弘法大師と丹沢へのみち
散策:2002年10月中旬
【関東ふれあいの道】 弘法大師と丹沢へのみち (神奈川県15番コース)
概 要 桜の名所である権現山・弘法山を経て、大山の裏参道を歩き、 奈良・平安・鎌倉時代の歴史を物語る遺構・名刹をたどるコースです。
起 点 秦野市 南平橋バス停
終 点 秦野市 蓑毛バス停
ルート 南平橋バス停…峰の上橋…白山神社…権現山…加茂神社…名古木交差点…光明院…藤棚…東公民館…小蓑毛バス停…蓑毛バス停
所要時間 7時間20分
歩いて... 権現山の展望台からは雄大な眺めが楽しめます。 権現山から弘法山への尾根道はとても広く、みごとな桜並木が続きます。 途中までは「弘法大師と桜のみち」とコースが重なっています。 コースには車道もありますが交通量は多くありません。 浅間山駐車場から権現山への登りではいい汗をかきます。
関連メモ 弘法山公園, 弘法山公園, 弘法山公園, 弘法山公園, 弘法山公園
コース紹介
南平橋(なんぺいばし)バス停
秦野駅(小田急小田原線)の北口から、[平71]平塚駅行きバスにて10分、 平塚駅(JR東海道線)の北口から、[平71]秦野駅北口行きバスにて27分、 いずれも1時間に2本程度の便があります。 バス道路の横には金目川が流れ、田園風景が広がっています。
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 沿道の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里を見なおしてみませんか。 この地点は、県下17コースのうち「鷹取山・里のみち」と 「弘法大師と桜のみち」並びに「弘法大師と丹沢へのみち」の分岐点です。 みどころは、南方に鷹取神社(桜の花咲くような美しい姫神様)のある鷹取山、 北方に桜の名所権現山や弘法山、さらに波多野城址・大日堂などがあります。
健速神社
南平橋バス停から、水田の中へと続く車道をまっすぐに進みます。 正面のT字路を右へ曲がってすぐの所に健速神社があります。 ふれあいの道は、この神社を左手に見ながらぐるっと周囲を回るように続いていますが、 社殿左横から裏手に出ると、回ってきた道と合流します。 ここから、道標に従って「弘法山・蓑毛」方向へ進みます。
峰の上橋
正面の小さな森の所を左へカーブしながら坂道を進んでいくと、 東名高速道路の上に架かる峰の上橋に着きます。 橋を渡り右に曲がってすぐのところが、県道の鳥居松橋西側交差点です。 道標に従い、V字形に戻るようにして左手へ曲がり、広い道を進みます。
瓜生野入口バス停を過ぎ、大きく右へカーブしていくと、 曲がり切った所に右側へ分かれていく道があります。 道標もありますが、草に覆われていて見つけにくい所にあります。 うっかりして見落とさないよう注意しましょう。
坂道を登っていくと、T字路に出ます。 道標に従って左へ曲がって進んでいきます。 やがて畑が途絶え、民家が増えてきます。 民家の中を進んでいくと、正面に赤い消防ホース格納箱が見えてきます。
その右側の坂道を登っていくと、関東ふれあいの道の道標があります。 坂の頂上辺りで、右側の坂道へ入ります。 道標が見えにくい所にあるので注意しましょう。
坂道をしばらく進むと十字路に着きます。 その左前方に白山神社があります。
白山神社
道標に従い、十字路をまっすぐ進み、神社を左手に見ながら 果樹などが植えられた畑の中の坂道を登っていきます。
坂道を登り切ると市道にでます。 そこを左へ曲がって200mほど進むと、浅間山駐車場に着きます。 駐車場の前にある権現山への登り口へと入っていきます。
それまでの道と違って急な階段の登山道なので息が切れますが、 150mほどで権現山の頂上なので一気に登ってしまいましょう。
権現山
階段の登山道が終わると目の前に公園展望台が現れ、権現山に到着します。
権現山の歴史
