江の島
散策:2003年06月上旬
【海辺散策】 江の島
概 要 江の島は、湘南海岸に浮かぶ島です。 島内には、神奈川県および藤沢市指定の多くの文化財が遺され、島先端の浸食海礁や自然美を加えて、 全島が史跡・名勝に指定され、四季を通じ参詣や行楽の人々が来遊しています。
起 点 藤沢市 江の島駅
終 点 藤沢市 江の島バス停
ルート 江ノ島駅…青銅鳥居…江島神社辺津宮…江島神社中津宮…江の島サムエル・コッキング苑…江の島大師最福寺別院…山ふたつ…江島神社奥津宮…龍宮…稚児が淵…龍野ヶ岡自然の森…下道…江の島バス停
所要時間 3時間10分
歩いて... それほど大きくない島なので、ゆっくり散策しても3時間ほどで周れます。 江の島展望台では360度の大パノラマを堪能できます。
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コース紹介
江の島(えのしま)駅
江ノ島駅(江ノ島電鉄)から、往古の「江の島道」を通り、弁天橋を渡って江の島まで行きます。
江の島への道を進んでいくと、江の島弁財天道標があります。
江の島弁財天道標
この道標は、管を用いた鍼治療をする管鍼術の考案者で江の島弁財天を厚く信仰したと言われる 杉山検校(1610?〜1694)が、江島神社に参詣する人々の道しるべに寄進したものと伝えられ、 現在市内にある10余基が市指定重要文化財に指定されている。 いずれも尖成岩製。ほぼ同じ大きさの尖頭角柱型であり、 多くが前面に「ゑのしま道」(上部の梵字は弁財天の種子「ソ」を著す)、横面に、「一切衆生」と 「二世安楽」と刻んであり、道中する一切衆生(=世の中に生きている全てのもの)の 現世及び来世の安楽を祈念した造立者の温情が偲ばれる。 この道標は平成10年1月、ここより170m南の州鼻通りの地下から、道路工事中発見されたものである。
 (藤沢市教育委員会)
国道134号にでると、目の前に江の島が見えてきます。 左手には、腰越海水浴場・片瀬東浜海水浴場が広がり、 右手には、岩屋洞窟までの乗合船の発着場があります。 正面に延びる江の島弁天橋を通って、江の島へ行きます。
江の島の由来
江の島はまたの名を「絵の島」ともいわれ、昔から風光明媚と自然環境に恵まれた周囲約5km、面積0.38kuの島です。 島の頂上(海抜60.4m)からは、前面に伊豆大島、左手には三浦半島、右手には天城、箱根の連山、秀峰富士の 眺望を欲しいままにすることができます。 地質上第三紀凝灰質砂岩からなる島で、このため海浸洞窟や岩嘴が多く、奇異な形をなして、 古くからその名勝をうたわれています。
島の中央には、江島神社があり、弁財天が祀られて、安芸(広島県)の厳島、近江(滋賀県)の竹生島と並んで、 日本三大弁財天のひとつにあげられ、特に江戸時代から平和を招く神、福の神、音楽技芸の神として 善男善女の信仰を集めてきました。 このため島内には、神奈川県および藤沢市指定の多くの文化財が遺され、島先端の浸食海礁や自然美を加えて、 全島が史跡・名勝に指定され、四季を通じ参詣や行楽の人々が来遊しています。
江の島弁天橋の由来
江の島に最初に橋が架かったのは、明治24年(1891)のことであります。 片瀬川河口の砂州の先端と江の島を結ぶ簡単な木橋のため、暴風雨に洗われ幾度となく流失を 繰り返していました。 明治30年(1897)には現在橋が架かっている州鼻の入口から江の島までの橋が完成し、 渡り賃は1銭5厘の有料橋でした。 昭和24年(1949)には延労力25,000人を費やし、橋脚を鉄筋コンクリート、上部を木造に改築し、 渡り賃を大人5円、子供3円徴収したが、多いときは一日30,000人にものぼる通行量のため、 敷板の傷みが激しく、維持管理に多額の費用を必要としました。 橋の名前はこの時一般から公募し、「江の島弁天橋」と決まりました。 その後、昭和33年(1959)に全長389メートル、幅4メートルのコンクリートの永久橋を架橋し、 この近代的な橋が完成しました。 昭和39年(1964)には東京オリンピックが開催され、江の島がヨット会場となり、 それを機に、自動車専用橋が並行して架橋され、江の島弁天橋は人道橋となり、 渡し賃はこの年に廃止されました。
