太田道灌・日向薬師のみち
散策:2002年08月上旬
【関東ふれあいの道】 太田道灌・日向薬師のみち (神奈川県10番コース)
概 要 丹沢大山の山塊を望む田園地帯の中で、 太田道灌の墓や奈良時代開創の日向(ひなた)薬師など、歴史と文化にふれるコースです。
起 点 伊勢原市 坪ノ内バス停
終 点 伊勢原市 日向薬師バス停
ルート 坪ノ内バス停…長福寺…三之宮比々多神社…伯母様橋…上粕屋神社…太田道灌の墓…上粕屋神社…産業能率大学…よろい塚…諏訪神社…日向薬師入口…日向薬師バス停
所要時間 4時間40分
歩いて... 坪ノ内バス停から長福寺へ向かう途中に、余り踏まれていない山道がありますが、 それ以外は農道や車道(交通量は多くない)が続き、歩きやすいコースです。 各所のいわれなどに触れて、歴史と文化へ想いを馳せてみましょう。
関連メモ 高取山, 日陰道
コース紹介
坪ノ内(つぼのうち)バス停
小田急鶴巻温泉駅から、[伊59]伊勢原駅北口行きバスにて7分、 小田急伊勢原駅北口から、[伊59]鶴巻温泉駅行きバスにて13分、 いずれも1時間に2本程度の便があります。
小田急鶴巻温泉駅から吾妻山への道を歩いても、20分程度で到着します。 駅前にある案内図でコースを確認して、 弘法山ハイキングコースを目指して歩き出しましょう。 旅館「美ゆき」の前を左へ曲がり、東名高速道路の下をくぐり、 出たところの左前方の道を進むと「弘法山」を示す道標があります。 そこから山道を登っていき、「右 比々多村善波ニ至ル、左 弘法山ニ至ル」の 道標を直進して峠を越し、大住台(おおすみだい)の住宅街へ降り、 バス通りを左に曲がればすぐの所にあります。
(美ゆき旅館は2007年5月に閉館になりました)
坪ノ内バス停から少し進むと国道246号に出ます。 その道を渡ると案内図があるので、コースを確認しておきましょう。 国道を右方向に100m位進むと左手に「自動車遊び空間」の看板があり、 道標に従ってそこの道へ入っていきます。
切り通しを抜けて進んでいくと畑地にでます。 そこを右へ曲がり、農道を里へと降りていきます。
里にある十字路を直進して間もなく、長福寺への道が右へ分かれます。 道標もありますが、草に埋もれていて見えにくいので注意しましょう。 余り踏まれていない山道をしばらく進んでいくと、ほどなくしてコンクリートの道に出ます。
道標に従って左へ曲がると、すぐの所に八幡神社があります。 神社の右手前にある細い道を降っていきます。 道標が折れて倒れているので、見落とさないように注意しましょう。
八幡神社
鎮座地 伊勢原市坪の内572番地
御祭神 誉田別命
由緒
元、二本松に鎮座。比々多神社の摂社として創立せられた。 坪の内村が神戸村観音谷戸及び三宮村谷が岡を分離して一村となった時、 慶長8年(1603)現在の鎮座地に遷座再建されたものである。 旧社格村社。
長福寺
竹林を過ぎて人家がある所へ出ると、すぐの所に長福寺があります。
長福寺の観音堂
長福寺の観音堂には、等身大の11面観世音菩薩像が安置されています。 この観音像は、江戸初期に農夫が鈴川の川原で拾ったものを、 当時の地頭であった小幡勘兵衛が観音堂を作り祭ったものです。 みだりに堂の扉を開くと目がつぶれると言い伝えられています。 長福寺後方の山腹には登尾山古墳があり、その出土品は三之宮比々多神社の 郷土博物館に保存されています。
 (環境庁・神奈川県)
お寺からは、一旦は東名高速道路へ近づき、また離れていきます。 畑の中を幅5mほどの道が続きます。 道標のない十字路を直進して橋を二つ渡り坂道を登ると車道に出ます。 車道を左に進むとすぐの所に三之宮比々多神社への道標があるので、その道へ入っていきます。
三之宮比々多神社
真直ぐに進んでいくと、正面に三之宮比々多神社があります。
三之宮比々多神社
鎮座地 神奈川県伊勢原市三之宮1468番地
御祭神 豊国主尊、天明玉命、雅日霊命、日本武命、大酒解神、小酒解神
由緒
