開成あじさいの里
散策:2003年06月中旬
【里山散歩】 開成あじさいの里
概 要 開成あじさいの里は、小田原市の北側にある開成町に広がっています。 毎年6月の中頃にはあじさい祭が開催され、多くの人出で賑わいます。 開成町には、あじさいの里を中心として水田がまだまだ残っていて、 酒匂川松並木コースの散策、あじさい祭、ハナアオイ祭と、すばらしい自然を満喫できます。
起 点 開成町 開成駅
終 点 開成町 開成駅
ルート 開成駅…酒匂川松並木コース…祖師堂…開成水辺スポーツ公園…吉田神社…開成あじさいの里…山王供養水辺公園…岡野あじさいの里…ハナアオイ祭…西福寺…浄蓮院…本光寺…開成駅
所要時間 5時間10分
歩いて... 開成町のホームページで、あじさい祭の開催期間を調べてから出かけましょう。 広々とした水田地帯にあじさいがいっぱい咲いています。 近くではハナアオイ祭も開催され、初夏の華やかなひと時を体験できます。
関連メモ 酒匂川
コース紹介
開成(かいせい)駅
開成駅(小田急小田原線)から、酒匂川松並木コースを通ってあじさいの里へと向い、 街中を通って再び開成駅に戻ってきます。 駅の東口の階段を降りた所に開成町の案内図があるので、 これからのコースを確認しておきましょう。
開成駅前第2公園
駅前には開成駅前第2公園があります。 あじさい祭の期間は、会場までシャトルバスが出ています。 9時台から15時台まで、1時間に2本程度の便がありますが、 今回は、酒匂川沿いを歩いていくことにしました。 公園には、小田急の往年の特急電車ロマンスカー3100系が展示されています。 公募して「ロンちゃん」の愛称がついています。 毎月、第2・第4日曜日には車内が一般公開(10時〜15時)されています。
ここはみんなの公園です。次のことを守り大切に使いましょう。
1.みんなできれいにしましょう。
2.施設や木を大切にしましょう。
3.危険な遊びはやめましょう。
4.人に迷惑のかかることはやめましょう。
5.公園で犬の放し飼いはやめましょう。
6.野球やソフトボールはやめましょう。
7.公園内にオートバイ等の乗り入れはやめましょう。
 (開成町)
赤いレンガが敷き詰められた歩道をしばらく行くと、酒匂川の土手につきます。 ここにも開成町の案内図があります。
酒匂川松並木コース
川辺の土手に上がり、松並木が続く道をが開成水辺スポーツ公園へ向って進んでいきます。 土手道を歩き始めてすぐの所に、頭首工の碑があります。
注意
1. 栢山頭首工えん提上流端から下流へ85mまでは禁猟区です。魚などをとってはいけません。
2. 次の期間中は、アユをとってはいけません。
1月1日〜5月31日まで、及び10月15日〜11月30日まで
3. 禁猟区域以外で、アユ、コイなどの釣りをする場合は、遊漁承認証を遊漁券販売所で購入して下さい。
 (神奈川県、松田警察署、酒匂川漁業協同組合)
頭首工の碑