青銅鳥居
江の島の表玄関である参道入口に立つ青銅の鳥居をくぐっていきます。 この鳥居は文政4年に再建されたものだそうです。 土産物屋が立ち並ぶ参道を登っていくと、赤い鳥居があります。
江島神社
当神社は三宮から成り、奥津宮に多紀理毘売命、中津宮に市寸島比売命、辺津宮に田寸津比売命を お祀りする。社伝の「江島縁起」等は欽明天皇13年(552)の創建と伝える。 「吾妻鏡」には寿永元年(1182)源頼朝は祈願のため文覚上人をしてお岩屋に弁財天を勧請、 江島明神と称えて参詣し、幕府の祈願所とした。 以降、朝武の信仰を集めたが、江戸時代に至り、庶民の間に信仰が広がり、江島詣が盛んとなり、 江島寺、金亀山与願寺とも称し、岩本院上之坊、下之坊があった。 徳川家康はお岩屋に詣で、社領を寄進している。明治初年の神仏分離により江島神社と号した。 当社は江島弁財天として天下に名高く、日本三大弁財天の一つであり、財宝招福、学芸上達、 夫婦和合、交通安全等の神として広く信仰されている。弁財天御尊像は辺津宮境内奉安殿にお祀りしてある。
瑞心門
赤い鳥居の先には白塗りの瑞心門があり、その両側には大きな唐獅子の絵が描かれています。
瑞心門唐獅子
中央アジアからもたらされたライオンが古代中国で幻想塔物として描かれ、 わが国には密教曼荼羅の中の唐獅子が9世紀に渡来し、定着していきました。 以後、仏法のみならず邪悪なものを退け、国家鎮護を祈念する形代として飾られるようになりました。 この瑞心門唐獅子は、御祭神の守護と合わせて参拝の皆さまに厄災なきことを祈願して飾りました。
 (江島神社)
弁財天 童子像建立之記
平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。 縁起に曰く、「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野にまぞらえへて、これを江野嶋という。天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。 折りしも当神社御鎮座1450年を向へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、 篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く 称え奉るべく、祈念建立いたすものなり。
 (江島神社 宮司)
童子像の右手の石段を登っていきます。 「エスカー」と呼ばれる3基のエスカレータを乗り継いで頂上まで登ることもできますが、 ここは歩いて行きましょう。
江島神社 辺津宮
龍神と銭洗い
往昔より龍は雲、雨、嵐などをひき起す威大なものの象徴とされ、 我国では龍神の信仰が、山と湖、海や河川、沼を背景に発生し、 水の神と尊崇されてきました。 また、インド神話で河川(水)の神と崇められている弁財天は白龍(白蛇)との関係が深く、 頭にかぶる天冠にも蛇を頂いております。 只今も巳の年、巳の日にはご利益を願うたくさんの参拝者が当神社を訪れます。 当江の島弁財天は日本三大弁財天(厳島、竹生島)の一つで、近年まで岩屋洞窟に祀られ、 その御霊水で金銭を洗うと、金運向上・財宝福徳の御利益があると伝えられてきました。 現在は、ここの白龍池にお移し致しました。銭洗いは本来我身我心の不浄の念を洗い清めるもので、 それにより神の御守護をいただき、福徳がもたらされると言われております。
弁財天黄金浄水
弁財天の神使 白龍王は、高さ3m、相模彫 鏡碩吉氏の苦心の作で、 水源には徳力製の純金の小判が秘められております。 むかしから黄金の水は、
 一、健康によい
 一、運が開ける
 一、声がよくなる
 一、美しくなる
