日本民家園
散策:2002年11月下旬
【里山散歩】 日本民家園
概 要 日本民家園は、昔ながらの多摩丘陵の地形を活かした大きな生田緑地の中にあります。 生田緑地では雑木林の中を見どころいっぱいの散策路が巡っています。 日本民家園のほかにも、青少年科学館、プラネタリウム、岡本太郎美術館、 伝統工芸館、枡形山展望台などがあります。
起 点 川崎市 向ヶ丘遊園駅
終 点 川崎市 向ヶ丘遊園駅
ルート 向ヶ丘遊園駅…日本民家園…向ヶ丘遊園駅
所要時間 2時間50分
歩いて... この日本民家園の中を歩いていると、昔懐かしい時代にタイムスリップしたような感じがします。 各地の風土に合った建築様式が採用されていて、どの民家も暮らしやすくできているように感じました。
関連メモ 舞岡公園
コース紹介
生田緑地
向ヶ丘遊園駅(小田急小田原線)から歩いて12分ほどで、生田緑地に着きます。 緑地の入口からの道をまっすぐに行くと、日本民家園の玄関にもなっている建物があります。
日本民家園
日本民家園は、急速に消滅しつつある古民家を永く将来に残すことを目的に、 昭和42年に開園した古民家の野外博物館です。 東日本の代表的な民家をはじめ、水車小屋・船頭小屋・高倉・農村歌舞伎舞台など 20数軒の建物を見ることができます。 また本館展示室では、これらの民家に関する基礎知識を学ぶこともできます。 園路には、道祖神・庚申塔・馬頭観音・道標などの石造物、 民家内には、農具・機織り・藁細工・竹細工などの生活用具類も展示され、 昔の民家生活を偲ぶことができます。
日本の住まい
民家は伝統的な形式の民衆のすまいである。 日本の民家は気候、風土、階層などと深く結びつき、 全国各地にさまざまな特色を生み出した。 このような民家をみる場合、間取り(生活)、 つくり(構造)、かたち(意匠)の三つの視点がある。 「間取り」は内部の生活が直接反映したもの、 「つくり」は骨組み、「かたち」はこれらが生み出した姿である。 実用的につくられた日本の民家、そこには長い月日にわたって 育まれた建物の美しさが豊かに含まれている。 民家で最初に目につくのは屋根である。屋根の形は切妻造、入母屋造、 寄棟造の三種類である。そして間取りとの関係により屋根形が 組み合わされて変化する。また、屋根を葺く材料により勾配(屋根傾斜)が 異なるため、同形の屋根でも外観上の印象はちがってくる。 日本の民家は、気候風土や生活様式に応じて各地に特色ある屋根を生み出してきた。
平場の民家
平場の農村集落の形態を大まかに分類すると、 散村型と集村型とに分けられよう。散村型は農家の屋敷が隣家と接することがなく、 村の中に広く分散しているのに対し、集村型はその屋敷がほとんど集落的な かたまりとなっている形である。 散村型の農村集落では、屋敷の周囲に防風林を設けるところが多い。 これは境界を区切るとともに家を強風から護るためのもので、 特に季節風の関係で、山陰・北陸地方や関東平野に著しく発達しているのが特色である。 一方、集村型の密集した集落をくつっているところの屋敷は、 土塀や生垣・竹薮で区切ったり、また屋敷全体を付属屋などの建物で 囲んだりする。あるいは集落全体を濠で囲むということも見られる。 民家は自然に対し、また社会に対しさまざまな防御施設を考えてきた。
山地の民家