神武天皇6年、国土創建民族興隆を祈念し日本国霊として当社を 創建したと伝えられる。崇神天皇の御代、神地神戸を奉られ、大化元年(645) 社殿修復の際、木彫の狛犬一対(市重要文化財)を奉納、また、此年に酒解神を 合祀、うずら瓶(県重要文化財)を納められた。 天平15年(743)大宮司に竹内宿弥の後孫紀朝臣益麿を迎えて 初代宮司に任命、勅して荘園を賜う。真田と称す。天長9年(832)6月 国司橘朝臣峰嗣を勅使として相模国の総社として冠大明神の神号を奉られた。 鎌倉時代にはいり、将軍源頼朝が文治元年(1185)に国土安泰の御願書を奉う。 建久3年(1192)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された。 南北朝室町時代に戦さに巻込まれ、神領の大半を失い衰退したが、 徳川時代、当社が相模国の名社であることを知った家康公より 社領を新たに寄進され、以下、14代将軍まで続いた。 よって社運も持直し、明治時代には、社格は郷社とし、 社格制度廃止後、指定神社となる。
御神徳
主祭神豊国主尊は国土創造の神様で、大地を整えることは元より、 地上に生存する万物の芽組みと育成、又は、あらゆる機物を考え出し組み立てる 大元を司りになられます。 これは、私達が生活する中で、子供の成長、縁組、そして家庭内の平和、また 諸産業の発展へと御神威をお持ちになり発揚せられます。 御参拝の皆様方も大神様の御加護を戴き、よりよき生活が営まれ、 御多幸あられますことを御祈念申し上げます。
神社の敷地の脇を通って進み、駐車場の前を右に降っていくと、バス道路にでます。 直進して正面の商店の前を左に曲がり、中谷バス停を過ぎて伯母様バス停に着きます。
伯母様村村名の由来
1550年代後半に戦国大名3代後北条氏が 市施弾正左衛門康則(小田原家の家臣)に当伯母様村を所領として与えていた。 この名伯母様村は市施氏の伯母梅林理香大姉が当村を所領していたことにより伯母様村と云うようになった。
伯母様村観音様
今を遡ること約230年前の宝暦年間、 伯母様村は大山参詣に関東一円から年間約20万人が渡来していた処であった。 宝暦年間は未曾有の大飢饉から大災になり、全国的大凶作の時期であった。 こうした時期由に農民を含めた江戸庶民は大山講を作り、 陸海路をいとはず雨降山大山寺にお参りに来た。 こうした中で伯母様村の村民は継続する庶民の大山参詣の為、少なからぬ潤いを受け、 当石仏の造立を志したと思われます。
伯母様橋
ふれあいの道は、鈴川に架かる伯母様橋を過ぎ、すぐ先の県道に出ます。 県道を左へ曲がってすぐの所に、上粕屋神社への道が右へと続いています。
上粕屋神社
その道へ入り、十字路を直進して牛舎を過ぎ、前方に大きな樹が見えてくると、上粕屋神社へ到着です。
上粕屋神社
本神社の勧請年月日は詳らかでないが、大同弘仁の頃、 近江の国の日吉神を当所に移し勧請したと伝える。 また、風土記によれば天平年中に僧侶良弁の勧請なりと言う。 元禄4年、社殿を再建し、山王権現と称した。 明治2年6月、日枝神社と改称し、 当時の例大祭は3月3日で競馬神事神楽を奉納、 6月22日と12月2日には年の市を執行した。 明治6年7月、宇和田内鎮座の熊野神社と 字石倉上鎮座の白山社を合祀し、上粕屋神社と改称した。 更に、昭和39年4月、字峯岸鎮座御嶽神社を、昭和41年10月字秋山鎮座の 五霊神社と合祀して現在に至っている。
例大祭 4月3日
御祭神 大山咋神,大穴牟連命,若山咋命, 伊弊諾命,速玉男命,事解男命, 伊弊冊命,菊理姫命,泉道守命, 天穂日命,大己貴命,少彦名命, 事代主命,三穂津姫命,日本武尊
上粕屋神社から太田道灌の墓までの往復の途中に、七人塚があります。
七人塚
江戸城の築城で有名な太田道灌が、主君上杉定正に「道灌謀叛心あり」と 疑われ、定正槽屋館に招かれ、刺客によって暗殺されました。 そのとき上杉方の攻撃を一手に引き受けて討ち死にした道灌の家臣7名の墓で 「七人塚」と伝えられています。 この塚は、上粕屋神社の境内の杉林の中に7つ並んでいましたが、 明治の末に開墾するとき一つ残された伴頭のものといわれ、 今でも七人塚と呼ばれています。
