浦賀湾
散策:2003年05月中旬
【海辺散策】 浦賀湾
概 要 江戸時代末期、米国海軍提督ペリー率いる黒船の来航によって歴史の転換期に立ち会った浦賀。 その浦賀から久里浜にかけての海沿いには、この時代の史跡がいくつも残されています。
起 点 横須賀市 京急浦賀駅
終 点 横須賀市 久里浜駅
ルート 京急浦賀駅…浦賀の渡し(東浦賀側)〜浦賀の渡し(西浦賀側)…愛宕山公園…為朝神社…浦賀奉行所跡…燈明堂跡…ペリー記念公園…久里浜駅
所要時間 4時間10分
歩いて... 開国の町・浦賀から久里浜にかけて史跡を訪ねながら、開国当時に思いを馳せてみましょう。
関連メモ くりはま花の国, 浦賀鴨居
コース紹介
京急浦賀(けいきゅううらが)駅
京急浦賀駅(京浜急行本線)を出て、左手に続く観音崎通りを進んでいきます。 駅から降る階段の途中に浦賀の地図があるので、これからのコースを確認しておきましょう。
三崎口方面へ続く路線が「本線」だと思っていると、堀の内から浦賀へ延びる路線が本線で、 三崎口方面の路線は「久里浜線」というようです。 現状では、久里浜線の方が幹線として位置付けられているような状況なので、 浦賀駅への路線は短いことも手伝って、支線「浦賀線」という印象です。
駅を出て歩き始めたところに、近くの中学校の生徒が描いた大きな絵が掲示してありました。
徳田屋
東浦賀で初めて幕府の許可を得て正式に旅館を営業した家で、 浦賀を訪れた武士や文化人等が泊まったと記録されている。 特にペリー来航の時には、佐久間象山と吉田松陰らが これからの日本のことを熱く語った場所である。
 (浦賀国際文化村推進協議会)
小林一茶と専福寺
江戸時代の俳人・小林一茶が残した日記の文化3年(1806)6月1日の記事に、 東浦賀の専福寺に墓参に訪れたことが記されている。墓参は一茶が20数年前、 浦賀の地で出会った初恋の人へのものでもあった。 その人はどんな人だったのでしょうか、境内にその句碑がある。
 (浦賀国際文化村推進協議会)
雷電為右衛門
江戸時代から明治時代にかけて、三浦半島は相撲が盛んな所であった。 特に浦賀には、江戸大相撲の力士が度々訪れた記録がある。 中でも文化6年(1809)6月には、江戸大相撲でも無敵を誇った雷電為右衛門が来て、 東浦賀の東林寺境内で興行をしている。
 (浦賀国際文化村推進協議会)
浦賀ドック(通称)
浦賀では、嘉永6年(1853)に幕府により近代的な造船所が開設されました。 翌年、日本最初の洋式軍艦である鳳凰丸を建造し、咸臨丸などを修理しました。 明治24年(1891)中島三郎助の23回忌にあたり、函館戦争のときの同士であった 荒井郁之助(函館での海軍奉行)が中島三郎助のために浦賀に造船所を つくることを提唱し、榎本武揚は即座に賛成して、地元の有力者に働きかけ、 明治30年(1987)、浦賀船渠(株)が設立されました。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
徳田屋跡
徳田屋は江戸時代から明治・大正期まで続いた浦賀を代表する旅館です。 創業は詳らかでありませんが、寛政の改革を行った松平定信が相模・伊豆の 沿岸を視察した折に止宿したという記録からすると、1700年代の終わり頃には 存在したことがわかります。 しかし、正式には旅館(御用御宿)となったのは文化8年(1811)3月のことであり、 これが浦賀の旅館の始まりです。 ペリーが来航した寛永6年(1853)6月には黒船を見聞するために吉田松陰が2度目の 宿泊をして、ここで佐久間象山と会っています。松蔭も象山もこれより2年前の 寛永4年(1851)に松蔭は熊本藩士・宮部県蔵とともに江戸湾沿岸の防衛状況視察のために、 象山は門弟の小林寅三郎をともなって思索の旅で徳田屋を訪れています。 この他、浮世絵師の安藤広重が安政5年(1858)に、これより先の安政2年(1855)には 木戸孝允(桂小五郎)が浦賀奉行所与力・中島三郎助に造船技術の教授を得るために 来訪した折に泊まっています。 幕末から明治維新の激動のなかで浦賀を訪れた数多くの武士や文化人が徳田屋に宿泊し、 ここから日本を見、世界を見て、時の移り変わりを認識して、近代日本が誕生したわけ ですから、その意味からも徳田屋の果たした役割の大きさは大変なものがあります。 その徳田屋も大正12年の関東大震災の際、倒壊して姿を消してしまいました。 現在、上原家の所有地である東浦賀2丁目20番地この場所が徳田屋の地であります。
 (浦賀地域文化振興懇話会)
浦賀の渡し(東浦賀側)
浦賀の渡し
渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」には、 渡船を修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、 操業が確認されています。 当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。 平成10年8月に就航した現在の「愛宕丸」は御座船風のデザインとなっています。 この航路は「浦賀海道」と名づけられ、横須賀市道2073号となっており、 東西浦賀を結ぶ渡船は、浦賀のシンボルの一つです。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