国土の約7割が山地であるわが国では、古くから山肌の急な斜面にも 集落が形成されてきた。元々平坦な土地が無い所に集落を開くには 多大な労力を必要としたが、水さえ確保できれば日当たりの良い斜面は 畑作にも利用でき、必ずしも住みにくい場所とばかりは言えなかった。 一般に山腹の斜面地で家を建てる場合、宅地は山を削り石垣を築いて造成 しなければならないため広い空間は確保できず、宅地は細長く横に 広がったものとなってしまう。山地の民家に部屋を横一列に並べた 併列型の間取りが多いのもそのような制約があるためである。 倉、畜舎、便所といった付属屋は、主屋と同じ段に置かれる場合もあるが、 しばしば主屋の上方や下方に別の棚地を造成して機能的に配置されている。 集落はこうしたいくつもの棚地に建つ建物から構成されており、 それが山村特有の立体的景観をつくり出している。
海辺の民家
古くから漁業を主な生活手段としている村では、魚群をすぐ追えるために 船着き場の近くに集落を構える所は多い。それも、海べりの狭い土地に 驚くほど密集した形で建てられている。 このような所では、家の周りに空地がないので、井戸は床板を上げて床下を 掘ったりまたかけ桶を使った共同の水使い場を設けるなど、水の確保には 大変な努力と工夫を重ねていた。 集落は、その建設にできるだけ有利な自然条件の場を選んでつくられるのが 一般的な原理であるが、必ずしも地形や日当たり・水の便等の良い場所を 撰んで営まれるとは限らない。生活全般との関係から困難な自然条件に 対抗してつくられる村も存在する。そこには、私たちの祖先が営々と築きあげた 優れた敷地計画や造形美がしばしば見られる。
町の民家
町には城下町・門前町・宿場町・港町とさまざまなタイプがあるが、 これらはみな、社会が安定し、経済活動が活発化した江戸時代に著しく 発展したものである。またこのような町の発展は、それに付随して、 一般に町屋と総称されている町独特の民家の発達を促した。 しかし町屋の発達には、その町の性格や土地柄、住み手の身分・階層・職種等が 大きく影響を与えていた。そのため、各地で見られる町屋の形態は 実に多様なものとなっている。 どの町屋にも共通する特色は、間口が狭く奥行きの長い短冊形の敷地に、 住まいとしての独立性と快適さを保つための工夫が施されているということである。 通常、主屋は街路に面して間口いっぱいに建てられており、便所・風呂場・ 蔵・納屋等の付属屋は、主屋の背後の敷地に機能的に配置されている。
原家
旧所在地:神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町
旧原家住宅は大正2年に竣工したといわれています。 また、この建設には22年の歳月を費やしたともいわれていますので、 逆算すると明治24年から着工したことが推測できます。 建主は8代目文次郎と9代目文次郎の2代にわたり、9代目の時、 明治44年4月16日に上棟式が行なわれました。 江戸時代の民家は、さまざまな建築上の制約がありましたが、 明治に入るとそれらの制約がなくなるとともに、宮大工の技術が 民家建築の要所にはいり、がっしりとした豪壮な住宅がつくられるように なりました。原家住宅は、そのような日本の木造建築技術が高度に 発達した明治後期の貴重な建造物といえます。 なお原家は、古くからこの地域の地主で、屋号を「石橋」といい、 かつては肥料や油類の問屋を営んでいました。現在の当主・原正己氏は 11代目となります。
鈴木家
旧所在地:福島県福島市松川町
(改修中のため中には入れず)
この家は、もと奥州街道の八丁目宿にあった馬宿で、 19世紀初期に建てられました。 市に向う馬とその馬方が泊まる宿で、土間に内馬屋を設け、 そこには12頭の馬をつなくことができました。
井岡家
旧所在地:奈良県奈良市高畑町
