大磯・高麗山のみち
散策:2002年10月下旬
【関東ふれあいの道】 大磯・高麗山のみち (神奈川県7番コース)
概 要 高麗山(こまやま)のハイキングで森林浴と展望を楽しんだあとは、 旧東海道の歴史と文化にふれるコースです。
起 点 平塚市 西海岸バス停
終 点 大磯町 城山公園前バス停
ルート 西海岸バス停…高来神社…高麗山…浅間山…湘南平…東海道の松並木…城山公園…城山公園前バス停
所要時間 6時間10分
歩いて... 高来神社から善兵衛池までは山道ですが、 広くて歩きやすい道で、息が切れるほどの坂もありません。 城山公園の手前までこゆるぎ浜を歩いていくこともでき、山と海辺の両方を楽しめるコースです。
関連メモ 湘南平, 高麗山, 湘南平, 湘南平, 大磯宿, 湘南平, 湘南平
コース紹介
西海岸(にしかいがん)バス停
平塚駅(JR東海道線)の南口から、[平40]西海岸行きバスにて8分、 1時間に4本程度の便があります。
大磯高麗山のみち
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る長距離自然歩道です。 自分の足でゆっくり歩いて豊かな自然にふれ、 歴史などをたずねながら、ふる里を見なおしてみませんか。 このコースは、県内17コースのひとつで、 こゆるぎの浜、東海道の松並木、鴫立庵、湘南平、高麗山、高来神社がみどころです。 貴重な自然を大切にしましょう。
 (環境庁・神奈川県)
バス停から少し戻り、金目川に架かる下花水橋を渡ります。 橋を渡ってすぐの所にある信号を、V字型に戻るようにして右折します。
下花水橋は昭和16年に木橋として架けられました。 昭和33年には大改修が行なわれ、長さ75m、幅3.3mの木橋に生まれ変わりました。 時を重ね、この木橋も老朽化したので、ここに木橋のイメージを生かした新橋が誕生しました。
 (平成2年3月)
金目川に出たら左折し、川沿いに進んでいきます。 途中で、右に分かれる青少年サイクリングコースを見送って直進して行くと、 JR東海道線に突き当たります。 左折して線路沿いの道をしばらく進み、地下道を通って線路を渡ります。 出た所を左折すると右に道が分かれていますが、そのまま線路沿いを直進していきます。 50m程で「高来神社へ」の道標があるので、それに従って、右前方の道を進みます。
民家の中をしばらく行くと、国道1号に出ます。 高来神社はその正面にあります。
高来神社
国道を渡って石畳の参道を進んでいくと、高来神社の本殿があります。
御祭神 神皇産霊尊、邇々杵尊、神功皇后、応神天皇
高来神社は類聚和名鈔に相模大住郡高来郷とあり、 現今の高麗山は高来郷内の第一高山を以て高来山という。
2つの社殿の間にある石段を登ると、小さな比良加久社があります。
 祭神 庚申地主神
 合祀 高良明神、疱瘡神、天満天神
ここで男坂と女坂に分かれますが、 関東ふれあいの道は右に続く女坂を登っていきます。
神奈川県指定天然記念物 大磯高麗山の自然林
高麗山は東海道沿線で、常緑広葉樹からなる自然林が残存している唯一の場所である。 花水川のつくった沖積地に接した海抜150メートル前後のこの山は 千畳敷山に東接している比較的急峻な山である。 頂上付近から南斜面一帯は自然林に近い形で存続している。ほとんど全山が スダジイ・タブ林によって被われていたのであろう。これらの森林は尾根口、凹地、 山麓部などの局地的な地形の変化に対応して、その種組成はことなる。すなわち、 クロマツは尾根筋などの土壌の浅い露呈した母岩上の潮風の強い立地に生育して いる。次いでスダジイ、アラカシも比較的乾いた土層の薄い立地にみられる。 一方凹地や山麓部の比較的湿っていて、しかも土層の厚い腐植に富んだ土壌上 には、タブ、ケヤキ、イロハモミジ、ネズミモチなどが見られる。