愛宕丸
浦賀海道を運航する12人乗りの小さな船です。 時刻表などは特にありません。 乗り場に客がいれば、対岸にいてもすぐ来てくれます。 この時も、案内板などの写真を写していたら、対岸からやってきました。 「乗りますか?」と声をかけてきました。「ハイ」といって乗り込みます。 乗客は私一人だけの貸切状態でした。 ほんの少しの時間乗っただけで、あっという間に対岸へ着きます。
乗船料
 大人:150円 小・中学生:50円 (幼児は大人1人につき1人無料)
運航時間
 7時〜12時、13時〜18時。悪天候時運休。
浦賀の渡し(西浦賀側)
浦賀港と渡船
室町時代に、聖護院准后道興が著した紀行文・廻国雑記(1486年)に 「・・・浦川の湊といへる所に到る。ここは昔頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時、 金沢、榎戸、浦河とて、三つの湊なりけるとかや・・・」とあります。 そこが現在の浦賀港を指すものであるかどうかについては、歴史家の間に 疑問があるようです。しかし、「浦賀みなと」の名称そのものが、書物に中に みられる最初のものです。いずれにしても、浦賀港が三浦一族や後北条氏によって 使われていたことは確かなようです。 この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。 英人ウィリアム・アダムスを逸見に住まわせ、しきりにイギリスやオランダなどの 商船をこの港に引き入れるよう努めさせました。 享保5年(1720)、浦賀奉行が置かれると、江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀で 船改めをすることが義務づけられました。そのために、浦賀の町は大いに栄えました。 以後、浦賀港は、黒船の来航、咸臨丸の出港、日本最初の洋式船鳳凰丸の建造の地として、 更には浦賀船渠株式会社の設立と、ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。 この港は、湾が約1.5kmも入り込み、東西両岸の住民が往来するのには、渡船を 利用することが最も便利でした。したがって、渡船は早くから開かれていたようです。 明治9年編纂の皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス・・・船二隻ヲ用ヘテ往復二便ナラシム 私渡ニシテ修繕民費」とあるところから、最初は民営の渡船であったようです。 大正6年には、その重要性を評価されて、浦賀町営となりました。更に昭和18年4月1日、 浦賀町が本市に合併されると、渡船事業も市営になりました。 昭和24年以後、渡船の運航業務を民間に委託し、現在に至っています。 また、平成10年に就航120周年を記念して新船「愛宕丸」を建造し、これとあわせ、 全国でも珍しい水上の市道の愛称を募集し「浦賀海道」に決定されました。 唯一の市営交通事業である渡船で、昔をしのびながら、浦賀港横断をお楽しみください。
浦賀の渡し船を降りて左手に少し行くと、愛宕山の入口があります。
石段を登っていくと、途中に咸臨丸出航の碑があります。
咸臨丸出航の碑
寛永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船4隻を率いて浦賀湾沖に現れました。 我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。 それが、江戸の近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠られず」。 当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。 7年後の安政7年(1860)、幕府は日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊豊前守正興を 代表とする使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を 指揮者に、勝麟太郎以下90有余名の日本人乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で錨をあげました。 途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員11名を乗せ、16日の夕刻、浦賀に入港しました。 それから二日間、食料や燃料、その他の黄海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、 1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、39日間かけて、 咸臨丸は無事サンプランシスコに入港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に 帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う百年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を 永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、 ゆかりの深いこの地に建てられたものです。 なお、ここ愛宕山公園は、明治26年開園の市内最古の公園です。また、後方に立つ招魂碑の主・中島三郎助は、 咸臨丸修理の任にあたったことがあります。
