9kmに及ぶ長大な大外郭を構築し、 決戦に備えていた。結果的には交渉は決裂。氏直は、国境線を固めるとともに小田原城に主力を投入、 さらに領内100ヶ所に及ぶ支城の防備を固めて防衛体勢を整えた。
小田原城を包囲する戦国の英雄たち
豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、 前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵入。 長宗我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。 大外郭の出現により中世最大の規模を誇った小田原城には、6万とも伝える人々が籠り、 豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜田秀家・池田輝政・ 堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3ヶ月余りに及ぶ攻防戦を展開する。
秀吉、石垣城築城
小田原城の攻防に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで望む秀吉は、 壮大な石垣山城を築き、本営を湯本早雲寺(箱根町)から移動。淀殿や参陣諸将の女房衆を 召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。
北条氏の降伏
北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、 主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され、次第に孤立していった。 同年7月に至り北条氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに、篭城した一族・ 家臣や領民らの助命を願い出る。しかし、秀吉はこれを認めず、宇直の父氏政とその弟氏照らに 切腹、氏直に高野山追放を命じ、ここに戦国大名小田原北条氏は滅亡した。
そして、戦国時代は終わる
この合戦の過程で、関東ばかりでなく伊達政宗ら東北の諸将も秀吉に臣従する。 この結果、天下統一の事業が達成され、北条氏の滅亡とともに戦国時代も終わりを告げた。
本丸跡
物見台の前には本丸跡があります。ここは二の丸跡よりも一段高く、 平らな広い場所で、芝生の広場に大きな松の木が生えています。 石垣山一夜城の解説板や小さな祠もあります。 ベンチもいくつか設置されていて、休憩するのに丁度いい所です。
石垣山一夜城の構造
石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあります。 小田原城の本丸より227m高く、また小田原城までの距離はわずか3kmと近く、 眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、遠くには三浦半島や 房総半島をも望むことができます。小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえます。 この城が、石垣山一夜城又は太閤一夜城と呼ばれるのは、築城にあたり、山頂の林の中に 塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと 言われています。しかし、実際には約4万人が動員され、天正18年の4月初めから6月下旬までの80日間が 費やされました。 城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、 南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。 このほか本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群があります。こうした曲輪の配置については、 享保5年(1720)に小田原藩によって作られた絵図等でも知ることができます。 城道は、井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートと、南曲輪から本丸へ至る東口ルートの 二筋があり、いずれの城道も関白道へ通じていました。城内に入ると通路には枡形と呼ばれる屈曲した 構造を持ついくつかの門がありました。門には瓦が用いられており、豪壮なその構えは 秀吉の威信を示していました。 現在、石垣や曲輪などの遺構が確認できる範囲は出城から北曲輪までで、 南北の延長は約550m、東西の最大幅は275mあります。
 (平成2年3月 小田原市)
天守台跡
本丸跡の奥の小高い所に天守台跡がありますが、 周りには樹木が生い茂っていて、展望はまったくありません。
本丸跡から二の丸跡の広場へと降りていきます。 本丸の下の崩れた石垣が400年の歴史を感じさせます。 すっかりと雑草に覆われていますが、城の城郭らしさは残っており、当時の勇姿が想われます。
危険
石垣が崩れる恐れがありますので、石垣に近寄らないでください。
石垣山を十分に堪能したら一旦公園入口まで戻り、 みかん畑の中に続く広い農道を降っていきます。 ここから早川駅までの道沿いには、太閤の小田原攻めに従った武将などを 紹介する看板が各所に建っています。 今は昔の物語を楽しみながら、歩いていきましょう。
小田原の街なみや相模湾を正面に見ながら、少し急な坂道を降っていきます。
石垣山から35分ほど降ってくると、道路右手に、この広い農道の完成を記念する石碑がありました。
出世道
緑と花の夢の道
風と雲の通い道
出会いがつくる心道
農を育てる命道
歴史が誘う学び道
経済の国際化が進み、作目の転換と土地利用携帯の改革が必要になり、 大型農道なくして実現は不可能になりました。 幅員2.5メートルを5.5メートルの農道に改良するよう、 関係地権者が合意し、国県市の理解ある援助により 団体営農道整備事業が採択されました。 新しい道により、早川を訪れる方々に美しい四季の変化と、 眺望を見ていただくとともに、生産者の心のこもった農産物を手渡し、 農業の必要性と緑の大切さを理解していただきたいと思います。 この道が早川の農地に希望の光を運び、県西地域の文化的経済的活性化の 出世頭になるよう祈願し、完成記念として石垣山農道組合にて 建立いたしました。
記念碑の先にある「石垣山一夜城歴史公園 入口」の看板の所を左へ曲がっていきます。 海蔵寺への分岐を過ぎると、東海道新幹線のガード下をくぐります。
左手に小さな神社を見て進んでいくとT字路があります。 「早川駅400m」の道標が右を示していますが、その先には適切な道標がなくて分かり難いので、 左手のすぐ先にあるバス道路を右折していきましょう。
200mほど進んでいき、JR東海道線の下をくぐると国道135号にでます。 そこを右折して300mほど先の信号を曲がれば早川駅に着きます。
早川(はやかわ)駅
早川駅(JR東海道線)の前には、太閤一夜城址の案内板があります。 今降ってきたハイキングコース(海蔵寺道)とは別に、 関白道というコースを通っても石垣山まで行けるようです。