油壺・入江のみち
散策:2002年08月下旬
【関東ふれあいの道】 油壺・入江のみち (神奈川県2番コース)
概 要 マグロの水揚げで有名な三崎漁港からヨットハーバーのある油壺まで、 静かな入江と丘陵地帯を歩くコースです。
起 点 三浦市 三崎港バス停
終 点 三浦市 油壺バス停
ルート 三崎港バス停…歌舞島公園…諸磯湾…油壺バス停
所要時間 3時間00分
歩いて... ほとんどが車道を歩くコースですが、交通量はそれ程多くはありません。 距離も短いので、磯の潮の香りを楽しみながら、 半日かけてゆっくりと気軽な散策をしてみましょう。 また、この辺りには、白秋文学コースや三浦一族歴史めぐりのコースも 設定されており、文学や歴史にふれることもできます。
関連メモ 三浦七福神, 油壺
コース紹介
三崎港(みさきこう)バス停
京浜急行三崎口駅から、[三9]城ヶ島行きバス,[三3]通り矢行きバス,または, [須7]三崎港行きにて15分、1時間に3本から4本程度の便があります。
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 沿道の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、ふる里を見なおしてみませんか。
油壺・入江のみち
この道は県下17コースの一つで、三浦市三崎公園バス停から 西海岸線(市道35号線)づたいに油壺バス停までの全3.4kmのみちのりです。 見どころは、三崎水産卸売市場や歌舞島公園・二町谷の漣痕、 それにヨットで有名な諸磯湾・油壺湾などがあります。
三崎水産地方卸売市場
三崎港からは、右方向に伸びているバス道路を海沿いに進んでいきます。 歩き出してすぐの所に三崎の卸売市場があります。 年間を通じて新鮮な魚の大量な水揚風景が見られ、 中でもマグロは有名です。 近くには鮮魚貝類の店がいっぱいあります。 卸売市場を過ぎてバス道路を西へしばらく進み、 右へカーブする所までくると、道路のそばに歌舞島公園があります。
歌舞島(かぶじま)公園
三浦一族歴史めぐり(19)歌舞島
鎌倉時代、すでに三崎は、鎌倉幕府の行楽の地として、源頼朝をはじめとして 多くの幕官が来遊しておりました。ここ歌舞島も頼朝公が歌舞宴楽を催したところから この名がのこされています。また三浦義村の招きで当地を訪れた将軍藤原頼経が来遊 (極楽からホトケを迎える)の儀を行い、読経歌舞を催したことろからその名が伝えられたともいわれています。 このあたり一帯の磯は、岩礁の変化と男性的な海岸美で知られ、 荒天どき千様万態の磯岩に挑んで白く砕ける黒潮の雄大さは、 水煙千丈とでも形容すべきでしょう。 また、頂上から眺める富士山や相模湾の夕映えは天下の絶景です。
 (三浦市)
白秋文学コース(7)歌舞島
いつしかに 春の名残と なりにけり 昆布干場の たんぽぽの花
白秋三崎初遊(明治43年晩春)の一首で、 白秋歌碑建設の構想が企画されたとき、白秋自身が最初に希望したのはこの歌だった。 しかし三崎の海には昆布は生育しない。 搗布を誤認したということで建碑は実現しなかったが、 三崎における最初の会心の作として大事にした歌でした。 白秋が人生の岐路に立ち、自らの青春にも名残りを留めようとする、 郷愁と愛着がこの歌に秘められているからです。 大正2年、三崎に新居を求めた白秋は、十ヶ月余り三崎の風土を歩きつづけ、
相模のや 三浦三崎は ありがたく 一年あまり 吾が居しところ
と、心霊を蘇らせ新生のよろこびを残して小笠原へと渡ったのでした。
 (三浦市)
歌の町の碑
歌舞島公園の上には歌の町の石碑があります。
よい子が住んでるよい町は たのしいたのしい歌の町
♪ ソミドド レドレミ ソソミラソ ラララソ ドレドラ ソラミレド ♪
歌舞島公園からは、海に向かって伸びている諸磯の岬が眼下に見えます。 天候条件がいい日には丹沢はもちろん、遠く富士山までも見えますが、 この日は薄雲がかかっていて見えませんでした。
公園を過ぎて行くと、右へ入っていく道があります。 その道を20メートルほど行くと、左手に見桃寺があります。 一見してお寺という雰囲気ではないので、見落とさないようにしましょう。