愛宕山公園
明治24年(1891)に開園した市内で一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれました。 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され、篆額の題字は榎本武楊によって書かれました。 開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船渠(株)が創設された話は有名です。 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。 与謝野鉄幹・昌子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
与謝野夫妻の文学碑
黒ふねを 怖れし世など ならさざし 浦賀に見るは すべて黒船 寛
春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸く 昌子
碑の歌は、昭和10年3月3日、与謝野寛(号・鉄幹)、昌子夫妻が同人たちとともに、 観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折り詠んだものである。思いのほかの寒さであったためか、 寛は同月26日、肺炎で没しているので、これは生涯最後の歌の一つといえる。 寛は、明治6年2月26日、京都市左京区の願成寺に与謝野礼厳の四男として、昌子(本名・志よう)は 同11年12月7日に大阪府堺市の菓子商鳳宗七の三女として生まれた。 明治25年上京して落合直文の門下に入った寛は、32年の秋に「東京新詩社」を設立。翌年4月には 機関紙「明星」を創刊し、ひろく青年層にロマンチシズムを鼓吹して、短歌の革新に貢献した。 一方、寛の歌に深く心うたれた昌子は、新詩社社友となって「明星」二号に短歌を発表、 以後毎号同誌に投稿する。 昌子が、明治33年8月に講演のため来阪した寛をその宿に訪ねたのが、二人の最初の出会いであった。 やがて恋愛の進展に伴い、34年6月昌子が上京、この秋正式に結婚した。 同年8月に出版された昌子の第一歌集「みだれ髪」は、世の注目を浴び、新詩社黄金時代の幕開けとなった。 二人は、明治30年代の詩歌壇を主導して、浪漫主義文芸の花を咲かせ、石川啄木、北原白秋、 高村光太郎、佐藤春夫、堀口大学らの俊英を輩出した。 代表作として、寛に「東西南北」「天地玄黄」「紫」「鵜と雨」、昌子に「みだれ髪」「小扇」 「舞姫」「白桜集」がある。
 (横須賀市)
愛宕山公園からは浦賀湾が見下ろせます。 後ろに航跡を残しながら貨物船が港から出て行きました。
蛇畠
西浦賀町1丁目のこの辺りを蛇畠といいます。 昔は、現在の蛇畠の通りに平行して、愛宕山のふもとまでに畠(畑)がありました。 幅が狭くて、長く続くその畑の形が蛇のようであったので、それに由来したものです。 蛇がたくさん住んでいたという意味ではありません。 この付近には、江戸時代に浦賀奉行所の船番所があり、 東西浦賀と下田の廻船問屋100軒余があり、船の荷改めの実務を担当していました。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
浜町
西浦賀町4丁目のこのあたりを浜町といいます。 文字どおり、浦賀湾に面した磯浜の広がる地域であったことから付いた名称です。 浜町は、もとは、広い範囲を占める「川間」の一画でしたが、漁を業とする人々の 集落として発展し、この名称になりました。 この地に伝わる「虎おどり」は、奉行所が伊豆の下田から浦賀に移ったときに一緒に 移ってきた下田の廻船問屋の人々が演じたものといわれています。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
為朝神社
虎踊り
西浦賀町浜町に伝わる民族芸能で、虎の舞だけでなく、歌舞伎や唐人踊りを 取り入れた珍しいものである。 享保5年(1720)に奉行所が伊豆下田から浦賀に移転した折に、 一緒に伝えられたという。それ以来、浦賀奉行所に於て催され、 その後浜町に移管され、西叶神社の例祭には伝授された長男だけにより奉納されたという。 虎は親子2体で、虎のかしらは本邦880社の神符を貼って作られる。 親虎には青年、子虎んは子どもが二人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動作する。 踊りは、近松門左衛門の国姓爺合戦を題材に、和籐内(男児)、唐子(女児)、太唐人(成人男子) たちにより踊られる。海外舞踊の組み踊り様式を取り入れた唐子踊り、 虎の出現で子供が退散して、虎が舞台上を自由に振舞い、それを和籐内が神符で抑えてみえを切り終わる。