いずれも ヤブツバキ、イタビカズラ、テイカカズラ、ジュズネノキ、ウラジロガシ、ベニシダ、 アオキ、イズタ、トベラ、ヤマイタチシダ、ツルマサキ、カヤ、ビナンカズラ、 キチジョウソウなどの照葉樹林(ヤブツバキクラス林)のスダジイ・タブ林の 構成種である常緑植物が主として生育している。特に注目したいことは、 モクレイシがほとんど全山の自然林の林床に生育していることである。モクレイシは 一属一種の常緑、大形低木であり、我が国では本州の伊豆、相模と九州の海岸付近に生育しているだけである。 また、カゴノキの広く見られる。樹幹がかのこ模様で特異な暖地性常緑高木の 一種といえよう。このような南半分の残存自然林を、県の天然記念物として指定し、 学術的立場からも、県民の郷土の森としても保存することとした。
[注意]  樹木・草本の採取は勿論、枝葉の伐採、その他樹木をき損するおそれのある行為は 総て禁止します。 特に歩道でない斜面へ侵入し林床を痛めたり、登山をしたりしないでください。 またヤマイモ堀等地形を変更するようないっさいの行為を禁止します。 山崩れの原因になるからです。
大磯丘陵の東端に位置する高麗山は、標高わずか150メートルにすぎないが、 相模川の広い沖積平野に接し、特徴的は景観で古くから親しまれている。 この南面は、シイやタブを主とした常緑広葉樹で構成される沿海性の 自然林におおわれている。山腹斜面は土壌が浅く、アラカシやウラジロガシを 多く混生したスダジイ林が発達し、一方、谷部のように土壌が厚くて適温、 富養な立地では、タグノキ・イロハモミジなどが高木層を形成するタブ林が見られる。 いずれの林内にも、ネズミモチ・ヤブツバキ・アオキなどの常緑樹が豊富に生育し、 また分布北限域となるモクレイシは注目される。 県内にわずかに残されたヤブツバキクラス域の自然林としては、 林分面積が充分に確保され、自然度も高い良質な森林として貴重であるばかりか、 東海道線沿いに見事な常緑広葉樹林が展望できるのも珍しい。学術的な立場からも、 郷土の森としても、さらに景観的な意味からも、指定天然記念物として保護するものである。
 (神奈川県教育委員会)
指標植物−大気汚染と都市化
植物は環境の指標(ものさし)の働きをします。
大気汚染を示すものさし
スギ、モミが梢の方から枯れる現象がここ高麗山でみられます。 京浜工業地帯から出た煤煙が主な原因といわれていますが、この様な現象は大気汚染の指標となっています。
都市化の進行を示すものさし
右上の写真のような植物(ヒメジオン、セイヨウタンポポ、ブタクサ)は帰化植物の代表的なものです。 これらの植物は都市化が進むにつれ、進入種数が増え、生育密度が高くなるといわれています。
女坂をしばらく登っていくと、東天照と大堂への分岐があります。 道標に従って左へ曲がり、大堂を目指します。 しばらく行くと、森が開けて見晴らしのいい場所があります。 ベンチも置いてあるので、眼下に見える景色をゆっくりと楽しみましょう。
ベンチを後にして先へ進んでいくと、すぐに東天照への分岐があります。 コースからは外れますが、ちょっと立ち寄って行きましょう。 狭い山道を200mほど登っていくと尾根に出ます。 案内板やベンチが置いてあり、結構広い所です。
森林の働き
森林にはさまざまな働きがあります。全ての生き物にとって、 なくてはならないものです。森林のもっとも身近な役割を紹介します。
散策・森林浴の場 森林は人間にとっても大切です。散策や森林浴を行なうことにより、 精神的な安らぎを与えてくれます。
保水機能 落葉が降り積もった土はやわらかく、水をたっぷりと含みます。 そのおかげで洪水や渇水を防ぐことが出来ます。
空気の浄化 植物は光合成を行なうことにより二酸化炭素(CO2)を吸収して酸素(O2)を 放出します。大気中の塵やほこりも取り除きます。