通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を千畳敷きとも呼ぶ。 権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。 龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祭られ、 その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。 また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。 最近の城郭調査によると山頂の北西端には二段の腰郭、東端近くの西南側にも細長い腰郭が 取り巻き大小14箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山からみて西 (秦野方面)に対する備えを目的としているようである。 築造の時代は室町期の城郭址との報告もだされているが、権現堂との関わりは不明である。
 (秦野市)
展望台からの眺めは素晴しく、 丹沢山塊や三浦半島、房総半島、関東平野の雄大な展望を楽しむことができます。
公園展望台
弘法山公園には、市内外から多くの観光客が訪れています。 また、元旦の「歩け歩け運動推進大会」や「弘法山桜まつり」「瓜生野百八松明」等 伝統行事の舞台にもなっています。 眼下に秦野の街を、そして、相模湾、霊峰富士、丹沢大山連峰を望む権現山のこの場所には、 昭和25年に神奈川県及び神奈川新聞社の主催による「神奈川県新八景」に当選したことを 記念して建てられた見晴台がありました。 建築後50年を経て老朽化していたこともあり、21世紀を迎える記念事業として、 このまちの限りない発展と世界の恒久平和を祈念し、この展望台に建て替えたものであります。
 (秦野市長)
弘法山公園「公園展望台」竣工記念 「短歌・俳句で祝う新世紀」入選作品
 一席 若き日を 戦時での農に 耐え抜きて いま新世紀の 初日拝む
 一席 赤富士に 託す初日よ 新世紀
 二席 あらたまの 光を浴びる 八角の 展望台は 富士と真向ふ
 二席 雲の間に 初日出でたり 展望台
 三席 新しき 展望台に 雪富士を 仰ぎあらたな 世紀を踏み出す
 三席 初富士の 桃いろの染む 世紀かな
 佳作 夕暮の 歌碑て喜び ゐるならむ 権現山に 展望台成りて
 佳作 日の出まつ このひとときに 夢たくし ごんげん山に 年の明けゆく
 佳作 新世紀 背筋正して 初日の出
 佳作 初日の出 ぼくらの未来 照らし出せ
馬場道
権現山から弘法山へと続く尾根道は山上とは思えないほど広く、 桜の並木道になっています。
ここは馬場道と呼ばれ、戦前には近在の農民がここで草競馬を楽しんだ所です。
フィールドの約束 (神奈川県環境部自然保護課)
 (や)野外活動は無理なく楽しく (き)着るものにも一工夫
 (さ)採取はしないで自然はそのままに (も)持って帰ろう、思い出とゴミ
 (し)静かにそーっと (ち)近づかないで、野鳥の巣
 (い)一本道、道から外れないで
秦野とたばこの歴史
秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ほし、 味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていました。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。 特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なもので した。この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、 堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすことのできない場所でした。 明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野 が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大 しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。 昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少し ていきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはた ばこ耕作そのものが終わりを告げました。 秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を 生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くし たたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの 土地にしっかりと息づいています。