この家は、もと奈良の街でも東はずれの旧柳生街道に面していた町屋で、 18世紀のはじめごろに建てられたものとみられます。 はじめは脂屋で代々「与兵衛」を名乗っていましたが、のち線香屋となり、 その製造と販売をしていました。 瓦葺きの屋根・漆喰の外壁や正面左の丸太格子(虎格子ともいう)・ 引上げの大戸・右側のアゲミセなどいかにも町屋らしい外観です。 内部は床上部分がタテ一列に並んでいることや、「つし」と呼ばれる 中二階は、生活の場にあてられたものではなく、丈の低い物置き場で ありました。それから戸や明り障子を通す溝(つきどの)が開閉に 必要なだけに限って掘ってあるなど、古い特徴が多く残っています。
佐地家門・供待
旧所在地:愛知県名古屋市東区長堀町
この建物は、尾張藩士 禄高250石 石川竹右衛門という侍の屋敷の一部で、 入口の棟門、その横に主人のお供をしてきた人が帰りを待っていた供待、 それに屋敷をかこむ塀の一部が移築復原してあります。 主屋は、移築できませんでしたが、旧三澤家住宅を主屋に見立ててご覧ください。 第二次大戦をも免れて残り、名古屋城の東南、かって武家屋敷が並んでいた 東区長堀町(現、白壁)にありました。 三州瓦の屋根、下見板張りで漆喰塗り込めの壁、道に面した出格子窓、 門両脇の提灯釣りなどの構えに、江戸後期に建築された武士の 建物らしさを感じさせます。 他の庶民の家と比べて、ご覧ください。 なお、昭和初期に買取られたものなので、前所有者を冠してあります。
三澤家
旧所在地:長野県伊那市西町
この家は、もと伊那街道(三州街道)の伊那部宿に あった家で、天保年間(1830〜44)の末ごろ建てられたものです。 当時この宿場で組頭(名主の補佐役)をしていた家で薬の製造と販売を 業としていましたが、明治維新のころは旅人の宿泊を兼業したこともありました。 山国の宿場の家としては、かまえもすぐれていますが、板葺き石置きの 屋根に地方色がうかがわれます。
水車小屋
旧所在地:長野県長野市上ヶ屋
この水車は、もと長野市内の上ヶ屋という国道207号線より少し 左寄りに入った山村の一隅にあったものです。 建築年代は、使用材のふるびた度合などから、江戸時代末期であろうと 推定されます。 もとの車輪は、いたみがひどくもう役に立ちませんので新しい材を用いて まったく同様な造り方で同じ形に造り替えましたが、もともと小屋に くらべて早くいたむためか車輪だけ後から取付けられるような仕組みに なっています。 復原にあたっては、出来るだけ現地の地形に似せた水路をつくるなど、 水をガケ上からの樋によって導かれるようにしました。
佐々木家
旧所在地:長野県南佐久郡八千穂村
この家は、千曲川ぞいの上畑の 名主を勤めた佐々木さんの住宅で、享保17年(1731)に建ち 10年後の寛保3年(1742)に川の氾濫に遭ったので翌年に 小高い所に移建し、さらにその4年後の延亨4年(1747)、 役人等の接待用に2室を増築しました。 その間の経過や事情が古文書によって知れる貴重な民家です。 この地方は比較的降雪が少ないため細い柱や梁で構成され、 全体に軽快な美しさを感じさせています。
江向家
旧所在地:富山県東砺波郡上平村
この家は、平家の落人部落と伝えらる越中五箇山で 組頭を勤めた江向氏の住宅で18世紀はじめころに建てられた、いわゆる 合掌造りです。佛間がありますが、著しく狭くて1室としてみとめにくいほどです。 鴨居と敷居の間の内法も低く、寝室の入口の敷居を一段高くした帳台構という こしらえにしてあることなど、古い住宅の型や作り方が見られます。
山田家
旧所在地:富山県東砺波郡上平村