と称せられています。 日本三大弁財天の一つであり、関東における最も信仰の篤い江島弁財天の神使である白龍王です。 御玉よりほとばしる霊水を頂戴し、ご利益をうけられるようお祈りしましょう。
奉安殿
日本三大弁財天の一つに数えられる、八臂弁財天と妙音弁財天裸像が奉安されています。
八坂神社
御祭神 健早須佐之男命
その昔、対岸の腰越に祭られていたが、大波に流され、江の島お岩屋前の海中に沈んでおられた御神体を、 島の漁師がお拾い申上げてお祀りした。 祭礼は7月14日、全国でも珍しいお囃子が島内をめり、神輿は弁天橋際から裸形の若者たちにかつがれ、 水しぶきをあげて海に入り、勇壮な禊が行われ、その後、ゆかりの腰越まで御囃子の先導で渡御され、 湘南の夏を告げる祭として賑わいます。
辺津宮の境内からは、江の島弁天橋が見渡せます。
猿田彦大神
この碑は庚申塔の一つで、天保3年(1832)に建てられたものです。 碑の執筆者である阿部石年は、藤沢宿の儒者として、また書家として知られ、 天保6年(1835)に没し、その墓碑は鵠沼万福寺にあります。 この碑に書かれている「猿田彦大神」とは、記紀神話の神で、天孫「ににぎのみこと」降臨の際、 高千穂までの道案内を務めた神といわれ、中世以降、「庚申信仰」や「道祖神信仰」と習合しました。
※庚申信仰(こうしんしんこう)とは
人間の体内には、三尸(さんしん)という三匹の虫がいて、常に人間が犯す罪過を監視し、 庚申の晩に体内から抜け天にあがり、天帝に罪過を報告し、人間を早死にさせるという。 だから、庚申の晩は、常に徹夜をしていれば体内から抜け出し報告できないので、 早死にを免れ長生きできるという、中国道教の教えから始まっています。 庚申の「申(さる)」から猿田彦神と結びついたといわれています。
 (藤沢市観光課)
江島神社 中津宮
御祭神 市寸島比売命(天照大神の御子神)
仁壽3年(853)島の東山の頂きに宮居を建つとあり、これが上之宮(現中津宮)の起りで、 天文18年(1549)には北条氏綱の寄進により修復が加えられ、元禄2年(1675)に再建されました。 昭和55年、御屋根の葺替が成され、300年余りの歳月から、御社殿の土台腐朽、彫刻の破損等甚しき為、 平成8年から御改修が進められ、基礎補修、彫刻の復元をはじめとして、幣殿拝殿の格天井には 四季折々の花鳥画を施こし、一層典雅な趣をもって極彩色の御社殿が甦えりました。 境内には江戸時代に寄進された中村座、市村座の石灯籠、狛犬、手水鉢等、当時の江の島信仰の 深さを眼前に見ることが出来ます。
(元禄2年の「1675年」は1689年の誤記かと思われますが、そのまま載せておきます)
謡曲「江島」と弁財天
謡曲「江島」は、弁財天影向の縁起を説いた曲である。 欽明天皇の13年、相模国江野の海上に島が湧き出て、福徳円満の願いをかなえる弁財天が 影向せられたというので勅使が下向する。 折から現われた老漁夫は勅使の尋ねに応じて詳しく島の成立を語り、 その功徳を讃歎した後、自分はこの島の鎮守である弁財天の夫神の五頭龍王、即ち龍口明神である といって消え失せる。 やがて弁財天が15童子を伴って出現、勅使に如意宝珠を捧げると、五頭龍王も現われ出で、 国土の守護を誓いつつ上天したのであった。 弁財天は白蛇を飾る宝冠の戴き、一蓮葉に乗って、右手に剣、左手に宝珠を捧げて、 延命長寿、怨敵退散、財宝満足の利益を施すという。
 (謡曲史跡保存会)
梅幸のしだれ桜
安永6年(1777)江戸歌舞伎を代表する江戸三座の市村座の寄進による石燈籠は、 ここに200年の歴史を経て参りました。 "梅幸のしだれ桜"は、献燈200年を祈念して江の島弁財天に詣でられた尾上梅幸丈の 手植えにより献樹されたものであります。
菊之助のしだれ桜
平成11年(1999)9月、七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助出演の「江の島大歌舞伎」が 盛大に開催されました。当地ゆかりの「弁天娘女男白波」を演目とし、菊之助が演じた 弁天小僧は大いに観衆をわかせました。 開演に先立ち、お錬りで弁財天に詣でた際、菊之助御自身の手植えにより献樹された「しだれ桜」であります。