見桃寺(三浦七福神「桃林布袋尊」)
紫陽山見桃寺の開基は建長18年(1613)三崎船奉行の向井兵庫頭政綱が、 駿河の国、興津の清見寺の僧、白室玄虎和尚を迎えて開山したと伝えられています。 桃林布袋尊は、当寺七代の住職桃林和尚の信仰したもので、 大きな袋を背負った肥満鼓腹の温顔は、古くから近郷近在の人々に親しまれ、 かつ敬われてきました。 そして、不老長寿、無病息災の守護神とされています。
 (三浦市)
白秋文学コース(7)見桃寺
寂しさに 秋成が書 読みさして 庭に出でたり 白菊の花
見桃寺 冬さりくれば あかあかと 日にけに寂し 夕焼けにつつ
白秋は大正2年10月、向ヶ崎異人館からここ二町谷(ふたまちや)見桃寺の 一室を借り、妻と二人だけのわび住まいを始めました。 この「秋成が書読みさして」の歌は、晩秋のある昼下がり、白秋は 上田秋成の雨月物語「菊花の駒」のくだりを読みふけっていたということで、 このことは白秋碑の第一号として昭和16年11月2日この歌碑の除幕式に 出席した白秋が、初めて明らかにしました。そして、翌17年の同じ日に、 白秋はこの世を去ったのです。
三浦一族歴史めぐり(18)桃の御所
建久の昔(1190年代)、時の将軍源頼朝は風光のすぐれた三浦の地に 三つの御所を設けました。ここ見桃寺は「桃の御所」のあった所で、 鎌倉将軍がしばしば来遊したと言われています。 また、寺の墓地には江戸初期、お船奉行として東京湾の守備にあった 向井将監一族の墓碑があります。
コースからは外れますが、見桃寺を出て道なりに少し進んでいくと、眞福寺があります。
白秋文学コース(8)眞福寺
日だまりに 光ゆらめく 黄薔薇 ゆり動かして 友呼びにけり
大正2年1月2日、白秋はこの寺に寄寓中の漢学者公田達太郎を尋ね、 この歌のほか一首を作っています。白秋がなぜ三崎を志したのでしょう。 この三崎行について白秋は、
「死のうと思ったが、死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかった」
と書いています。三崎と白秋の地縁を結ぶことになった公田の存在、 白秋文学に及ぼした公田の影響、白秋の三崎時代はこの寺を訪れたことからはじまります。
ここに来て 梁慶秘抄 読むときは 金色光の さす心地する
白秋文学を法悦境に導く先達は公田達太郎であったのです。
 (平成6年 三浦市)
神奈川県指定天然記念物 漣痕(れんこん)
この海岸一帯はスコリア質れき岩、砂岩シルト岩などの第三紀層からできている。 漣痕は砂岩やシルト岩によく保存されている。 特に正面のがけや、この先の離れ岩に模式的なものがみられる。 多くは断面のあらわれているのもに左右対称の波模様が岩の 表面に、みごちに画きだされている。第三紀の中ごろ、 海底に堆積した泥や砂が一定方向の底流で転動していた時、 転動部分の表面に生じた小さなろすによって生成されたものである。 これがそのまま地層の中に残され、その後の変動によって 海面上に露出し、侵食された結果、現在のような形になったもので波動漣痕といわれている。 よく保存されたみごとな形状は、当時における地層の堆積環境を知る上に貴重な資料といえる。
 (三浦市教育委員会)
海外(かいと)
漣痕を過ぎて更にバス道路を進むと、海外の町に着きます。 ふれあいの道は海外バス停先の信号を左へ曲がるのですが、信号を直進していくと屁っぷり坂があります。
白秋文学コース(4)屁っぷり坂
相模のや 三浦三崎は 屁の神を 赤き旗立て 祭れるところ
ここ過ぎて 幾たび涙 落としけむ 一尺の赤き 鳥居の光
この坂は急勾配の上、以前は赤土でありました。 そのため雨の後などは滑らないようにと、這うようにして 登り、腹に力が入り思わず放屁してしまったのかもしれません。 正しい名な尾上坂と言い、かつて源頼朝が歌舞島に遊覧した際、 三崎の人達はこの坂の上から拝んだのだともいわれています。 この歌は、坂の上り口左側にある屋敷稲荷や、坂の上の小さな天満宮 (現在の天神町の名はこれからついたといわれています)に里人が 奉納する赤い旗を面白く詠んだものといわれています。 また、この坂は、白秋が歌集「雲母集」の姉妹編となる 詩集「畑の祭」の散策に、登らなければならない難儀な道でもあったのです。