この家は、秘境越中五箇山でも飛騨との 境に位置する桂集落にあった山田さんの住宅です。 この家は、出入口部が屋根の流れの方向につく「立入」で、「しゃし」と よばれる小部屋がついています。このように越中に位置していながらも、 飛騨白川方面の合掌造りにみられる特色をもっています。 二階を「あま」、三階を「そらあま」とよび、 養蚕や食糧、燃料などの貯蔵の場として利用されていました。 建築年代については、建築部材をチョウナ・マサカリなどで仕上げている点や、 「ちょうだ(納戸)」の入口に帳台構があることや、「仏間」が狭いことなどから、 17世紀後期ごろの建築と推定されます。 なお、別棟の便所は、主屋より遅れて造られましたが、景観の一部として、 元の位置に復原してみました。
野原家
旧所在地:富山県東砺波郡利賀村
この家は、越中五箇山で中ぐらいのくらしを していた農家の野原さんの住宅で、18世紀中ごろに建てられました。 屋根の部分は合掌造といって、豪雪に耐えるように急な勾配に造られ、 これを支える梁は崖地に成長した根本の曲がった木を用いて、 屋根の積雪の圧力にたえるのに効果をあげています。 屋根裏になる部分は養蚕と半年近い積雪期の日常の食糧などを蓄えるのに 当てられらました。
山下家
旧所在地:岐阜県大野郡白川村
この家は、もと飛騨の白川郷といわれる地方に あったもので、19世紀初めごろに建てられた合掌造りです。 一時、川崎駅附近にあって、料理店として営業したので珍しがられましたが、 その後、所有者より本園に寄贈されたものです。 この家の屋根裏は二階から四階までに分かれていますが、合掌造の家は どこも二階は養蚕に用いられ、三階以上は半年近い積雪期のために食糧燃料 などをたくわえるのに使用されました。 現在この白川郷の家の一階は休憩所と学習室にあてられ、二階は白川郷附近の 民具を中心とした展示場として公開しております。
ここでは、一階にあがって「そば」などの軽い食事をすることができます。
作田家
旧所在地:千葉県山武郡九十九里町
この家は、九十九里ヶ浜の作田と呼ぶ 漁村の網元(漁夫の頭)作田氏の住宅で、17世紀後半に建てられました。 母屋と家内作業や炊事をする土間(窯屋)とが棟を別にしながら接続しています。 これを別棟造(分棟型)といわれます。 母屋には来客を応対したり、もてなしをするための2室にわたる広い部分を もっていて、居間の梁組は曲材を巧みに組合せていることなどや、 海に生きる人たちの頭の住宅にふさわしく豪快な特色のある家です。
沖永良部の高倉
旧所在地:鹿児島県大島郡和泊町
この高倉は奄美郡沖永良部島にあったもので、19世紀中頃に 建てられたものです。穀物などの貯蔵庫として利用され、床下部を 開放として風通しを良くして湿害を防ぎ、また円柱の上部に鉄板を 巻いてネズミなどが登らないような工夫をしていました。 地面から床上まで2.4mあり、一木に段をきざんでつくりだした梯子を かけて出入りしました。周囲の石垣は強風を防ぐためのものです。 柱の上に茅葺き屋根をのせた高倉は、沖縄・奄美諸島・九州南端・ 八丈島など黒潮の流れに沿った地域に分布しています。
広瀬家
旧所在地:山梨県塩山市上萩原
この家は、山梨県塩山市の北郊の山間地区にある上萩原にあった 広瀬さんの住宅で、17世紀末ごろに建てられました。 切妻造りの屋根で居間は床板をはらないで土座とし、 土間にたつ鳥居柱と呼ぶ2本の柱は特色あるのもです。 壁が多く、軒は低いなど暗くとじこめられた形など、特色を いくつももった家です。
太田家
旧所在地:茨城県笠間市片庭
太田家は、平面上は普通の民家と大差ない。しかし外見は 二棟の建物(床上部と土間部)が軒を接して寄り添っている。 このような民家を分棟型と呼ぶ。分棟型の最大の特徴は 二棟の屋根を繋ぐ大きな雨樋で、半割丸太を刳り抜いて 雨水を屋外へ導いている。 太田家は大きな土間が印象的な広間型三間取りの住宅である。 まず土間棟の大戸口を入ると広い空間があり、右手にウマヤ、 左手に主屋が展開する。主屋と土間との境が気にならないのは、 この部分の柱を省略するための工夫があるからだ。
