弘法大師と桜のみち
散策:2002年07月下旬
【関東ふれあいの道】 弘法大師と桜のみち (神奈川県9番コース)
概 要 桜の名所である権現山・弘法山を経て、旧矢倉沢街道・吾妻山へとたどるコースです。
起 点 秦野市 南平橋バス停
終 点 伊勢原市 坪ノ内バス停
ルート 南平橋バス停…峰の上橋…白山神社…権現山…弘法山…才玉バス停…矢倉沢街道入口…吾妻山分岐…吾妻山休憩所…坪ノ内バス停
所要時間 4時間10分
歩いて... 権現山の展望台からは雄大な眺めが楽しめます。 権現山から弘法山への尾根道はとても広く、みごとな桜並木が続きます。 途中までは「弘法大師と丹沢へのみち」とコースが重なっています。 浅間山駐車場から権現山への登りと、吾妻山分岐から尾根道までの登りではいい汗をかきます。
関連メモ 高取山, 弘法山公園, 高取山, 弘法山公園, 弘法山公園, 弘法山公園, 念仏山, 弘法山公園, 弘法山公園,
弘法山公園
コース紹介
南平橋(なんぺいばし)バス停
小田急秦野駅北口から、[平71]平塚駅行きバスにて10分、 JR平塚駅北口から、[平71]秦野駅北口行きバスにて27分、 いずれも1時間に2本程度の便があります。 バス道路の横には金目川が流れ、田園風景が広がっています。
関東ふれあいの道
関東ふれあいの道は、一都六県を巡る自然歩道です。 沿道の豊かな自然にふれ名所や史跡をたずねながら、 ふる里を見なおしてみませんか。 この地点は、県下17コースのうち「鷹取山・里のみち」と 「弘法大師と桜のみち」並びに「弘法大師と丹沢へのみち」の分岐点です。 みどころは、南方に鷹取神社(桜の花咲くような美しい姫神様)のある鷹取山、 北方に桜の名所権現山や弘法山、さらに波多野城址・大日堂などがあります。
健速神社
南平橋バス停から、水田の中へと続く車道をまっすぐに進みます。 正面のT字路を右へ曲がってすぐの所に健速神社があります。 ふれあいの道は、この神社を左手に見ながらぐるっと周囲を回るように続いていますが、 社殿左横から裏手に出ると、回ってきた道と合流します。 ここから、道標に従って「弘法山・蓑毛」方向へ進みます。
峰の上橋
正面の小さな森の所を左へカーブしながら坂道を進んでいくと、 東名高速道路の上に架かる峰の上橋に着きます。 橋を渡り右に曲がってすぐのところが、県道の鳥居松橋西側交差点です。 道標に従い、V字形に戻るようにして左手へ曲がり、広い道を進みます。
熊野神社
瓜生野入口バス停を過ぎ、大きく右へカーブして小田急の踏切を渡り、更に車道を進みます。 途中、右手に熊野神社があります。
熊野神社御祭神 : 素盞鳴尊 外11神
本宮 : 崇神天皇御代創建
慶長16年(1611)中村氏等熊野三社大 権現を勧請し創建す。寛文貞享年間中村市左 衛門等再建を重ね寛政年間当所に北西方高 地より遷宮す。明和弘化明治の再建を経ての 今日覆殿の損傷甚しく為に氏子相議し浄財 を寄進し新覆殿を再建せり。創建以来 360有余年人変れど神変らず。然れども代 々敬神の誠を捧げ来れり。願くは神威を以て 国家町内の安泰繁栄の神助を賜らん事を。
熊野神社を後に更に進み、才ヶ分バス停へ着きます。 バス停の手前の右側に「弘法山公園」を示す道標があるので、その道へ入っていきます。 振り向かないと道標が見えないので、見落とさないようにしましょう。
坂の上で右の坂道に入って行き、登り切った所を右折してすぐの所を更に左折すると、 関東ふれあいの道の道標があります。
正規ルートについて
今回は小田急の踏切を渡って熊野神社を経てここまで歩いてきましたが、 正規のルートは踏切を渡る手前で右側へと分かれていきます。 瓜生野入口バス停を過ぎ大きく右へカーブしていくと、 曲がり切った所に右側に分かれていく道があります。 道標もありますが、草に覆われていて見つけにくい所にあります。 今回はその道に気づかずにそのまま直進してしまいました。 『神奈川県15番コース弘法大師と丹沢へのみち』では正規のルートを歩いているので参考にしてください。
坂の頂上辺りで、右側の坂道へ入ります。 道標が見えにくい所にあるので注意しましょう。
