北条武田合戦場のみち
散策:2002年11月上旬
【関東ふれあいの道】 北条武田合戦場のみち (神奈川県17番コース)
概 要 半原越え・経ヶ岳の展望を楽しんだあとは、 今はのどかな山里になっている古戦場を歩き戦国時代に思いを馳せるコースです。
起 点 清川村 坂尻バス停
終 点 津久井町 韮尾根バス停
ルート 坂尻バス停…半原越え…経ヶ岳…田代半蔵坊…三増合戦場の碑…清正光…韮尾根バス停
所要時間 5時間50分
歩いて... 半原越えから経ヶ岳までの登りは急な山道です。 頂上付近からのすばらしい眺めを期待しながら、ゆっくりと登っていきましょう。 途中の半原越えまでは「丹沢山塊東辺のみち」とコースが重なっています。
関連メモ 南山遊歩道, 経ヶ岳, 西山, 志田尾根
コース紹介
坂尻(さかじり)バス停
本厚木駅(小田急小田原線)から、[厚20][厚21]宮が瀬行きバスにて40分、 1時間に1本程度の便があります。
 土日曜 6:55 7:50 8:40 9:40
本コースの終点「韮尾根バス停」での便が非常に少ないため、 早起きして何とか7:50発の便に乗りましょう。
バス停のそばにコース入口付近の案内板があるので、参考にしましょう。
ここ、坂尻バス停は、「関東ふれあいの道」を 利用される方の最寄りバス停です。 左図は、この付近の案内図です。 参考にして下さい。 「丹沢山塊東辺のみち」と「北条武田合戦場のみち」は、 半原越までは同じルートをたどります。 自然を大切に そして、楽しい一日を。
バス停を後にして、法論堂川に架かる坂本橋と雑司場橋を過ぎ、 左に小さな神社を見ながら進んで行くと分岐路にでます。
道標に従い、半原越・仏果山(法論堂林道)を示す左の道を行きます。
北条武田合戦のみち
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 自分の足でゆっくり歩いて、豊かな自然にふれながら、 名所や史跡をたずね、ふる里を見直してみませんか。 このコースは、県内17コースの一つで、経ヶ岳、田代半僧坊、 三増合戦場跡、清正光がみどころです。 自然を大切にしましょう。
 (環境庁・神奈川県)
林道起点の看板を過ぎて右に曲がっていくと、木好クラブ法論堂があります。 その前を過ぎていくと、沢沿いの道には、山賊らーめん、Tea spotおろんど、 ログハウス唐津、Forest Cafe丸太小屋などが並んでいます。 「丸太小屋」の入口の所には、山からの冷たい清水が出ています。
お参りするといくらでもお金が出来るという河原釜山神の祠や、 コテージ、キャンプ、露天風呂などがあるリッチランドを左に見て、林道を直進します。 しばらく進むと、左手に東丹沢山荘「伸光館」があり、 その前の駐車場脇には関東ふれあいの道の路傍サインがあります。
法論堂林道の通行規制について
この林道は森林の保護や育成を目的として造られた施設ですが、 神奈川県営林道管理基準に違反する土捨て行為があったので、 当面林道の通行を規制します。
1.規制方法: H鋼によるゲート設置
2.規制開始日: 平成10年6月15日
3.規制対象車両: 大型車両
4.規制区間: 愛甲郡清川村煤が谷3079-1番地から4512-1番地まで
 (神奈川県県央地区農政事務所林業土木課)
法論堂橋を過ぎ、谷川のせせらぎの音を聞きながら、 ゆるやかな登りの林道を蛇行しがら進みます。 谷川のせせらぎの音も遠退き、 振り返ると、後方に相模野、遠く高麗山、相模湾が見えてくると、 やがて半原越えに到着します。
半原越え
法論堂(おろんど)
昔、修験者(山伏・僧侶)たちがこの地で法(教え)を論じ合ったことから、 この名が起こったと伝えられています。現在「宿」と呼ばれている旧家がありますが、 恐らく修験者達が宿とした所からでしょう。煤ヶ谷の資料によれば、 「存円和尚、時々村舎に説法し村民をして輪回応報を聞知せして至法に遵わしむ。 今の法論堂村是れ也」とありますが、存円和尚とは仏果禅師のことです。
半原越
昭和の初期まで、煤ヶ谷は養蚕が盛んで、当時糸の町として栄えていた半原へ、 繭を背負ってこの峠を越えたことから、この名が付いたと思われます。現在は 法論堂林道として拡幅整備され、昔の峠径はみられません。
 (環境庁・神奈川県)
ハイキング案内図の横にある登山道を、経ヶ岳を目指して登っていきます。 急な横木の階段を150mほど登っていくと、やがて尾根にでます。