動物たちのすみか 森林は動物たちの活動・休憩の場です。 多くの生き物がいます。
その他の働き ・防火−炎を遮断します
・騒音の低減−音を吸収します
・森林資源の供給−木材や山菜,キノコ
・気温差の緩和−昼涼しく、夜暖かい
・土砂崩れ等の防止
高麗山で見られる野鳥
コゲラ(小啄木鳥) 高麗山に年間を通じて住むキツツキのなかま。 木の幹を掘って巣にします。 ギィーギィーと木のきしむような声で鳴きます。
ツグミ(鶫) 高麗山では冬鳥としてよく見られます。
アオバト(緑鳩) オー・アーオーという声で鳴きます。 春から秋にかけて丹沢方面から飛来し、 日中大磯の照ヶ崎の岩場で海水を飲む姿が見られます。
メジロ(目白) 目のまわりの大きな白い輪が目印。巣は木の枝のまたの 部分にクモの糸で固定されています。
オオルリ(大瑠璃) 高麗山には夏鳥として飛来しチーリーロージジッという 朗らかな声でさえずります。オスはあざやかな瑠璃色ですが メスは茶色で地味。
シジュウカラ(四十雀) ほおが白いのが特徴。 ツーピーと大きな声でさえずります。
キジバト(雉鳩) ヤマバトとも呼ばれ、高麗山では留鳥として普通に見られます。 背中にうろこ模様がありデデ・ポーポーという声で鳴きます。
コジュケイ(小綬鶏) 「ちょっと来い」と聞こえる声で鳴くキジの仲間。 中国南部原産で大正時代に日本国内の各地に放鳥され 分布を広げました。
ヤマガラ(山雀) 木の実などをある場所に隠しておき、それを後になって 取り出して食べる"貯食"という習性があります。
ウグイス(鶯) 春夏のホーホケキョというさえずり声で、あまりにも有名ですが、 冬の間はチャッチャッという声で鳴きます。 高麗山の笹やぶの中で営巣をしています。
アオバズク(青葉梟) 青葉の茂るころ、南から渡ってくるフクロウ。 ホッホー、ホッホーと柔らかい声で鳴きます。 主食は昆虫類。
枯れの進む針葉樹の老木(スギ・ヒノキ・モミについて)
高麗山の「天然記念物範囲内」にはかつて針葉樹の老木が現在よりも ずっと多くありました。スギ・ヒノキは直径50〜80cm程度で、 主に江戸時代中期から明治初期にかけて植栽されたものと思われ、 モミは自然生のもので、直径1m、樹齢200年を越えるのもも十数本あったといいます。 これらの老木は昭和35年(1960)頃より、森から突出した梢の先端部分が枯れだして その後に枯死する現象が見られるようになりました。最初はモミに被害が出始め、 その後スギ、ヒノキにも被害が拡大しました。現在までにその大半が枯死し、現在残った ものも先端枯れの被害が拡大して腰が少しずつ進んでいます。
原因については次のようなことが考えられていますが、はっきりとしたことは判っていません。
 (1)山本来の自然植生の構成樹種であるスダジイ・タブノキ等の常緑広葉樹が植栽されたスギ・ヒノキを
   押しのけて生育するようになった結果衰弱した。(植物遷移による影響)
 (2)伊勢原大山のモミ林のように都市部の大気汚染物質の飛来による影響。
東天照(とうてんしょう)
ここから、V字型に戻るようにして左へ50mほど行くと東天照があります。
標高135m
八俵山・大堂・東天照の高麗山の三峰のうち、最も東側に位置する峰で、 東の展望台の役目を果たしていました。 鎌倉時代には白山社が祀られていたという記録が残されています。
東天照を後にして先ほどの分岐の所まで戻り、更に進んでいきます。 男坂を合わせ更に登っていくと、大堂へ5分と10分の道標のある分岐があります。 「5分」を示している左の道を進んでいきます。 やがて、苔むした石段が見えてきます。 石段を登っていくと、八俵山⇔東天照の道が横切っています。 そのまま直進して更に石段を登っていくと、高麗山に到着です。
高麗山
高麗山は広い空間になっていますが、樹木が育ってしまい展望はありません。 以前には神社があったようですが、 今では「上宮造営所」という立て札と礎石が残っているだけです。
