洒水の滝
散策:2002年12月中旬
【里山散歩】 洒水の滝
概 要 洒水の滝は、丹沢と箱根連山の間の山麓にあります。 「日本の滝百選」にも撰ばれ、水量もあって勇壮な滝です。 岸地区や内山地区では川や田畑が続いていて、昔懐かしい風景に出会えます。
起 点 山北町 山北駅
終 点 山北町 山北駅
ルート 山北駅…盛翁寺…河村城址公園…どんぐり公園…酒匂川…最勝寺…酒水の滝…文命西提碑…南原古墳群…八幡神社…室生神社…山北駅
所要時間 5時間10分
歩いて... 岸地区や内山地区の川や田畑の辺りを散策していると、 川遊びや野山探検など、幼い頃の懐かしい体験を思い出します。 そんな環境が少なくなった現代の日本は、 何か大切なものを捨ててきてしまったような感じがします。
関連メモ 鷹落場, 鷹落場
コース紹介
山北(やまきた)駅
山北駅(JR御殿場線)から歩き始め、 コースを一巡りし、また山北駅へ戻ってきます。 改札口を出て、駅舎の右手にある歩道橋を渡り線路の反対側へ出ます。 歩道橋を降りた所に案内板があるので、これからのコースを確認しておきましょう。 左方向へ線路沿いに行き、わかば保育園の前を右へ続く道を進んでいきます。 しばらく行った十字路の所に「河村城址」の道標があります。
盛翁寺
河村城址への道の途中に盛翁寺があるので、立ち寄っていきましょう。 親の気持ちを詠んだ都都逸が境内にありました。 なんとなく作者の気持ちが分るような気がします。
子供の世話には なりたくないが 孝という字が 懐かしい
そういえば、以前は親と同居するのが当たり前でした。 当代,先代,先々代と三代が一緒に暮らしている家庭が普通に見られました。 そういう中で、伝統や知恵が引き継がれていったのでしょう。 いつの頃からなのでしょうか、核家族社会となり、今ではその核家族でさえも崩壊し、 心の拠り所がなくなってしまいました。 世知辛い世の中になったものです。
河村城址公園
丹沢に端を発して山あいを流れ下る別名「暴れ川」の酒匂川を遠巻きにする小高い丘に 河村城址公園があります。 平安時代に河村氏によって築城され、北条時代には甲斐の武田軍に対峙したという、 まさに天然の要塞です。
河村城跡が位置するこの地は、城山と呼ばれ、北を旧皆瀬川、南を酒匂 川によって周辺山地と分断された自然の要害とも言うべき地形となってい る。城山の標高は約225メートルで、酒匂川との比高差は約130メー トルを計り、東へ浅間山・丸山と連なる独立丘陵状をなしている。
河村城の周辺では、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することか ら、数多くの城砦群が築かれている。甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢 城・中川城・大仏城山・新城・鐘ヶ塚砦が、駿河から箱根山地・足柄峠の 尾根筋を降ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場砦があり、さらに足柄平野縁 辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から 足柄平野に至る交通の要衝に位置している。
河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義の 二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子義秀は、源頼朝 の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年 (1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領河村郷に復帰できたと 「吾妻鏡」にある。町指定無形文化財「室生神社流鏑馬」はこれに由来 すると言われている。