北村家
旧所在地:神奈川県秦野市堀山下
この家は、丹沢山の登山口である神奈川県秦野市堀山下に 江戸初期から住んでいた北村さんの住宅で、村でも暮らしが 上の方と云われる農家でした。 解体の際、発見された柱等の頂部のほぞの墨書から貞亨4年(1687)に 建てられたことが判り、東日本の古民家の年代をきめるための目安になる 貴重なものとなっていました。押板、帳台構、格子窓等古い特色を 残していながら極めて開放されているなど、たくさんの進んだ手法が 取入れられています。
清宮家
旧所在地:神奈川県川崎市多摩区登戸
この家は、川崎市多摩区登戸の清宮氏の住宅で、17世紀中ごろに 建てられた農家です。 家の裏と両側面は土壁ですっかりふさぎ、そのために屋内は暗く とじこめられた形です。 また土間の小屋梁は曲材を巧みに用いて組み、土間と床上境の柱は細く、 しかも柱間には格子窓をつけたり「ひろま」の後方一間には押板 (床の間の前身)を備え、その裏側に細長い寝室を設ける等 古い特徴が多く認められます。
伊藤家
旧所在地:神奈川県川崎市麻生区金程
この家は、川崎市の西北端、麻生区金程の伊藤さんの住宅で、 18世紀の極くはじめころ建てられたものとみられています。 そのころ、この家のあった金程の村では上級の住宅であったようです。 「ひろま」は南西に格子窓を造り、床は竹の賽子敷きにし、 「ひろま」と土間、並びに「でい(客間)」との境は一間ごとに柱が 立っているなど、古い形を示しています。
蚕影山祠堂
旧所在地:神奈川県川崎市麻生区岡上
このほこらは、もと川崎市麻生区岡上の東光院境内にあったものです。 蚕影山というのは、蚕(かいこ)の神さまのことです。 この祠堂は宮殿と覆堂の二つからなり、内部の宮殿は文久3年(1863)に 造られたことが、宮殿背面にある木札の墨書からわかります。 また、宮殿の前面と左右両側面には、見事は彫り物がありますが、 特に両側面のものは、インドの王さまの姫であった金色姫の苦難の 物語りが示されています。それは獅子の谷や「たか」の山、あるいは 丸木舟にのせられて大海に捨てられ、ついに王宮の庭に生き埋めにされたなどの はなしで、いずれも奇しくも救われるという筋のものです。 このように彫刻でこの金色姫物語を示したものは、ほとんど他に例がないようです。
岩澤家
旧所在地:神奈川県愛甲郡清川村
この建物は、愛甲郡清川村煤ヶ谷にあった農業と林業(主として炭焼き)を 生業としていた上層民家の主屋です。 間取りは、園内に復原されている他の神奈川の民家3棟と同じヒロマ型で、 シシマドもついていますが、これがデエの側面にもついているのは珍しい例です。 構造としては、四方下屋造りであり、この点は他の神奈川3棟と同じですが、 下屋寸法が3棟の場合は一間であるのに対して、この家は半間であり、 さらにデエ前面に半間巾の取込んだ下屋があるのもこの家の相対的な 古さをあらわしています。 また、壁の下が土壁、上が板壁と併用していることも山間部の民家らしさを 感じさせます。 これらのことから神奈川民家の発展過程を知る重要な愛甲地方の 代表的遺構といわれ、建築年代は17世紀後期と推定されています。
船越の舞台
旧所在地:三重県志摩郡大王町
