雑色の里
散策:2003年01月中旬
【里山散歩】 雑色の里
概 要 雑色の里は、二宮駅と国府津駅の間を流れる中村川沿いにあります。 短めのコースですが、江戸民具街道では使い込まれた古民具の懐かしい香りに触れることができます。
起 点 中井町 五所ノ宮バス停
終 点 中井町 雑色バス停
ルート 五所ノ宮バス停…五所八幡宮…江戸民具街道…雑色横穴群…中井のエンジュ…雑色バス停
所要時間 2時間20分
歩いて... 短めのコースですが、江戸民具街道では使い込まれた古民具の懐かしい香りに 触れることができます。
関連メモ 八国見山, 岩倉の里, 曽我丘陵
コース紹介
五所ノ宮(ごしょのみや)バス停
二宮駅(JR東海道線)から、[二31]押切・比奈窪経由高尾行きバス,または, [二32]押切・下小竹経由比奈窪行バスにて20分、 1時間に2本程度の便があります。 国府津駅(JR東海道線)からも、比奈窪行きバスの便が1時間に2本程度あります。
五所八幡宮
バス停から少し戻ると、五所八幡宮があります。 「かながわの美林50選」にも指定されているこんもりとした森です。 毎年春に行われる神輿や山車が町内を練り歩く勇壮な祭でも知られています。
この神社は、保元2年(1157)、比叡山の僧義円によって創建されたものであり、 のちに源頼朝の全国61ヶ所祈願所の一つに数えられている。源頼朝の再興に尽くした 中村荘司平宗平は、この神社を源氏の守護神とあがめ、中村、上中村の総鎮守にしたと いわれる。 この神社の例大祭(4月29日)は「かながわのまつり50選」に選定され、 神事として今も残る「鷺の舞」は「かながわの民族芸能50選」に撰ばれている。
御祭神
誉田別尊(第15代 応神天皇)、仲哀天皇、神功皇后、高良玉垂命、 猿田彦命、大山咋命、菅原道真、日本武尊、宇迦御魂命、 木花開耶姫命、大山祇命、大日留貴命、伊佐冊命、竹内宿禰、 素戔鳴命、高おかみ神、健御名方命、大国主命、豊城入彦命、 崇徳天皇、仁徳天皇
御由緒
五所八幡宮略縁起によると、後白河天皇 保元2年(1157)、比叡山延暦寺の高僧 慈慧大師の門人なる僧義円東国行脚の折、当町雑色村子の神の祠(当時の元宮と云われる)に 一夜の宿を借り、霊夢により、白鳩に導かれて現在の地「龍頭丘の杜」に至り、ここに現れた 童子、御主祭神誉田別尊の霊言に従って勧請したと伝えられる。雑色にはこの時義円の 挿した杖が発芽成長したとされる樹齢八百数十年の槐の大木 (神奈川県指定天然記念物、神奈川の銘木100選)があり、 又例祭時の楽人は雑色の青年数名が奉仕するという慣わしがある。 五所宮の由来は、欽明天皇の御代、豊前国(大分県)宇佐に初めて八幡宮の勧請有りしより、 次第を経て第五に当る故と云る。一に宇佐(宇佐神宮)、二に男山(京都石清水八幡宮)、 三に鎌倉(鶴岡八幡宮)、四に河内(大阪壺井八幡宮)、五に当社と、創建当時は 源頼朝祈願所の一社に数えられ、頼朝に仕えたこの地方の豪族中村荘司宗平が当社を 守護神として深く尊崇し、以後その三男土屋三郎宗遠、娘婿曽我太郎祐信両家より 祭典の供物を納めるを常とした。 文明元年正月、火災にかかり、雑色村在住の神官引地氏辛うじて御神体のみを御動座したという。 故に是以前の諸記録、神宝等皆焼失し詳細を伝えずとされる。同13年、新殿御遷宮、その後も 小田原北条氏を初め武家方の崇敬を広く集めたといわれ、神宝として曽我五郎時致寄進の弓、 脇指一腰、春日局の子で江戸幕府年寄(老中)を務めた稲葉丹後守正勝寄進の太刀一振、 甲冑1領他多数有りしと伝わるも、弓一張以外は昭和の敗戦後盗難により焼失した。 享保17年、本殿再建御遷宮、明治6年、郷社八幡神社となる。 又、この頃、神仏分離令に伴うある誤解から、参道階段の中程にあった荘厳なる隋神門を 破棄したと伝わる。明治10年及び41、42年、村内17社の祭神を合祀、「所願成就の宮」と呼ばれる。 当社の秋祭(9月23日)は、是を記念する祭礼である。又同41年、神撰幣帛料供進神社に 指定される。 昭和43年、献幣使参向指定神社となる。 平成元年より4年にかけ、社殿、神輿大修復、二の鳥居・玉垣再建。 平成11年11月、「五所八幡宮」と再改称し社号標を再建した。