坂道をしばらく進むと十字路に着きます。 その左前方に白山神社があります。
白山神社
道標に従い、十字路をまっすぐ進み、神社を左手に見ながら 果樹などが植えられた畑の中の坂道を登っていきます。
坂道を登り切ると市道にでます。 そこを左へ曲がって200mほど進むと、浅間山駐車場に着きます。
駐車場の前にある権現山への登り口へと入っていきます。 それまでの道と違って急な階段の登山道なので息が切れますが、 150mほどで権現山の頂上なので一気に登ってしまいましょう。
権現山
階段の登山道が終わると目の前に公園展望台が現れ、権現山に到着します。
権現山の歴史
通常弘法山と言えばこの権現山を含んでのことであり、又の名を<b>千畳敷きとも呼ぶ。 権現山は元々その名の由来とする権現堂があったために名付けられたものである。 龍法寺の伝えに依れば権現山には白山妙理権現が祭られ、 その本地仏として現在龍法寺に安置されている十一面観音菩薩が字観音山に祭られていたという。 また、明治の末頃までは堂の位置を示す土壇も認められたという。
最近の城郭調査によると山頂の北西端には二段の腰郭、東端近くの西南側にも細長い腰郭が 取り巻き大小14箇所もの平場がある。いずれも西北を向いていることから権現山からみて西 (秦野方面)に対する備えを目的としているようである。 築造の時代は室町期の城郭址との報告もだされているが、権現堂との関わりは不明である。
 (秦野市)
展望台からの眺めは素晴しく、 丹沢山塊や三浦半島、房総半島、関東平野の雄大な展望を楽しむことができます。
公園展望台
弘法山公園には、市内外から多くの観光客が訪れています。 また、元旦の「歩け歩け運動推進大会」や「弘法山桜まつり」「瓜生野百八松明」等 伝統行事の舞台にもなっています。 眼下に秦野の街を、そして、相模湾、霊峰富士、丹沢大山連峰を望む権現山のこの場所には、 昭和25年に神奈川県及び神奈川新聞社の主催による「神奈川県新八景」に当選したことを 記念して建てられた見晴台がありました。 建築後50年を経て老朽化していたこともあり、21世紀を迎える記念事業として、 このまちの限りない発展と世界の恒久平和を祈念し、この展望台に建て替えたものであります。
 (秦野市長)
弘法山公園「公園展望台」竣工記念 「短歌・俳句で祝う新世紀」入選作品
 一席 若き日を 戦時での農に 耐え抜きて いま新世紀の 初日拝む
 一席 赤富士に 託す初日よ 新世紀
 二席 あらたまの 光を浴びる 八角の 展望台は 富士と真向ふ
 二席 雲の間に 初日出でたり 展望台
 三席 新しき 展望台に 雪富士を 仰ぎあらたな 世紀を踏み出す
 三席 初富士の 桃いろの染む 世紀かな
 佳作 夕暮の 歌碑て喜び ゐるならむ 権現山に 展望台成りて
 佳作 日の出まつ このひとときに 夢たくし ごんげん山に 年の明けゆく
 佳作 新世紀 背筋正して 初日の出
 佳作 初日の出 ぼくらの未来 照らし出せ
馬場道
権現山から弘法山へと続く尾根道は山上とは思えないほど広く、桜の並木道になっています。 ここは馬場道と呼ばれ、戦前には近在の農民がここで草競馬を楽しんだ所です。
フィールドの約束 (神奈川県環境部自然保護課)
 (や)野外活動は無理なく楽しく (き)着るものにも一工夫
 (さ)採取はしないで自然はそのままに (も)持って帰ろう、思い出とゴミ
 (し)静かにそーっと (ち)近づかないで、野鳥の巣
 (い)一本道、道から外れないで
秦野とたばこの歴史
秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及 ほし、味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていま した。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。 特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なもので した。この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、 堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすこと のできない場所でした。 明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野 が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大 しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。 昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少し ていきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはた ばこ耕作そのものが終わりを告げました。 秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を 生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くし たたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの 土地にしっかりと息づいています。
 (秦野市)
「秦野たばこ」の一生
たばこの里、秦野のたばこ作りは江戸時代初期からの歴史があり、その最盛期には、 ほとんどの農家がたばこを作りました。「秦野たばこは技術で作る」といわれ全国に名声を博すほどに なりましたが、時の移り変わりとともに衰退し、昭和59年には、ついにその幕を閉じることとなりました。 秦野の経済発展の源となった「たばこ耕作」が、時とともに人々の心から失われぬよう、 たばこ耕作終息10周年に当たり、秦野の「たばこ作り」をここに記します。 なお、たばこの廃作に当たっては、「秦野たばこ作りの火を消すな」と耕作の継続を希望する多数の 農家があったことを付記します。
 (昭和59年度廃作者一同)
1〜3月
(苗床期)
たばこ作りは、正月早々からの苗作りから始まります。 たばこの種子は、1グラムで1万2千粒あるといわれるほど小さいので、 苗床の管理には細心の注意を図り、たばこの芽が出ると、 自分の子供以上に大切に育てます。
4〜6月
(本畑期)
畑に肥料を施し、10アール当たり約4千本もの苗を移植します。 土寄、心止、芽かき、そして台風から苗木を守るための準備など、 休む間もなく仕事は続き、畑の品評会で入賞すると、畑に入賞旗が立てられます。
7〜8月
(収穫,乾燥期)
いよいよ収穫が始まります。この時期が一年で最も忙しい時期であり、 子供たちも学校が夏休みになるので、炎天下でまっ黒になって収穫を手伝います。 そして、収穫した「たばこの葉」は一枚一枚丁寧に縄に編み、竹につるして天火で乾燥します。
9〜10月
(葉のし,調理)
たばこの乾燥が終わると、互いに向き合って、葉のしわを一枚一枚手で伸ばす「たばこのし」が 始まります。この作業は「夜なべ仕事」といって、どの農家でも夜12時ごろまで裸電球の下で行います。 そして、伸ばした葉は、葉の質により等級に分別「調理」し、一束30枚ほどに束ねます。 たばこ葉は「お札」ともいわれ大切に取り扱われました。
11〜12月
(納付)
いよいよ牛車や荷車にたばこの葉を載せ、専売局に納入します。 専売局では、鑑定人が葉を鑑定し、値段を決めます。 この時が一番緊張しますが、この一瞬で農家の1年間の苦労が報われるかどうか決まり、 この瞬間悲喜こもごものドラマが展開されました。専売局の帰りには、夏休みに手伝いをした 子供たちへの土産や、正月の晴れ着などを買い込んで家路につきます。
百八松明(ひゃくはったい)