酒匂川は往時より、流域一帯に限りない恩恵を与えている。 とりわけ両岸七箇所の堰から取り入れる農業用水は 足柄平野の農業経営に大きく貢献してきた。 しかし度重なる洪水等のよって河床に激変を来し、各堰ともその都度 多額の費用と夫役をかけて応急工事を施し、幸うじて取水している状態であった。 そしてついには取水可能堰が三箇所のみとなり、それすらも 毎年多額の維持費を要するため、管理が極めて困難となり、 200ha余の水田が危機にさらされきた。我々農民はかかる状況を 諸宮庁に訴え安定取水を強く要望した結果、昭和42年県営用水障害対策事業として 国の採択を得、翌43年頭首工建設に着手、4年の歳月と5億円余を投じ、 昭和46年度に完成した。長年の幸苦が報われたことは、 ひとり農民のみならず万余の住民の喜びとなった。 以来400戸余の農家と住民が一体となり用水管理を円滑に実行している。 この事業を偲び当時御尽力を頂いた先駆者及び関係官庁にあらためて 感謝するとともに、取水開始5周年を期してここに記念の碑を建立し、 永く後世に伝えるものである。
栢山頭首工
堰の上流では、川釣りを楽しんでいる人を何人も見かけました。 土手道をさらに進んでいくと、左手に祖師堂があります。
祖師堂
下島地先の酒匂川堤防にお堂が建てられたのは、第7代小田原城主が、文化10年(1812)九十間土手に 水神を勧請して、永代祈祷を命じ、その祈祷所としてお堂を建てたのがはじまりとされています。 当時は現在より上流に建てられ、その後たび重なる酒匂川の氾濫でお堂も流されてしまいました。 明治26年に現在の位置に住民の寄付により再建され、洪水時の水防団詰所としても使用しました。 昭和62年に立て替えられ現在にいたっています。昭和28年には宗教法人による「吉田島教会」として 正式認可を得ました。
日蓮宗吉田島教会の由来
当教会は開基祖越小田原城主大久保忠真公にして、文化10年の創立である。 城主大久保忠真公は、年々の水害を除かん為に吉田島九十間提に堂宇を建立、 小田原市千代蓮華寺第38世領院日善上人が水神を勧請した。また、城主より土手の鎮護のため、 永代祈祷を仰せ付けられる。記録には堂地20坪と町役場にある。 この提は川音川との合流地で水害のたびに決壊、水難横死を続出し、その災害は吉田島村下部をはじめ、 水下12ヶ村、小田原城下まで及ぼす。城主大久保公は、小田原西村一信長格、竹花町石井六郎兵衛、 蓮正寺小沢定右衛門、飯田岡香川繁右衛門等名主の発議により、文化13年に苅野村にあった日蓮聖人真筆の 題目石をこの提に移し、領主の自筆の題目塔婆一千枚を埋め、提の安全を祈祷した。 この地を曼荼羅淵ともいわれる。 文政10年6月30日、大洪水により題目宝塔は流砂に隠れ、村人これを探せども、ついに発見されず、 提の礎石のなれり。明治19年の水害まで実に40数回に及べりと。 明治21年、酒匂川治水の堤防係に命ぜられた日蓮聖人祖越池上宗仲公29代目子孫池上幸操氏は、 苅野村の日蓮聖筆の題目を写し、同25年に池上本門寺第66世貫主鶏渓日舜上人を大導師に迎え、 開堂、曼荼羅記念碑開眼法要厳修し、現在の祖師堂裏に奉安する。 祖師堂は村人により、土手の御祖師様として、土手の守護として、信仰の道場として現在に至る。 昭和25年蓮華寺第44世平本日修上人代に、宗教法人法により、吉田島教会と改称される。 当教会には、江戸神田仏師高橋祐慶造の日蓮聖人像、伊豆住人江川太郎左衛門奉納の太鼓、 竹花町名主石井六郎兵衛写経法華一部経等がある。
左祖師堂を後にして、さらに土手道を進んでいきます。 正面には足柄大橋が近づいてきます。
手の松並木越しに水田が広がっています。 稲作をやめて畑地化されている田んぼはなく、まだまだ現役でがんばっています。