例大祭
往古の例祭は6月晦日「禊祭り」として、江戸初期の頃まで近隣4社(赤田八幡、堀八幡、 小八幡八幡、北村八幡)の神輿が当町比奈窪大町の地(御旅所)に集まり、農市が立つ中で 盛大に行われていたという。堀、小八幡、北村八幡の3社は慶長17年まで、赤田八幡は 延宝8年まで来たとされ、当社2基の神輿の内、1基は赤田の物との伝えも有る。 例祭日は明治15年4月20日となり、昭和46年より4月29日に変更、現在の例祭は 「神奈川の祭り50選」に撰ばれ、神輿2基、山車4台が巡行して境外社有地馬場を 御旅所として神幸祭を行い、東日本では当社並びに大磯六所神社、又、福島県勿来関熊野神社に しか見られないという「鷺の舞」の奉納が行われ、 山車では祭典当日の進行に忠実に従って6種の「五所宮囃子」が奏でられる。 (共に「神奈川の民族芸能50選」選定) 例年御旅所から西参道周囲に100件近くの露店が立ち、多くの参詣者で賑わう。 殊に宮入り直前、祭場近くの中村川沿道で松明を燃やしながら行われる「神輿の川入り」、 その後の「山車の曳き別れ」の勇壮かつ幻想的な美しさが内外の好評をはくしている。
梵鐘
境内西側の坂の途中にある梵鐘は、寛永6年(1629)の鋳造で、高さ95cm、口径65cm、 中井町最古の梵鐘であり、井ノ口米倉寺の梵鐘とともに、第二次世界大戦の時、 供出(武器、弾薬の材料にするため国中の金属類が軍に徴収されること)を まぬがれた由緒あるもので、中井町指定重要文化財にも撰ばれている。
 (平成2年3月 中井町教育委員会)
神社の右手から「富士見台コース」の案内板に従って少しいくと、 丘の上に里山風景が続いています。
畑の周りに植えられているこの植物は何という名前なのでしょうか。 私の実家(建替られて今はない)の軒下にも、同じものが植えられていました。 雨の雫で地面が掘れないようにするためだったのでしょうか。 小さな青い実をつける植物で、結構丈夫だったように記憶しています。
畑では農家の方が作業をしていました。 円筒型に積み上げた稲藁も数個ありました。 堆肥にするのでしょう。
子供の頃の体験によるものなのでしょうか。 田畑で働く人の姿を見ていると、何故だか安心感で満たされます。
江戸民具街道
バス停まで戻り、その先の旭橋の手前を右へしばらく行くと、 江戸庶民の文化を訪ねる体験博物館の「江戸民具街道」があります。 あかり,火消し,お酒の道具,浮世絵版画,はかり, 滑車,菓子型,鉄びん,千両箱,人形など、江戸時代を中心とした民具が展示されています。 職員の方が説明してくれたり、TVKテレビで放映された番組のVTR(3分程度)を 見せてくれたりします。
Antique Museum 江戸民具街道
江戸後期の庶民生活が、昭和までの生活の根源を成しているにもかかわらず、 当時の道具類を実際に見ることは極めて少なくなりました。日本人は世界で最も道具類の 多い民族性を持つそうですが、昔の道具は本当に、見事な手技と驚きの知恵で結晶です。 そこには温かくて豊かな「心遣い」があるのです。実際に触れてみて動かすことで、 その心遣いと、大切に使い込まれてかもし出された得も言われぬ味わいを感じ取って頂きたい、 そして幅広く奥行きの深い種類や変化変遷を物自身が語ってくれるのを見てもらいたい。 言い尽くせない先人の生活の一端を偲ぶとともに、その豊かさ・おもしろさを体感して もらおうという体験博物館として、平成8年4月に開館致しました。
 入館料金 大人:500円、小中学生:400円 (20名以上1割引)
 開館時間 10:00〜17:00 (月曜休館)
展示内容
武士・町人にかかわらず、生活の根源的道具類並びに庶民が生活の糧を得るための道具類。 また、人々を励まし元気付け、疲れを癒し悲しみを慰めた物たち。 建物や健康のための防災諸道具と勉学を含めた民俗資料。 江戸期のものを主体として、明治・大正・昭和前期まで実際に使われていた物です。
あかりの道具達