高麗(こま)と若光(じゃくこう)
昔から日本と朝鮮の文化交流は深く、相模国をはじめ東国七州の高麗人を 武蔵国に移して高麗郡をおいたと続日本記には書かれています。 奈良時代のころ高句麗は唐・新羅に滅ぼされ、日本に難を逃れた人も多く、 その中に高句麗王族のひとり高麗若光もいました。若光は一族をつれて海を渡り、 大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂あたりに住み、 この地に高度な文化をもたらしました。 高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました。
 (環境庁・神奈川県)
注意
この地域一帯は「大磯高麗山の自然林」として神奈川県指定天然記念物に 指定されています。指定地内の植物を採取することはもちろんのこと、 植物の生育に影響を及ぼすことは禁止されています。 貴重な天然記念物を大切に守りましょう。
 (神奈川県教育委員会)
神社跡の礎石の手前から左へ続く道を進んでいきます。 樹木の間から平塚の街並みが見えます。 高麗山一帯は「高麗山県民の森」になっていて、関東ふれあいの道以外にも散策路が一帯を巡っています。 堀切に架かる木の引橋を2つ渡ると少し広くなり、八俵山に到着します。
八俵山(はっぴょうやま)
標高160m
八俵山・大堂・東天照の高麗山の三峰のうち、最も西側に位置する峰で、 "八俵"は仏教用語の八俵(隅の意味)から転じたと考えられます。 古くは毘沙門堂がここに建てられていたと記録されています。
城郭としての高麗山
高麗山は相模湾から相模平野一帯を見渡せることから、古くから軍事上の 要衛として重要な地域でもありました。山中にある寺の建物が軍勢を収容する ための城郭として使われるようになり、記録によれば室町時代の永亭10年(1438)に 関東公方の足利物氏(1398〜1439)が室町幕府に対して反乱を起こした(永亭の乱)際に これを討伐すべく上杉持房(?〜1490?)が山に陣をかまえたのが最初のようです。 その後、永正7年(1510)に北条早雲(1432〜1519)が上杉顕定(1454〜1510)を 討伐する際、山に立て篭もったということです。この戦い以降、山は北条氏によって 小田原城と相模平野を結ぶ狼煙台として「伝えの城」(連絡用の砦)として 使われるようになりました。 永禄3年(1560)には上杉謙信(1530〜1578)が小田原侵攻の際、山に陣をかまえて 北条氏康(1515〜1571)と交戦したということです。 現在でも八俵山から大堂に向う尾根道沿いに往時の空掘の跡と思われる遺構が 残っています。
虎御前と八俵山の関わりについての伝説
日本三大仇討で有名な「曽我物語」の曽我十郎祐成と恋仲であった虎御前が 彼の死後、その悲しみのあまり19歳の若さで出家して尼となり、 長野の善光寺をはじめ全国の霊場を行脚し、晩年に現在のケヤキの広場(寺久保、寺窪) にあった高来寺に篭って、兄弟の菩提を弔いながら嘉禄3年(1227)に亡くなり、 その際に自身の生まれ育った大磯の地と兄弟の最後の地であった富士方面を 望める八俵山の南斜面に葬られたといわれています。
虎御前(1175?〜1227?)
彼女の生立ちについては一説には、現在の平塚市山下に住んでいたといわれる藤原実基郷: 通称「山下長者」の娘といわれています。寅の月、寅の日、寅の刻に生まれたので 「三寅御前」と名付けられ、長じてからは「虎御前」と呼ばれるようになりました。 容姿美しく、歌舞音曲に優れていたので、当時の有力者の宴席に招かれることが 多かったことから、十郎と恋仲になった後には、十郎に工藤裕経に関する情報を手紙等で 伝えていたようです。
曽我物語とは?