 (三浦市)
海外バス停の信号の所まで戻り、ふれあいの道を進みます。 道の脇に、褶曲した縞模様のスランプ構造の岩があります。
神奈川県指定天然記念物 三浦市海外町のスランプ構造
三浦市海外町の海岸一帯に露出する三崎町砂岩シルト岩互層(三崎層)は、 三浦層群下部層で、地質年代が第三紀の海底で堆積した、主に灰白色の シルト岩と、黒色のスコリア質の凝灰岩や砂岩の互層からできています。 この崖の地層には、地質形成当時の環境を知る手がかりとなるスランプ構造が みられます。スランプ構造とは、未だ固まっていない堆積物が一時的に 海底などの斜面をすべり下った結果生じた特異な堆積構造です。 この堆積構造を示す互層の形状は、上部は正常層の堆積面とほぼ並行しています。 下底は、東から西に傾いたすべり面を境として、下位の正常層と接しています。 このすべり面は露頭の西半部で正常層の堆積面と一致してくるため、東半部でのみ 下位層の層理を高角度で切った形を示しています。崖面のスランプ構造には、 軸面をわずかに東に傾けた一つの背斜(波状をあらわす地層の峰の部分)と、 その東に続くごくゆるい向斜(波状をあらわす地層の谷の部分)からなる 見事な波状に曲がった褶曲面がみとめられます。 このスランプ構造は、地層を構成するシルト岩やスコリア質の凝灰岩、砂岩等が 未だ固まっていないコロイド状態にあった時、東から西に向かっての海底地すべりに よって転位変形した結果生じたものと考えられ、典型的な褶曲型のスランプ構造と いえます。地層堆積当時の堆積環境を知るうえで貴重です。
 (神奈川県教育委員会、三浦市教育委員会)
スランプ構造の崖を後に、更にバス道路を進んで行くと、 尾上町油壺シーサイドタウン入口の交差点があります。
ふれあいの道はここを直進していくのですが、ちょっと脇道にそれ、左の坂を登っていきます。
諸磯
スランプ構造の崖を後に、更にバス道路を進んで行くと、 尾上町油壺シーサイドタウン入口の交差点があります。 ふれあいの道はここを直進していくのですが、ちょっと脇道にそれ、左の坂を登っていきます。 登りきった所を右へ陸橋を渡っていくと、諸磯の説明板があります。
この一帯は、人文自然科学の資料として不思議と堅いものばかりが 残っています。諸磯式土器の出土。大地震による諸磯隆起海岸など。 この堅い諸磯の風土に詩情に富んだ文学作品を残したのは白秋でありました。 歌集「雲母集」の姉妹編三崎詩集「畑の祭」は白秋の詩風の一大転機を画した詩集であり、 その素材となったのがこの一帯で「畑の祭」は諸磯の詩といえます。 その「畑の祭」は次の一文からはじまります。
大正2年9月某日、相州三崎は諸磯神明宮祭礼の当日の事、 上層に人形、下段にお囃子の一座を乗せた一台の山車は漁師と百姓とを兼ねた 素朴な村人の手に曳かれてゆく。 先ずその山車は鎌倉街道から横にそれて、一小岬の突鼻の神明宮まで、 黍畑や栗畑の高い丘道をうねってゆく。(以下略)
この道が祭りに山車を曳き神明社へと至る道です。 白秋はその祭のお囃子として、長編の詩を作りました。
やれやあ引、さの、せえい、せえい、せえええい、三浦三崎は女の夜業。
男後生楽寝てまちる、ようい、よういよ、さのせえい。
ええ、そりゃ、なあ、秋が来たぞよ、三崎諸磯の段々畑からもずが出たで、
えええ、や、ほうほうにゃ、や、ほろほ (以下略)
と36行に及び、畑の作物や、動物にまで祭人の心を通わせ祭気分を盛り上げ描写しています。
 (三浦市)
浜諸磯
陸橋を引き返して海へ向かって進んでいくと、やがて浜諸磯に着きます。
若宮神社(小桜姫)
浜諸磯バス停の先に、諸磯神明社があり、 稲荷神社,若宮神社(小桜姫),諸磯神明社,日枝神社の社が並んでたっています。
由来
当若宮神社の祭神である小桜姫は、代々鎌倉幕府の重臣を勤めた 名門大江家筆頭大江広信の一人娘として育った。 若宮神社という名称は、三浦の地をこよなく愛し、地元の 里人たちからの慕われた小桜姫の別称に由来している。
