東海道五十三次
東海道五十三次(東京都と神奈川県内)の散策情報の一覧です
東海道五十三次は、江戸(日本橋)と京(三条大橋)を結ぶ東海道にあった五十三の宿場で、 幕府の役人や大名や公家などを始めとして、多くの一般の旅人にも利用されました。 慶長6年(1601)から順次設置されて、最後の宿場が設置されたのは寛文元年(1624)でした。 江戸側には江戸見附、京側には上方見附を設置し、その間を宿場としました。 公用人馬継立てのための人馬が常備され、 問屋場、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、茶屋、商店、高札場などが置かれました。 また街道に沿って一里毎に一里塚が設けられました。 土盛りした上に樹木を植えて、旅人の休息場所や旅程の目印にもなりました。
[00]日本橋 
江戸から各地方へ延びる五街道の起点でした。 五街道のひとつの東海道は、京橋・銀座・新橋を過ぎ、 江戸の区切りであった高輪大木戸を経て、最初の宿場の品川宿へと続いています。
[01]品川宿 日本橋より二里(約7.9km)
以前からあった北品川宿と南品川宿に新たに歩行新宿が加わって、 これらの三宿を合せて品川宿と呼ばれていました。 八ツ山橋から鈴ヶ森刑場跡へとほぼ真っ直ぐに往時の道が続いています。
[02]川崎宿 日本橋より四里十八町(約17.7km)
多摩川と鶴見川に挟まれた所にあった宿場で、他の宿場よりも22年遅れて設置されました。 多摩川に架かる六郷橋を渡って川崎宿へ入り、鶴見川に架かる鶴見川橋を渡ると、 間の宿になっていた鶴見に着きます。
[03]神奈川宿 日本橋より七里(約27.5km)
袖ヶ浦と呼ばれた海の傍を通り富士山も望むことができる所だったようです。 浦島太郎の伝説が残る寺院や開港時代の史跡などを訪ねながら、 旧東海道に沿って「神奈川宿歴史の道」が設定されています。
[04]保土ヶ谷宿 日本橋より八里九町(約32.4km)
旧東海道に沿って「歴史の道」が設定されています。 途中には武相国境尾根を越えていく傾斜の急な権太坂や焼餅坂があり、 日本橋を発ってから最初に出遭う難所になっていました。
[05]戸塚宿 日本橋より十里十八町(約41.2km)
宿場制度が始まった年から3年遅れて成立した宿場です。 前後には難所の権太坂や大坂があり、日本橋から丁度一日の道程でもあったことから多くの旅人が宿泊し、 神奈川県内では小田原宿に次ぐ規模の宿場でした。
[06]藤沢宿 日本橋より十二里十八町(約49.1km)
東海道五十三次が整備される以前から遊行寺の門前町として栄え、 江の島・鎌倉・大山への参詣の拠点としても賑わう街でした。 遊行寺の東側に江戸方見附が、小田急江ノ島線を過ぎた所に上方見附がありました。
[07]平塚宿 日本橋より十六里(約62.8km)
問屋場が二つあって賑わう宿場だったようです。 遺跡などは殆ど残っていませんが、途切れ途切れにある松並木や解説板が往時を偲ばせてくれます。 藤沢宿との間にある茅ヶ崎は、間の宿としても賑わったようです。
[08]大磯宿 日本橋より十六里二十七町(約65.8km)
街道沿いには松並木が残っています。 遺跡などは殆ど残っていませんが、往時の様子を描いた絵が載っている解説板が各所に設置されています。 小田原宿との間にある二宮は、間の宿としても賑わったようです。
[09]小田原宿 日本橋より二十里二十七町(約81.5km)
総構で囲まれた小田原城下を横切るようにして東海道が通っていました。 天下の嶮の箱根越えを控えて泊っていく旅人で大変に賑わった宿場で、 本陣が4軒、脇本陣が4軒あって、東海道随一の規模を誇っていました。
[10]箱根宿 日本橋より二十四里三十五町(約98.1km)
他の宿場から17年遅れて設置され、本陣が6軒ある大きな宿場でした。 天下の嶮と云われた箱根八里を越えていく街道の中ほどの芦ノ湖畔にあります。 旧街道には往時を偲ばせる石畳が続いています。