所領をめぐる争いから、父親を殺された曽我十郎祐成・五郎時致兄弟が仇である工藤祐経を 建久4年(1193)、源頼朝が富士山の西麓で巻狩を催した際に討ち果すまでの物語。
八俵山に「まつたけ」の自生があった!?
大正時代頃には八俵山周辺ではマツタケが自生していたようです。 マツタケは林内が明るくて落枝や落葉が少ない風通しのよいマツ林に 生えることから、現在とは林内の環境が全く異なることが伺えます。 かつて山で拾われる落枝や落葉は周辺の人達にとって日々の生活を支える貴重な 燃料や肥料でした。山に人手が頻繁に加わっていたことが、マツタケの 好む環境をつくりあげていたといえます。
八俵山を後にして更に進んでいくと、案内板とベンチがある鞍部に着きます。 ここから浅間山まであと500mです。
高麗(こま)という地名の由来
西暦666年、当時朝鮮半島北部にあった高句麗の滅亡とともに難をのがれた人達が 船で渡来し、大磯の唐ヶ原に上陸して化粧坂あたりに居住し、周辺の開拓を行なったと いわれることに由来します。現在でも高来神社の夏祭の祝い歌にはこのことをうかがわせる 様子が歌われています。当時は高来(高麗)と書いてタカク、コウライと呼ばれていたようで、 コマと呼ばれるようになたのは明治時代になってからです。 山の名前については平安時代延長年間(932〜931)に編纂された和名鈔(和名類聚鈔)に 現在のコウライ一帯を「高来郷」(タカクゴウ)とする記述が見られることから、 郷にあるこの山を「高来山」と呼んでいたとも思われます。
高麗山の森の変遷
高麗山の森は幕末なで高麗寺の所有でしたが、明治維新とともに御料林(宮内省管理)となり、 その後昭和13年、神奈川県に御下賜となり県の所有する森となりました。昭和46年からは 県民のリクリエーション利用を目的とした整備を行い現在に至っています。
高麗山の植生について
山の植生は室町時代の戦火により荒廃したと考えられ、江戸時代になって高来寺(高麗寺)に 徳川家康の御神影を勧請した慈眼大師(天海僧正:1536〜1643)が定めた掟中には 高麗山の樹木の伐採を禁止する旨があり、森林が保護されてきました。このようにして 成立した植生は明治維新以降も保護されてきましたが、戦後、昭和21年に戦災復興資材確保の ために山の北〜東斜面約20ha(全体の3分の2程度)が伐採され、当時の植生は南斜面の 天然記念物範囲に残るのみとなっています。天然記念物範囲内はスダジイ、タブノキ、イロハモミジ、 ケヤキ等の常緑・落葉広葉樹林、それ以外の所ではイヌシデ、コナラ等の落葉広葉樹林とスギ、 ヒモキ植林が広がっています。なお、天然記念物範囲内のスギ、ヒノキの大経木は主に 江戸時代頃に信仰の関係で植栽されたものと考えられます。
高来神社(高麗神社)(たかくじんじゃ、こうらいじんじゃ)
11代垂仁天皇の御代に創建され、祭神神皇産霊尊、邇々杵尊を祀り、その後27代安閑天皇2年(6世紀初め)に 15代応神天皇と神功皇后を合祀されたと伝えられています。合計4柱が祭神として祀られています。
高来寺(高麗寺)(たかくじ、こうらいじ)
神社の敷地内にはかつて高来寺(高麗寺)と呼ばれるお寺がありました。奈良時代の養老元年(717)に 行基(668〜749)が、千手観音像(現在神社に現存)を本尊としたことが創建ともいわれています。 後に法相宗の僧によって鶏足山雲上院と称しました。斉衛元年(854)には慈覚大師(円仁:794〜864) によって山の右峰に白山社(現在の東天照周辺)、左峰に毘沙門社(現在の八俵山周辺)が建立され、 以降、平安〜鎌倉時代から寺は相模15大寺の中に数えられ、人々の尊崇を受けました。室町時代には 寺自身が城郭として用いられたために度重なる兵火にあいましたが、江戸時代の寛永11年(1634)には 東照権現(徳川家康)の御神影を勧請して上野寛永寺の末寺となり、幕府の保護を受けました。 しかし、1868年明治維新になると、神仏分離令により廃寺になりました。
高麗山の景観今昔「高麗山のマツ」について