 (秦野市)
「秦野たばこ」の一生
たばこの里、秦野のたばこ作りは江戸時代初期からの歴史があり、その最盛期には、 ほとんどの農家がたばこを作りました。「秦野たばこは技術で作る」といわれ全国に名声を博すほどに なりましたが、時の移り変わりとともに衰退し、昭和59年には、ついにその幕を閉じることとなりました。 秦野の経済発展の源となった「たばこ耕作」が、時とともに人々の心から失われぬよう、 たばこ耕作終息10周年に当たり、秦野の「たばこ作り」をここに記します。 なお、たばこの廃作に当たっては、「秦野たばこ作りの火を消すな」と耕作の継続を希望する多数の 農家があったことを付記します。
 (昭和59年度廃作者一同)
1〜3月
(苗床期)
たばこ作りは、正月早々からの苗作りから始まります。 たばこの種子は、1グラムで1万2千粒あるといわれるほど小さいので、 苗床の管理には細心の注意を図り、たばこの芽が出ると、 自分の子供以上に大切に育てます。
4〜6月
(本畑期)
畑に肥料を施し、10アール当たり約4千本もの苗を移植します。 土寄、心止、芽かき、そして台風から苗木を守るための準備など、 休む間もなく仕事は続き、畑の品評会で入賞すると、畑に入賞旗が立てられます。
7〜8月
(収穫,乾燥期)
いよいよ収穫が始まります。この時期が一年で最も忙しい時期であり、 子供たちも学校が夏休みになるので、炎天下でまっ黒になって収穫を手伝います。 そして、収穫した「たばこの葉」は一枚一枚丁寧に縄に編み、竹につるして天火で乾燥します。
9〜10月
(葉のし,調理)
たばこの乾燥が終わると、互いに向き合って、葉のしわを一枚一枚手で伸ばす「たばこのし」が 始まります。この作業は「夜なべ仕事」といって、どの農家でも夜12時ごろまで裸電球の下で行います。 そして、伸ばした葉は、葉の質により等級に分別「調理」し、一束30枚ほどに束ねます。 たばこ葉は「お札」ともいわれ大切に取り扱われました。
11〜12月
(納付)
いよいよ牛車や荷車にたばこの葉を載せ、専売局に納入します。 専売局では、鑑定人が葉を鑑定し、値段を決めます。 この時が一番緊張しますが、この一瞬で農家の1年間の苦労が報われるかどうか決まり、 この瞬間悲喜こもごものドラマが展開されました。専売局の帰りには、夏休みに手伝いをした 子供たちへの土産や、正月の晴れ着などを買い込んで家路につきます。
百八松明(ひゃくはったい)
秦野市南矢名瓜生野地区に室町時代から伝わる旧盆の行事として続いている厄除、豊作を祈る火の祭りです。 旧盆の8月14日と15日の夕刻、麦わらで作った直径30〜40cm、長さ1.0〜2.5mのたいまつ約70本を権現山に運び、 午後7時過ぎに辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦わらに点火、 参加者銘々がその火から自分の松明に点火し、 年少者から順次麓の龍法寺の山門付近までおろします。 麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、 一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがあります。 暗い山の斜面を延々と動く松明は火の帯となってたいへん壮観です。
 (秦野市観光協会)
尾根道の途中で、弘法山への道を分けます。 右側の道は9番コース「弘法大師と桜のみち」です。 この15番コースは左側の道を降っていきます。
めんようの里
道なりに降っていくと、「めんようの里」があります。 その里を巻くようにして更に降っていきます。 「木里館茶屋弘法」の前の所を、道標に従い左折して降っていきます。
加茂神社
町が近づいてくると車道になり、左手に加茂神社が見えてきます。 関東ふれあいの道は、神社鳥居正面の細い道を降っていきます。