 (環境省・神奈川県)
太田道灌の墓
七人塚を過ぎていくと、太田道灌の墓に着きます。
太田道灌の墓
太田道灌(1432〜1486)は幼名を鶴千代といい、成人してからは資長(すけなが)または 持資(もちすけ)といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号した。 道灌が生まれた頃、父資清は相模の粕屋に本拠をおいていたので、 道灌は現在の伊勢原市内で生まれたものと思われる。幼い頃から非常に利発で、 神童といわれていた。 当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦が絶えなかった。 道灌は25歳の時(1457)、武蔵野の原に、海に臨んで城と町とを築いた。 後に、この城は江戸城といい、徳川幕府300年の居城となった。明治以後、町は東京とよばれ、 城は皇居となった。これにより道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人として、その名が高い。 道灌は築城軍略の大家であるばかりではく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人であった。 上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多い。 晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互いに協力して政治を行わなければ 平和は望めないと考え、力を尽くした。しかし、主君の上杉定正は、己の権力の増大のみを 求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半にして粕屋の上杉館で謀殺された。時に54歳であった。 道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東官領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と 伝えられている。現在、伊勢原市では、毎年10月の第一土,日曜日に観光道灌祭を行って、 偉業を偲んでいる。
太田道灌と山吹の花
文武両道にすぐれ、人々から兵法の師範と称された道灌は、 若年の頃は武略のみを心がけ、文の道はかえりみなかったと伝えられる。 しかし、父の道眞資清は当時和歌の名手として、また、連歌の達者として知られ、 馬上に打物取っては並ぶものなき勇者でもあった。 狩りに出た道灌が雨にあい、雨具を借りに立ち寄った賎が家の乙女の差し出した 山吹の花の意味が分からず、自ら深く愧じて学問に志した説話は余りにも有名である。 関東に生まれ、関東に育った武将の中で、都の文人にも劣らなかった文化人であり、 また、江戸の築城に当たっては都市計画の先覚者でもあった道灌の非業の死をいたんで、 花が咲いても実とならぬ山吹の花をえらんで、道灌への思慕の情を託したものであろうか。
みやび男の子の 道灌さまは 花も実もある あづま武士
土地の人が歌った、道灌追慕の唄である。
 (洞昌院 27代当主)
産業能率大学
太田道灌の墓から上粕屋神社まで戻り、産業能率大学への道を進みます。 産能大学アーチェリー場を左に見て正面の分岐を右へと進むと、畑の向こうに産業能率大学が見えてきます。 農道のT字路に出たら左へ曲がり大学を正面に見て進むと、 校庭に着きます。そこを右へ曲がって道なりに行くと、ほどなくして大学の正面入口に到着します。
上杉定正糟谷の館址