高麗山には昭和40年代半ばまで山の尾根沿いを中心にマツの大経木が多く生えていました。 樹齢からさかのぼると江戸時代初期(17世紀初め)頃に生えてきた(植栽された)ものと 考えられます。山の尾根から突出した樹形は安藤広重の錦絵などに描かれ、すばらしい景観を 創出してきました。しかし、マツノザイセンチュウ(松くい虫)による被害で 昭和50年代初めには1本も無くなってしまいました。
浅間山
次第に景色が広がり彼岸花群生地を過ぎていくと、まもなく浅間山です。 山頂は結構広く、樹木の間からの展望も少し得られます。 また、小さな浅間神社と一等三角点があります。
浅間社
江戸時代、雲をぬいて天高くそびえる富士山を神とした浅間信仰が広まりました。 白い衣裳をまとい、口々に「懺悔懺悔、六根清浄」と唱えながら登る。 六根とは、眼、耳、鼻、舌、身、意のことで、「六根清浄」が登山の精神であり、 富士山は信仰登山のあこがれでした。 しかし、富士登山は費用と日数がかかり、女人禁制でもあったため、浅間社を 富士山の見える高台や山頂にまつり、そこにおまいりすることにより願いが富士山に 通じると、庶民の間にひろまり厚い信仰を集めました。 浅間社は木花佐久夜毘売命を主神とし、美しい富士山を桜の花にたとえた名前と 伝えられ、浅間社を祀った山であることから浅間山と呼ばれるようになりました。
 (環境庁・神奈川県)
浅間山一等三角点と浅間神社
浅間山の名称は、浅間信仰−浅間社の尊信から賜わられたといわれている。 浅間社は富士山への信仰を母体とし、祭神は木花咲耶姫である。 この浅間山の浅間社は江戸後期に鎮座せられたと思われ、 流造りの形の石祠である。古来からおまつりしていたところ、 富士山の噴火などにより、農耕神の意味を持つ富士山信仰−浅間社の神徳に対し、 崇敬と祈願のため社を勧請したもので素朴な信仰である。
  浅間山一等三角点
  位置 東経139度18分15秒 北緯35度19分7秒
  標高 181.28m
  標高の名称 浅間山
全国的にわたる広い地域に統一した測量を行なうため、精密な天文測量により 経度・緯度及び方位を定め、一等三角点を原点とし、これにもとづいて、全国的な地図の 作成や地勢の調査その他各種の測量の重要な基準になっている。 戦前は視準のための三角塔があったが今はなく、石祠の傍に古びた標識石に、 一等三角点と刻してあるにすぎない。 三角点について補足すると、丹沢山・浅間山・大島を三角形の 頂点とし、丹沢・浅間山の距離が判っているとき、丹沢と浅間山の 二つの角を測ると、丹沢・大島、浅間山・大島の距離を数学的に 求めることができる。このように、三角形の角のみを測ることによって 三角形の網を全国的に広げ、測量を進めていくことを三角測量という。 三角測量には基の長さが必要で、この長さは相模原基線であり、 この相模原基線を測量的に増幅したのが、浅間山一等三角点である。
 (平塚市)
浅間山を後にして更に進んで行きます。 高田公園、楊谷寺谷戸横穴郡への分岐のある鞍部を過ぎると、湘南平はもうすぐです。 フィールドアスレチックの側を通り、テレビ塔の脇を抜けると急に視界が開けて、 湘南平に到着します。
湘南平
湘南平はとても広く、ここが山の上だとは思えません。
湘南平は海抜181m。 古くは阿波多羅山(アワタラヤマ)と呼ばれ、江戸時代の末ごろから 千畳敷山と呼ばれ、桜の名所として著名であったが、 昭和16年以後高射砲陣地となり戦後はいたく荒廃した。 昭和32年、平塚市はこの地を自然公園とする計画をたて、 逐次施設を整備して今日に至った。 湘南平の名は、当時の市長戸川貞雄氏の選によるものである。
 (平塚市長)
テレビ塔は展望台にもなっており、丹沢・箱根・相模湾などの眺めがすばらしく、 360度の大パノラマが広がります。 この日は条件がよくて、富士山がきれいに見えました。
展望台の周囲には金網が張り巡らしてあり、 男女カップルの想いを記した鍵がいっぱい取り付けられています。 「固く結ばれいつまでもずっと一緒だよ」という意味なのでしょう。
テレビ塔と反対側にある湘南平展望レストランの上からの展望もすばらしいです。 多少山に遮られる感じはありますが、金網がないので気分よく見渡せます。