快適な尾根を進んでいきます。 やがて急な道を登りきると、見晴らしのいい場所にでます。 案内板を参考にしながら、すばらしい展望を満喫しましょう。
丹沢の山なみ(左から右への順)
鐘ヶ岳(561.1m)、見晴台(770m)、大山(1251.7m)、大山三峰、 二ノ塔、三ノ塔(1205.2m)、烏尾山(1136m)、行者岳、 新大日、木ノ又大日、塔ノ岳(1490.9m)、日高(1461m)、竜ヶ馬場(1504m)、 丹沢山(1567.1m)、不動ノ峰(1614m)、棚沢ノ頭、鬼ヶ岩ノ頭(1608m)、 円山木ノ頭(1360m)、蛭ヶ岳(1672.7m)、木間ノ頭(1345.4m)、姫次、黍殻山(1272.8m)
展望を十分楽しんで、さらに尾根道を進んでいきます。 木の階段やロープが張ってある所を過ぎていくと、 大きな岩(経石)が道を塞いでいます。
経石
昔、弘法大師がこの岩(南側にある穴)に経文を納めたことから 経石と、また経石のある山だから経ヶ岳と呼ばれるようになったと伝えられています。 永禄12年(1569)、北条武田合戦(三増合戦)の際、武田氏に敗れた 北条氏の落武者が、やっとのことでこの山にとどりつき法論堂を 見下ろすと数多くの槍が立てられていました。落武者は、武田の 軍勢がすでに法論堂まで追いかけてきたのかと思い、経石付近で 力尽き相果てたそうです。ところが落武者の見た槍というのは、 収穫を終えたトウモロコシだったといい、それ以来この地方では、 トウモロコシを耕作しなかったと伝えられています。
 (環境庁・神奈川県)
経ヶ岳
経石を過ぎていくと、まもなく経ヶ岳山頂です。 山頂からも、まずまずの展望が得られます。
西山村二等三角点
 緯度(北緯)35°30′13″902
 経度(東経)139°16′42″279
 標高633.10m
丹沢の三角点
国土の基本測量を行なうための重要な基準点として、 三角点と水準点があります。三角点は、位置の基準点として 一等から四等に区分され、眺めの良い山頂等に設置されています。 水準点は、高さの基準点として全国主要国道に一等が、その他の 主要道路に二等水準点が設置されています。 ここ経ヶ岳には、二等三角点が埋設してあり、この他にも 丹沢山塊には三角点の設置してある山がたくさんありますので、 みなさんの足で、三角点のある山をたずねてみませんか。 三角点・水準点の標石を大切にしましょう。
経ヶ岳の山頂を後にして降っていくと、樹木が切れて見晴らしのいい場所があります。
鹿よけ柵を通って更に降っていくと、やがて法華峰林道にでます。 林道を100mほど進み、道標に従って、左へ分かれていく山道を降っていきます。 木々の間からみえる町並みの景色を楽しみながら降っていくと、 やがて、埋まってしまったダムに出ます。 道標に従ってガレ場を横切り、ダムの左手から下側へと降りていきます。
山道はここまでで、ダムの下からは道が広くなります。 新たに建設中のダムを通り橋を渡っていくと、程なくして国道412号に出ます。
経ヶ岳自然環境保全地域
417.2ha
自然を大切にしましょう。 建築物の新改増築、土地の形質変更等は届出が必要です。
 (神奈川県)
国道を左方向へ行き、Y字に分岐している平山坂下交差点を左へと進んでいきます。 半蔵坊前バス停を過ぎていくと、左手に降っていく階段があります。 半僧坊への道を示している道標はありますが、 植物に覆われていて見落としてしまいそうです。
田代半蔵坊
階段を降りた所に田代半蔵坊があります。
ここ勝楽寺は、遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡引佐町)より 勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と 呼ばれています。毎年4月17日に行なわれる春の例大祭は、この付近では 見られない賑やかな祭です。 かつてこの日は、中津川で勇壮な奉納旗競馬、大道芸、相撲大会などの 催しがありました。また、近郷近在の若い花嫁が、挙式当日の 晴れ姿で参拝する慣わしがあり、「美女まつり」ともいわれました。
 (環境庁・神奈川県)
名刹 勝楽寺
山号 満珠山 曹洞宗、 本尊 釈迦牟尼仏