川をきれいにしましょう
美しい 心が育つ きれいな川で
ゴミをすてないで! 川は泣いています
 (神奈川県)
足柄大橋の下をくぐって進んでいくと、河川工事に関する野外展示がありました。
木工沈床
木工沈床は根固工の一種で、根固工とは堤防護岸の前面に設置して、 洪水による護岸脚部の洗掘を防御するものです。 本工法は明治初年にオランダ人技師により伝えられ、大井川などで 1950年頃まで盛んに施工されていました。酒匂川では昭和20年代まで施工され、 30年代の高度成長期にはコンクリートブロックを使用した根固工が主流になりましたが、 現在では河川環境への配慮から自然に優しい木工沈床が見直され、 再び採用されています。
聖牛
聖牛とは、丸太を合掌状に組み合わせ、重しとなる蛇籠を載せて川の中に設置し、 洪水を防御する水制の一種であります。洪水時には濁流と共に上流から大小の石が 流れてきますが、聖牛は水をはねながら徐々に土砂を上流側に堆積させ、この土砂と 一体となって堤防を護ります。聖牛は武田信玄が創案したものと云われ、信玄の 勢力拡大により各地の河川に伝わりました。酒匂川でも昭和初期に本個所の 九十間堤防で用いられていました。
釜段工
洪水により川の水位が上がると、提内地(堤防より陸地側)に漏水が生じることがあります。 漏水が進むと提外地(堤防より川側)から提内地にかけて堤防内に空洞(水道)ができ、 漏水と共に土砂が流出して破提に繋がります(パイピング現象という)。 釜段工は漏水箇所を中心に土嚢で囲い、水を貯え、その水圧により水の噴出を防ぎます。 本工法は長年の経験の中で先人達が編み出した優れた水防工法の一つであります。
野外展示を過ぎて、さらに土手道を進んでいきます。 この酒匂川松並木コースは青少年サイクリングコースにもなっていますが、 サイクリングしている人は見かけず、ジョギングをしている人が多くいました。
青少年サイクリングコース概要
 所在地 大口橋から富士道橋までの酒匂川右岸
 距離 8,935メートル
 構造 巾2mのアスファルト舗装ほか
スピードをだすと危険です。
左側一列走行を守りましょう。
川の増水するときや夜間の利用はやめましょう。
コースや広場の美化に心がけましょう。
走行中の安全にも注意しましょう。
 (神奈川県)
治水の碑
正面に治水の碑があります。
要約
昭和13年6月からの大雨で、酒匂川の水位が3m余りも上がって堤防が崩れ始め、 7月に至って遂に本堤防が決壊した。村民総出で防水に努めたが、 控堤防までも決壊しそうになったので県に救済を求めた。 工兵隊・消防隊・村民・生徒などが一丸となって対応した結果、どうにか全壊を免れることができた。 同年10月に応急工事を行い、昭和16年3月に延長700mの堤防が完成した。
神奈川県知事従四位勲三等  松村光麿篆額
昭和十三年六月中旬ヨリ七月ニ亘リ霪雨連月開ケズ酒  匂川増水三米余ニ及ブ濁浪滔々空ヲ排忌日星其ノ曜ヲ
隠ス村民恟々常ニ警戒ヲ怠ラザリシモ六月三十日正午  俄然本堤防崩潰シ始ム此□ニ村民急遽狂奔極力防禦ニ
當リ小学校児童及ビ吉田島農林学校生徒亦之ガ応援ニ  出動協力防水ノ完璧ヲ期シタリ然ルニ水勢益々募リ七
月一日午前二時遂ニ本堤防決潰百五十米濁流逆巻キ奔  流怒号シ當ニ控堤防ヲモ呑マントス茲ニ放テ警鐘乱打