秦野市南矢名瓜生野地区に室町時代から伝わる旧盆の行事として続いている厄除、豊作を祈る 火の祭りです。 旧盆の8月14日と15日の夕刻、麦わらで作った直径30〜40cm、長さ1.0〜2.5mの たいまつ約70本を権現山に運び、 午後7時過ぎに辺りが暗くなるのを見計らって大きく積み上げた麦わらに点火、 参加者銘々がその火から自分の松明に点火し、 年少者から順次麓の龍法寺の山門付近までおろします。 麓では、女性を中心に今や遅しと待ち受け、 一年の無病息災を祈って火の粉をかぶる慣わしがあります。 暗い山の斜面を延々と動く松明は火の帯となってたいへん壮観です。
 (秦野市観光協会)
尾根道の途中で、蓑毛への道を分けます。 左側へ降る道は15番コース「弘法大師と丹沢へのみち」です。 この9番コースは右側の道を山頂へと進みます。
弘法山
緩やかな坂道をしばらく進んでいくと、弘法山に到着します。
弘法山の歴史
弘法山の名前は弘法大師(774〜835)がこの山頂で修業したことから名付けられたとの 伝承があり、権現山(千畳敷)を含んで呼ぶこともある。弘法山は麓の龍法寺と深い関わりを持ち、 戦国期に真言宗から曹洞宗に変えた。鐘楼の下に続く沢を真言沢と呼び、その名残りがある。 弘法山の鐘は、享保頃(1716〜35)に龍法寺5世無外梅師と行者の直心全国が発願し、 弘法山周辺の村々の有志や念仏講中の人々の寄進により宝暦7年(1757)12月に完成させた。 明和3年(1766)に山火事でひび割れ、再び周辺村々の有志や江戸隅田の成林庵主で下大槻伊奈家出身の 松操智貞尼の尽力により徳川御三家や諸大名などから「多額の喜捨」を得て 享和元年(1801)5月に完成した。鐘は当初から「時の鐘」として親しまれ、 災害の発生も知らせながら昭和31年まで撞き続けた。現在の鐘楼は慶応3年(1867)に再建したものである。
 (秦野市)
鐘楼
ハイカーの皆様へ
この鐘は、時を知らせる鐘として、正午、3時、夕刻等につかれ、 長い間地域の人達に親しまれておりました。 大切に扱うとともに、むやみに鐘をつくことは御遠慮下さい。
 (秦野市観光協会)
弘法の乳の水
この井戸は、昔から「弘法の乳の水」と呼ばれています。この井戸から湧き出た水は、 白くにごり、いつも乳の香りがしていたそうです。 いつの頃からか「真夜中に、誰にも知られずに山に登り、乳の水を飲むと、乳がどくどくと 出るようになる」と伝えられ、この水をいただきに山に登る人が後を断たなかったと言われています。 いつの世も、子を持つ親の心は変わりません。乳の出ない辛さにワラをもつかむ気持ちだったのでしょう。 その救いの神がこの白い井戸水でした。 かつてはこの井戸の脇に二つの池があり、夏には太い柳の下で蛙が鳴き、金魚の紅い色が水面に 映じて美しく静かな時が流れていましたが、関東大震災の後に水涸れが起こり、一つを埋めてそこに桜を植えました。
釈迦堂(しゃかんどう)
山頂には弘法大師の旧跡であることから、古くより福泉庵という堂があった。 江戸時代の中頃に龍法寺の僧馨岳永芳はこの荒廃を嘆き新たに堂を建て釈迦如来像と弘法大師像を 祭って釈迦堂としたが、明和3年の火災で釈迦像が焼失し、石造であった弘法大師像はこの時から 露座となった。堂の再建後は弘法大師の木造のみを安置していたが、関東大震災や昭和7年の 台風で被害を被り長く仮堂であったが、昭和39年に現在の釈迦堂が完成した。
 (秦野市)
経塚
釈迦堂の後部には鎌倉時代後期の経塚があった。経塚は経典を書写したものを埋納した仏教上の 施設で、末法思想から生まれた。日本では平安時代末期に出現し、藤原道長が金峰山に般若心経一巻他を 埋納した事が知られている。弘法山の経塚は昭和7年に神奈川県により調査され当時は大甕の口縁部が 露出した状態で、経石も散乱していた。
: 口縁部が楕円形をし、長径68cm、深さ75cm、腹部から急に細くなっている。
経石: 「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の一字一石経、経題のみ大型石に記載されていた。
経筒: 鋳銅製経筒の一部と見られる破片が出土、推定直径12cm。 その他陶製の灯明皿が出土している。