菊五郎のしだれ桜
天明2年(1782)江戸歌舞伎を代表する江戸三座の中村座の寄進による石燈籠は、 ここに200年の歴史を経て参りました。 "菊五郎のしだれ桜"は、献燈200年を祈念して江の島弁財天に詣でられた尾上菊五郎丈の 手植えにより献樹されたものであります。
中津宮からさらに石段を登っていくと、江の島の頂上に着きます。 頂上はとても広く、展望塔のある江の島サムエル・コッキング苑や売店などがあります。 「エスカー」で、ここまで登ってこられます。
江の島サムエル・コッキング苑
島の頂上にある江の島サムエル・コッキング苑には、ウィンザー広場、マイアミビーチ広場、昆明広場、 保寧広場、松本広場、芝生広場、郷土資料館、江の島展望塔、植物園などがあります。 また、タイミンチクやツカミヒイラギなどの天然記念物もあります。
 開場時間 午前9時〜午後5時(季節・曜日により時間延長あり)
由来
江の島サムエル・コッキング苑という施設名は、 この地に最初に庭園を造ったイギリスの貿易商サムエル・コッキングに由来します。 コッキングは1842年にアイルランドに生まれ、1869年(明治2)日本にやってきました。 横浜で貿易商として成功し、1883年(明治15)から数年をかけて江の島の頂上に和洋折衷の大庭園を築造しました。 庭園の総面積は1万平方メートルを超え、園路、石垣、築山、池、花壇のほか、広さ660平方メートルもの温室が 造られました。この温室は、当時日本一の広さで、温室の中はもちろん庭園内には熱帯・亜熱帯の植物が生い茂り、 さながら南国のたたずまいを現出していたと言われます。いまでも苑内には当時を偲ばせるシマナンヨウスギ、 クックアロウカリア、タイミンチクなどが残っています。 コッキングの造った庭園は、時代の変遷、とりわけ関東大震災の災禍などによって荒廃し、温室も昭和24年の 整備時に地中に埋められてしまいましたが、このたびの再整備にあたって掘り起こし、歴史上貴重な温室遺構を 観覧いただけるようになりました。 苑内には様々な南洋植物や四季折々の草花が植えられていて、訪れる人の目を楽しませます。 そして12月から4月にかけては数多くの椿が見事に花開きます。 また、藤沢市と姉妹友好都市を結ぶ広場には、四阿(中国・昆明市)、 海鼠壁の松本館(松本市)などが設えられています。
コッキング温室遺構
コンキング庭園の温室は、明治中期、英国人貿易商サムエル・コッキングが、江の島に造った庭園の一画に巨額の 私財を投じて造られました。大正12年の震災時で温室の上屋はすべて倒壊してしまいましたが、煉瓦を主体とした 基礎部分や地下に造られた施設が残っていました。遺構は3棟の南北に長い温室の基礎と、東西に長い温室基礎、 西洋風のシンメトリーな形の池、それに、温室の北側に設けられた付属施設であるボイラー室、燃料を入れた貯炭庫、 植物や暖房のために水を貯えた貯水槽、温室と付属施設とを結ぶ地下通路、冷たい風を遮るための暴風壁や集水用陶管などです。 池は最近までその機能を有し、使われていました。コッキングはこの池にも暖房用のパイプを通し、 熱帯の水棲植物を育てていたようです。 この温室は、明治中期に造られたものとしては国内では最大の規模を有し、スチームによる暖房設備も当時としては 水準の高いものであったと思われます。 煉瓦造の温室遺構としては現存する唯一のもので、近代の文化遺産として非常に貴重なものです。
マイアミビーチ広場
藤沢市とマイアミビーチ市とは1959年3月に姉妹都市になりました。
当時、藤沢市ではアメリカの都市との親善、交流を目的に、都市提携を行うことを念願していましたが、 アメリカ合衆国国務省広報文化局を通じてこのことを知ったマイアミ・ビーチ市市長より、 「藤沢市は東洋のマイアミ海岸と呼ばれているとこので、都市の形態や特色が似ている観光都市なので、 都市提携したい」との申し入れがあり、1959年3月の市議会の議決を得て都市提携しました。