或ハ木材ニ依リ或ハ蛇龍ニ依リ村民必死ノ防水ニ夜ヲ  徹シニ日ニ到ルモ危殆去ラズ時ニ驟雨アリ豪雨アリ今
哉一日モ遷廷ヲ許サズ遂ニ意ヲ決シテ縣當局ニ圖リ急  ヲ赤羽工兵隊ニ告ゲ其ノ救援ヲ求ム三日仝隊小笠原大
尉指揮ノ下百十余名ノ精兵ヲ派シ猛雨ヲ犯シ怒涛ト戦  ヒ只管防禦ニ奮闘セリ之レト相前後シテ横浜消防隊郡
内及ビ水下町村民村内婦人会員亦来り援ケ協力一心不  眠不休ヲ以ツテ此ノ決死的作業ヲ継続防水功ヲ奏シ一
時小康ヲ得タリシガ暴雨ノ為地盤弛緩シ五日再ビ本提  防決潰百五十米水魔愈跳梁酒匂川右岸水下一円既ニ危
シ然レドモ軍官民男女協力統制的活動克ク自然ノ猛威  ヲ征服シ水下美田三千町歩幸ニシテ恙ナク戸数一千始
ノテ安堵ノ色アリ維時昭和十三年七月九日其ノ防禦ニ  力ヲ致シテヨリ実ニ十日出動延人員一萬余人炊出白米
六十余石之レ正ニ天祐トヤ云ハン歟夫レ果タ人力ノ然  ラシムル所トヤ言ハン歟
茲ニ県當局急遽金四萬三千余円ヲ拠出シ県直営ノ下応  急工事ニ着手仝年十月其ノ工竣ヘルヤ更ラニ永久的復
旧工事ヲ設計シ工費ニ十六萬四千余円ヲ以テ昭和十四  年三月工ヲ起シ仝十六年三月竣工其ノ施工延長七百米
労働延人員六萬四千余人酒匂川ノ護岸茲ニ完ク成ル又  昔日ノ憂ナシ夫レ雲山蒼タリ河水決々トシテ相模湾ニ
注グ今哉本村及ビ水下ノ住民永久ニ其ノ災危ヲ蒙ルコ  ト無カラン子孫従ツテ安ンゼン嗚呼本工事竣工ノ天下
ヲ益スル又偉ナル哉茲ニ景勝展望ノ地ヲ相シテ碑ヲ建  テ其ノ梗概ヲ勒シテ以テ不朽ニ傳フ云爾
昭和十六年三月
神奈川県足柄上郡吉田島村長井上ミ一撰
書丹 小田原市緑二丁目開野謙之
コースは治水の碑の先を右へ続く道を進んでいくのですが、 ちょっと寄り道をして、左へ行きます。 道の両側の水田の用水路には水が勢いよく流れていました。
子供の頃、私の家の近くにもこのような用水路がありました。 その当時はメダカやカニが多くいて、水草や小石の間を探ったりしてよく捕まえて遊んだものです。 そのメダカも今では絶滅危惧種だとか…、自然破壊が進んでいる現状を再認識させられます。 どろんこになって遊ぶ子供たちの姿もそこには見られません。 時代の変化を感じます。
大長寺
小田急線の踏切を渡ってT字路を右折していくと、大長寺があります。 昔から地域社会との結び付きの深いお寺だったようです。
大長寺縁起
大長寺は、曹洞宗に属し、金剛山と号する。天文10年(1541)当時の吉田島村に 唯一ヶ所の寺として草創されたが、酒匂川の度重なる水害のため、寺の基盤も失われかけておった 時代もあったと言われ、寛永元年(1624)千葉県国府台にある総寧寺の18世であり、曹洞宗門の 総録司の大職にあった高僧勝国良尊禅師が、大雄山の輪番住職に上山の砌り、 窮状を救わんとして浄財を与え、自ら開山となって、弟子の通山良達大和尚に復興を託されてより 今日まで、法灯を護持す。 御開山は、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたる将軍の帰依を受け、特に神君家康公が駿府城に 閉棲されるにあたり、祖師父の命を受け、待して、久能山の麓に一宇を建立した。これが当寺と 同開山を戴く石蔵院である。 元和2年、神君の遺命により霊柩を久能山に奉送の途時、禅師の寺に休憩その折、引導回向なされたという。 後に本寺総寧寺に普住し、当山の開山となられたのである。開基は名主であり、村人のために創建され、 村人が護持してきた村人のための寺である。そのためか、村役場であったり準教員養成所、 女子技芸学校が置かれたり、現県立吉田島農林高校の創設発祥が当山であるなど、 地域社会との結びつきは極めて深いものがあった。現在は、200余年を経た本堂・庫裡をはじめ、 200余棟の伽藍を数え、檀徒の厚い護持の念に支えられている。