小桜姫が20歳の春、父広信は、足利時代の武将で相州三浦荒井城主であった 三浦道寸の嫡男三浦荒次郎義意をたいそう気に入り、最愛の姫を嫁がせた。 嫁いで10年余り、幸せな日々はまたたく間に過ぎ、戦国の暗雲は、三浦一族にも 襲いかかった。世に言う北条早雲の三浦攻めである。 小桜姫は、浜諸磯の先端の森かげに仮家を設け、腰元たちと共に身を隠していたが、 対岸の城が火に包まれるのを見て、涙ながらに夫に別れを告げたのであった。 三浦一族は、荒井城での篭城3年間のすえ、武運つき滅ぼされてしまったのである。 時は、将軍足利義種の時代、永正3年(1516)7月11日のことである。
城跡である現在の油壺に、三浦一族の墓が建てられたが、毎日墓参をする小桜姫を 見るにつけ、里人たちは、小桜姫様は本当に烈女の鏡だ、どこまでも三浦の 殿様に操をたて通すとは見上げたものである、と、皆涙ぐんでその後ろ姿を見送ったという。 落城して1年余り後、夫を亡くしたことによる気落ちと人生の無情心からであろう、 身体が次第に衰えはじめ、ついに日々の墓参も叶わぬようになり、34歳で世を去ってしまわれたのであった。 その後、小桜姫を女性の鏡として信奉し、姫の墓に願いごとをしていくものが跡を断たなかったという。
小桜姫が亡くなって約200年後、江戸時代も半ばの頃、伊豆から関東にかけて 未曾有の大嵐が襲い、伊豆半島、房総半島は立ち直れないほどの大惨事となったと伝えられている。 三浦半島も壊滅の危機に脅かされたが、諸磯の一女人が、常日ごろ熱心に尊信していた 小桜姫様にお願いすればと思い立ち、荒れ狂う嵐のなか姫の墓にかけつけて一心不乱に祈願をした。 時を同じくして三浦の地に奇跡が起きたのである。俄かに嵐はおさまり、三浦半島は 大きな被害も無く平穏を取り戻したという。その後、彼の女人の夢枕に小桜姫が立たれたのである。 そのことがいつしか里人にも伝わり、「小桜姫様はたしかに三浦の土地の守り神様だ。 三浦の土地だけが助かったのは皆小桜姫様のおかげだ。ありがたいことではないか」と、 立派な御社をつくることにした。
神社の建立場所は、戦の際に姫が身を寄せていた浜諸磯が選ばれ、 里人の心を一つに合わせた若宮神社が完成したのである。 厳粛な鎮座祭が行われた当日は、四・五里も離れたところから人々が集まり、 海岸は人の波で埋まり、茶屋や露店で賑わったという。 こうして、小桜姫は里人たちの氏神様として永く後世に伝えられ現在に至っている。
 (三浦市諸磯)
一旦、尾上町油壺シーサイドタウン入口の交差点まで戻り、 そこから、先ほどの陸橋の下をくぐって進みます。 白須児童公園の先の信号を過ぎると諸磯湾です。
諸磯湾
諸磯湾には多くのヨットが係留されています。 何百本というマストが水面に影を落として揺らいでいる景色は素晴しいものです。
油壺湾
諸磯湾を過ぎて200mほど進むと、油壺湾の入口に着きます。 道をそのまままっすぐに進むコースと、湾へ降りていくコースに分かれます。 湾へ降りていくと、陸に上げられたヨットが並んでいるのが眼に入ってきます。
三浦道寸父子と油壺湾
関東制圧をねらっていた北条早雲が大軍で新井城に攻めてきたため、 三浦道寸義同と子の荒次郎義意は城に立て籠もって3年も戦ったが、 ついに永正15年(1518)に城は落城し、道寸父子は自害したそうです。 この時、他の将兵も討死、または湾へ投身したと伝えられています。 そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したようになったので、 後世「油壺」といわれるようになったそうです。 今日では、油壺湾、小網代湾、諸磯湾はヨットハーバーとして、 また、油壺湾は台風等の大しけの時などは天然の入江を利用した漁船の避難所にもなってます。
 (環境省・神奈川県)
油壺湾には降りていかずにまっすぐに坂道を進んでいくと、やがて県道216号にでます。 そこを左へ曲がって進みます。 油壺湾へ降りていった道が途中で合流し、やがて油壺バス停に到着します。
油壺(あぶらつぼ)バス停
京浜急行三崎口駅まで、三崎口駅行きバスにて15分、1時間に3本程度の便があります。
バス停からもう少し先へ進むと油壺マリンパークがあるので、 立ち寄ってみるのもいいでしょう。