 (神奈川県教育委員会、横須賀市教育委員会)
川間
西浦賀町5丁目から6丁目にかけてのこのあたりを川間といいます。 「川間」は、一般には、名の示すとおり川と川の間にある土地とされています。 この地域については、現在の平作川周辺が埋め立てられていなかったころの、 昔の大きな平作川と、浦賀湾が現在の田中の方までずっと入江になって川のように見えた、 その両者の間の地であることに由来するといわれています。 この川間の少し奥まった山際の地に、江戸時代の中頃から明治になるまで約150年間、 浦賀奉行所がありました。 奉行所の奥の山際には、川間の鎮守で、江戸時代の創建である榊神社大禄天があります。
 (浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ)
浦賀奉行所跡
享保5年(1720)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。 その業務は、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。 また、文化・文政(1804-1830)のころから、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から 江戸を防備しるため、海防の最前線として、さらに重要な役割を果たすようになりました。 享保5年から、江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの約150年間に、奉行は2人制の時期もありましたが、 初代の堀隠岐の守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。また奉行所には、与力10騎、同心50人の 役人たちも勤めていました。 現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と、表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4〜5枚あるだけで、 当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。
 (浦賀観光協会)
シティーマリーナヴェラシス
奉行所から広い車道に戻り、川間隋道の手前で、左に続く道へ入っていきます。 左手にはシティーマリーナヴェラシスがあり、多くのヨットが停泊しています。
燈明堂跡
10数分ほどで燈明崎に着きます。 燈明崎には「三浦半島八景」のひとつの燈明堂跡があります。
燈明堂跡(浦賀燈明堂)
慶安元年(1648)より明治5年までの223年間、浦賀への出船、入船の安全を守った燈明堂、 江戸時代の燈台です。燈台は夜間航行の道しるべです。 江戸時代の浦賀港の繁栄をしのぶ記念物です。 対岸、東浦賀には後北条氏の山城、浦賀城跡があります。 植物は海岸型常緑広葉樹の暖温帯自然植生をのこし、 風衛樹(風による枝ぶりの変形した樹)がみられるなど景観的に貴重です。 div class="bold">利用上の注意
みなさんの史跡地です。大切に使いましょう。
草木を折ったり、取らないでください。ゴミはクズカゴへ入れましょう。
 (横須賀市教育委員会)
三浦半島八景 灯台(燈明堂)の帰帆
「三浦半島八景」は、神奈川県が三浦半島地区の4市1町と協働して、 この地域の"うるおい","にぎわい"づくりをめざし、 半島をぐるっとまわれるような新たな「八景」をつくるため「三浦半島八景」選定委員会を設置し、 県民の皆様のご意見を参考に平成13年11月に選定したものです。
・大塔(鎌倉宮)の夜雨
・灯台(燈明堂)の帰帆
・大佛の秋月
・長者ヶ崎の夕照
・神武寺の晩鐘
・猿島の晴嵐
・城ヶ島の落雁
・建長寺の暮雪
「八景」の考え方は15世紀に中国から日本に移入されました。 「近江八景」や「金沢八景」が有名ですが、 三浦半島地域でもこれまでにたくさんの「八景」が残されています。 伝統的な「八景」は次の八つの景色を基本形につくられ、 それぞれ次のような情景を表わすのではないかと言われています。
・夜雨…水辺の夜の雨
・帰帆…港に帰る漁船
・秋月…水辺に映える秋の月
・夕照…夕日に照らされた遠くの山
・晩鐘…山寺の晩鐘
・晴嵐…朝もやに煙る松林
・落雁…干潟に降り立つ雁の群れ
・暮雪…夕暮れの雪景色
 (神奈川県横須賀三浦地区県政総合センター)
復元なった浦賀燈明堂の建つこの場所は、江戸時代に浦賀港の入口、燈明崎に建っていた 燈明堂の跡地である。 燈明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。燈明堂は、慶安元年(1648) 幕府の命によって、幕史石川六左エ門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられている。 石垣を土台として、上に二階建ての建物があった。階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子と その上に金網をめぐらしてあった。その中には、直径36.4センチ、深さ12.2センチの銅製の大きな 灯明皿が置かれ、一晩に灯心百筋と菜種油1升(1.8リットル)が灯され、 その光は四海里(7.2キロメートル)に達したという。 