お寺まいりのすすめ十箇条 積徳
一、辺を過ぎて詣ずべし、ただし寄道を要せず
二、暇をつくりて詣ずべし、ただし無理を要せず
三、思いたてば詣ずべし、ただし家業を欠くを要せず
四、迷あらば詣ずべし、ただし望外を望むべからず
五、憂きわまって詣ずべし、ただしすべてを委すべし
六、志たたば詣ずべし、ただし加護を信ぜざるべからず
七、喜びありて詣ずべし、ただしこれ信心のおかげなり
八、忌日命日に詣ずべし、ただし自発的な心を持ってなり
九、招かれて詣ずべし、これ願ってもなき好機なり
十、正法を求めんとして詣ずべし、人たるのつとめを心得べし
大長寺から治水の碑まで戻り、水田の中の道を進んでいきます。 植えられたばかりの苗が水田一面に広がっています。 たっぷりの水を与えられ、元気に育っているようでした。
九十間堤防
江戸時代中期以降、酒匂川右岸の洪水被害は、この付近より東栢山までの 堤防に集中しました。 なかでも、この付近の堤防が決壊しますと、濁流は曽比・栢山から下流六か村、 3000町歩(約3000ha)を押し流して狩川へ抜けました。 一番新しい堤防の決壊は、昭和13年(1937)7月1日でした。 6月から降り続けた長雨に、酒匂川は大増水となり、地元・下流村民だけではく、 小学校・農林学校の生徒まで動員しましたが、防ぐことができませんでした。 控堤防も危険となりましたが、赤羽工兵隊・横浜市消防隊の手によって、 応急処置が完成し、3000町歩への水害は食い止められました。 堤防の長さから、九十間堤防と呼ばれるようになりましたが、 古くは千貫土手・銭座土手とも呼ばれました。
 (開成町教育委員会)
開成水辺スポーツ公園
道なりに土手に上がっていくと、河川敷には公園が広がっています。 サッカー場、ソフトボール場、野球場、パークゴルフ場などがあり、 緑の芝生の上で、多くの人がスポーツを楽しんでいました。
パークゴルフ場利用上のお願い
・開園時間以外のご利用はできません。
・パークゴルフ用の道具以外でのご利用はできません。
・一般のゴルフの練習は固くお断りします。
・マナーを守ってお互い楽しくプレーできるようお願いします。
・サクで囲んでいるところは立ち入らないようお願いします。
・クラブを振り回したり、前方に人がいるのに玉を打つ等の危険な行為はしないでください。
・プレー中の障害については一切その責任は負いません。
・係員の指示には従うようお願いします。
・場内は禁煙です。
パークゴルフとは、ゴルフとゲートボールの中間的なもので、 大きめの玉をゲートボールのように打ち、 ゴルフのように各コースのグリーン(?)の穴に入れるようなゲームです。
酒匂川橋梁
小田急の酒匂川橋梁の下をくぐっていきます。 高さが低く、手を伸ばせば届いてしまいます。
川をきれいにしましょう。
ゴミを捨てないでネ!
みんなと手をとりあって自然豊かないい川を。
酒匂川の清流を大切にしましょう!