人はおよそ40〜50何年ほど前から「火」を使い始めたと言われている。 火には「光」と「熱」の二つの効果がある。人はまず光を「あかり」とし、 熱を「煮炊き」と「暖をとること」に利用した。これら「照明」「炊事」「暖房」の 3つの機能は始め囲炉裏や焚き火に見られるごとく、未分化な一つの火によってまかなわれていた。
やがて人々の暮らしも多様化し複雑になるにつれて、生活様式の変化にあわせ、 一つの火は機能的に炊事は「竈」「焜炉」、暖房は「火鉢」や「行火」「炬燵」へと 分けられ、それぞれ独立した道具を生んでいった。 照明も「あかりの道具」として分化し、その地方や時代、また道具を 使用する人々の階段によって様々な変化をとげ展開していった。 今日のようにスイッチひとつで簡単に「あかり」が得られる時代と異なり、 当時の「あかりの道具」には一つ一つに生活の知恵が活かされた様々な工夫がかくされている。
「あかり」の移り変わり
人ははじめ身の周りにあった草や木など自然にあるものをそのまま燃やして「あかり」にした。 中でも「松」の木は樹脂を多く含んでいて燃えやすかったので、松明にしたり、 後には「ヒデ」「シデ」或いは「コエマツ」と言って松の根を掘り出して細かく割ったものを 燃やすなどして、農村や山村では長い間使用されていた。
やがて動物や植物から油をとって燃やすようになった。魚や獣を調理する時にでる油が よく燃えることに気付き、これを「あかり」に利用することを思いついたと言われている。 動物性の灯油は鯨や鰯などからとる魚油が主で、燃やすと煙りと強い臭気がでたから後に なると敬遠され、漁村や植物油の買えない家、屋外燈に使用が限られ、植物性の燈油が 広く使用された。植物性の燈油は奈良時代から宮廷や寺社で使用されはじめ、まず海石榴(椿) などの木の実油、次いで平安時代から荏の実など栽培植物が利用され、鎌倉時代には油座が 形成されるようになって室町時代の終り頃まで広く用いられた。江戸時代には菜種油を 製造する問屋・株仲間が江戸や大阪に組織され、菜種油は全国に普及して燈油の代名詞となった。 油を「あかり」に使うには、出来るだけ長持ちし、しかも油煙をたちにくくするために、 「燈明皿」や「ひょうそく」に燈油を満たすと、これを「燈芯」を浸して点燈した。 燈明皿やひょうそくは台の上に乗せたり、火が揺れたり消えたりしないように工夫した枠の 中に入れて使用した。前者を「燈台」と言い、後者のうち主に室内で用いるものを「行燈」、 屋外で使用するように作られたものを「燈籠」と言った。
蝋燭は6世紀頃仏教の伝来とともに日本へ輸入されたと考えられ、奈良時代には文献に 「蝋燭」の語が見られる。当時の蝋燭は「蜜蝋燭」と言い、蜜蜂の巣からとった蝋から 作られたものであった。蝋燭は貴重品で宮廷や寺院の蔵燈など一部の使用にとどまり、 輸入の途絶えた平安後期には植物性の燈油の製造が発達し、独自に松脂蝋燭の製造も 行われるようになったと言われる。戦国期の終わりには松脂蝋燭よりも明るく、しかも 油煙の少ない漆や黄櫨などからつくられた木蝋燭が国産化され、江戸時代になって生産が 進むにつれて次第に庶民にも広まって「燭台」や「堤燈」など様々な道具を生んだ。 江戸末期になると都市部にはかなり普及するが、それでも武士や町人の一部上層以外は 儀式や集会など大勢の人が集まる場合か夜間の外出とか旅行など特別の場合にだけ 使用が限られ、地方の村々にまで蝋燭が行渡るのはパラフィン製の西洋蝋燭の製造が 開始された明示になってからのことであった。
幕末になると西欧から石油ランプが輸入され、「洋燈」と書いて「ランプ」と読んで、 明治時代には全国に普及した。一部ではガス燈も燈され、東京の銀座通りや横浜など 主要都市で街燈に使われ、屋内燈としては新富座や鹿鳴館で使用されて文明開化の 一つのシンボルとなったが、一般では明治末まで石油ランプの使用が普通で、明治20年代 からは電燈と競合するようになって大正初年にはガス燈は見られなくなり、徐々に電化が 進んで電燈が一般的になった。
垂揺球儀(正時叛符天機)
TVKテレビ番組でも放映された学術的にも貴重な時計です。 普通の時計のような12分割ではなく、一日を13分割した特殊な計時法になっており、 現在のストップウォッチのように機能し、天体観測などに使用したのではないかと推定されています。