こうぼうふじみ公園
車道に出て更に降っていくと、右手にこうぼうふじみ公園があります。
きれな水と、澄みきった空気、緑豊かな丹沢山系の自然につつまれた 弘法山の麓、平安の頃より秦氏によって開かれた秦野盆地の東に位置する 曽屋弘法のこのまち、古くより煙草の産地として名声を博した。近年都市 近郊農業、園芸等幅広く行われてきましたが、昭和50年代に入り急速な 都市化が進み、将来健全な市外地形成を図るため、平成元年11月21 日土地区画整理組合を設立し、子や孫に誇れるまちづくりを目指して幾多 の困難を関係者の協力と組合員の熱意と努力を結集して切り拓き、9年の 歳月をついやして完成させました。 ここに、「すみよい快適なまちづくりは自分たちの手で」を合い言葉に 心やすらぐまちになることを希望し、この記念碑を建立しました。
公園前の十字路を直進し、秦野市清掃事業所の手前の十字路を左へ曲がって行きます。 ここには道標がないので注意しましょう。 分りにくいようなら、左折せずにそのまま直進して国道246号の名古木宮前交差点に出て、 そこを左折して国道を進んでもいいでしょう。
名古木(ながぬき)交差点
県立秦野曽屋高校のグランドの横を進んでいくと、国道246号に出ます。 国道をそのまま50m程進むと、「国定公園 丹沢大山」の大きな看板がある名古木交差点です。 国道を渡り、右側の県道70号を進んでいきます。
日本たばこ産業安全性研究所前のカーブの所を左へ曲がります。 道標もありますが、柵の陰になっていてちょっと見つけにくいです。 下延沢橋を渡っていくとT字路に出ます。 そこを左折後すぐに右折して行くと、正面にこんもりとした森が見えてきます。
光明院
森の入り口に光明院があります。 光明院は相模24番札所で、水子供養延生地蔵が並んでいます。
光明院の入り口の前の坂道を進んで行きます。 道は次第に急になり、やがてバス道路にでます。 道標に従ってそのまま進んでいきます。
藤棚
上落合バス停、寺山バス停と過ぎていくと、やがて東小学校前のT字路にでます。
T字路を左折して50m程の所に波多野城址への道標があるので、 ちょっと立ち寄っていきましょう。 東幼稚園の前に左側へ降りていく道があるので、そこを降っていきます。 降ってすぐ道標があるのでそれに従って進んでいきます。
波多野城址
石段を登り両側が金網フェンスの小道の先に波多野城址があります。
「新編相模国風土記稿」によると、寺山村には平安時代の末から鎌倉時代にかけて活躍した 波多野氏の城址があったという。
波多野氏の先祖は藤原秀郷の子孫で佐伯経範といい、母方の姓を称し、源氏の家臣であった。 「波多野」を開発し所領としたことから姓としたものであろう。平安時代の末に起こった奥州 の安倍氏の乱では源頼義、義家親子に従い、「黄海(岩手県)」の戦いで討ち死にした。 彼の子孫の義通は保元・平治の両乱では源義朝に従い大活躍した。
源頼朝が挙兵した治承4年(1180)当時の波多野氏の当主は義常であったが参戦を拒んで 松田の館で自害した。その後、叔父の義景が継ぎ、さらに建保元年(1213)と和田義盛の乱で 義景の子盛通が和田方に就き、滅んだため義常の弟忠綱にその実権が移ったと考えられる。 鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」によると、「波多野本庄北方」は義通の父遠義から保延3年(1137) 正月に義通へそして嘉応元年(1169)6月義景に伝えられたという。波多野本庄北方の 正確な位置と範囲は不明だが、寺山に伝わる波多野城址とはこの義景等の居館址と考えられている。 忠綱は後に将軍源実朝の菩提のため東田原に金剛寺を開創している。 昭和62年3月から平成2年3月までの間7次に渡る発掘調査の結果残念ながら波多野氏の館の跡は 発見できなかったが、空掘と信じられてきた場所から馬歯が大量に発掘され古代に 度々雨乞いが行われた所であることが判明した。
 (秦野市)
東公民館
元の道に戻り、金目川橋を渡って車道を進んでいくと、やがて東公民館があります。 関東ふれあいの道はここを右折して小蓑毛へといくのですが、 直進して金剛寺や源実朝御首塚に立ち寄っていきましょう。 交差点の所に付近の案内図があるので参考にしましょう。