この川や水路の水は水道の源です。
ご協力、よろしくお願いしま〜す。
 (酒匂川水系保全協議会、神奈川県内広域水道企業団)
交差点を左折していくと、小さな橋の先に、吉田神社入口バス停があります。 そこを右折して民家の間を進んでいきます。
幕府代官蓑笠之助の陣屋跡
享保17年(1732)から延享3年(1746)まで14年間、ここ上島の地に 陣屋(役所)を置いた蓑笠之助は、足柄上・下郡のうち3万3千石の土地を支配して、 すぐれた政治を行いました。 酒匂川の治水工事、サツマイモなどの殖産事業、玄倉銅山の開発や吉田島銭座などでの 銅銭の鋳造、このほか農民教諭書「農家貫行」などの著述も行っています。 彼は、文命提の築造で知られる田中丘隅の娘婿で、また名奉行であった大岡忠助の配下でした。 陣屋跡の一隅に残る大庭稲荷祠は、蓑が大岡氏ゆかりの堤村(茅ヶ崎市)から勧請したものと 伝えられています。
 (開成町教育委員会)
吉田神社
古くは三島社といいました。伝承によりますと、源頼朝が伊豆の三島から、 西相模へ勧請した八社の一つといわれます。 江戸時代は牛頭天王を相殿としていましたが、明治政府の一村一社の指示により、 明治7年(1874)、山王社・社宮社を合併して、吉田神社と改名しました。 本殿の建築年代について、専門家は江戸中期と鑑定していますが、村誌によりますと、 酒匂川の洪水により社殿が被災、宝暦14年(1764)4月復元したとありますので、 当時の建築が今に伝えられていると思われます。 又、本殿に祀られている御神鏡は、富士山噴火後の天領編入時代、代官を勤めていた 蓑笠之助が、元文5年(1740)に奉納したものです。
 (開成町教育委員会)
馬頭観音石碑群
江戸時代(1603〜1867)、開成町住民のほとんどが農業によって生活していましたが、 馬は農民にとって最大の労働力を提供するだけでなく、肥料の生産にも重要な役割を 担った家畜でした。 良い馬を所有するとしないでは、農業経営にも大きな差を生じましたが、 高価なため誰でも所有できるものではありませんでした。それだけに馬や家族の一員の ように大切に扱われ、死亡するとその労苦に報いるため、屋敷の一隅に馬頭観音を 浮き彫りした供養碑が建てられ、代々回向が続けられてきました。 しかし、機械化が進んで馬がいなくなり、さらに、馬を使用した人々もなくなり、 その意義も不明となりました。家の建て替えや道路の拡張のため、一つ、又一つと 持ち寄られ、いつの間にはこのような群となりました。この場所に馬は埋まっていません。
 (開成町教育委員会)
石碑群を後にして進んでいくと、やがて県道712号に出ます。 道路を渡るとJAあしがらの前に、開成あじさい祭案内所(テント張り)がありました。 あじさい祭のバンフレットと開成観光マップをもらって、あじさいの里へと進んでいきます。
ようこそ あじさいの里へ
歩き始めてすぐに水田が一面に広がるようになります。 祭りということで露店も並んでいますが、神社などの祭りと違い、 山野草や着物など、おしとやかな内容の店が多くありました。
あじさいの里の道路の両側には、多くのあじさいが並んで植えられています。 ピンク・青・紫・白・黄など、色とりどりの花が今を盛りと咲いていました。
開成あじさいの里
メイン会場であるあじさいの里では、多くの露店が出ていました。 また舞台ではバンド演奏が行われ、その前ではハワイアンダンスが踊られていました。 あじさいとハワイアン?必然性は兎も角として、楽しいイベントではあります。
田んぼの畦道にも、びっしりとあじさいが咲いています。
山王供養水辺公園
あじさいの里の奥の方へ進んでいくと、山王供養碑が建っている山王供養水辺公園があります。 小さな公園ですが、あじさいの花が咲き、水車小屋もあります。 田植え後で水が必要なのでしょうか、用水路には大量の水が勢いよく流れていました。