本学の校地は、室町時代に、関東地方で勢力をふるった上杉定正(1443〜1494)の 「糟谷の館」の址と言い伝えられている。校地及びその付近をタテハラ(立原)と 呼んでいるが、これも館(タテ)のあった所からきている地名であろうといわれている。 校舎建設に先立つ発掘調査において、館の一部と思われる、台地を東西に貫く大きな溝が あることが明らかになり、また当時のものと思われる堀立柱の建物の址も発見された。 しかし、これが何の建物かは明らかに出来なかった。 上杉定正は扇谷上杉氏である。上杉氏は鎌倉府の執事として、また越後・上野・伊豆の守護にも 補せられた名家であり、その分流も多い。なかでも鎌倉における居館の所在地の名をつけた 扇谷・山内の二家は有名である。定正の頃には河越城(埼玉県川越市)がその本拠地であったと いわれるが、大庭城(神奈川県藤沢市)にも居住したこともあり、また、糟谷の館にもしばしば たちより風流を楽しんだともいわれている。定正が勢力をふるった背景には、その家臣太田道灌の 力があった。太田道灌は江戸城をはじめ、川越・岩槻などの諸城をつくり、また軍略に功な名将として 知られている。近臣の讒言にあって、定正のために謀殺されるのであるが、その舞台となったのが、 この糟谷の館であるという。道灌の墓は、本学の近くの洞昌院にある。
 (産能大学)
大学の正面入口から前方の車道を降っていくとT字路に出ます。 そこを右へ曲がり、県道を進んでいきます。 県道を700mくらい進むと、左へ導く道標があります。 ホテルの横の坂道を登っていきます。
坂道を越えて右前方の道を降っていき、 T字路を左へ進むと、市道の高部屋小学校前交差点に出ます。
よろい塚
交差点を渡って左へ進むと、すぐの所によろい塚があります。
明治14年、道路の拡幅工事を行っていた当時の西富岡村の住民66名は、 よろい塚古墳の蓋の石が露出して、玄室(棺を納める室)が壊れそうなので、 これを修理し、古墳に使われていた巨石を「よろい塚神社」の御神体として祀ったそうです。 木造社殿は、昭和初期に崩れ失われ、御神体も土に埋もれ頭部刻字の 「よろい塚」のみ地表にあって「よろい塚」の碑と呼ばれるようになったそうです。
 (環境省・神奈川県)
諏訪神社
よろい塚を後にして、洗水バス停,諏訪坂下バス停を過ぎ、道は少しずつ登りになってきます。
途中、道路の左側に諏訪神社がひっそりと佇んでいます。
諏訪神社を後にして更に進み、藤野入口バス停に着きます。 バス停の側に駒つなぎの松があります。 どこにあるのかと辺りを見廻しても、それらしい松はありません。 枯れてしまったのでしょうか。 それとも、「二代目」ということなので、小さな苗木なのかも知れません。
駒つなぎの松
霊山寺(日向薬師)は勅願寺である。 源頼朝公が参詣の折り、駒をつないだ松である。 この時より駒つなぎの松と言うようになった。
 (二代目松)
日向の日かげ道
小字馬場から高橋を通り、神明橋に出る道のことである。 この道名は、日なたに対して日かげという意味である。 源頼朝や政子・実朝夫人など、日向薬師に参詣した時、 通った道はこの日かげ道であり、またこの頃大山参詣者もこの道を通った。 馬場から12神橋を渡らず、左西方に進み 神明橋を渡り、そこから白髭神社脇まで下がって衣裳場へと出た。 この日かげ道は現在は人家も少ないし農作業道で昔の面影はない。 普通、薬師参詣者は立派に架けられた12神橋を渡り、坊中集落を通り大門より登っている。
歓迎の門
日向の日かげ道を見送ってそのまま進むと、大山を背にして歓迎の門が見えてきます。
丹沢大山国定公園 日向渓谷 日向薬師
光と緑の街伊勢原 ようこそ日向へ
この地に植えられた花や木は地主様や地元の皆様のあたたかい気持ちで守られています。 皆さん自然を大切にしましょう。
 (高部屋地区観光振興会)
十二神橋
歓迎の門をくぐり、十二神橋を渡ると坊中です。 橋を渡って左へ進みます。
日向薬師入口
薬師沢にかかる大門橋を渡り、日向薬師への入口に到着します。 このコースは日向薬師へは入らず、日向薬師バス停へと直進します。
日向薬師(ひなたやくし)バス停
日向薬師入口からすぐの所に日向薬師バス停があります。
日向薬師バス停からは、小田急伊勢原駅行きのバスがあります。 小田急伊勢原駅まで、伊勢原駅北口行きバスにて23分、1時間に2本から3本程度の便があります。