草創は古く、後部大師が法華経を書き写した霊場と伝えられる。 もとは真言宗に属し「法華林」の名があり、背後の山を法華峯とよんだ。 初めは永宝寺と称した。ことに常楽寺から、勝楽寺と変った。 天文年中、能庵宗為大和尚が開山し、曹洞宗となる。 開基は内藤三郎兵衛秀行で、その墓がある。 歴代の住職には名僧が多く、越後良寛の師、国仙禅師などがあった。 寛政5年焼失し、のちに再建し今日の姿となった。建物のうち山門は 名匠右仲、佐仲、左文治の三兄弟の工によるもので、楼上に16羅漢の 像がある。寺内には遠州奥山方広寺から勧請した半僧坊大権現があって 4月17日には、近郷近在の新花嫁が参拝して、「花嫁まつり」ともいわれ、 植木市とともに賑わう。
曹洞宗 禅宗
南無本師釈迦牟尼佛、 当山本尊 釈迦牟尼佛
大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師、 横浜市 総持寺 御開山 太祖宝山禅師
伝統
お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって 中国へ伝えられ、曹洞の禅風として開花し鎌倉時代 道元禅師のお伝えにより二本開宗となす。その教義は 宝山禅師によって広く全土に実践教化され今日に至る。
教義
人は本来佛性有り 己に佛心の具え有り
正法の経典を讃仰読誦し、深く黙照して座し脚下照願して、 己の足下を見つめ、自然宇宙と一体なる自己を見極めて、 活達なる人生をいかしきるのが禅の実践なり。
田代半蔵坊を後にして、正面の国道412号の下をくぐり山門を出て、 その前の道を横切って真直ぐに進んでいきます。 民家が散在する道を進んでいくと、やがて中津川に架かる角田大橋が見えてきます。
橋を渡って左へ100mほど進むと、角田大橋バス停の手前に、三増への道が右へ分かれていきます。 道路の反対側には市杵島神社があります。
伝説 弁天社と弁天淵
ここの裏手の中津川の淵底は、江の島の弁天さまの 岩屋まで穴で通じているうえ、なお、その穴は西にのび、 半原、塩川滝上の江の島淵の底まで至っているという。 むかし、江の島の弁天さまが、岩屋から穴伝いに江の島淵に 向われたとき、あまりにも疲れたので、ほとまずここの淵に 浮かびあがりからだを休めた。そのおり、弁天さまのお姿を 見つけた村人たちは「もったいないことだ」と伏し拝み、 淵の上の森に社をたててお祀りしたという。これが、今の 弁天社で、裏手の淵を弁天淵と呼ぶようになった。 また、この淵が江の島に通じていることから、満潮のときには 海の潮がここまでさしてくるといわれている。
 (愛川町教育委員会)
「三増」への道に入り、戸倉集落の中を道標に従って進んでいきます。 愛川町ありんこ作業所高峰分所を過ぎた所を右折して、 道は森の中へと入っていきます。 森を抜けて丘に出てさらに進んでいくと、やがてバス道路にでます。 その正面に三増合戦場の碑があります。
三増(みませ)合戦場の碑
三増合戦のあらまし
永禄12年(1569)10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、 2万の将兵を従えて小田原城の北条氏康らを攻め、 その帰り道に三増峠をえらんだ。 これを察した氏康は、息子の氏照、氏那、盗めの夫綱成らを 初めとする2万の将兵で三増峠で迎え討つことにした。ところが、 武田軍の近づくのをみた北条軍は、半原の台地上に移り態勢をととのえようとした。 信玄は、その間に三増峠のふもと桶尻の高地に自分から進み出て、 その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ 行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また、山県昌景の 一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに 方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は 志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は 総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、 北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。 北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて萩野まで駆けつけてきたが、 すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐ兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで 引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を とりおこない、甲府へ引きあげたという。