県営ほ場整備事業 酒匂川右岸地区
本地区は神奈川県西部にある酒匂川右岸に展開する沖積平野に位置し、良質な 農業用水を年間を通して豊富に利用した潤いのある農村環境が広がっています。 その一方で、水田の区画形状にあっては狭小にして不整形なものが点在し、 また地区内の農道は狭く、農業用水も錯綜しており、必ずしも耕作しやすい農地ではありませんでした。 このため、ほ場の整備について地元住民から強く要望され、平成3年度に農林水産省の採択を受け、 県営事業として実施することになりました。 ほ場整備によって、土地区画の整理、農道の整備、用排水路の分離等、営農にかかわるすべての条件を 改善することで、農地の集団化が図られ、農業経営が合理化されました。また、ほ場に大型機械が 導入できたことにより、生産コストの軽減、労働生産性の向上にもつながりました。 さらには、農村公園として、農業環境の整備とともに、地域住民のふれあいの場を創造し、 地域の活性化を図ることも目的としています。
高台の馬頭観音群
江戸時代より、馬は農民にとって、最大の労働力であると共に、富の象徴でした。 それだけに人間との絆が強く、飼い馬が死ぬと供養塔を立て、代々供養が続けられました。 昭和30年代より、農業の機械化が進んで農家から馬がいなくなりました。 更に年代が経過しますと、馬と人間の関係が不鮮明となり、馬頭観音は邪魔者として 捨てられるようになりました。一つ二つと持ち寄られているうちに、このような群になってしまいました。 町内に造立されている石碑の像容は、ほどんどが頭の上に馬の顔をのせた、 一面二臂(臂は腕から指先まで)の合掌形に彫られていますが、 この群の中の一碑だけが、三面六臂の憤怒相に彫られています。
 (開成町教育委員会)
開成町高台第二浄水場を過ぎ、第一浄水場の所を左折していきます。 左手には水田が広がっています。この地区では水田がまだまだ現役で、 山や川や田んぼがある昔懐かしい里山風景に出会えます。
私の育った実家は農業をしており、水田が多くありました。 春になると、苗代作り・田植えなどの作業が行われます。 苗代に種籾を蒔き、風や雨でダメにならないよう、その上からシートを 被せていく作業などは一人ではできないので、 子供であった私も借り出され、親の手伝いをした記憶があります。 中腰で行う作業で腰にかなり負担がかかり、痛くなったものです。
しばらく進んでいき、「遠藤農園」と「アドバンス・ラボ」の看板が見えてくると、車道に出ます。 左折して車道を進んでいくと、小さな下向原橋があります。 その下の用水路には大量の水が音を立てながら勢いよく流れていました。 一年中、こんな感じで流れているのでしょうか? 田植え時期の今頃だけのことかも知れません。
清酒「酒田錦」
用水路を流れる水の音を聞きながら車道を行くと、右へ分かれていく道があります。 コースはそこを右折していくのですが、このまま少し先までいくと、 清酒「酒田錦」の直売所があります。 この地域の地酒なのでしょうか。 直売所から引き返し、先ほどの道へ入っていきます。
岡野あじさいの里
寝装品を販売している「クラハシ」の先を左折して、田んぼの中に続いている道を進んでいきます。 右手には水田が広がり、畦道にはあじさいの花がたくさん咲いていました。
ハナアオイ祭
あじさいの花に続いて、ピンク色の花が道に沿って咲いていました。 何だろうと思って近づいてみるとハナアオイの花でした。 初めて見る花でしたが、道路の両側にずっと並んで咲いていて、 とても見事で綺麗なものでした。
南足柄市が開催しているこのハナアオイ祭と、 開成町のあじさい祭とが同時期に開催され、この地域の初夏を彩っています。
あしがら花紀行 リコリスの里
リコリス(ヒガンバナ)は、ほ場整備後の畦畔管理などに大変役立っています。 田園の中に花があると「ホッと」しますね。