広場からは、江の島弁天橋や腰越海岸などが見渡せます。
タイミンチク群
大明竹という意味で、古く中国大陸の竹かと思われていましたが、原産国は沖縄、九州南方諸島であります。 イネ科に属し、葉は細長く尖り、茎は密に叢生し、先端は深く垂れ下がって、タイミンチクのトンネルを作ります。 うっそうと茂る姿は、ヤシ科、ユリ科などとは違った独特の景観があります。
高さ 7〜8m
騁碧亭(ていへきてい)
藤沢市と昆明市とは1981年11月に姉妹都市になりました。
この都市提携の仲立ちとなったのは、中国国歌となった「義勇軍行進曲」の作曲家で、 中国現代音楽の先駆者といわれている聶耳(ニエ・アル)です。 聶耳は1912年昆明市に生まれ、来日した1935年、市内鵠沼海岸で遊泳中帰らぬ人となりました。 異国の地で短い生涯を終えた青年の死をいたんだ多くの市民により、1954年11月に記念碑が 建てられ(後に台風により流出)、その後1965年に現在の記念碑が建てられました。 こうした市民の行為は中国人民を大変感動させたといわれています。 それ以降、両市の友好訪問時の相互訪問により親善が深められ、1981年8月、昆明市長から 友好都市の提携をしたい旨の文書が寄せられ、9月の定例市議会において都市提携の議決がなされ、 11月5日、友好都市提携の調印式が行われました。
(騁碧亭:緑の中に佇むあずまや)
昆明碑文
彩雲の南端、てん池(昆明池)の畔、聳え立つ城、名は昆明。 2000年にわたる歴史、優れた人や物が集まり、光り輝く。 てん国王の金印、東寺塔と西寺塔、拓東の古典建築、金馬碧鶏、講武学堂、 数多くの古跡、我が都市の輝かしき足跡を刻む。この景色、天下一品とも言える。 洋々たるてん池、雄大な石林、九郷の鍾乳洞、すべて天の贈り物。 四季は寒暑なく、通年花咲き乱れ、人はここに身を置くと、まるで仙界にいる様である。 この地に26の民族が集まり、純朴な民風、習俗多様、情調が色濃く満ち溢れる。 ここ百年の間、英才を雲の如く排出、日本国藤沢に寄寓した中国人民音楽家−聶耳も、 昆明にて生まれ育つ。古く「西南シルクロード」に遡り、昆明の対外交流は絶え間なく続く。 1981年、昆明、藤沢友好都市提携、昆明・藤沢友諠館を昆明に建設する。 壬午の年(2002年)、昆明市政府は藤沢江の島にて吉祥孔雀を鋳る。 騁碧亭を建て、中日友好が代々にわたる証として、この石碑を立ち、文を刻み、これを記とする。  (昆明市人民府建立)
キンメイチク(金明竹)
マダケの変種。稈は黄金色で芽溝に濃緑色の縦条が入り、竹類の中でも大変美しいものの一つです。 葉には黄や白色の縦条が入ることもあります。庭園・茶庭用。(イネ科)
庭園には南国の植物も多く植えられていて、異国情緒を醸しだしています。
クックアロウカリア
世界周航家キャプテン・クックが安永3年(1774)南太平洋パイン群島で発見したもので、 明治15年(1882)頃、当時の蝕部園創設者サムエル・コッキングが植えたものです。 これは熱帯植物であるのに、江の島のような高緯度の地で成長しているのは非常にめずらしいものであります。 樹形は柱状で、輪生の水平の大枝を出し、葉のつきかたに特徴が見られ、樹皮は紙のようにはがれます。
シマナンヨウスギ
ナンヨウスギ科に属し、世界周航家キャプテン・クックが安永3年(1774)南太平洋パイン群島で発見したもので、 明治15年(1882)頃、当時の蝕部園創設者サムエル・コッキングが植えました。 ナンヨウスギ科のうち、もっとも樹形が美しく、均整のとれた姿を持ち、大枝は輪生し、そこから出る小枝は 雌雄が別で、密生した葉は我が国の杉の葉を思わせます。
海と山の絆