展望を十分に堪能したら下山します。 レストランの前方にある「大磯駅、こゆるぎの浜へ」の道標に従って降っていきます。 フィールドアスレチックや駐車場の横を過ぎていきます。 道標に従い左・右と曲がって、広い山道を進んでいきます。 大きな樽でできた小屋を過ぎると、山道はもうすぐ終わりになります。
善兵衛池
山道が終わって舗装道路に出たところに、善兵衛池があります。 二宮金次郎も事蹟を調査したといわれる用水池です。 池のそばには善兵衛池の謂れを記した石碑がありますが、 旧字体の漢文だったり、かすれていて判読不能の文字があったりで、 意味はよく分りませんでした。
善兵衛池を後にして更に道路を進んでいくと、JR東海道線の下をくぐる地下道があります。 地下道をくぐって線路の反対側へ出た所に、付近の案内板があります。 関東ふれあいの道はそこから左へ曲がって南を指して行くのですが、 右へ100mほど行くと島崎藤村邸があるので、立ち寄っていきましょう。
島崎藤村邸
藤村は、明治5年(1872)2月17日筑摩県第八大区五小区馬籠村 (現在、木曽郡山口村神坂区馬籠)の本陣の家に生まれ、本名を春樹という。 昭和16年(1941)1月14日大磯のドンドン焼を見に来て珍しい郷土行事で あるのをよろこばれ、これを左義長と言い初められた。 大磯の温暖な地をこよなく愛し、その春、大磯町東小磯のこの地に 住まれ、「東方の門」の筆を起こしたのであった。藤村は 「一葉舟」「夏草」などの詩集を刊行して日本近代詩史に不滅の 名を刻み他に文明批評随筆、旅行児童文学など数多くを残している。 昭和18年(1943)8月21日静子夫人が「東方の門」の原稿を 朗読中頭痛を訴え急に倒れた。8月22日午前零時35分「涼しい風だね」 という言葉を残して木曽の生んだ大文豪は行年71才で永眠され、 本人の希望により大磯地福寺に葬られた。
島崎藤村邸を後にして地下道の出口まで戻り、左折して南へ進んでいきます。 150mほどで国道1号に出ます。 関東ふれあいの道はここを右折して歩道橋を渡っていきますが、 左折して鴫立庵に立ち寄っていきましょう。 国道を300mほど行くと、大磯駅への道を分ける鴫立沢交差点があり、 その前に鴫立庵があります。
鴫立庵(しぎたつあん)
寛文4年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、 西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、 元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、 第一世庵主となりました。 現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の 一つといわれています。 崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に "著盡(ああ)湘南清絶地"と刻まれていることから、 湘南発祥の地として注目を浴びています。
こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮 (西行法師)
東海道の松並木
鴫立庵から戻り、歩道橋を渡ります。 歩道橋を渡って右側へ降りていくと、東海道の松並木が続いています。
江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、 参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。 松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により 保護され約150年前ころからは厳しい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ 大切に育てられてきたものです。 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。