 (愛川町教育委員会)
志田南遺跡出土遺物について
平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の 桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び 六道銭が発見されました。この周辺は、武田・北条の 二大戦国大名が戦った三増合戦主戦場ということもあり、 戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、 骨の主は、筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが 分りました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。 地元では、相模国風土記稿に見える北条氏の家臣間宮善十郎の 墓であるとの説のあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。
 (愛川町教育委員会)
三増合戦場の碑の左手の道を、「三増合戦武田信玄旗立松」の道標に従って進んでいきます。
愛川町上水道の志田配水場を過ぎていくと、 やがて、東名厚木カントリー倶楽部への広い道が右に分かれていきます。 関東ふれあいの道はここを直進していくのですが、 「旗立松」の道標に従って、ちょっと立ち寄っていきましょう。 急な坂道を登っていくとゴルフコースに出ます。 コースの横から続いている横木の階段を登っていくと尾根に出ます。 ここに旗立松があります。
旗立ての松
旗立松からの展望はすばらしく、信玄が旗を立てた気持ちが分るような気がします。
史跡 三増合戦場 旗立ての松
愛川町指定文化財 史跡 三増合戦場 旗立ての松の由来
永禄12年(1569)10月6日、三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の 北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を 立てた跡である。 北から西へ連なる三増の山並みを越えて、甲州に通ずる道には、 三増・中・志田の三峠があるが、そのうちで最も高く嶮しいのが中峠であった。 信玄は、相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼の陣を張り、 追撃する北条軍に備えた。 中峠近く、高く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻に本陣を置き、 合戦の指揮をとったのである。 往時を知らす緑の松は、小学生が5,6人でとり囲むほどの太さであった。 惜しいかな、対象12年の失火により枯れて今はなく、ただ記念碑と旗立て松 二世に、戦の跡をしのぶのみである。
 (愛川町教育委員会)
武田信玄立松の趾碑の解説文
右手に立っている「武田信玄旗立松之趾碑」文は、 日本紋章学の権威沼田頼輔氏によるもので、 概略、次のようなことが書かれています。
高峰村が津久井と接する北の境の山脈は延々と東西に広がっています。 その中で最も険しいものを「中峠」と呼んでいます。くっきりと四方の 展望が開け、麓の村に行き来する人馬は豆粒ほどにしか見えません。 山の峰に一本の老いた松が青々と茂り、天に伸びています。里の人は、 これを「武田信玄旗立松」と呼んでいます。言い伝えでは、永禄12年10月8日、 信玄が北条氏政の軍と当地で戦った折、本陣をこの峰に張り、旗を この松の上に掲げたという由来により、こうした名称になったということです。 つまり、この地こそは、信玄が足跡を印した所であって、松の樹もまた 信玄の心に触れたものということができます。それから、350余年を経て、 松に吹く風は、今なお、その余韻を伝え、人々にその当時を偲ばせていたのですが、 近年の火災により、惜しいことに、昔からある老松をもう一度見ることはできなくなりました。 高峰村青年団諸君は、ここに一見の勝ちのある史跡が空しく消えてしまうことを 惜しみ、石碑をたてて、何時までも伝えようと考え、その碑文を、私(沼田頼輔)に 依頼してきました。この地は私が以前からよく遊んでいた所です。老いた松の姿もなお、 心に刻まれています。これまでのことを聞いて、感慨も更に切なるものがあり、 よって拙さをも顧みず、この文を作りました。