藤沢市の姉妹都市である松本市域には、江戸時代に建立された約280体の石造道祖神があります。 なかでも男女の神様を一つの石に刻んだ「双体道祖神」は、地域の特徴である道祖神として 観光に訪れる人々の人気を集めています。 道祖神は、古くは村を守る境の神として祀られました。村の繁栄を願って祭られた道祖神は、 後に疫病除けや縁結び、豊作などあらゆる願いを叶えてくれる身近な神様へと変わっていきました。 今の松本では2月8日の朝早く、誰にも見つからないように道祖神に餅を付けると良縁に恵まれるといわれ、 双対の像容と相まって縁結びの神様として信じられています。 「海と山の絆」は、「双対道祖神」をモデルの造られています。異なる環境、文化の中で育ってきた 海の民(藤沢市)と山の民(松本市)の出会いに感謝する気持ち、お互いの歴史と文化を尊重する気持ち、 そして、これからも「仲良く」「末永く」友好を深められますようにとの願いを込めて、 純真な「男の子」と「女の子」の像が刻まれています。
江の島展望塔
エレベータで展望所まで登ります。 展望所からの眺めも素晴らしいのですが、風防ガラスがあって今一つ雰囲気がでません。 その上の屋上階までエレベータ横から階段が続いているので、昇って行きましょう。
屋上からは、遮るものが何もない360度の大パノラマが広がります。 眼下には土産物屋や食事処などの家々が続き、江の島全体を一望できます。
江の島大師 最福寺別院
サムエル・コッキング苑を出て島の奥へと進んでいくと、高野山真言宗最福寺別院があります。
江の島大師では、毎朝8時より約2時間ほど護摩行を修行しています。 護摩行ではその日お参りされた方々皆さんの氏神さま(その方のご先祖さまが代々お祀りされてきた神様)・ ご先祖さまの供養をさせて頂いております。どうぞ本堂にお入りになり、手を合わせて、あなたさまの 氏神さま・ご先祖さまの日頃の御加護に感謝の祈りをお捧げ下さい。 お不動さまと共にあなたさまの氏神さま・ご先祖さまが喜ばれ、あなたとご家族を光の世界に導かれることでしょう。 また、ご希望の方には、随時、半や心経をお唱えし、あなたとご家族の健康と末永い繁栄をお祈りし、 お不動さまのご真言をお唱えしつつ、お加持をさせて頂きます。受付へお気軽にお声をお掛け下さい。 どうぞお不動さまのお力を江の島参りのお土産にお持ち帰り下さい。
山ふたつ
江の島をちょうど二分する境となっていることから、俗に「山ふたつ」と言われています。 奥津宮のある西側は、昔から全く地震を感じなかったことから「地震知らずの山」とも呼ばれ、 岩屋に属する部分は全体が一つの巨岩から成り立っているからだろうと言われていましたが、 関東大震災には奥津宮の本殿は倒壊一歩手前まで揺り動かされたそうです。 南側の暗礁に砕け散る激しい波を見下ろす絶壁の頂きには、潮風に吹きさらされる老松が 佇むのが見えます。
 (藤沢市観光課)
頼朝寄進の鳥居
鎌倉幕府を開いた頼朝は、政治の方策としての信仰を大きく取り上げ、 各地に寺社伽藍を創建したが、その一つとして江の島神社にも数度にわたって参詣、参籠し、 その都度、信仰上の対象を寄進しています。 文覚上人に命じて弁財天を勤請し鳥居を奉納し、楽器を納めたなど文献に残されたものでありますが、 そのうち鳥居はこの奥津宮にある石鳥居がそれであります。 養和2年(1182)4月に建立されたもので、文政年間に破損を修復した記録も刻まれた貴重な史跡であります。
 (藤沢市観光課)
江島神社 奥津宮
御祭神 多紀理毘売命
辺津宮の田寸津比売命、中津宮の市寸島比売命、当宮の多紀理毘売命の三女神は、 世に江島大神と称えられる。江島神社の草創は、島の南端のお岩屋であったが、 度々の大波を避ける為、この地にお社が創建され、当神社の本宮御旅所とも称された。 役小角(奈良時代)、弘法(平安時代)、日蓮(鎌倉時代)の高僧が参籠・祈願をこめて 御神威を戴き、源頼朝公は、奥州の藤原氏征伐祈願の為、鳥居(拝殿前)を寄進された。 現社殿は、天保13年(1842)の御造営で、拝殿天井の八方睨みの亀(酒井抱一画)は名高い。 当境内には、岩屋洞窟を模した龍宮がお祀りされている。