建武の中興・南北朝時代と河村氏は松田氏とともに南朝側の新田氏に協力し 活躍するが、北朝側の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・ 秀経らは新田義興・脇屋義治とともに河村城に篭城する。正平7〜8年 (1352〜1353)にかけて、畠山国清と主将とする足利尊氏軍と戦火を 交えるが、南原の戦いで敗れ、新田・脇屋らは中川城を経て甲州に 逃れたと「太平記」にある。
時の河村城については、「管領記」に 「山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とあるように、 難攻不落の堅城であったことがうかがえる。 また、篭城戦の様子については、河村氏の菩提寺とされている 岸の故若院所蔵の「梅風記」(写)に詳しい。
南原の戦い後、河村城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て大森氏の 持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に 受け継がれていく。
戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城とともに 小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間には河村城の 補強を行なったことが「相州古文書」に見られる。その後、武田氏との 間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返し、天正18年(1590)豊臣秀吉の 小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるが、これらを伝える史料は 残っていない。
河村城の規模・郭配置については、「新編相模風土記稿」及び堂山の 鈴木友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため、 現地でも概略の位置は確認できる。各郭の名称は、絵図を参考に付けた ものであるが、記載のないものなどについては、調査・研究等に 使われている名称を便宜上使用している。
河村城は、急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分に生かした郭配置が なされており、大きく三つの尾根を掘切によって郭としている。現在地を 本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭・近藤郭・大庭郭・同張出郭を 配しており、絵図によっては張出武の南端を大手としている。本城郭から 北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には馬出郭・ 西郭・北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。郭の周囲には 水郭・帯郭が随所に見られ、本城郭と北郭の間に馬洗場、小郭と茶臼郭の 間にお姫井戸の伝説地があり、湧水があったと考えられる。
平成2年の本城郭及び堀切二ヵ所の試掘調査では、本城郭から柱穴と 思われるピット6個が検出され、古銭(煕寧元宝)・染付陶磁器などの 遺物も出土している。ピットの覆土にはいずれも焼土・炭化物が含まれて おり、根固め用と考えられる河原石が認められた。また、河村城東端の 大庭郭張出部東側の堀切では、幅約20メートル・深さ約11メートルの箱薬 研状を呈する堀であること、蔵郭と近藤郭間の堀切は、幅役30メートル・ 深さ約15メートルの河村城最大の規模であることが確認された。
さらに、平成4年の本城郭から茶臼郭の間の堀切二ヵ所と小郭の発掘調査 では、小郭両側の堀切はいずれも畝堀の形態であり、本城郭側の堀切では 8本、茶臼郭側の堀切では5本の畝が検出された。また、小郭平坦面は 一辺約15メートルの三角形状を呈し、縁辺には地山を削り出して低い土塁が 設けられており、南・北端には「つぶて石」に利用したと考えられる拳大 ほどの河原石の溜場が検出されている。郭全体には焼土・炭化物の薄層が 覆っており、焼失した可能性があるが、ピットは4個確認できただけで 建物の存在を示唆するまでには至っていない。