松並木の道をしばらく進むと、こゆるぎの浜への道標があります。 関東ふれあいの道はこの道標に従って、細い道に入っていくのですが、 そのまま少し進み、滄浪閣を訪ねてみましょう。 以前は伊藤博文の居宅だったのですが、今はレストランになっています。 レストランの手前には、大きな松の切り株が歴史年表になっています。
東海道の歴史を物語る松の年輪
松並木が整備されてから約400年。 松の年輪はその時代の生き証人として、様々な出来事を語ってくれます。 この切り株は、平成6年11月に松の天敵であるマツクイムシの被害にあってしまった老松 (樹齢217年)ですが、「いつまでも東海道の歴史を語り続けてほしい」との 気持ちから歴史年表として、ここに保存します。
 (建設省横浜国道工事事務所 小田原出張所)
一旦道標まで戻り、高い塀とうっそうとした黒松の林を抜けると、西湘バイパスに出ます。 関東ふれあいの道は、トンネル手前の左へ向う道から西湘バイパスに出て、 バイパスと平行している太平洋岸自転車道を進んでいきます。 正面の階段を降りてトンネルをくぐると、こゆるぎの浜が広がっているので、 ちょっと立ち寄っていきましょう。
小陶綾ノ浜(こゆるぎの浜)
「ゆるぎ」とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾と書かれ、今の大磯町と二宮町は 相模国余綾郡とよばれていました。 万葉集には、
相模道の 余呂伎の浜の 真砂なす 児らはかなしく 思はるるかも
と詠まれています。 平安時代の古今和歌集には「こよろぎ」と詠まれていましたが、 その後の歌集には「こゆるぎ」と詠まれました。 歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海浜一帯を指すといわれています。
 (環境庁・神奈川県)
こゆるぎの浜からトンネルをくぐって引き返し、太平洋岸自転車道を進んでいきます。 西湘バイパス越しに海は見えますが、車の音でかき消されて波の音はほどんど聞こえません。
血洗橋を渡ると、太平洋岸自転車道はバイパスから離れて降っていきます。 トンネルの所からここまでは、こゆるぎの浜を歩いてくることもできます。 少し下った所に旧吉田茂邸の裏門があり、松林の中を登っていくと銅像が立っています。 邸そのものは、今は大磯プリンスホテルの別館になっています。
降りきった所を右折して、松林の中を進んでいきます。 やがて民家の間を行くようになると、国道1号に出ます。 道標に従って右へ曲がり、国道を150mほど進むと城山公園前交差点があります。 交差点を左へ行くと、50mほどで城山公園の入り口です。
城山公園(じょうやまこうえん)
城山公園はかなり広く、であいの広場・ふれあいの広場・ひかりの広場・もみじの広場や、 郷土資料館・展望台などがあります。
落ち着いたたたずまいが、土地の由緒を語ります。 県立大磯城山公園の土地からは、縄文式土器や横穴墓、鎌倉古道などの文化遺産が発掘され、 当時の様子をうかがうい知ることができます。 また、文明9年(1477)には、山城であったこの地に立てこもる長尾景春の被官 越後五郎四郎を 太田道灌が破ったという記録も残されています。 明治以降は旧三井財閥本家の別荘地となりました。7ヘクタールにも及ぶ敷地内には、 全国の有名な古寺社などの古材を用いてつくられた「城山荘」や、京都から移された国宝の 茶室「如庵」などが点在していました。 今では、長い歴史に彩られたその風情に魅かれるかのように多くの人々が訪れ、 やすらぎや憩いの場として親しまれています。
城山公園前(じょうやまこうえんまえ)バス停
城山公園前交差点まで戻り、国道を少し進んで切通し橋を渡ると、城山公園前バス停です。
大磯駅(JR東海道線)まで、大磯駅行きバスにて8分、1時間に4本程度の便があります。
平塚駅(JR東海道線)まで、平塚駅北口行きバスにて20分、1時間に3本程度の便があります。
また、逆方向になりますが、二宮駅(JR東海道線)まで、二宮駅北口行きや国府津駅行きの バスの便が1時間に4〜5本程度あります。