(写真は拝殿で、本殿はこの奥にあります)
拝殿の天井を見上げると、大きな亀の絵が描いてあります。
八方睨みの亀
亀は古来めでたく、蓬莱山を背負い不老長寿の象徴とされています。 奥津宮御祭神のお使いとして、皆様の祈願成就を見守ります。
原画 享和3年 酒井抱一筆
模写画 大正15年 野澤提翠筆
復元画 平成6年 片岡華陽筆
 (江島神社)
龍宮(わだつみのみや)
御祭神 龍宮大神
社記
江の島は、湧出以来、龍の棲む所となり、古来龍神様の御信仰は弁財天信仰と習合せられ、 共に密接な結び付きから、江島縁起をはじめ、多くの伝説が残されております。 一例を挙げますと、「太平記」に、大蛇が現われ三つの鱗を落せり。時政祈願成就したと喜び、 その鱗を旗の紋に押したる。・・・これが江島神社御社紋の起りであります。 北条貞時は霊夢を蒙り、龍池に赴くと金銅の龍頭を見たと。 「足利治乱記」には、海に夜毎光ありて、白龍長さ廿丈許なるが海中より出で、絵島石穴に飛入る。諸人多見之と。 更に謡曲「江ノ島」には、天女が龍神と姿を現じて、七難即滅・七福即生・悪事災難を払ひて、 所願成就を宣ふ。御声もあらたに聞こえとあります。 然るに、この御神秘なる趣意を鑑み、御崇敬各位様の御篤志に依りまして、御宮の御造営と相成りました
稚児が淵
奥津宮の左手から急な石段を降っていくと、眼前に海が広がります。
稚児が淵は島の両端に位置し、大正12年の関東大震災で1mほど隆起した海蝕台地です。 この名称の由来は、建長寺の修行僧自休が、江の島へ百ヶ日参詣の帰り、相承院の稚児白菊と 出会ったのが縁で恋におちいりました。しかしその恋も実らず、ついに白菊はこの断崖から 身を投げ、自休もそのあとを追ったという悲恋物語からおこっています。 ここから眺める富士山夕焼けの相模灘の美しさは、まさしく神奈川県景勝50選のひとつに 数えられるものであります。
 (藤沢市観光課)
稚児が淵からは海辺まで降りていくことができます。 岩畳が広がり、磯遊びや日光浴をしている人が多くいました。
岩畳の上に続くコンクリートの幅1mほどの道を進んでいくと、 江の島弁天橋までの乗合船が出ています。
稚児が淵から岩屋へは、きれいな歩道が整備されています。
龍野ヶ岡自然の森
岩屋から奥津宮のところまで戻ってくると、「龍野ヶ岡自然の森」の入口があります。 森には、展望台、龍恋の鐘、東屋、曽荒禰助子爵の石碑などがあります。
敷地の下には「岩屋の洞窟」と呼ばれる海食洞窟があり、洞窟中に龍が住んでいたという 伝承があることから、その上にあたるこの丘を「龍野ヶ岡」と言うようになったのではないかとも 思われます。
龍恋の鐘
龍恋の鐘の周りの金網には、鍵が多く付けられていました。 伝説の二人にちなんでのことなのでしょう。
天女と五頭龍(江の島生まれの伝説)
昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に、五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていました。 子供をいけにえに取られることから、この地を子死越と呼んで恐れられていました。 ある時、子死越前方の海上に密雲が何日にもわたって垂れ込めましたが、 天地が激しく揺れ動いた後、天女が現われ、雲が晴れると、今まで何も無かった海上に、 一つの島ができていました。 これが現在の江の島とか。 天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのですが、悪行が止むまではと断られてしまいました。 その後、心を改め結婚することができたと言われています。 この伝説の天女が、江の島に祀られている弁財天といわれ、五頭龍が龍口明神社として鎌倉市腰越に祀られている。
曽荒禰助子爵の石碑