また、平成5年の河村城の根小屋とされる岸場板地区の土佐屋敷・秀清屋敷 伝承地の試掘調査では、室町時代から戦国時代にかけての館跡と思われる 溝が一部確認されており、当時すでに館・詰めの城の関係が成立して いた可能性がある。
 (山北町)
公園からは落葉の絨毯の道を降っていきます。 足を踏み出す度に「サクサク」と気持ちのいい音がします。
落葉樹の森では秋から冬にかかて葉が落ちて冬枯れになりますが、 常緑樹の森では春に新しい葉が出揃ってから古い葉が落ちます。 そのため常に緑色をしているように見える訳ですが、 常緑樹の森で体験する5月頃の落葉の絨毯は何か場違いな感じがします。
山道を降っていくと、酒匂川沿いの岸地区にでます。 浅い谷に、田畑と民家が続いています。
どんぐり公園
岸地区にでて左へ少しいくと、どんぐり公園があります。
みどりのふるさと・花いっぱい運動
−緑の募金によるふれあい緑化事業−
ふるさとにみどりを育て、花をいっぱい咲かせましょう。 みんなで力を合わせてこの運動を進めております。 ヤマブイは平成9年の春に、みつばツツジやグミなどは 平成10年の秋に植栽しました。
 (日向・中河原堤防美化推進会)
 (かながわトラストみどり財団足柄上地区推進協議会)
どんぐり公園から下に見える畑地へと降っていきます。
畑地ではみかんが栽培されていました。 昔懐かしい光景に、しばし足を止めて見入ってしましました。
酒匂川
畑地を真直ぐに進んでいくと、酒匂川の堤防にでます。 左に酒匂川、右に果樹園を見ながら、堤防の上を歩いていきます。 川に降りると、魚採りや蟹採りをして遊んだあの頃が懐かしく思い出されます。
ダム放流による増水に注意
この川の上流11.9kmのところに三保ダムがあり、 ときどきダムに貯った水を流し、この川の水が 急に増えることがありますから注意して下さい。 また、ダムに貯った水を流すときは左記のとおり サイレンやスピーカーなどで知らせますので、 そのときは危険ですから河原に降りないで下さい。
サイレン吹鳴方法
1分吹鳴、5秒休止、1分吹鳴、5秒休止、1分吹鳴
 (神奈川県三保ダム管理事務所)
収穫したみかんを運搬している農家の方を見かけました。
畑の脇に座って、働く親の姿をじっと眺めていた子供の頃の記憶が重なってきます。
私の実家は農業をしていましたが、私に手伝わせることはありませんでした。 跡を継がせようとすると、普通は仕事を手伝わせながら覚え込ませていくのでしょうが、 私の親は、「農業は体にきついので跡は継がなくてもいい」と言って、 決して手伝わせようとはしませんでした。そのため、私はいつも畑の脇に座って、 親の働く姿をただじっと眺めているだけでした。 その姿を見ていると何か大きな存在に思えて、安心感を覚えたことを思い出します。
日向用水
日向用水は、地区の伝承によると、たび重なる酒匂川の氾濫により 高瀬堤防の決壊と河床の低下が幾度となく起こったため、 用水の取水口は上流への移動を余儀なくされ、ついには酒匂川と 皆瀬川の合流地点で取水するまでになり、役野地区をへて城山西裾の 岩盤に用水路を確保し日向へと通水されていました。 江戸時代後期、相次ぐ災害により用水路の確保が困難を極めていたおり、 名もなき夫婦者が高瀬堤防の際に小屋を建て城山西裾に素堀の随道を 掘る作業に着手しました。随道の完成を見たのは、着手した時生まれた 子供が歩くようになった頃と言われ、そのことから工事期間は3年位かと思われます。 随道の長さは約90メートルで、日向側より50メートル位は腰を屈めて 通れますが、その先は腹ばいにならなければ通れないほど狭く大変な 作業だったことが伺いしれます。 この随道の開通は日向水田約八町歩の収穫量安定の礎となり、 今日の繁栄をもたらしました。 高瀬橋の架け替え、道路の拡幅などでこの随道附近の地形が一変したので、 往時を偲ぶ一助となればと建立するものです。
 (山北町)
最勝寺