リコリス(ヒガンバナ)の効用
 ・畦畔などの崩落防止
 ・モグラ、野ネズミなどの忌避
 ・冬季の緑化及び雑草抑制
 ・花による良好な原風景の創出
注意:リコリスの球根にはリコリンなどの有毒な成分が含まれています。
 (南足柄市、千津島地区ほ場整備事業組合)
 (かながわトラストみどり財団、足柄上地区行政センター)
写経塔
仏教信仰のあり方には、「写経」と「埋経」というのがあります。 「写経」とは、経文を写して伝えるという行為によって、功徳を得ようとするもの、 「埋経」とは、釈迦の入滅後、仏法は衰退して暗黒の社会となるので次の救世主 弥勒菩薩の出現まで、石や瓦に経典を写して地中に埋めて守ろうといものです。 江戸時代にはこの二つが合体して、自分だけではなく、一切の衆生にも 功徳が及ぶことを願うようになりました。 本写経塔は、天明4年(1784)、西福寺の14世住職の引退した黙然維秀和尚が 延沢村の善男善女の協力を得て造立したものです。 碑文によりますと、九種類の経典が書き写されて埋められていることになっていますが、 本塔は最初の造立地より二転、三転して現在地に落ち着いたもので、 塔の下に経典を記したものは埋っていません。
 (開成町教育委員会)
畑に稲藁が円錐形に積んでありました。 堆肥にするのでしょうが、積み方にも地方色があるようです。 私の故郷ではこのような形ではなく、単に四角く積むだけのものでしたので、 このような形のものを見ると珍しく感じます。
いくつ花の名前を知っていますか。
白い花、赤い花、花屋さんの花、道端の小さな花。
どの花もひとつの名前があって一生懸命生きています。
みんなと一緒ですね。
素敵ですね。
西福寺
県道712号を渡っていくと、西福寺があります。
露霜しげき野の路に ほほえむ姿あたたかく
御寺の門のあるところ 笑顔明るくおわします
父をば慕い母を恋い 切なき聲に尋ねゆく
幼なき児らをひきよせて つつむ法衣の慈悲の袖
この世の今日の苦しみも 我が身のあすの悲しみも
代受のちかい深ければ たのむ心にかげはなし
浄蓮院
県道78号御殿場大井線を渡ると浄蓮院があります。 境内には、幹の表面がねじれた木がありました。 どのような過程でこのような形になったのでしょうか。
本光寺
浄蓮院の向かい側に本光寺があり、その境内には筆子塚があります。
大丈夫だよ。生きていけるよ。
筆子塚
本光寺の住職、7世長円、8世長慧、9世長祐は、天明年間(1781〜1788)から引き続き、 寺子屋師匠として、近くの子どもたちに読み書きを教えました。 三つの墓の台石にそれぞれ「門弟中」「筆門中」「筆子中」とあるのは、 「生徒一同」という意味ですから、これらの墓は、生徒たちが師匠の学恩に報い、 死後の菩提を弔うため造立したもので、これを筆子塚と呼びます。 このうち、9世長祐の墓には、超月という尼さんの名も刻まれています。 この方は長祐夫人(坊守という)で、夫の死後から慶応元年(1865)までの15年間、 引き続き教導にあたったことがわかります。 足柄上郡では唯一の女師匠として注目されています。
 (開成町教育委員会)
本光寺を後にして進んでいくとT字路があります。 そこを左折し要定川に架かる柳橋を渡っていくと、矢倉沢往還の説明板がありました。
矢倉沢往還
古代、都より東国に通じた官道のなごりともいわれています。 江戸時代、駿府・相模・武蔵の三国を結んだ東海道の脇往還として内陸部の物資交流の道でもあり、 富士山・道了尊・大山と結ぶ信仰の道としても栄えました。
 (開成町教育委員会)
下島児童館を過ぎていくと、やがて県道720号怒田開成小田原線に出ます。 交差点を右折し、自動車販売店・辻村酒店・予備校などを過ぎていきます。
開成(かいせい)駅
開成駅前交差点を左折していくと、開成駅(小田急小田原線)の西口に着きます。 駅前の噴水の周りにはあじさいが咲いています。