昭和3年9月中旬 沼田頼輔撰、高梨貞義書
 (愛川町教育委員会)
愛川展望
新宿方面(副都心)、横浜方面 ランドマークタワー、房総半島、三浦半島、 鎌倉、江ノ島、伊豆・箱根方面、大山、宮ヶ瀬ダム、 浅利明神、愛川町役場、三増合戦碑、経ヶ岳、仏果山、高取山、三増峠
旗立松から元の道へ戻り、先に進んでいきます。 特別養護老人ホーム「志田山ホーム」を過ぎ、舗装道路から土の道へと変わります。
志田峠
土の道をしばらく進んでいくと、やがて志田峠に着きます。
志田峠は、志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、 愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける 道である。かつては、切通し越え、志田峠越えの名があった。
ここは永禄12年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山県三郎兵衛の 率いる遊軍が、この道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、 北条方の背後にでて武田方勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。 江戸中期以降は、厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の 三増峠越をしのぐ大街道となった。なお志田山の地名の起こりは、 この山が芝山であったことによるという。
 (愛川町教育委員会)
やがて森が途絶えて畑地が見えてくると、清正光への道標があります。 道標に従い、V字型に戻るようにして左へ進んでいきます。
清正光
喜見梯とよばれる213段の石段を登りつめると庫裡があり、 奥の階段を登ったところに、清正公堂、浄行堂があります。 樹間を流れる風のしらべと荘厳なたたずまいは、心を洗われるようです。
寺号:志田山朝日寺
正安元年(1299)鎌倉に実成庵として中老日実が開基、昭和9年鎌倉より 移転し旧号実成庵を志田山朝日寺と改める。昭和27年「清正光」として単独の宗教法人となる。
本尊:清正光大菩薩
明治10年(1877)志田山に勧請する。その神体は天の三光(太陽・月・星)で、 清正光の名は、三光天子(日天子、月天子、明星天子)の教えを象徴して 神格としたもので、「清」は清らかな汚れない光で、すべての物を平等に 照らしてくれる太陽の教えを、「正」は不正を破り正しい道を明らかにする 明星の教えを、「光」は優しく愛する月の光の教えを顕しています。
 (環境庁・神奈川県)
清正光を後にして更に進んでいくと、やがて東京農工大学の農場が見えてきます。 牧草地では牛がのどかに草を食べています。
農場の先の十字路を左折して畑地の中の道を降っていきます。 ここから韮尾根バス停までは、「山里から津久井湖へのみち」とコースが重なっています。 やがて民家の側を進むようになります。 道標に従って十字路を左折していくと、やがて国道412号にでます。 ここには、山里から津久井湖へのみちの案内板があります。 国道を右へ100mほど行くと、韮尾根バス停です。 バス停の手前には本コースの案内板があります。
韮尾根(にろうね)バス停
橋本駅(JR横浜線)まで、橋本駅行きバスにて35分、 バスの便が非常に少ないので、事前によく確かめておきましょう。 午後には、13:19発,15:19発,17:59発の3便しかありません。
待つようなら、反対方向の便で半原まで行き、 そこからバスを乗り継いで、小田急本厚木駅まで行くこともできます。 半原までは1時間に1本程度の便があります。 歩いて行っても25分くらいで着きます。 半原から本厚木までは1時間に2本程度の便があります。