酒水の滝の手前に最勝寺があります。 文覚上人が不動明王を安置したと伝えられ、 洒水の滝不動尊とも呼ばれています。 本堂の前では、花輪で飾られた多くのお地蔵様が迎えてくれます。
酒水の滝(しゃすいのたき)
洒水の滝は足柄上郡山北町にあって、平山の滝、又は灑水の滝といわれていたが、いまは一般に洒水の滝と呼ばれている。 その水源は西北を限る800メートル及び500メートルの連嶺の東南方山地の水を集めて流れるものである。 附近一帯の地質はよく磨かれた大小の礫を含む礫岩層で第三紀の足柄層と呼ばれている。 この足柄層の隆起に伴って生じた裂線を浸蝕する瀑流が、 標高300メートルから200メートル位の間で三段の瀑布となっている。 その高さは三の滝29.7メートル、二の滝16メートル、一の滝69.3メートルあって、以下滝沢川となって酒匂川に合流する。 浸蝕谷の入口平山から滝壷までの間には礫岩層が至る所に横たわって滝沢川不断の浸蝕によって滝口が後退し、 現在の絶壁に東面してかかっている滝は関東屈指の名爆である。
 (神奈川県教育委員会)
日本の滝百選 洒水の滝
森と水と山の国日本には、いたるところに名爆があります。 深緑の断崖から落下する純白の滝を先人たちは「神」とあがめ、 かけがえのないふるさとの遺産として残してくれました。 その清く尊い御地の滝が、全国から公募した「日本の滝百選」の 一つに撰ばれました。美しい日本の自然を象徴するこの名爆が いつまでも汚れることなく、子孫に継承されるよう祈念いたします。
 (緑の文明学会、グリーンルネッサンス、緑の地球防衛基地)
 (後援 環境庁、林野庁)
滝祭り俳句大会 秀逸作品
暫くは 無の世界より 滝を見た 恵美子
滝飛沫 静かに浴びる 観音像 末江
滝音は 昔を語る 山の唄 英子
滝の音 して透明な 母の里 仙二
ふりむけば 滝一条に 昏れのこる 雑舟
滝しぶき 浴びる少女の 肌羨し てる子
瀧に濡れ 親子無心に 手を合す 湘生
大滝や どの子も白き 喉反らし 由里子
絶え間なく 轟く滝は シンフォニー 房江
こだわりを 捨てれば滝の 静かなり 美津子
読みとれぬ 不動の由来 滝しぶく 祐吾
瀧近し 木橋の左右 すべり止め 康代
水を打つ 開店前の 滝見茶屋 妙子
滝轟ごう 背筋何時しか ピンと伸ぶ 静子
名水百選 洒水の滝
名水百選認定書
名水の名称 : 洒水の滝・滝沢川
所在地 : 神奈川県足柄上郡山北町
右は水環境の保全状況が極めて優良であるため ここに「名水百選」の一つとして認定します。
 (環境庁水質保全局長)
洒水の滝を後にして、丘を越えて車道をいくと、内川沿いの内山地区にでます。 緩やかな谷あいに幾重にも連なる棚田が続いています。
田圃のあちこちに、稲藁が積み上げてありました。 遠目には、小屋に見えたり人の姿に見えたりします。 こうして、また自然に帰っていくのでしょう。 「また来年も実りをよろしく」と願わずにはいられません。
道端に柿の木が一本生えていました。 熟れた実をいっぱいつけ、重たそうにしていました。
私の実家や畑の周りにも、柿・無花果・ぐみなどの木が沢山植えられていました。 季節になると、木から実を採ってよく食べたものです。 渋柿の見分け方を聞いたようにも記憶していますが、必ずしも一筋縄にはいかず、 齧ってみて「わぁ渋い!」ということが何度もありました。
農作業に使った資材が田圃の脇に置いてありました。 以前はこのような光景がよく見られたものですが、 最近では田圃自体が減ってしまい、余り見かけなくなってしまいました。
川の土手を越えて田圃が広がっています。 このような環境をいつまでも残していくことが、 日本の豊かさを維持していくために必要なのだと感じます。
文命西提碑