この舞台は、もと三重県志摩郡大王町の船越という漁村の神社の境内に あったもので、安政4年(1858)に建てられました。 延面積は232u(約70坪)、間口10.84m(35.8尺)、奥行9.08m(20尺)、 舞台の左側・背面・中二階の三ヶ所に楽屋をもち、右(上手)に太夫座、 左(下手)に花座という張り出しの「出語り」を備えており、舞台の 仕組みとしては経5.45m(18尺)の廻り舞台・石垣積の奈落・花道・スッポン・ 中釣り賽の子・大賽の子(ぶどう棚)など歌舞伎芝居を演ずるのに必要なものは ほとんど備えています。屋根の大梗鬼瓦の鰭は、菊水を篭彫にしたなど すばらしいもので、鬼瓦や軒の瓦には、いずれも「若」の字をあらわし、 この舞台の建設・運営に若者組という古くから伝えられて来た青年たちの 組織があったことを物語っています。
菅の船頭小屋
旧所在地:神奈川県川崎市多摩区菅
この船頭小屋は、多摩川の菅(川崎市多摩区)の渡し場にあって 船頭が客待ち、休憩、川の見張りなどをしていた所で、 昭和初年に建てられたものです。大雨などで川の水が急増して 危険が迫った場合は、小屋の四隅についた鉄の環に丸太を通して 担って移動するなど、舟とともに安全なところに避難させました。
工藤家
旧所在地:岩手県柴波郡紫波町
この家は、岩手県柴波郡紫波町にあったおよそ18世紀末ごろに 建てられた曲屋です。 曲屋とは、主屋に対してL型に曲がって梁出部が附いており、 その部分は主として「うまや」が占めています。 このような家は、岩手県の大半を占める旧南部領に分布していた住宅形式で、 古くから南部の曲家と呼ばれ、「うまや」の部分は数頭の馬の飼育に あてられました。 曲屋の中には、はじめ直屋であったものに後になって梁り出し部をつけたものも ありますが、この旧工藤家は、はじめから曲家として建てられたもので、 しかもこの種の家としては一番古いものといえましょう。
菅原家
旧所在地:山形県東田川郡朝日村
この家は、もと山形県鶴岡市の南西、信仰の対象として高名は出羽三山の ふところに抱かれた東田川郡朝日村松沢の農家で、18世紀後半に 建てられたものです。 屋根は寄棟造りで、「はっぽう」と呼ばれる明りとりの張出窓が 設けられた一部三階建てとなっております。また、正面の中二階には 積雪時の出入口があるなど、随所に多雪地帯の厳しい冬に対処する工夫が みうけられます。台所には、裏山の湧水を直接とり入れる木樋が通り、 旧屋敷内には多くの用水池が設けられておりましたが、これらは用水として だけでなく、「雪おろし」の捨て場としても利用されておりました。 各部屋などの呼び名も、この地方特有の郷土色豊かなものです。
日本民家園にある各地の民家を見ていると、私が生まれ育った茅葺きの家を思い出します。 17歳の頃に取り壊されて新しい家に建て替えられたので今はありませんが、 思い出せる限りで平面図を書いてみました。
小さめの戸口を入ると土間があり、秋には脱穀などの農作業を、冬には縄作りをしていました。 土間の隣には物置部屋があり、ちょっとした中二階もついていました。 それに、小さな板の間つきの居間、表(おもて)、納戸(おなんど)の間取りでした。 おなんどの天井裏もちょっとした物置になっていました。 土間から居間へ上がるために、上がり段が置いてありました。 以前は土間で炊事をしていたが手狭になったので外に炊事場を増築したと聞きました。 土間から細い梯子が中二階と二階(天井裏)まで伸びていました。 中二階には農具、二階には芋類などが貯蔵されていました。 居間には囲炉裏がありましたが、そのうちに掘り炬燵にかわりました。 道路に面したところには縁側があり、その下でニワトリを飼っていました。 家の周りには、柿の木、いちじくの木、ぐみの木などが植えられていました。 家の右側と道路の向かい側には自分家の畑がありました。 裏には小川をはさんで鉄道線路が走っていました。