当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に浦賀奉行に所管替えとなり、 明治になり神奈川府の所管となった。経費は元禄3年(1690)までは徳川幕府が賄っていたが、 同4年からは東浦賀の干鰯問屋が一切を負担するようになった。 明治5年(1872)4月に廃止になるまで、約220年間にわたって一日も休まず夜間の海上安全の 守り役として活躍し、我が国の灯台史の上で極めて貴重なものである。 建物は明治20年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある大きな石で 高さ約1.8メートル、幅3.6メートル四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。 燈明堂跡は大正13年3月、国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、 昭和43年2月に市の史跡に指定された。この石垣を利用して、浦賀燈明堂が近代建築の技術の粋を 結集して当時の姿そのままに復元された。
 (横須賀市教育委員会)
燈明堂跡の周囲は岩場になっていて、浦賀湾から浦賀水道をぐるりと見渡せます。
浦賀水道には、大・小の船が多く行き交っていました。
川間隋道
広い車道まで戻り、延長304mの川間隋道を通っていきます。
久里浜港
川間隋道を抜けていくと、左手に久里浜港が広がります。 潮風を感じながら進み、日本開国にちなんで命名された開国橋を渡っていくと、 金谷までのフェリーが出航していきました。
ペリー記念公園
幕末にペリーが上陸した海岸を正面に見る所に、ペリー記念公園があります。
ペリー上陸記念碑
公園の正面には、ペリー上陸記念碑が建っています。
北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意 志ヲ継ギ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當 ルコトトナレリ仍テ玄ニ之ヲ誌ス
 (神奈川県廳内 伯理記念碑保存會)
じょうきせんの碑
泰平の 眠りをさます じょうきせん たった四はいで 夜も 寝られず
江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商、交通を禁止する 鎖国政策をとっていた。 その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年 7月8日(旧暦 嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒船艦隊が 浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸した。 この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。 江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たち は、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺した。 開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威 容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。 その驚きを端的に表現したのが、この落首である。 なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中 松平下総守 (間部詮勝)号 松堂作ともいわれている。
 (平成2年7月 横須賀市)
ペリー記念館
二階建てになっているペリー記念館には、 当時の事情がパネルなどで紹介されていて、 係の人から熱い口調で説明してもらえます。
(入館無料、9:00〜16:30、通常月曜日休館)
みんなで作る花の道
ペリー記念公園を後にして久里浜駅へと向かう途中には「花の道」が続いています。 色とりどりの花が花壇に綺麗に咲いていました。 それぞれのコーナーには、世話をしている団体や家族や個人などの 名前を書いたプレートが点々と設置されていました。 左手には「くりはま花の国」があります。 時間があれば寄っていきましょう。 起伏のある園内は季節の花でいっぱいです。園内を巡るフラワートレインや展望台もあります。
花壇を大切にしましょう。
花の道は「花のボランティア」が種蒔きから花摘みまで管理しています。 花を摘み取らないでください。
 (横須賀市)
久里浜駅への途中で、ブロック塀に植物をびっしりと絡ませた家がありました。 庭木にもビニール製の果実などが配してあり、 自然の雰囲気を出そうという家主の気持ちが伝わってきます。
久里浜(くりはま)駅
久里浜駅(京浜急行久里浜線)から電車で帰路につきます。 京急久里浜駅から更に200mほどいくとJR久里浜駅があります。 都合のいい方の電車を利用しましょう。 駅前にはポピーの花が今を盛りとして一面に咲いていました。