酒匂川は、宝永4年(1707)の富士山大噴火による降灰のため 河床が埋まり、岩流瀬・大口付近は大水が出るたびに堤防が決壊し、 周辺の農民たちは甚大な被害を被った。 このため、荒川・多摩川の治水工事を手掛けた川崎宿名主田中丘隅は、 幕府の命により享保11年(1726)荒れ果てた酒匂川の改修工事の指揮にあたった。 丘隅は、弁慶枠や蛇籠に石をつめ、その一つ一つに僧侶が陀羅尼経を 読んでから川岸に積み上げ、提が完成するとその上に中国の水神である 兎王の廟を祀った。兎王の別称が文命であることから「文命提」と言われ、 川の東西で西提(岩流瀬提)と東提(大口提)と呼ばれている。 この提等の完成により、酒匂川流域の村々は次第に復興していった。 この碑は、丘隅が文命西提の完成を記念して建立したもので、 「享保11年丙午夏5月25日武蔵国川崎田中丘隅立」と刻されている。 また、文命提の名については、東提碑に詳しく記されている。
 (山北町教育委員会)
南原古墳群
南原古墳群は、酒匂川が丹沢・足柄山地の支流を合わせ、 足柄平野に流れ出ようとする中流域左岸段丘上に立地します。 この場所は、南北朝時代に豪族「河村氏」が滅亡した「南原の戦い」の 主戦場でもあり、江戸時代の古図には「塚」として記載されています。 この古墳群の2号古墳は既に削平・生滅しており、新たに確認された4号 古墳を含め4ヶ所の古墳で構成されていますが、10〜20基の大古墳群で あった可能性が高いと考えられています。 平成10年に1号・3号古墳を試掘調査した結果、 1号古墳は、最大幅2〜2.5m、高さ1.5m、奥行き5〜6mで 酒匂川の転石を利用した野石積みの、横穴式石室を主体部とした直径30m級の 円墳と推定されます。出土遺物は、管玉2点、琥珀玉2点、一対の銅釧、 大刀子1点(長さ39cm)刀子1点(長さ16cm)です。3号古墳は、1号古墳から 東へ200m程離れた柑橘園地内にあり、1号古墳と同様に、幅1.2m、高さ1.2m、 奥行き4〜5mの野石積みの横穴式石室で、直径20mの円墳と推定されます。 出土遺物は、1体の人骨と、直刀1振(長さ100cm)腕輪として装着されたと 思われる土玉25点です。両古墳の築造は、出土した提瓶の年代観から、 6世紀後半から7世紀初頭に構築されたものと思われます。 足柄平野周辺に存在する古墳群は、小田原市諏訪の原古墳群、 南足柄市塚原古墳群、山北町向原地区天社神社境内の水上古墳などが ありますが、ほとんどの古墳群が消滅・破壊されてしまった現状では、 本古墳は足柄平野一帯の歴史を探究していくうえで、大変貴重な遺跡と なっています。なお、この古墳群から出土した遺物は、中央公民館に展示 してあります。
 (山北町教育委員会)
八幡神社
鎮座地 : 足柄上郡山北町岸1900番地
新編相模風土記稿によれば「村の鎮」3年に一度祭礼を行なう。 往古祭日は8月15日にして城山にありしが後年此の地日月の宮の 社に移して現在祭日は4月3日なりしし氏子の総意により4月第一日曜と なれり。村民所蔵の古図によればはじめ河村城内にあり後梵天山に 遷しその後今の地に移せしとある。
境内には天然記念物に指定されている楠の木があります。 樹高20メートル、根廻り7.2メートル、樹齢300年(推定)で、 その姿は根本から約6メートルのところで大きく二つの幹に分かれ、 しかも斜めに張り出した巨木で、その葉は幹がかくれる程茂っていて 樹勢は旺盛です。
室生神社
室生神社には、神奈川県無形民俗文化財に指定されている流鏑馬が伝わっています。 当神社流鏑馬の起源は河村義秀公が、鎌倉で行なわれた流鏑馬の 賞により旧領に復帰できた故事「源頼朝が石橋耶麻挙兵の際平家方に 味方したため領地を没収された(新編相模国風土記稿)」によるとされている。 この行事が建久元年、復帰された翌年から挙行されたとすれば790有余年となり、 またもっと新しく鞍に記されている寛永12年でも340余年の長い歴史がある。 その後、氏子の手により継がれ、 一の的(早稲)二の的(中稲)三の的(晩稲)の当たり矢によって 翌年の稲作吉凶を占ったと伝えられている。昔、馬は4頭であったが、 最近は2頭で行なわれる。他は昔ながらの兜をかぶり陣羽織を着て 伝統を守り現在は11月3日(文化の日)に行なわれる。 郷土の貴重な文化財として、指定し保護するものである。
 (山北町教育委員会)
山北(やまきた)駅
室生神社から県道まで戻り、北へと進んでいきます。 国道246号を横切って左前方へ進み、踏切を渡って左手へ進んでいくと、 山北駅(JR御殿場線)に着きます。