釈迦堂の左手裏からふれあいの道が続きます。 吾妻山への道をしばらく進むと車道に出ます。 左はめんようの里への道で、ふれあいの道は直進します。 直進してすぐの所に吾妻山へのハイキングコースの道標があります。 矢倉沢往還を経由しない場合は、このハイキングコースをそのまま進みます。 矢倉沢往還を経由するふれあいの道は、表示のない左方向に折れてコンクリートの道を降っていきます。
道を降るにつれて視界が開けてきます。 風力発電のプロペラがある所を目指していくと、左手に秦野国際乗馬クラブがあります。 体験乗馬教室もあり、誰でも乗馬を体験できます。
才玉バス停
秦野国際乗馬クラブとその隣にある遊遊ひろばを左に見ながら更に降っていくと、国道246号の才玉バス停です。 右に曲がって国道を進んでいくと、新善波トンネルがあります。 自動車の排気ガスで空気があまり良くないので、口と鼻にタオルを当てて速やかに通り過ぎましょう。
矢倉沢街道入口
新善波トンネルを出て100mくらいの所に、矢倉沢街道への入口があります。 右側にV字型に戻るようにして進んでいきます。 笹竹の中を進むと道標のない分岐がありますが、送電線の鉄柱がある右側の方の道を進みます。
矢倉沢往還
畑の中を過ぎてしばらく行くと、矢倉沢往還の立て看板があります。
この道は奈良時代に開かれ、箱根越えの東海道が出来るまで官道の役割をしていました。 江戸時代には裏街道として賑わい、伊豆・沼津から足柄・秦野・伊勢原・厚木・荏田を経て、 日常生活に必要な炭・わさび・干し魚・茶、それに秦野のたばこなどが馬の背で江戸へ運ばれ、 人々に矢倉沢往還(矢倉沢街道)と親しまれていました。 また、大山・阿夫利神社に詣る道ということから大山街道の名でも親しまれていました。
 (環境庁・神奈川県)
山肌に沿って続く広い往還道を道なりにどんどん進んで行きます。 官道の役割を果たしていたという往時の雰囲気が感じられる景色が続きます。
吾妻山分岐
人家が増えてきた所に、再び矢倉沢往還の立て看板があります。 そこが吾妻山への登り口です。 右手に少し戻るような形で、狭い山道を登っていきます。
吾妻山休憩所
山道を登りきると、乗馬クラブへ降っていったときに見送ったハイキングコースと合流します。 ここからは、吾妻山まで広い尾根道が続きます。
日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水がら、舟で房総に向かう途中、 静かだった海が急に荒れ出し、難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、 「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ海に身を投じられました。 ふしぎに海は静まり、無事房総に渡ることが出来ました。 征伐後、帰る途中、相模湾・三浦半島が望めるところに立ち、今はなき弟橘比売を 偲ばれ「あずま・はや」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています。
 (環境庁・神奈川県)
吾妻山からは、相模湾はもちろん、遠く三浦半島までも見渡せます。 本コース最後となる素晴しい展望を楽しんでから下山しましょう。
吾妻山から500mほど降っていくと分岐点があります。 右は鶴巻温泉への道で、坪ノ内バス停は左側へと進みます。 首都圏ケーブルメディアのCATVヘッドエンド局舎の脇を過ぎて、 大住台の住宅街に出ます。 住宅街を降っていくとバス通りに出ます。 そこを左に曲がって少し行くと、国道246号の手前に坪ノ内バス停があります。
坪ノ内(つぼのうち)バス停
坪ノ内バス停からは、小田急伊勢原駅行きや鶴巻温泉駅行きのバスがあります。
小田急伊勢原駅まで、伊勢原駅北口行きバスにて13分、 小田急鶴巻温泉駅まで、鶴巻温泉駅行きバスにて7分、 いずれも1時間に2本程度の便があります。 なお、停留所は逆方向になるので、よく確かめてから乗りましょう。 吾妻山から下った所の分岐を右へ向かうと、15分程度で小田急鶴巻温泉駅に着くので、 そちらを利用してもいいでしょう。