中井町重要文化財指定書 第24号
上記のものを中井町文化財保護条例に基づき、中井町指定重要文化財に指定する。
 (平成11年8月18日 中井町教育委員会)
打菓子型(木型)
もち米から作った「みじん粉」に砂糖を混ぜて木型に擦り込んで作る落雁や 練り切り等に使われたお菓子の型。この型の起源は「合類日用料理抄」(1689年、元禄2年)に、 「 菊、扇、草花、生類いろいろをほりこみたる木のかたへ 右の道明寺合わせたるを へらにて摺こみ 木のかたをうつふけてたたけば らくがんになり申候」 と落雁の作り方が記述されており、少なくとも江戸前期まではたどることができる。 後になってくると、芸術性が高められ、美術品と呼べるような素晴らしい意匠の型が現れてくる。
陶器の型
江戸末期、木型にかわって粘土(赤土)で作るようになりました。 彫刻物がかりではく、深鉢・丼物にも活用され、明治から大正の初期まで 赤土型が使われました。その後、普通の陶土で作られ、次第に石膏型に かわっていきました。
滑車
江戸時代の教科書にも、滑車の効用が解説されています。
死滑車にて重物を引揚げたるに、 その重さ十斤なるとき人力も亦十斤を費を、 若それに活滑車を加ふるとき重物より力の方速うに動くゆゑ力を省くなり
博物館を後にして行くと、ぽっかりとした田園風景の中を中村川沿いに道が続きます。 山里に続く田圃の道は野の香りが漂っています。
富士見橋から奥の雑色の里では、また違った山里風景になります。 向こうの小高い丘に穿たれているのが雑色横穴群です。
コンクリートで固められた岸では生き物も棲めなくなってしまいますが、 この辺りはまだ自然の川岸が残っています。 子供の頃には、このような川で魚とりや蟹とりをして遊んだことを思い出します。 水が多い所では泳いだりもしました。 土手に生えているイタドリやスカンポなどを採って食べたりもしました。 飽食の時代ではなかったので、結構美味しいものだと感じていました。
雑色横穴群
横穴の入口は1m位の大きさですが、奥行きは5m以上、横幅は3m以上の広さがあります。 中井町には、この雑色横穴群以外にも多くの横穴が分布しているようで、 「中井町横穴分布図」にその所在地が記してありました。 この風光明媚な地に定住した先人たちの暮らしが偲ばれます。
ここには、18基もの横穴が延長200mにわたって点在している。 大きさも様々で、造りも中央部に段があるものや、二穴が連なっているものもあり、 町内にある他の横穴群とは異なっている。 この横穴群は、8世紀中頃から同末期にかけて、郷土の先人によって造られたものである。
 (中井町教育委員会)
田圃に稲藁が人形のように並んで立っていました。 田圃一面に並んでいると、なんだか勇壮な感じがします。
木橋を渡ってバス道路を横切った所に、 神奈川県の天然記念物や名木100選に指定されている 槐(えんじゅ)の木があります。
中井のエンジュ
かながわの名木100選
後白河天皇の御代、 比叡山の僧義円法印東国行脚の途路、霊夢によりこの地に 祠を建てた後、五所宮八幡神社、中井雑色のこの地に休み、 挿した杖が発芽成長したものであると伝えられる。 県内のエンジュとしては他に類を見ない巨木・古木である。 昭和33年には神奈川県の天然記念物に指定されている。
  樹高 16m、胸高周囲 8.0m、樹齢 約800年(伝承)
エンジュは、北海道から中部以北の本州に分布する落葉高木で、 秋には扁平なさやができ、中に数個の種がある。 樹高18m、胸高周囲10m、樹齢約500年に達するものもあると言われている。
 (神奈川県)
雑色(ぞうしき)バス停
二宮駅(JR東海道線)まで、二宮駅行きバスで30分、 バスの便が非常に少ないので、事前によく確かめておきましょう。
 土曜 12:53 14:11 20:17
 日曜 14:36 20:16
待つようなら、五所ノ宮の方向に800mほど戻って比奈窪バス停まで行くと便が多くなります。
二宮駅(JR東海道線)まで二宮駅行きバスで25分,または, 国府津駅(JR東海道線)まで国府津駅行きバスで25分、 いずれも1時間に2本程度の便があります。