朝日神社への道標を過ぎて更に進んでいくと、 やがて田原ふるさと公園・源実朝御首塚の入口を示す立て看板があります。 その対面には金剛寺への道があります。
金剛寺
改築中のため本堂はありませんでしたが、いい雰囲気のところです。
田原ふるさと公園・源実朝御首塚の入口の示す道を進んでいくと、 田畑の中にこんもりとした森のような源実朝御首塚が見えてきます。 田原ふるさと公園は源実朝御首塚のすぐ前にあり、 広場・池・ふるさと伝承館・そば処などがあります。
源実朝公御首塚(みしるしづか)
若くして非業の最期を遂げた征夷大将軍 源実朝公の 御首塚である。実朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の子で 建仁3年2月7日に三代将軍になった人物で、歌人としても 名高く、その私家集に「金槐和歌集」がある。 承久元年(1219)正月27日、右大臣拝賀の帰り 鶴岡八幡宮の社頭で二代将軍頼家の子公暁のために討たれた。 その御首は行方不明になたが、三浦義村の家臣、 武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったと 地元では伝えている。右手の五輪塔がその御首塚である。 武氏は当時、三浦郡武村(現在の横須賀市武山)の領主で、 後に当地寺山に移り住んだといわれる。当家に伝わる 系図では、実朝の御首を探し求めていた武常晴が偶然に 当地で御首を発見し、この地に埋葬したと記している。 波多野忠綱は、実朝の菩提を弔うために、33回忌に 退耕行勇を招き金剛寺を建立した。同寺には実朝公の木像、 念持仏等が保存されている。 句碑の和歌は「金槐和歌集」に載せられた実朝の一首であり、 佐々木信綱の筆によるものである。
  ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるなや 親の子をおもふ
石碑の除幕式に信綱は次の献歌をされた。
  さがに野や はだのの里に みたまやどり この里の幸 守りいまさむ
(平成12年10月 秦野市教育委員会)
源実朝公御首塚碑
建保6年(1218)12月征夷大将軍源実朝公は右大臣 となり、翌承久元年正月27日鶴岡八幡宮で 拝賀の儀式を挙げた。式が終って石段を下ろうとした時、 賊が闇の中から跳り出て公を殺害し、その首を もって逃げ去った。28日公を勝長寿院の近くに 葬ったが、その際近臣秦の公民に与えた髪の毛を 首の代りとして埋葬した。前日の夕方三浦義村は賊追討 の命をうけて、これを討ち果した。義村の家人で 以前公のおそばに仕えた、武常晴という者が公のお首 を賊から奪いとって、大住郡田原村に来て埋葬した。 これがその首塚である。恐らく三浦氏の友党の波多野忠経が 昔からこの地に居たので頼って来たのであろう。 のち忠経は塚の近くに金剛寺をつくり、公の 冥福を祈った。寺には今も公の木像と念持仏があると云う。 ふり返って往時を考えると公はすぐれて賢い天性をもって 右大将頼朝の偉業をうけつぎ、皇室を尊とび民生の安定に 心を砕き質実剛健を旨として士風を磨いた。まことに才能 豊かな英君であった。ただ一族が互いにわかれて利を争い、 種々画策して主家を衰えさせたのである。とりわけ公の剛直な 気質を嫌って、ひそかに兇賊をそそのかし、公を殺害させたのである。 痛ましい限りである。700年の歳月は流れて塚は大変荒廃した。 最近村民や志を同じくする人たちが、その湮滅してしまうことを 心配して修理計画を立て、参道を開いて、参拝者の便をはかる ことになった。工事が完成し、事業の経過や趣意を碑に 刻みたいといって、人を通じて碑文の作製を私に依頼してきた。 思うに、偉人の名蹟を世にあらわすことも人心をひき立て、 人情美風を厚くすることになるわけである。 よって文を草して与える次第である。
 (神奈川県知事正四位勲二等 有吉忠一選 猪瀬博愛書)
 (秦野市観光協会)
一旦、東公民館のところまで戻り、小蓑毛への道を 小川の流れる音を聞きながら進んでいきます。 才戸橋を過ぎていくとやがて県道にでます。
小蓑毛バス停
県道を左へ100m程進むと小蓑毛バス停です。 小蓑毛バス停から蓑毛バス停までは連絡区間になりますが、 そのまま蓑毛バス停を目指して行きます。