日露戦争時の大蔵だ人等、明治政府の要職を務めた曽荒禰助子爵(1849〜1910)の功績をたたえた石碑が 明治44年(1911)に、首相にもなった同郷人でもある桂太郎(1847〜1913)の資金援助で建立されました。 彼はフランス留学塔の経験から、海外と日本との関係を常に考えていたことから、 その遺志を尊重すべく、遠く海外を望める太平洋が見えるこの地が選ばれたようです。
龍野ヶ岡自然の森の散策を終えて、奥津宮の前を通って、もと来た道を帰って行きます。 食事処や土産物屋が並ぶ鞍部に「下道」と書かれた石柱が立っています。 そこを曲がっていきます。
下道
この道は、サムエル・コッキング苑などがある江の島の頂上の巻き道になっていて、 起伏の少ない歩きやすい道です。
海側には、片瀬海岸の街並みが見渡せます。
江の島市民の家
七里ヶ浜、腰越、鵠沼一帯の海岸を見渡すことができる江の島は、樹木に覆われた、 ほぼ三角形の岩島で、海の青とよく調和して佇まい、昔からその名勝を詠われています。 また、七里ヶ浜方面から江の島越しに見る富士山や箱根の景色は、特にすぐれています。 記録に現われるようになったのは、鎌倉時代からです。弁財天が祀られており、 厳島、竹生島と並ぶ日本三大弁天のひとつとされ、多くの人々に信仰されました。 また、特に江戸時代以来、物語や伝説が広まるとともに、江の島詣が盛んになり、 その賑やかな様子は、錦絵などにも残されています。 江の島神社参道の両側には、みやげ物屋が並んで、門前町を形成しています。 昔ながらの江の島の様子を今に見せ、四季を通じてお参りや行楽の人が絶えることがありません。 また、江の島は昭和35年10月4日に、県指定文化財名勝史跡に指定されております。 このような江の島にちなみ、市民の家の名前としました。
江の島市民の家の前にある朱塗りの橋の下をくぐって坂を降っていくと、 瑞心門の前にある朱塗りの鳥居のところに出ます。
かけがえのない自然 育てよう緑
藤沢市みどりいっぱい市民の会が、昭和52年10月に設立され、20周年記念事業として、 花と緑を育み「みどりの江の島」を更に魅力的な島にするために、また美しい江の島の 風景を共有したいと云う願いから、808名会員の総意をもって、江の島花いっぱい事業を 展開してきました。 花を愛するという共通の心を頼りに、江の島に住む方々の理解と努力をいただき、 美しい環境づくりと、さらに新しい時代に即した事業の輪を広げていくことが出来たことに 感謝いたします。 藤沢市みどりいっぱい市民の会20周年記念事業として植樹された15種1300本の樹木が咲かす花を通じて、 より多くの人々が交流されることを願うと共に、江の島を訪れた人々を花による歓迎が 出来る花木に成育されることを期待しています。
 (藤沢市みどりいっぱい市民の会)
明治時代の郵便差出箱(ポスト)
明治4年3月に郵便事業が創業し、明治5年、東京府下に郵便取扱所を開設するにあたり、 書状箱を設置したのが始まりです。 この郵便差出箱は、明治20年頃に使用していたものを復元したものです。 皆さまから愛され、ご利用していただくことにより、「あなたの街の郵便局」のポストとして、 江の島のふるさとづくりに役立ちたいと思います。
 (江の島郵便局長)
北緑地
江の島の玄関の青銅の鳥居をくぐって江の島弁天橋へと向います。 橋のたもとには北緑地があります。芝生や噴水やベンチなどが設置されていて、 ちょっとした休憩にいい所です。
北緑地では次のことを禁止しています。
許可を受けていない物品の販売、撮影、宣伝、その他の営業行為をすること
施設に落書きをしたり、壊したりすること
自動車、自転車、オートバイを乗り入れること
許可を受けていない集会、その他一般利用者が迷惑を受ける行為をすること
ごみ、たばこなどの投げ捨てをすること
花火をしたり、危険物を持ち込むこと
サーフィンなどの用具を持ち込むこと
その他緑地の管理に支障がある行為をすること
 (神奈川県湘南なぎさ事務所)
江の島(えのしま)バス停
藤沢駅(JR東海道線)まで、藤沢駅行きバスにて20分、1時間に2本程度の便があります。
大船駅(JR東海道線)までの便も、1時間に1本程度あります。