道路の真ん中にある阿夫利神社の鳥居を過ぎていくと、蓑毛自然観察の森があります。 一周約20分の高木の道や探鳥の道が巡っています。
秦野の水車
秦野地方の水車の歴史は古く、江戸時代から各地区に見ることができました。 水車は、米や麦をついたりそばの粉をつくったり煙草をきざんだりする機械で 農家の共同用として、また商売用として使われました。 電力の普及により、昭和20年代から次第に水車は姿を消してしまいました。 昔の生活を支えた水車を復元し、当時の様子をしのびまた実際に使っていただくために 建設しました。
 (秦野市教育委員会)
蓑毛(みのげ)バス停
秦野駅(小田急小田原線)まで、秦野駅行きバスにて25分、 朝夕は1時間に3本程度の便がありますが、昼前後は2本程度になります。
弘法大師と丹沢へのみち
このコースは、宝蓮寺、金剛寺、源実朝公御首塚、波多野城址、大師堂、鐘楼、 前田夕暮の歌碑、弘法山、権現山、龍法寺などが見所です。
大山参り蓑毛のみち
このコースは、蓑毛越えからの展望、大山阿夫利神社下社、二重の滝、 モミの原生林、見晴台からの展望、浄発願寺、日向薬師などが見所です。 足元や車に注意しましょう。自然を大切に、丹沢大山。
 (環境庁・神奈川県)
バス停の先の蓑毛橋を渡るとすぐの所に宝蓮寺があるので、立ち寄って行きましょう。
宝蓮寺大日堂及び諸堂
宝蓮寺は丹沢山の登山口及び大山の参道入り口としての要所に位置し、 金目川に沿った山合いの山岳修験信仰の霊場としてふさわしい場所にある。 当寺は大日堂の別当寺院で臨済宗鎌倉建長寺の末寺で、開山は仏国応供廣済国師、 本尊は仏項尊(大日如来)である。
大日堂
縁起によると天平14年(742)聖武天皇の勅願所として造営されたとある。 本尊は金剛界五智如来像で平安時代後期の作であるが、藤原風の穏やかさはあまり なく眉や目の線にも強さがみられ、特に顎の張った大日如来像の面相には厳しいものが 感じられる。平安時代の五智如来像が五体揃っている例は全国的にみても大変 少なく非常に貴重な像といえる。
 木造大日如来坐像 神奈川県指定重要文化財 昭和49年4月19日指定
 木造聖観音立像 秦野市指定重要文化財 昭和41年3月31日指定
 木造阿闇・宝生・釈迦・阿弥陀如来坐像 秦野市指定重要文化財 平成2年4月23日指定
不動堂
縁起によると7世紀の頃朝鮮半島からの渡来人である秦氏がその守り本尊である 不動明王像を祀ったのが始まりとされ、後に五大尊(不動明王・降三世明王・軍茶 利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)を祀ったものとされている。現在は江戸時代 の作と推定される不動明王像が祀られている。
茶湯殿(地蔵堂)
縁起によると正長元年(1428)一輪和尚によって建立されたとある。 で飢えと渇きに苦しむ亡者を救い、成仏への力を与える茶湯供養の寺として知られ ている。堂内には江戸時代の作である地蔵菩薩像・十王像等地蔵十王経にのっとっ た冥界の一具がすべて揃っている。絵画では見られるが、彫刻でこれだけ大きい像 はその例が少ない。
木食光西上人入寂地
江戸時代享保年間(1716〜1735)の頃、光西上人は大般若経600巻の願主 となり浄財を集め、大日堂及び諸仏の修理、また新たな御堂の造営等も行った。 事業終了後光西上人はこの場所に穴を掘り、生きながら仏となった。遺言により200 年後の昭和10年に発掘されたが、遺骨は埋め戻され現在もここに眠っている。
宝蓮寺縁起
臨済宗 通称 茶湯寺
宝蓮寺は正応元年後嵯峨天皇の皇子 佛国国師の御開山也
京都東福寺聖一国師の法を受け関東御下向あらせ 給い、霊境春嶽山に隠り座禅し給う。俗に髯 僧の大師と称し奉り、当山に住し宝蓮寺を建立 し給う。菊の御紋章今日に伝う以何なり。当山は別 当職にして北条時宗公此の大徳を聞き、朱印20石及び 二丁の乗籠を附し、後年当山より国師を鎌倉へ迎えらる。 弘安の末国師の徳を親い門前市をなし、参詣往来日々 盛んにして秦野発展起因を創き給う。文明18年両 上杉の乱及天明の天災に度々堂宇焼失し古記録不詳なるも、 寛政元年本堂及庫裡再建し学問所として住持は勅参登 城し別当の職であったと伝えらる。古記録に依る。
春嶽山に座禅の跡現存す。 当時境内6万余坪を所領す。